1997年5月16日
西洋キリスト教史 1  文学部 2回生


<はじめに>
 キリスト教の歴史は約2000年に達する。この歴史を一枚のレジュメにまとめることは不可能である。したがって何回かのシリーズに分けていくことにし、一回目は紀元前後から六世紀頃までのキリスト教の歴史をみていくことにする。(ただしフランク王国に置けるキリスト教は次回にまわすことにする)また、歴史だけでも膨大な量になるので、キリスト教の信仰や精神の内部には深く立ち入らないことにした。

<キリスト〜使徒時代>
 イエスはユダヤの都市ベツレヘムでマリアの子として生まれる。イエスは宣教師ヨハネに洗礼を受け、その後宣教を始め、メシアと自称するようになる。これはユダヤ司祭や律法学者からの憎悪を受け弟子ユダの裏切りもあってイエスは逮捕され、そして王を名乗り、メシアを自称した罪で死刑を宣告される。イエスは弟子たちに三日後に復活するとつげ、その後十字架でのはりつけで息絶える。これが福音書で描かれているイエスであるがこれは非常に伝説的ですべてを信じることはできず、また「キリスト教会」の開始時期を考える場合、イエスの誕生よりその後のイェルサレムヘの弟子たちの集合のほうを重要視する見方が強い。従ってなぞの多いイエスについてはこれぐらいにして次へ進むことにする。
 イエスに復活を告げられていた弟子たちは始めその意味を良く分かっていなかったが、イエスの死後その復活を確信する。(確信の方法についてはいまだ良く分かっていない)そしてイエスの死後七週間後のペンテコステスの日、イェルサレムにてペテロが説教をしてここにキリスト教の原始教会が発足した。教団は広く異邦人に対しても伝道していくがそれにより教団内部に問題が生じてきた。それはイエスの愛の教えと実践こそが律法の完全な充実であると考えるヘレニストと、なお律法の形式的慣習による生活を捨て切れないヘブライストとの対立である。この対立によりヘレニストの信徒は迫害を受け多くのものがイェルサレムを離れていくのである。(しかしこの離散は一方でキリスト教の広まりをもたらす)さらにヘブライストは異邦人のキリスト教徒も敵視し教団の指導者たちはこの問題に頭を悩ませる。この時この問題に真っ向から立ち向かったのが伝道者パウロであった。
 パウロは49年の使徒会議で異邦人教徒の立場を擁護し、さらに異邦人教徒を少しでも差別するような行為は厳しく非難した。そしてイェルサレムでの宣教よりギリシア圏の宣教に力を注ぐようになり、ギリシア圏やローマにまで足を伸ばして多くの異教徒を改宗させ、また教会もうまれさせるのである。しかし一方でパウロはユダヤ系キリスト教徒や異教徒から迫害を受け、また何度か軟禁されることにもなる。こうしたときローマが大火に見舞われ(64年)当時の皇帝ネロ(在位54〜68)はその責任をキリスト教徒におわせて迫害を行い、この迫害に巻き込まれパウロは殉教してしまう。(この時ペテロも殉教)
 同じ頃パレスティナでも事態は深刻化しており、62年にはイェルサレム教会の監督(司教)であるヤコブが石打の刑に処せられ、また66年にはユダヤ戦争が始まる。この時キリスト教団はトランスヨルダンに避難したが、これはキリスト教団がイスラエル民族と運命を共にしないことを意味し、キリスト教をユダヤ教社会から脱却させることになる。そして70年にローマ皇帝ティトゥスはイェルサレムを占領しユダヤ民衆を虐殺し神殿を破壊し尽くすのである。パウロの願いはパウロの死後かなえられたのである。

<ローマ帝国期 〜キリスト教迫害の時代〜 >
 1世紀の頃はネロ帝、ドミティアヌス帝(在位81〜96)の迫害があったもののキリスト教は帝国内ではそれ程問題にされていなく、ユダヤ教が危険視されていた。さらに2世紀も皇帝自ら迫害を行うことはなく、後半は比較的住みやすい環境にある。しかし行政、民間のレベルでは迫害やキリスト教徒処刑も少なくなく、カタコンベの数も1世紀以降増え続けている。そして202年セウェルス帝(在位193〜211)はキリスト教徒に改宗勧誘活動を禁止する勅令を布告し、これが迫害を引き起こす。その後何代かの皇帝はキリスト教へは中立の態度を守るが、デキウス帝(在位249〜51)とヴァレリアヌス帝(在位253〜60)の頃迫害が起こりこれは帝国領全土に広がる。一時平穏が続きディオクレティアヌス帝(在位284〜305)のもとに最大の迫害が勃発した。皇帝の勅令(303年)によってすべての教会の破壊、集会の禁止、聖書の引き渡しが命ぜられ、二度目の勅令ではすべてのキリスト教徒に皇帝に犠牲をささげることが要求される。この迫害は西方では比較的短期間で終わるが、東方では帝退位の後も迫害は後継者の下で323年まで続くのである。
 この様にキリスト教徒は迫害を受けはしたがキリスト教が公認されるまで絶えず迫害を受けてきたわけではなく、いろいろな間隔で起こりその過酷さもいろいろな程度であったのである。また公然と行われた迫害は比較的少なかったといえる。しかしだからといってキリスト教徒が平穏に暮らせたかというとそうではない。初期に置いてはキリスト教は非人間的風俗習慣を持っていると民衆に思われていたため、評判は悪く一般人から迫害を受けることも多々あったのである。しだがってキリスト教が公認されるまで信者たちはそれ程楽な生活はできなかった。

<キリスト教徒迫害の理由>
 キリスト教徒は皇帝崇拝を拒んだため迫害を受けたといわれているが追害の理由はそれだけではない。
・キリスト教徒は人肉を食べ、酔っ払い、姦通を行い、とくに近親相姦すると信じられた。
・キリスト教徒は軍務につくことや政府官吏になることを拒否したので社会秩序を乱すものとされた。
・キリスト教徒は皇帝や神々に犠牲をささげるのを拒否したので国にいろいろな災難をもたらすことになると考えられた。
・キリスト教徒は世界の崩壊が近付いていると説いたので人間を憎悪していると見なされた。
・キリスト教徒は教団組織を持っていて帝国の法より教団の掟に従うので国家の安全を脅かすとかんがえられた。
・キリスト教徒は多神教の礼拝を拒否した。
これらの理由がおもだったものであるがさらに小さな理由はたくさんあったのである。

<キリスト教公認の時代>
 コンスタンティヌスは307年西帝国の皇帝を名乗り、その後ローマの権力を握っていたマクセンティウスを312年の戦いで破り西帝国の頂点に立つ。そして313年にミラノでキリスト教に対する寛容令を発し、キリスト教を公認する。この公認の理由は彼の統治の財政的基盤の問題、世界統治のための利用、異教勢力への対抗、前年の戦闘での勝利などが考えられる。さらにコンスタンティヌス帝は323年キリスト教迫害を再開した東帝リキニウスを撃ち、帝国を統一するのである。
 国を統一したコンスタンティヌスは今度は分裂しているキリスト教を一つにまとめようとしてニケーア公会議を招集する。議論は紛糾するがコンスタンティヌス帝の裁量もあってアリウス派の主張は斥けられ、正統派的なアタナシウスの説が取り入れられる。この会議によってアリウスやその弟子たちは流罪となるが後にアリウス派へと傾いてゆくコンスタンティヌス帝によって放免される。そして逆にアリウスのアレクサンドリアへの帰還を拒否したアタナシウスが追放されてしまう。その年(337年)コンスタンティヌス帝が死去し帝国は三分される。(アリウスも同年死亡)帝国は西にコンスタンティヌス二世とコンスタンツの二帝がたち、東にコンスタンティウス二世がたった。西の二帝はアタナシウスを支持しアタナシウスの帰還を許すが、東のコンスタンティウス二世はアリウスを支持する。この状態はしばらく続くが350年にコンスタンティウス二世が全ローマ帝国の支配者となると、356年にアタナシウスを追放する。この頃アリウス派は全盛を迎えるのである。しかし次のユリアヌス帝の時代になるとアリウス派は分裂を始め勢力を失って行く。ユリアヌス帝は異教の復興に尽くしたがキリスト教を禁止することはせずすべての宗教に寛大であることを宣言し、アタナシウスの追放も解除する。アタナシウスはその後も追放と帰還を繰り返し373年に死去する。
 アタナシウスの死後7年が経つと正統派を支持するテオドシウス帝はキリスト教を国教と定め、これによりキリスト教は発展の力を得ることになる。しかし同時に国家権力がキリスト教に介入することも多くなっていくのである。

<教父の黄金時代>
 4世紀後半から5世紀前半にかけ教会では多くの教父が出てきてキリスト教についての著書を著した。彼等の多くはキリスト教が公認されてから生まれており、小さい頃からキリスト教の信仰に親しんでいたという背景が見られる。この点からキリスト教が公認されたことの影響が感じられ、キリスト教徒にとって以前と比べれば安心できる社会になったということが伺えるのではないか。また教父たちはローマ社会の高い階層に属する家庭に生まれ、高度の教育を受けて高い教養を備えている。(例外はアウグスティヌスで、彼はプロレタリア化しつつある小市民階級の家に生まれ、両親の野心と熱意や擁護者の応援によって高い教育を受けられた)こうして習得した学問は著述だけでなく説教や論駁にも生かされたが、そこには単なる引用や置き換えばかりではなく独創性も含まれていた。教父たちの業績によってキリスト教文化やキリスト教的教養は深められ、社会的には認められたキリスト教の内部の基礎を作り上げたのである。そしてこの時代の文化を下に教会は以後信者たちに信仰と霊的生活を中心とした宗教的教育を与えていく。

<ゲルマン諸族の南下とキリスト教>
 4世紀初頭からローマ帝国は北方からゲルマン諸族の侵入を受けるが、この時キリスト教(特にアリウス派)はゲルマン諸族の中にも広まっていく。
1,東ゴート族
 東ゴート族はフン族に追われてパンノイアに移住した頃(460年頃)東ローマ帝国の影響を受け帝国内のアリウス派に伝道されてキリスト教を受け入れた。王テオドリックはイタリアヘ移動した後もアリウス派を支持したが、正統派と敵対することはせず正統派への親近感は強かった。
2,西ゴート族
 西ゴート族は370年頃移動を開始。4世紀後半には王アタナリヒのキリスト教徒迫害などもあったが、5世紀初頭に当時の王アラリックがアリウス派の洗礼を受ける。その後正統派に寛大な王も現れるが、6世紀後半に王となったレヴィギルドはアリウス主義を譲らず正統派教会を迫害し、正統派に改宗した長男も殺してしまう。しかし次の王レカルドは正統派に改宗しアリウス派の反乱を鎮めて全国民に正統派に従うことを命じる。こうして当時西ゴート王国があったイべリア半島は正統派の色合いを濃くしていくのである。
3,ヴァンダル族
 ヴァンダル族は4世紀前後の一時期パンノイアに定住しており、その頃アリウス派の影響を受け改宗する。ヴァンダル族はゲルマン諸族の中でも性質が過激でアフリカでは正統派の教会や聖職者などを他に類例をみないほど迫害した。439年から534年までの間の六人の王のうち正統派に寛大であった王は一人だけで、あとの五人の王は正統派を激しく迫害した。
4,ロンバルト族
 ロンバルト族は5世紀後半にパンノイア地方へ移住し、その頃アリウス派に改宗した。その後もアリウス派信仰は続き正統派に対しては冷酷で聖職者を迫害もしていた。しかし584年に王となったアウターリの妃テオデリンダは熱心な正統派の信徒で、王の死後次王アギルルフと再婚し正統派の布教に努める。こうしてロンバルト族の正統派改宗は進められ680年頃完成するが、その推進役となったのは正統派教会というよりむしろアイルランドの聖コルンバヌスと彼の建設したポッピオ修道院の修道士であったと言える。
5,ブルグント族
 ブルグント族は5世紀前半以降支配者はアリウス派で、正統派の住民に寛容ではあったが融和を欠いていた。しかし6世紀頃から支配階級にも正統派の人物が現れ、またヴィエンヌの主教アヴィトゥスがブルグント族を正統派に改宗させるため尽力したので、正統派が次第に広まっていった。

 ゲルマン諸族に置けるキリスト教の広まりを見てきたが、各部族とも最初に広まったのはアリウス派のキリスト教であり、部族によってはそのあとに正統派が広まっていくと言うものであった。

<修道院の成立>
 キリスト教に置いて修道院は精神を鍛練する場としての役割だけでなく、布教の拠点や軍事の拠点という役割を持つ。この様なキリスト教にとって重要な役割を持つ修道院の成立を見ていきたいと思う。
1,東方系修道院の成立
 修道院はもと隠遁的生活に始まる。初めの最も有名な隠者はアントニウス(250頃〜356頃)であるが、そのほかパコミウス(292頃〜346)も有名で彼の周囲には次第に人が集いついに一つの家に住んで共同生活を送るようになったと伝えられている。修道院はこうして起こったのである。またパコミウスはテーべの近くの島に修道院を開きそこで初めて修道院の規則を作った。この頃から修道院は東方諸国に伝播しその数も多くなり、また婦人のためのものも設けられるようになった。これらの修道院は禁欲、清貧、勤行、労働などを旨とした厳格なものである。東方で数を増した修道院は4世紀中頃に西方諸国に伝えられる。(伝説では340年頃アタナシウスが二人の修道士をローマに伴ってきたことによるとされている)その後西方諸国でも修道院の数は激増するが、それらはすべて東方系修道院の伝統を受け継ぐもので真に西方的な修道院の成立は6世紀以降になる。
2,西方系修道院の成立
 西方諸国に数多く建てられた東方系修道院であったが、隠遁生活を基とした修道院は西方世界に必ずしもぴったりあうものではなかった。そしてそれにいち早く気づいたアウグスティヌスが西方系修道院の道を開くのである。アウグスティヌスは教会生活の傍ら同志を集めて共住生活を営み、一種の修道院を構成し後に『アウグスティヌスの戒律』と呼ばれる『教団規定』を生み出す基を作った。彼はこれによって修道院生活の精神を示してその基準を与え、東方においてのような非社会的傾向の禁欲主義的生活姿勢を改めて、キリスト教的な愛と敬虔とに生きる生活の模範とするのである。そしてその精神を受けて初めて西方系といえる修道院を作ったのがベネディクトゥスである。ベネディクトゥスは東方系の修道院の院長に推されるが、その修道院の理想が彼の抱いていたものと異なっていたためか、敬遠されてそこを去ることになる。その後一時洞窟での研究生活に戻るが、彼を慕う者が多く集まってきたため意を決してそこを出てモンテ=カシノに彼の理想とする修道院を創設した。この修道院の宗規は穏やかでしかも厳格、「主に奉仕するための学舎」ということをあらわし、さらに過酷、過重なことはかされないことが望ましい、と中庸の精神を説いていた。また社会活動的な面を重視して修道院の労働や定住を奨励し、修道院の経済的自立をもたらした。こうして西方系修道院はヨーロッパ各地に数多く創設されることになる。中でもカッシオドロスが晩年創設したヴィヴァリウム修道院は修道院を学問、教育の場とすることの先駆を成し、修道院を学問の府とすることに貢献した。
 こうして修道院は二つの系列を持ってヨーロッパ、または世界各地に広がっていくのである。

−おわりに−
 またしてもまとめるのに大変苦労した。扱う範囲が広いためであろうが、あまり細かくなり過ぎないように注意してまとめても分量が多くなる。最初は7世紀前後ぐらいまで進む予定であったが、6世紀中頃までしか進まなかった。さらに初期の異端や神学論争に着いてはほとんど触れることができなかった。その点については一週間で作ったレジュメであるので許していただきたい。それにしてもこのシリーズが終わるまでどのくらいかかるのであろうか、予測はできない。


〜参考文献〜
 『西洋教会史』    小嶋 潤 著    人間科学叢書 9
 『キリスト教史1』    ジャン・タニエルー 著  平凡社ライブラリー
 『キリスト教史2』    H,I,マルー 著    平凡社ライブラリー
 『キリスト教史』    藤代泰三 著
 『初代教会史』    H,R,ボーア 著    教文館
 『ローマ皇帝崇拝とキリスト教迫害』  弓削 達 著  社会科学叢書


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