1997年6月27日
ハンニバル  My


<はじめに>
 カルタゴの名将ハンニバルと言えば、アルプス越えやイタリア侵入後のカンネの戦いを中心とするいくつかの会戦における大勝利、そして大スキピオとの間に行われたザマの会戦などが有名であるが、今回はカンネ以降の彼がイタリア半島で孤立し追いつめられていく時期を中心に、その一生を見ていきたいと思う。

<第二次ポエニ戦争以前>
 伝説によるとカルタゴは前9世紀、一説には前814年、ティルスの王女ディドーによって建国されたといわれ、地中海交易と農業経営によって繁栄していた。そして前264年カルタゴは、シチリアにおけるシラクサとメッシーナの対立でシラクサに味方し、メッシーナを支援するローマと衝突、第一次ポエニ戦争が開始された。この戦争は前241年まで23年もの間続いたが、その終盤に活躍したカルタゴの武将がハンニバルの父ハミルカル・バルカである。
 ハミルカルはローマと講和を結び、国内で戦後の混乱を収拾すると、政敵との対立から本国を去りスペインヘと向かったが、その際にハンニバルは豊穣の神であり軍神でもあるバールの祭壇に、ローマとの友好を拒否する誓いを立てさせられている。スペインでは、ハミルカルはカルタゴの再建、ローマヘの復讐を期して支配を拡大、鉱山や農園の開発に軍隊の養成を行っていった。彼は前229年戦死するが、後を継いだ婿のハスドルバルも順調に地盤を固めていき、ローマはマッシリアの勢力圏を守るため、ハスドルバルとの間にカルタゴのエブロ河以北への進出を禁じる協定を結ぶこととなった。そして前221年ハスドルバルが暗殺されると、軍隊の熱烈な支持を受けハンニバルが二十六歳で総督に就任した。ハンニバルは翌年をエブロ以南の完全制覇に費やし、その次の年にはエブロ以南にあるローマの同盟都市サグントゥムを攻撃、8ヵ月の攻囲の後に陥落させる。これに対してローマは宣戦布告、前218年第二次ポエニ戦争が始まった。

<第二次ポエニ戦争>
1.前期
 サグントゥム攻撃によってローマ側から宣戦させることに成功したハンニバルは、前218年5月カルタゴ本国とスペインの防衛にも兵力を残し、歩兵9万・騎兵1万2千・象37頭を率いてカルタヘナを出発し、エブロ河を渡った。これに対しローマは通常4個軍団である兵カを6個軍団に増強、スペインとシチリアにそれぞれ2個軍団を派遣した。エブロ河を越えたハンニバルはその地方の防衛にも兵カを残し、さらに動揺した兵士を帰宅させたため、ピレネー山脈を越えフランス側に入った時には彼の軍勢は歩兵5万・騎兵9千・象37頭になっており、ローヌ河を渡る際にも1万3千の兵力を失っている。そしてアルプス越えではさらに多くの兵カを失い、イタリアにたどりつくことのできた兵士は歩兵2万・騎兵6千でしかなかったという。北イタリアでは、ハンニバルはケルト人を味方につけ勢カを回復しつつ進軍、ティチーノでの騎兵同士の遭遇戦の勝利後、シチリアから北上した軍団と合わせて4個軍団となったローマ軍とトレビア川をはさんで向かい合った。ローマ軍の兵力は4万でそのうち騎兵は4千、重装歩兵を中央に配置し中央突破を狙った陣形を組む。これに対しハンニバル軍の兵カは3万8千で騎兵は1万に達し、別働隊に戦場を迂回させ、本隊は両翼を重視した布陣を行った。ハンニバルはまず騎兵隊を突出させローマ軍を挑発、ローマ軍はこれを追いトレビア川を渡り両軍は激突した。ローマの重装歩兵は強力でハンニバル軍の中央のケルト歩兵を圧倒したが、両翼ではハンニバル軍がローマ軍を撃破、さらに別働隊が背後から襲いかかるとローマ軍は包囲され敗走、2万の戦死者を出し生存者は1万5千、残りは捕虜になった。ハンニバル軍の戦死者ほとんどがケルト人で、ハンニバルの子飼いの兵士の戦死はごくわずかであった。
 前217年ローマは11個軍団を編成、ハンニバルの南下を防ぐためにアペニン山脈の東西リミニとアレッツォにそれぞれ2個軍団を配置した。これを知ったハンニバルはアペニン山脈を越えアレッツォの西に軍を進め、アレッツォのローマ軍を挑発、霧を利用してトラシメヌス湖北岸の隘路に誘い込んだ。そしてローマ全軍が隘路に入ると前後、横合いから攻撃、戦列を寸断し一方的にローマ兵を殺戮していった。この戦いにおいて、ローマ軍が2万5千のうち1万7千が戦死6千が捕虜となったのに対し、ハンニバル軍の損失は5万のうち2千にとどまり、しかもその大半がケルト兵であった。この戦いの後ハンニバルはアドリア海岸で兵士に休養を与え、それから南イタリアに向かいプーリア地方、次いでカンパーニャ地方を荒らし回った。これに対してローマではファビウスを独裁官に選出、彼はハンニバルの消耗を狙って持久戦法を採用した。しかしこの戦法はローマ側の犠牲も大きく彼に対する不満の声が高まっていき、彼がプーリア地方に戻ろうとするハンニバルの退路を絶とうとして失敗すると、積極戦法を主張するミヌキウスにも独裁官の地位が認められた。しかし、ミヌキウスはハンニバルに戦いを挑んで敗れ、ファビウスに救われなければ全滅するところであった。
 前216年ローマは軍団数を13個軍団に増強、さらにハンニバルに決戦を挑む4個軍団は、1個軍団の規模そのものが増員されて、歩兵8万・騎兵7千あまりの大兵カになった。ハンニバルの軍は歩兵4万・騎兵1万であり、彼は優越する騎兵戦カを活用できるようにローマ軍をカンネの平原に誘い出した。ローマ軍は1万の兵カを背後の小陣営に待機させ、残りで圧倒的な数の歩兵による中央突破を狙った陣形を組む。ハンニバルは歩兵を中央のふくらんだ弓形の陣形にし、騎兵は左翼に集中して配置した。戦闘が開始されると、ハンニバル軍右翼騎兵とローマ軍左翼騎兵は兵力に差がないため混戦に陥ったが、ハンニバル軍左翼はローマ軍右翼の騎兵を瞬時に粉砕、歩兵隊が中央のへこんだ弓形に陣形を変えつつローマ重装歩兵の攻撃に耐えている間に右翼の支援にまわった。そして、ローマ左翼を共同で打ち破つた騎兵はローマ歩兵隊の背後に襲いかかり、ハンニバル軍はローマ軍を完全に包囲、殲滅していった。この戦いでローマは死者7万、小陣営で待機していた1万も捕虜となり、集まってきた敗残兵は1万に達しなかった。これに対しハンニバル軍の死者は6千人ほどで、その3分の2がケルト兵であった。この勝利の後ハンニバルは動揺する南伊の諸都市を攻撃、カラーブリア地方では植民都市以外のほとんどの都市が彼の前に城門を開いた。さらに、中南伊でもカプアとその衛星都市がローマの支配を離脱、このカプアでハンニバルは冬を越すことになった。そして冬を越す間ハンニバルはそれまで殺していたローマ市民の捕虜の有償での釈放を申し出たが、これには講和の打診という意味が込められていたためローマは拒絶、戦争続行の意志を示した。

2.中期
 前215年になると、長年ローマの信頼おける友であったシラクサのヒエロン2世が死亡、その孫が後を継ぎ内紛の起こったシラクサにハンニバルは工作員をおくった。そしてクーデターは成功し、シラクサはシチリア全島の主権者の地位を約束されハンニバルに寝返った。さらにマケドニアのフィリッポス5世もハンニバルに同盟を申し入れ、地中海世界の二強国間の同盟が成立した。イタリアではハンニバルは本国からの補給を得るためカンパーニャ地方の海港都市の獲得に集中、これに対してローマは「イタリアの楯」と呼ばれるようになったファビウス、「イタリアの剣」と呼ばれるようになるマルケルス、奴隷軍団を率いるグラックスの三人の武将の6個軍団でカプアのハンニバル軍を包囲、会戦を避けて持久戦法を展開した。ハンニバルは、三人いずれにも会戦をいどんだが一人として応じず、また自軍の半ばを南伊の征服に送り出しており6個軍団を相手にしての海港獲得の強行は危険すぎたため、冬に向かう頃には軍を率いて南伊に向かった。
 前214年、ローマは前年の14個軍団から増強して20個軍団を戦線に投入、再びハンニバルとあいまみえる可能性が最も高いカンパーニャ地方にはファビウス、マルケルスの4個軍団、カラーブリア地方にはグラックスの奴隷で編成された2個軍団が派遣された。この年もハンニバルはカンパーニャ地方の海港獲得をめざし北上、南伊制圧をまかせていた自軍の半ばにも北上を命じた。しかし北上中のカルタゴ第二軍は、勝てば自由民にするという約束で奮起したグラックスの奴隷軍団の攻撃を受け、その大半が失われた。このことはハンニバルに戦略の変更を迫り、彼は6個軍団を相手に小せり合いで時間を空費するのを避けカンパーニャ地方を放置し南下、ターラント攻略に向かった。しかしハンニバルのターラント攻略は、プーリア地方を守っていた軍と彼を追ってきたグラックスの軍、計4個軍団にはばまれ、思うようには進まなかった。そしてハンニバルはこの年も海港を獲得できぬまま冬を迎えることになった。さらに、マケドニア戦線ではローマの軍事外交両面における作戦が効を奏し、フィリッポスは封じ込められていた。
 前213年にはローマはさらに2個軍団を増やして22個軍団を投入、シチリアにマルケルスを送り込むなど南方で積極戦法に転じた。ハンニバルに対してはこの年も6個軍団が投入されたが、彼には会戦に応じない6個軍団につき合う気はなくなっていた。しかし、正面から攻城戦をしかけると6個軍団に背後を突かれる恐れがあったため、彼は市民の間のローマヘの不満を利用した策略でターラントを攻略することにした。そしてハンニバル重病の噂で自分の居場所をわからないようにすると、精鋭だけを率いてターラントに急行、内側から開けられた城門から忍び込んで一夜にして全市を占領した。ターラント市民には家の入口の扉に印しをつけておくように命じてあったため流血もほとんどなく、住民の大部分は朝起きてはじめて異変に気づいたくらいであった。しかし港近くのローマ人総督が守る要塞はもちこたえ、そのためせっかく手に入れた港は船が閉じ込められその用をなさない状態であったが、ハンニバルは船を陸上輸送し近くの湾を港に改造する事で事態を解決した。こうしてターラントとその衛星都市を支配下に入れ、ローマの植民都市を除いた南イタリアのほぼ全域を制圧したハンニバルであったが、本国からの支援はローマ海軍にはばまれ一度を除いてことごとく失敗、スペインでは彼を支援する余裕がなく、マケドニアも動けない状態で、イタリア内で孤立していった。
 前212年ローマは25個軍団を編成、カプア奪回に6個軍団を投入、グラックスの妨害をかわして救援にかけつけたハンニバルはその堅固な包囲網を突破できず、ナポリなどの海港都市の攻略に向かった。しかしそれらの都市はよくハンニバルの攻撃に耐え、カプア包囲軍の一部も応援にかけつけたため、海港都市の獲得も失敗に終わった。ハンニバルが各地の防衛に回した兵力もグラックスの餌食になるのが常であり、彼の軍は少しずつ確実に減少していった。そしてシチリアでは、前年アルキメデスの新兵器の前に苦戦したのとは一転して、ローマ軍が優勢に戦いを進めていった。このように前212年の戦況はローマにとって明るいものであったが、冬になるとグラックスが、南伊防衛に当たっていたハンニバルの部下の偽りの降伏を信じ、小部隊を率いて出向いたところを殺され、グラックス個人への忠誠心で結束していた奴隷軍団が霧散してしまった。
 前211年になるとシラクサが陥落、カプア保持の重要性が高まりハンニバルは必要最小限の兵力でローマ軍の包囲網を急襲したが、この不意打ちも効果がなく、彼は包囲軍の背後を迂回してローマヘと向かい、その城壁のすぐそばまで迫った。ハンニバル軍とローマにいる軍の間には小ぜり合いしか行われなかったが、ローマが首都に敵を近づけたのは前390年のケルト族来襲以来のことで、このことはローマ人の心に後々まで残り、これ以後ローマでは「戸口にハンニバルがきている」と言って子供を叱るようになった。結局ハンニバルは一指も触れることなくローマを去ってカラーブリア地方に引き返し、カプアは陥落、ローマは対ハンニバル戦線を南イタリアに前進することが可能になった。しかしこの年はそれまで優勢であったスペインのローマ軍が大敗した年でもあった。

3.後期
 前210年ローマは軍団数を25個軍団から減らして21個軍団を投入、前年戦線が崩壊したスペインにはスキピオが派遣された。そして南イタリアにはマルケルスの2個軍団を含む4個軍団が送られたが、そのうち2個軍団はハンニバルに蹴散らされその5分の4が失われた。しかし、マルケルスの軍はハンニバルとの会戦にも敗れず、執拗にハンニバルの軍を追い回した。
 そして前209年になってもマルケルスはハンニバルを追い続けた。この間の戦闘の結果の総計は3対2でハンニバルに優勢であったものの、彼がマルケルスの妨害を受けている間にターラントは落城、彼はカラーブリア地方に去っていくことになり、そこでさらにカルタヘナ陥落の知らせを受けることとなった。
 前208年にもマルケルスの追撃戦法は続けられたが、ハンニバルはこれに付き合って流血を続けることを望まず、戦闘以外の方法で戦果をあげようとして、両軍の間にある丘に兵を伏せ、その地の調査に出てきたマルケルスを討ち取った。そして手に入れたマルケルスの印鑑を用いて、プーリア地方の諸都市の無血開城を狙ったが、ローマの素早い対応で失敗、さらなる戦果をあげることはできなかった。一方スペインではハンニバルの弟ハスドルバルがスキピオに敗れた後イタリアに向けて脱出、兄との合流をめざしていた。
 前207年ローマはハスドルバルを迎え撃っために軍団数を23個軍団に増強した。北イタリアに到着したハスドルバルはローマの迎撃を受け撃破され、その首は弟との合流をめざして北上中であったハンニバルの陣営に投げ込まれることになった。そして、ハンニバルは夏に入ったばかりであったのにカラーブリア地方に帰っていき、この年も次の年も閉じこもって出てこようとしなかった。
 前206年、ローマは20個軍団を編成、カラーブリア地方にこもるハンニバルには歯が立たなかったものの、西方ではカルタゴ軍の総力をあげての反撃を退けスキピオがスペインを制覇、東方でもマケドニアとの講和が結ばれ、ハンニバルを長靴のつま先に追いつめることに成功した。

4.終期
 ハンニバルを迫いつめたローマは、前205年になると軍団数を18個軍団に減らし、北アフリカ侵攻を唱えるスキピオには、次の年になればアフリカ行きも認めるとして、シチリアを担当させた。シチリアではスキピオは志願兵の募集、シチリア全島の補給基地化、兵士の訓練を進め、北アフリカの情報収集も行っていった。さらに彼は4個軍団がハンニバル相手に手も出せないでいるイタリア戦線にも介入、カラーブリア地方の海港都市ロクリの回復を行った。一方ローマの制海権にはばまれハンニバルヘの支援は不可能とみたカルタゴ本国は、この年ハンニバルの末弟マゴをジェノバに上陸させている。
 前204年マゴは兄との合流をめざして南下するが、ローマは6個軍団で迎撃、マゴはジェノバに戻り出てこなくなった。そしてハンニバルも、あいかわらずローマ軍に手出しはさせなかったものの、カラーブリア地方から一歩も出ていこうとしなかった。一方この年アフリカにはスキピオが上陸、カルタゴ側ではヌミデイア王シファクスの懐柔に成功し迎撃体制をととのえた。
 前203年春スキピオはカルタゴ軍を夜襲で破り、さらに夏にもカルタゴ軍に勝利を収めた。そして、この際にシファクスを捕らえると、彼に王国を征服され自軍に参加していたもう一人のヌミディア王マシニッサに国を回復させ、ハンニバルの作戦を支えてきた優秀なヌミディア騎兵を自軍に引き入れることに成功した。自国領内で敗北を喫したカルタゴは、スキピオと和平交渉を開始、その条件の一つとしてハンニバルとマゴに帰還命令を出し、ハンニバルはクロトーネの港町に、スペインを発ってからの自分の戦果を記した銅板を残し、イタリアの地を後にした。しかしマゴは死亡したもののその軍勢が帰還し、さらにハンニバルが帰国すると、カルタゴ政府は強気になり、成立寸前であった講和は決裂、戦争が再開されることになった。
 前202年になるとハンニバルとスキピオは、それぞれシファクスの息子とマシニッサの支援軍を待ちつつ、ヌミデイア国境へと向かっていった。そして両軍はザマに至り、ハンニバルはスキピオと会談、和平を申し入れた。しかしこの会談は物別れに終わり、その翌日会戦が行われた。ハンニバル軍は歩兵4万6千・騎兵4千・象80頭でそのうちイタリアから連れて帰った精鋭は1万5千であり、結局シファクスの息子のヌミディア騎兵2千は到着しなかった。そしてハンニバルはこの兵力を中央部隊を四段に分け布陣、最前列に象部隊、二・三列目に傭兵と市民兵、200m後方の四列目に決戦兵カとして子飼いの1万5千を配置した。これに対してスキピオの軍はマシニッサの援軍を加えて歩兵3万4千・騎兵6千、騎兵戦カではハンニバル軍に優越しており、中央の歩兵隊は隊列の隙間を通常より大きくとり、それを最前列の軽装歩兵が隠していた。戦闘が開始するとハンニバルはまず両翼の騎兵の偽装後退によってスキピオの騎兵を戦場から引き離し、最前列の象部隊を突撃させる。しかしローマの軽装歩兵がその突撃をかわすと象はローマ軍の隊列の隙間を通り抜けてしまい、象部隊は完全に戦線から脱落した。戦象の脅威を取り除いたローマ軍は前進し歩兵同士が激突、ハンニバル軍の傭兵は後方の部隊に逃げ道をふさがれ死にもの狂いで戦ったが屍の山を築いていった。ローマの兵土が疲れてくるとハンニバルは直率する精鋭を投入、これに対しスキピオは陣形を横に広げハンニバルの精鋭を三方から攻撃していった。そしてハンニバル軍の騎兵を撃破したローマ騎兵がもどってくると包囲網が完成、ハンニバル軍は総崩れになった。この戦いでハンニバル軍が2万以上の死者と2万の捕虜を出したのに対しローマの戦死者1千5百であった。この敗戦の後ハンニバルは混乱するカルタゴで和平を説き、カルタゴの代表としてローマの代表スキピオとの間に講和を交渉、これ以後カルタゴはローマ連合内の自治国として生きていくことになる。

<第二次ポエニ戦争以後>
 ザマの戦いの後でもハンニバルは、カルタゴの将軍としては異例の待遇で、敗戦の責任をとらされることはなく、彼がローマの要求で軍の司令官の地位を退いたのは前200年のことであった。そして前196年には、国庫収入を着服し、ローマヘの賠償金による負担は増税によって市民に押しつけようとする貴族階級への不満を背景に、彼は行政長官に選出され、経済建て直しの先頭に立つことになる。行政長官になると、彼は財政状態の報告を拒んだ財務官を力ずくで連行し、民会で不法を糾弾、ついで貴族院のような性格を持ちカルタゴを牛耳る百人会を、終身制から再任禁止の任期一年に改革した。そして国庫の収支を厳重に管理、市民の税負担を軽減した。この改革はなかなかの成果をあげたが、これによってハンニバルは貴族階級を敵に回し、反ハンニバル派はローマに対し彼がシリア王とつうじて対ローマ報復戦を計画していると密告、前195年になるとアフリカの現状調査と称してローマの使節がカルタゴに派遣された。ハンニバルは使節団の狙いは自分であると考えティルスに亡命そこからシリア王アンティオコス3世のもとへと向かった。彼はシリアの宮廷に数年とどまり対ローマ戦略を打ち出し、前190年には海戦に参加している。しかしシリアはマグネシアでローマに大敗し、和平交渉においてローマが彼の身柄を要求してくるとハンニバルはクレタ島へ逃亡、しかしそこでもローマに引き渡されそうになったため、彼はさらにアルメニアまで逃げていった。そしてその地では外敵に備えての新首都建設を進言、設計を任され建設にあたっている。その後彼はここを去りビティニアヘと亡命、ローマ側の隣国ペルガモンと戦うこの国のために、ケルト人との同盟を成立させたり、マケドニアとの仲をとりもったりしている。しかしビティニアはペルガモンに敗北、ローマはビティニア王にハンニバルの引き渡しを強く迫った。そして前183年、六十四歳のハンニバルは屋敷を取り囲まれ、「ローマを不安から解放してやる」と言い、毒をあおいで死んだ。

<ハンニバル以後>
 第二次ポエニ戦争の敗戦による混乱から立ち直り繁栄を取り戻したカルタゴは、第二のハンニバルの出現を恐れたローマの侵攻を受け、三年におよぶ抵抗の末、前146年に陥落。市街は完全に破壊され、生き残った市民は奴隷となり、その七百年の生涯を終えた。

<おわりに>
 時間は十分にあったはずなのだが、うまくまとまらず出来の悪いものになってしまった。第二次ポエニ戦争後のことをもう少し詳しくやりたかった気もする。

<参考資料>
ローマ人の物語U ハンニバル戦記; 塩野 七生 著  新潮社
カルタゴ興亡史 ある国家の一生; 松谷 健二 著  白水社
ある通商国家の興亡 カルタゴの遺書; 森本 哲朗 著  PHP研究所
世界の戦争2 ローマ人の戦争; 吉村 忠典 編  講談社
世界戦争史2 西洋古代篇U; 伊藤 政之助 著  原書房
週刊朝日百科 世界の歴史13 紀元前の世界3 人物; 朝日新聞社
カルタゴ 古代貿易大国の滅亡; アラン・ロイド 著  大本 彰子 訳  河出書房新社
覇者の戦術 戦場の天才たち; 中里 融司 著  新紀元社


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