1997年5月2日
ヴァイキング時代  岡田雅志


《はじめに》
 ヴァイキングといえば、中世ヨーロッパにおいて北欧を中心に活動し、その剛勇と残虐性から、ヨーロッパのキリスト教社会を恐怖に陥れたゲルマン系民族の総称である。また、ヴァイキングは海賊としての側面や、ゲルマン民族の大移動の延長としての見方がクローズアップされるが、そのヴァイキングの実際の活動、そして、彼らがなぜ海へ飛び出したのかについては、あまり知られていない。そこで今回はヴァイキングが海洋での活動を開始した理由にふれ、ヴァイキング時代と呼ばれる世紀末から11世紀末にかけての約300年間のヴァイキング及び彼らの故郷である北欧の動向を追ってみようと思う。


《ヴァイキング時代開始まで》
 北欧(スカンジナビア半島とユトランド半島付近)の民がヴァイキング活動を始めた理由を考えるためには、まずヴァイキング以前の北欧の歴史とそれを取り巻く周囲世界の状況を知る必要がある。
 最初に北欧が歴史の中で注目されるのは、ゲルマン民族の故郷としてである。ゲルマン諸族の多くは北欧のユトランド半島及びスウェーデンの南部を原住地にしていた。(ゴート族、ブルグント族、ロンバルド族、ヴァンダル族などがこれに当たる。彼らの多くは鉄器時代以来ヨーロッパで勢力を伸ばしていたケルト族の弱体化と同時に北欧から南へと新天地を求めて移動していった。(1世紀以降)こうして多くの有カゲルマン部族が北欧から姿を消していったが、まだなおこの地に残るゲルマン人は多く、多数の部族国家(キウィタス)が相争い、統合され、いくつかの国家が形成されていった。このような中で頭角を現していったのが北欧三国の祖であるスヴェア(スウェーデン)人、デーン(デンマーク)人、ノール(ノルウェー)人の国々であった。(4〜8世紀)この頃になると、大規模な民族移動で希薄になっていた人口も再び過剰になってきた。ここにヴァイキング活動開始の一因がある。
 一方、当時(8世紀)の周囲を取り巻く世界の様子を見てみる。少し離れた南東ヨーロッパでは、ローマ帝国の後継者であるビザンツ帝国がなお大勢カを持ち、それと対峙するように西アジアでは新興国のアッバース朝が急速に勢力を伸ばしていた。また、西ヨーロッパにあったフランク王国はカール大帝の下、さらに版図を拡げつつあったが、まだ直接北欧の国々と国境を接することはなかった。
 ここで北欧のゲルマン人がヴァイキング活動を始めた理由を考えると、一つには先ほど上げた人口過剰の問題がある。彼らは一夫多妻制をとっていて急速に人口が増えた。その上長子相続の形を取っていたため、豪族の次男以下などは軍事集団を作って自分達の可能性を海外に見ていた。また、もう一つには交易への関心がある。当時、地中海西部の制海権はアラブ人が握っていたため、ヨーロッパの商業の中心は北部に移り、ライン川を交通の大動脈として北海沿岸に大規模な交易の機運が生じた。これに目を付けた北欧の民(特にデーン人)はこの交易への参画をうかがうとともに、無防備な海洋と沿岸部に集まる富に略奪の可能性を見た。このような人口間題や北海での交易への関心に加え、闘争心、冒険心、貪欲さなどの生来の民族的気質と非常に進んだ航海術が彼らをヴァイキングヘと駆り立てたと考えられる。


《ヴァイキングと北欧史》
 ここから、本題であるヴァイキングの活動史と彼らの本拠である北欧の歴史の概要に入る。ヴァイキングの活動はその性格から大きく三期に分けることができ、今回はそれに沿って触れていくが、その前にもう一つ頭に入れておいて欲しいのが、ヴァイキングの地域的差異である。前述のような要因から、海へと飛び出していくことになるヴァイキングであるが、彼らはその出身地から三つに分類される。「金色のヴァイキング」と呼ばれたスウェーデン・ヴァイキング、「黒いヴァイキング」の名を持つデーン・ヴァイキング、そして、「白いヴァイキング」のノルウェー・ヴァイキングである。彼らは民族的にはほぼ同一ではあるが、その居住地の地理的条件などから主な活動地域や活動時期が異なるために区別して扱うのでこの分類を覚えていて欲しい。

1.ヴァイキングの始動〜海賊の時代〜(8世紀末〜9世紀初め)
 歴史上のヴァイキング時代の幕開けとされるのは、ノール人によるイングランドの襲撃であった。793年、当時、イングランドで最も神聖であるとされた「聖なる島」リンデスファーン島の修道院はヴァイキングの襲撃を受け、修道士、修道女は虐殺され、神の教会は破壊され、蓄えられていた財宝はすべて持ち去られた。これが文献に残るヴァイキングの略奪活動の最初であるが、この事件がヨーロッパのキリスト教世界に与えた衝撃は大きく、この頃フランク王国のカール大帝の宮廷にいた神学者アルクィンは、自分の故郷の近くということもあってひどくショックを受け、「得体の知れないこの敵は、人々の罪悪に対して神の下された罰である」という言葉を残した。当時、ヴァイキングの故郷である北欧は中世ヨーロッパ社会と直接交渉がなかったため、ヨーロッパの人々は彼らを、天から降ってきた異教徒であるかのように考えたようだ。
 その後も、ノルウェー・ヴァイキングは(単一グループではない)スコットランド北東に浮かぶシェトランド諸島などを根拠に、イングランド北部、スコットランド、アイルランド沿岸の修道院の略奪遠征を行った。このような海賊活動が一般的なヴァイキングのイメージに最も近いと思われ、又、この種の遠征はヴァイキング時代を通じて常に行われた。が、このような行為は中小豪族などの私的欲求から行われた海賊行為であり、今後、国家的海外進出を目論む北欧の王たちにはあまり歓迎されなかった。ノール人たちが最初にこの小規模の海賊遠征を行ったのは、ノルウェーが最も国家統一が遅れていたからでもある。
 一方、比較的国家の統一が進んでいたスウェーデンやデンマークでは少し違う動きが見られた。スウェーデンにおいては、東ヨーロッパのヴォルガ川、ドニエプル川を中心とする交易網に目を付け、8世紀にはルス人と呼ばれるスヴェア人の植民者たちが、バルト海東岸に植民を始め、9世紀半ばまでには、原住民のスラブ民族を支配下におきながらロシア方面へ南下、拡張し、ビザンツ皇帝と交渉を持つまでの国を形成していたと思われる。(ノヴゴロド、キエフ国のもととなる国か。)ともかく、スヴェア人は他のヴァイキングとは違って、ヴァイキング時代を通して彼らの海外進出は、常に商業的性格を帯びていたことがいえる。もう一つのヴァイキング国、デンマークはかなり国内の統一が進んでいて、スキョル王朝(5世紀頃成立)が、本拠地のスコーネ(スウェーデン南部)とユトランド半島を支配して、8世紀末にはゴッドフレッド王の下、強力な海軍をも有し、勢力伸張の機会を窺っていた。このようなデンマークの動きを筆頭にヴァイキングの活動は、国家の政治的行動の様相を帯びるようになる。

2.ヴァイキング全盛期〜征服と植民の時代〜(9世紀〜10世紀半ば)
 この時期には、国家の政治的意図と結びつき、海外への領土拡大や植民を含んだ大規模なヴァイキング活動が活発となり、王などに率いられたヴァイキングの大軍がヨーロッパを荒らし回った。このような国家的活動が最も早く見られたのは、デンマークであり、前述のゴッドフレッド王(?〜810)はフランク王国のカール大帝(768〜814)と争い、810年にはフランク王国北部の海岸地域(フリースラント地方)を略奪した。この年にゴッドフレッド王は死に、略奪は一時中断されたが、814年、カール大帝が亡くなり、フランク国内が乱れると、沿岸地域への攻撃は更に激しくなり、845年ハンブルグを焼き払い、857年にはデンマーク・ヴァイキングの艦隊はセーヌ川を通ってパリを襲撃するまでに至った。その後、デンマーク本国で内乱があり、9世紀中は国家による遠征は収まったが、840年、カール大帝の後継者ルートヴィヒ敬虔王が死に、フランク王国が分裂した後はデーン人によるヴァイキング活動が頻発し、豪族に率いられた大軍団が北フランスを席巻し、征服及び植民活動を開始した。このデーン人の植民活動の最たるものがヴァイキングの首領、ロロ(911〜31)が建設したノルマンディー公国で、ヴァイキングの略奪に手を焼いた、西フランクの王、シャルル単純王(893〜923)によって911年に授封されたものである。(但し、首領のロロについてはノルウェー人との説もある。)こうしたデーン・ヴァイキングの矛先はイングランドにも向けられた。865年から始まったヴァイキングの大攻勢の結果、イングランドはヴァイキングに制圧されるかと思われたが、ウェセックスのアルフレッド大王(871〜99)の活躍により、デーン人を撃退することができた。しかし、デーン人は再び征服、植民活動を開始し、9世紀末にはイングランド東北部に「デーンロー」と呼ばれるデーン人支配下の地域が存在していた。
 次にノルウェーをみてみるとデンマークとは異なり、9世紀前半においてはまだ国内は分裂状態にあり、イングランドヘの海賊遠征は依然盛んであった。しかし、9世紀後半になると、ノルウェー南東部にある小国の王、ハラルド美髪王(890頃〜930頃)がノルウェー統一に乗り出し、9世紀末までに豪族の連合国家の形ではあるが統一国家を作り上げた。又、彼は自分に反抗する豪族を追放し、反抗的なヴァイキングを海を越えて攻撃したため、彼らは海外へ植民するようになり、スコットランドやアイルランドに加え、フェロー諸島やアイスランドヘの植民活動が急速に進んだ。又、この時期までのデーン人、ノール人の最も南の遠征地域はフランス北部までであったが、9世紀には例外的に二度にわたるイベリア半島と地中海西部への遠征(844年、859〜62年)が記録に残っている。彼らはウマイヤ朝支配下のカディスやセビーリャといった都市を落とし、2回目にいたっては北イタリアのピサをも略奪した。このように当時のヴァイキングの活動はとどまるところを知らなかった。
 最後に、主に東の方で活動を行っていたスウェーデン・ヴァイキングはというと、北ロシアに進出して、ビザンツ帝国やアッバース朝につながる交易路を押さえたルス人たちの王国は主に交易の利益によって発展を続け(コンスタンチノープルを襲撃したこともあるが)10世紀までにはノヴゴロド、キエフを中心とする二つのルス人の王国が成立していた。一方、スウェーデン本国の動きについて9世紀に関しては目立った動きはない。しかし、10世紀初めには隆盛期を迎えていたようで、交易都市ヘゼビュー(ヘデビー)を含む南デンマークをも支配下に入れており、北欧の交易の利権を独占していた。

3.ヴァイキング時代の終焉(10世紀半ば〜11世紀末)
 10世紀後半に入っても、まだヴァイキングの活動は活発であり、サガに名を残す英雄も多く輩出されるが、その強さは徐々に色褪せ、彼らを外へ向かわせた膨張熱も収まりつつあり、植民先でも先住民族、文化への同化が進んでいった。
 10世紀は北欧三国間の関係が複雑化した時期でもあった。まず、やや勢威が衰えていたデンマークであるが、930年にはスウェーデンとドイツの争いを利用して、南デンマークを奪回した。その後デンマークには優れた王が続出し、ハラルド青歯王(940頃〜986頃)の時には、ノルウェーに対して二度にわたって戦いを挑んで勝利し、ノルウェー最北部を除く地域をデンマークの宗主権下においた。次のスヴェン八字髯王も、ノルウェー統一事業に乗り出したノール人の豪族、オーラフ・トリギヴァソン(995〜1000)に対し、スウェーデンを誘って戦いを挑み、スヴォルド海戦(l000年)と呼ばれる一大決戦の末これを破り、デンマークのノルウェーへの宗主権を奪回し、北欧の雄国の地位を取り戻した。
 一方、そのノルウェーはハラルド美髪王のノルウェー統一も、王の死後は維持できず、内乱が起き、上記のようなデンマークの侵入を許すことになった。スウェーデンについてはスヴォルド海戦への参加以外に特に動きはなかったので、次にこのような北欧三国の状況下で行われたヴァイキング活動についてみてみる。(特にイングランドについて)
 フランク王国に対するヴァイキング活動は、ノルマンディー公国を与えられたロロ率いるヴァイキング達が沿岸防衛に回ったため、次第に下火になっていった。反対にヴァイキングの動きが激しくなっていったのがイングランドである。イングランド王となったアルフレッド大王が899年に亡くなった後も、大王の息子、エドワード長兄王(899〜925)をはじめ有能な王が続いたため、10世紀前半はヴァイキングの方が不利な形勢で、デーンロー地方も次々とイングランド(ウェセックス)王の支配下に入っていった。しかし、940年代になると情勢は少し変わってきた。アイルランドのノルウェー人が北イングランドに来襲してきたからである。この窮地にはアングロ・サクソン人とデーン人が協力して戦うことになったが、その数年後にはノルウェーから追放されたハラルド美髪王の息子、エーリック血斧王(930頃〜935頃)がイングランドに乗り込み、イングランドの地方王になる事件も起こった。そのエーリック血斧王も954年に追放され、再びイングランドに平和が戻ったが、それも長くは続かなかった。978年、内紛の末エセルレッド不用意王〔2世〕(978〜1016)という優柔不断な王が即位すると、ヴァイキングの活動は再び活発化し、対処に困ったエセルレッド不用意王は991年から、多額の税を支払うことによりヴァイキングに退去してもらうという「デーン税」というその場しのぎの措置を採るようになった。この頃からヴァイキングは各地に進めてはデーン税を支払わせて退却するという行動をよくとっていた。ともあれ、これでヴァイキングの遠征がやむはずはなく、ヴァイキング遠征はイングランド沿岸で続発し、994年にはノルウェーのオーラフ・トリギヴァソンとデンマークのスヴェン八字髯王の連合艦隊がイングランドに姿を現した。そして、1013年には遂にスヴェン八字髯王率いるデンマーク艦隊によってイングランドは征服されてしまった。しかし、翌1014年にスヴェンが死んだため、アングロ・サクソン人の反撃を受けてイングランドが奪い返された。ここで登場するのが、スヴェンの息子であるクヌート大王である。
 彼は父と共にイングランドに出征していたが、自軍の不利を悟ると兄のハラルドのいるデンマークに戻って態勢を立て直し、1015年に再び攻め込み、翌年にはイングランド全域を征服し、イングランドの統一王となった。その後、兄のハラルドの死と共にデンマーク王国の後も継ぎ、1026年にはオーラフ聖王(1015〜28)率いるノルウェー軍とスウェーデン軍の連合艦隊をヘルゲ川の会戦で破って、1028年、ノルウェーの支配権を確立し、イングランド、デンマーク、ノルウェーからなる北欧帝国が成立した。このように隆盛を極めたかのような北欧帝国ではあったが、帝国はクヌート大王という強大なカリスマを持った人物によって維持できたものであり、1035年、大王が亡くなるとすぐに帝国は分裂し、l042年にはイングランド王位もアングロ・サクソン人の手に戻った。又、少し舞台は変わるが、ヴァイキングの偉大な業績の一つ、赤毛のエリックとその息子レイフがグリーンランド、アメリカ大陸北西部に到達、植民を行ったのも1000年前後の話である。しかし、これらの活躍はヴァイキングの最後の興隆とでもいうべきものであった。これ以降、イングランドヘの大規模な遠征は1066年、ノルウェーのハラルド苛烈王(l047〜66)が行ったものと、1069年、デンマークのスヴェン・エストリドスソン王(l047〜74)が行ったものとの二回があったが、どちらも成功することはなかった。結局、イングランドはハラルド苛烈王の遠征の直後に起こったノルマン・コンクェストによって、もはやフランスに定住、同化してしまって、ヴァイキングというのは難しいノルマンディー公国のウィリアム征服王のものとなったのである。以後ノルウェー、デンマークから西方に向けて大規模な遠征軍が送られることはなかった。ルス人によるロシアの王国についても、10世紀後半にノヴゴロド、キエフ両国の合併などが行われたが、交易規模の縮小や、遊牧民族の侵入で、往時の勢いはなく、又ここでもノルマンディー公国と同じ現象が起きており、11世紀にはほぼ完全にスラブ民族と同化してしまっていた。こうしてヴァイキング時代の幕は閉じていったのである。
 ところで、あれだけ勢いのあったヴァイキングが失速してしまった原因を考えると周辺諸国の強化とキリスト教の普及が考えられる。前者については時代が経つにつれ、ヴァイキングヘの防御態勢が整えられたことに加えて、ヴァイキング時代初期には分裂状態だったヨーロッパ諸国が次第に統一されていってヴァイキングヘの対処がしやすくなったということもいえるだろう。後者のキリスト教については北欧ヴァイキングのヨーロッパ社会への同化に深く関わりがある。彼らは本来独自の信仰を持っていた(オーディンを主神とする多神教である。)が、ヴァイキング活動によるキリスト教地域との接触や、ヴァイキング時代初期から不断無く続けられた宣教師の布教活動により、国王を始め、キリスト教を信仰するヴァイキングも多くなり、それを足掛かりにヨーロッパの文化が急速に流入した。これがヴァイキングがかつての勢いを持たなくなった原因の一つと考えられる。いってみれば、北方ゲルマン民族の雄国も中世キリスト教社会に取り込まれ、単なる北方の辺境国へと徐々に変わっていったのではないだろうか。


《その後の北欧》
 ヴァイキング時代後の北欧に少し触れておくと、11世紀以降は北欧三国はいずれも内乱の時代が続き、とても海外に進出できるような状況にはなかく、国カは衰えていった。又、文化的にも政治的にもドイツ勢力の影響を強く受け、ドイツ化が進んだ。こうして、北欧は14世紀末、デンマークのマルグレーテ女王が登場し、カルマル同盟を結ぶに至るまで、歴史の表舞台からは姿を消すことになった。


《参考文献》
『ヴァイキング』(人文書院)     ヨハネス・ブレンスッテズ著
『ヴァイキングの歴史』(恒文社)    グウィン・ジョーンズ著
『北欧史』(山川出版社)        角田文衛編
『北欧初期社会の研究』(未来社)    熊野聡著
『海賊列伝』(誠文堂新光社)      小島敦夫著
『ヴァイキングの世界』(東京書籍)   ジャクリーヌ・シンプソン著


《お礼とお詫び》
 どうも最後まで付き合っていただいて有り難うございました。今回はテーマを決めるのが非常に遅く(先々週くらいか)そのくせ、なぜかのんびり構えていたため、資料に目を通すのもいい加減で、いざ書き始め(打ち始め)たのは二日前ぐらいになってしまいました。その為、特に後半部分はあまり(ほとんど?)まとまっておらず、非常にわかりづらいものになってしまいました。にもかかわらず、最後まで読んでいただいて本当に有り難うございました。改めて感謝させて貰います。(興味のある人は上の参考文献などでもう一度調べてください。もしかすると、重大な勘違いをしているかもしれませんので、あしからず。)


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