1997年11月14日
中央アジアの近現代  岡田雅志


〔はじめに〕
 皆がその到来を待ちわびていた(?)中央アジア近現代史の巨人、小松久男大先生が、京大歴史研究会会計 氏の呼びかけに応じて遂に立ち上がった。
 というわけで今回は小松久男氏がNFで講演を行うということなのでその記念と予習の意味を込めて、近現代の中央アジアの動きを概観してみようと思う。(講演内容の中心人物、アブドゥルレシト・イブラヒムについても最後にふれる)


〔中央アジアとは〕
 中央アジアとは、現在でいうと、旧ソ連邦に属した5つの国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスタン)と中国の新疆ウイグル自治区にあたる、ユーラシア大陸内陸部の乾燥地帯に与えられた呼称である。この地域には昔から、ステップ地帯で遊牧生活を行う様々な遊牧民族と、オアシス地帯で定住生活を営むイラン系農耕民が活躍し、東西通商路(シルク・ロード)の中心ということもあって大いに栄えてきた。
 又、中央アジアは古来よりトルキスタン(‘トルコ人の土地’の意)とも呼ばれ、中央部のパミール高原を境に二分され、地理的にも、政治的にも分かれていることが多かった。それぞれパミール高原以東を東トルキスタン(現在の中国領)、以西を西トルキスタン(現在の旧ソ連共和国群のある地域)という。今回は小松氏の特に専門であり、講演内容との関わりも深いと思われる西トルキスタン(狭義での「中央アジア」はこちらを指す)を扱う。そこで以降、中央アジア、トルキスタンの語は、西トルキスタンの意味で使う。


〔近代以前の中央アジア〕
 中央アジア史における最初の転換期は8、9世紀のムスリム侵入である。これ以降、この地域ではトルコ化(トルコ系遊牧民が定住化し、その影響でイラン系定住民もトルコ語を話すようになること)とイスラーム化が進んだ。こうして形成されていったトルコ・イスラーム文化はティムール朝の支配期に黄金時代を迎え、ティムール朝の都サマルカンドは当時世界有数の都として文化、経済の一大中心地であった。中世において隆盛を極めたこの地が今やユーラシアのエアポケットと化してしまったのは、なぜであろうか。その鍵は近現代にあるようだ。


〔ロシアの進出〕
 雷帝イヴァン4世による1552年のカザン・ハーン国(ヴォルガ中流域のトルコ系遊牧民タタールが建てた国)併合以来、トルコ・イスラーム世界への進出を狙っていたロシア帝国は19世紀に入って帝国主義の一角として中央アジアに牙をむくことになる。
 一方、当時の中央アジアの様子を見ておくと、南部のオアシス地帯にはティムール朝の崩壊後北方のステップから南下してきたトルコ・ウズベク族が立てた、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハーン国が分立していた。その周囲及び北方のカザフステップには、トルクメン、キルギス、カザフ(ウズベク族の分派)らの遊牧民が活動していた。(←地図A)このように当時の中央アジアは政治的に分裂しているのみならず、火器を使用する歩兵軍団が戦争の中心であったこの時代に、遊牧騎馬隊が軍の主力という状況はロシアの侵入を阻むことができなかった。
 ロシアはまずカザフスタンを制圧すると、19世紀後半にはトルキスタン南部にも侵入して、コーカンド・ハーン国を滅亡に追い込み、ブハラ、ヒヴァの両ハーン国を保護国にした。その後、トルクメンを制圧した。1884年、ロシアはトルキスタンの征服を完了し、要地タシュケントにトルキスタン総督府をおいて中央アジアの植民地経営に着手した。


〔中央アジア内部の動き(ジャディードの活躍)〕
 このような中央アジアを植民地化しようというロシアの動きに対して中央アジアの人々はこれをだまって見ていたのか、というとそんなはずはない。トルキスタンの現状を嘆き、この状況は周囲の変化に応じようとしないイスラームの旧体制が招いたのだとして、ムスリム社会を変えていこうとした人々がいた。彼らがジャディードと呼ばれるムスリム知識人である。彼らは近代に適応したイスラームへの改革を目標にし、主に近代的教育を行う「新方式学校」を設立し、教育を通じたムスリムの啓蒙に努めるのが主な活動であった。しかし、このような活動は伝統的なイスラーム大学(マドラサ)に基盤を置き、ムスリム社会に絶大な影響力を持ったイスラーム法学者(ウラマー)の保守派に「ムスリムの敵である」として攻撃され、ロシアもこれらの活動が、オスマン・トルコに力を与える汎イスラーム、汎トルコ主義に結びつくのを恐れてこれを妨害した。それでもなお、ジャディードらによる活動はますます活発になっていった。


〔革命の時代〕
 中央アジアの社会に重大な変革をもたらしたのはジャディード達の啓蒙活動ではなく、支配者ロシアにおける革命であった。1917年3月(ロシア歴2月)の二月革命で帝政が倒れ、同年11月の十月革命でボリシェヴィキが権力を握り、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国が成立した。これを受けて中央アジアにもいくつかのソヴィエト政権が誕生すると、ロシア人反革命軍(白軍)やムスリムの民族組織との間に戦いが起こった。また、革命直後に自治を主張するムスリム達が立てたトルキスタン自治政府がソヴィエト政権の一つに倒されると、民族独立を目指す反革命運動であるバスマチ(ムスリム側はコルバシと呼ぶ)運動が始まり、中央アジアは内戦状態に突入した。革命の影響は、それまでかろうじて国を保持していたブハラ、ヒヴァ両ハーン国にも及び、1920年、赤軍の軍事援助を得たムスリムの活動家達によって相次いで革命が起こり、それぞれブハラ人民ソヴィエト共和国、ホラズム人民ソヴィエト共和国が成立した。
 こうした外部からの影響による急激な変革の中で、前の章で述べたジャディードなどの知識人、運動家達はどのような活動を行っていったのであろうか。当時、彼らの間には大きく分けて三つの立場があった。一つは反革命の立場、あくまで、今回生まれたソヴィエト勢力を排除し、完全な民族独立を達成しようというもので、彼らの多くはバスマチ運動に参加した。二つ目はソヴィエト勢力の協力を得て、民衆を旧支配のくびきから解放しようとするムスリム・コミュニストの立場。最後の三つ目はプロレタリア革命にはすぐさま賛同できないものの、この機会を利用して、民族の自治を手に入れ、自分達の手で改革を行っていこうとする立場である。第二、第三の立場の者達はブハラ、ヒヴァの革命に参加して政権を握った。このように、共に憂国の思いやナショナリズムの精神を持ちながら、それぞれの立場に分かれ相争うようになっていったのである。


〔ソ連邦の中央集権化と民族境界区分〕
 1922年、実質上、ソヴィエト社会主義共和国連邦を成立させたレーニン、スターリンなどの共産党幹部は内戦状態の続く中央アジアに対して、民族による領土的自治を実現し、ソ連邦へ編入させる構想を立てた。これは1924年の「民族境界区分」決定により現実のものとなり、中央アジアには民族別の共和国が成立し、ソ連邦に参加することとなった。この時の境界線がほぼ現在の中央アジア諸共和国の国境である(地図 参照)。「民族境界区分」は混乱状態にある中央アジアに対し、明確な自治の形を提供した、という点では意味のあるものだったが、その裏にはロシア共産党のソ連邦中央集権化の意図が隠れていたのである。この再編成により、中央アジアの全政権は共産党の直接影響下に入り、ウズベク共和国などの政府要職にいたムスリム達も「民族的ブルジョワジー」への偏向著しいとして政権から追放されていった。(ウズベク共和国の発展に尽力し、同国トップとして独裁的権力をふるったムスリム・コミュニスト、ファイズッラ・ホジャエフもスターリンの大粛清にあって1938年銃殺された)。また多様な民族が混成している中央アジア(特にトルキスタン南部)に民族を土地で分割する「民族境界区分」を持ち込んだことは後の民族対立のもととなった。


〔ソ連邦下の中央アジア〕
 ソ連邦の体制下に入り、社会主義化への道を進むことになった中央アジアであるが、そこには多くの難問が待ち受けていた。まず、1930年以降、農業の全面的集団化が開始された。この政策にはカザフなどの遊牧民の定住化や牧畜経営の集団化も含まれていて、遊牧民の抵抗と経営の混乱、極度の飢饉を招くこととなり、カザフは人口の約40%を失うという悲惨な状態におかれた。社会主義政策はまた、相容れることのできない中央アジアのムスリム社会にも大きな変化をもたらした。イスラーム法にかわるソヴィエト法の導入、アラビア文字にかわるキリール文字の採用、連邦共通語としてのロシア語の普及、ムスリム女性の解放、これらイスラームの伝統を覆すような急進な改革、変化は、何百年もの伝統の上にイスラームを信仰するムスリム達にとって容易にうけいれられるものではない。民族文化の発展を阻害するようなソヴィエト政権の方針は中央アジア住民の反感を絶やすことはなかった。内戦状態を生んだバスマチ運動も、社会主義改革への反対から更に活発化し、初期のソヴィエト政権を脅かし続けた。しかし、1931年に指導のイブラヒム・ベックが捕まったことで運動は鎮静化し、中央アジアの民族運動は表面上姿を消した。
 ソ連邦体制化における社会主義政策は、中央アジアに科学技術の発展、物質文明の向上、識字率の上昇など、社会、文化の近代化をもたらした。反面、民族問題、民族文化の問題について多くのあつれきを生み出した。ソ連邦はそれらの問題を解決できないまま崩壊へと向かっていくのである。


〔ペレストロイカとソ連邦の崩壊〕
 1986年以降、ゴルバチョフ政権で行われた改革運動、ペレストロイカとグラースノスチ(情報公開)は、中央アジアにおいてもソヴィエト体制の疲弊を明らかにした。低賃金で働かされていた農民、豊かな天然資源の中央経済への吸収、大量の失業者、共和国政府の腐敗と汚職の構造などである。これらは中央アジアの住人の現体制への不満をあおると共に民族意識の高揚をもたらした。次々の人民戦線や民族組織が生まれ、イスラームの復権を求める動きも活発になった。又、中央アジアの知識人達は自分達の民族の歴史と文化を再評価し、ソ連によって隠された近現代史の真相を解明しようとする作業を始めた。こうしたソ連邦の現体制への批判と民族意識の高まりの中で、1991年の八月革命でソ連邦は解体の道を歩み、中央アジアの共和国は相次いで独立を宣言し、社会主義から訣別した。


〔中央アジアの現在と展望〕
 独立を果たし、ロシア、ソ連による長年の支配と社会主義に別れを告げた中央アジアであるが、現在もまだ独立まもない国々には解決していかねばならない問題は山積している。政治の民主化と経済の再編成、民族間の問題の調整、旧ソ連が残した環境破壊の問題などである。実際、トルクメニスタンでニヤゾフ大統領による独裁政治が行われているかと思えば、タジキスタンでは旧共産党勢力とイスラム勢力との間で内戦が起き、現在までで数万人の死者を出したという。必ずしも明るい話題の多くない中央アジアであるが将来的には楽しみな地域である。ユーラシア大陸の中心という位置条件は過去に国際貿易で栄えたように、世界経済の中で重要な地域になる可能性を含んでいるし、何より、ようやく自分達の選ぶ道を決められるようになった中央アジアには人々の活力があふれているからである。これからも中央アジアからは目が離せない。


※アブドゥルハミト=イブラヒム(1857〜1944)

 最初に書いた通り、アブドゥルハミト=イブラヒムについて最後に少し説明しておく。イブラヒムはシベリアのトボリスク(カザフスタン北方の町)出身のタタール人ムスリムのジャディードである。当時タタール人は、商業活動でアジア各地に散らばっており、また早くからロシア支配下にあったムスリムであったため、ロシアに対抗するための改革運動に熱心であった。初めてクリミアに「新方式学校」を作ったガスプリンスキーもタタール人である。イブラヒムもムスリム民族運動に参加するようになり、ロシアとオスマン=トルコを往復しながらムスリムの覚醒を訴える汎イスラーム主義のジャーナリストとして活躍した。彼が日本を含む東方の大旅行(視察?)に出かけたのは1907年、第一次ロシア革命の後帝政が反動化し、ムスリム民族運動にも圧力を加え下火にさせた時期である。イブラヒムの胸にあるのは「イスラームの統一」ただ1つなのであるが、そんな彼が日本を訪れて、何を見、何を感じるかは非常に興味深い。皆さんも小松久男先生の講演会を楽しみにしてもらいたい。


     参 考 文 献
@「革命の中央アジア」 小松久男著(東大出版会)
A「内陸アジア」 小松久男ら著(朝日新聞社)
B「スラブの民族」   〃  (東大出版会)
C「世界の歴史12 中央アジアの遊牧民族」 岩村忍著(講談社)
D「ソ連現代史U」 木村英亮・山本敏著(山川出版社)


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