1997年12月19日
女帝エカテリーナU  マリー


〔はじめに〕
 今回、初めて担当になった(そして今年最後らしい)ので少し緊張していまッス! 今回は『源氏物語』とこちらのテーマとどちらを取り上げようと迷ったのですが、資料の都合上、エカテリーナUについてやることになりました。今度担当が回ってくれば『源氏物語』について(源氏の成立過程、解釈についての社会的、文学的構造etc)やりたいと思っています。

〔女帝エカテリーナ――破天荒な女帝〕
 18世紀のヨーロッパ模様は、フランスではルイ15世のブルボン王朝が、オーストリアではマリア・テレジアのハプスブルク王朝が栄華をきわめ、絢爛たる宮廷文化が花開いた華麗な時代であった。そして北の果てロシアのサンクト・ペテルブルクでは、ピョートル大帝の精神を受け継ぐエカテリーナ2世が即位し、国民や臣民たちが、ロシアの母なる女帝を支えて盛り上げた情熱的な時代であった。エカテリーナ2世は、帝位について34年間、自ら強力に国家を統治した。彼女は国を富ませ、領土を拡大し、学問芸術を振興し、西欧列強と並ぶ外交的地位にロシアを押し上げた。その一方で、彼女ほど悪口雑言を言われた女帝も珍しい。皇位略奪者、夫殺し、似非啓蒙者、十指にあまる愛人を褥にはべらせた淫乱な女、等々……。ともあれエカテリーナ2世はたぐい稀な才媛であったが、当時の女性の幸せからは、おおよそかけ離れた破天荒な生き方をした女性であった。

〔未知の世界への旅立ち〕
 未来のロシアの女帝エカテリーナ2世は、1729年4月21日、ドイツ、ポメラニアのシュテッティンで誕生、ゾフィー・フリデリーケ・アウグスタと命名された。母ヨハンナ・エリザベータの本家はスウェーデンの王位継承権をもつ名前ホルシュタイン伯の一族であるホルシュタイン・ゴットルプ家で、父は、ドイツの貧乏貴族アンハルト・ツァルプスト家のクリスチアン・アウグスト公であった。<フィクヘン>と呼ばれた才気煥発な少女は、お世辞にも容姿には恵まれていなかったが、その頭の回転の速さによってそれをカバーしようとし、フランス人の家庭教師について勉強に明け暮れるようになる。1739年、キールの母親の従兄弟の城で催された宴会で、ピョートル大帝の孫でホルシュタイン家の少年ピョートル・ウルリックと出会う。これが後のピョートル3世。エカテリーナの夫となる男である。
 1742年9月、母ヨハンナは、ダイヤを散りばめた額に納められたロシア女帝の肖像画をロシアの書記官から手渡される。フィクヘンはベルリンで肖像画を描いてもらい、それはロシア女帝エリザベータのもとへ送られ、クーデターで帝位を奪った女帝の後継者としてロシアへ呼び戻された女帝の甥ピョートル3世の妃候補となる。
 ピョートル大公との見合いの為、彼女は2月20日、女帝の招きによりロシアに着く。はきはきとした清楚で健康そうなゾフィーは、女帝のお気に入りとなり、翌21日、皇位継承者の妻に与えられる聖エカテリーナ勲章が彼女に与えられた。

<ロシア正教への改宗と結婚式>
 晴れて皇太子の婚約者となったゾフィーは、大公ピョートルの言動が幼く、情緒が不安定であることを直ちにみてとった。「私は結婚で幸福になるため、はるばる旅をしてきたのではない。政治という仕事、ロシア帝国に君臨するために嫁いだのだ」と彼女は、自分の使命を自覚し、ロシア人民に気に入られる為、ロシア語の勉強に励み、1744年6月28日、自らロシア正教(もとルター派新教徒)へ改宗した。29日より、彼女はロシア風にエカテリーナ・アレクセイエヴナと名付けられた。翌朝、ブラガベシチェンスキー寺院で婚約式が行われ、29日よりエカテリーナは「ロシア大公妃」となる。翌1745年8月21日、カザン寺院でロシアの威信をかけた結婚式が挙行される。しかし、ピョートルが包茎の為、また生来の幼稚さも伴い、エカテリーナは8年間処女のまま過ごす。彼女はもやもやとした気分を発散させようと、狩猟や乗馬に夢中になった。エカテリーナが初めて恋をし、肉体関係をもったのは大公夫妻の侍従の1人であるセルゲイ・サルトゥイコフである。彼は、夫が童貞であることが公然と知れ渡っている自分の愛人が妊娠したら、自らに嫌疑がかかることを知り、女帝に奏上してピョートルに包茎手術と“熟練した夫人による治療”を受けさせる。しかし大公は愛してもいない妻を義務感から抱く。セルゲイのこの計略には訳があって、エカテリーナはこの時すでにセルゲイの子を宿していたのである。しかし、この時は流産。女帝は大公に父親になる能力がないことをすでに知っており、国家のため、再びセルゲイをしかける。9月20日、たてまえはピョートルの子、実はセルゲイの子(これはエカテリーナの回想録から)のパーヴェルが生まれる。(後のパーヴェル1世)しかし子供は取り上げられ、女帝によって世継ぎとして育てられる。淋しさをまぎらわす為、彼女はタキトゥスの『年代記』を読み、モンテスキューやヴォルテールなど後に啓蒙専制君主として名高くなる下地をこの頃作る。

<快楽への欲求と政治的野望>
 彼女の次のお相手となったのは、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ伯爵(後にエカテリーナの意によってポーランド国王アウグスト 世となる)イギリスの政治的な計略によりエカテリーナに近づけられたポーランド名家の美青年である。イギリスは彼を使って彼女を籠絡させ、味方に引き込もうとしたのだった。一方ピョートルはエカテリーナに劣等感を抱き、副宰相ミハイル・ヴォロンツォーフの姪エリザベータ・ヴォロンツォーヴァという無教養で醜悪な女性に強く惹かれるようになる。一見落ちつくかに見えた関係も、政情不安定なロシアを取り巻く大国間の深謀遠慮と策謀が渦巻く中、大公妃は危うくその地位を失いそうにもなり、ポニャトフスキ伯爵は、ついにロシアから追放されてしまった。エカテリーナ30歳の時、彼女の生涯において一大転機となる時が訪れる。オルローフ家の快男児、イヴァン、グリゴーリー、アレクセイ、フョードル、ウラジーミルら、特に2男グリゴーリーに彼女は近づき一夜をともにする。彼は近衛連隊に多大な影響力をもちエカテリーナはその影響力にかつてエリザベータが近衛連隊に守られ冬宮まで行進しクーデターに成功した力を見たのだ。
 また彼女は、生涯の友となり、知的ブレーンともいえる存在になる1人の婦人と出会う。後にエカテリーナの女官長になり、科学アカデミーを活性化させた近衛士官ダーシュコフ公爵の新妻、芸術や文学、哲学をよくする才媛エカテリーナ・ダーシュコヴァ夫人である。悪名高き放蕩者であるグリゴーリーの代わりにエカテリーナは彼女と知的な会話を楽しむ。

〔ピョートル3世の即位〕
 1761年12月、長い間病気がちであった女帝の容体が危険となり、ダーシュコヴァ夫人はエカテリーナにクーデターを求めるが、彼女は行動に移せない。グリゴーリーの子供をお腹に身籠っていたからである。12月25日午後、女帝エリザベータ・ペトローヴァは逝去した。跡継ぎについて、彼女は結局は明確に何も決めていなかった為、廷臣や将軍らは慣習に従い、心中不安に思いながらも、大公ピョートルを「皇帝ピョートル3世」と認め、忠誠を誓う。彼は尊敬しているフリードリヒ2世の為、7年戦争でプロイセンと講和、さらに教会財産の没収や軍隊や官庁でプロイセン式の規律を強制し、矢継ぎ早に不条理な勅令を出し、廷臣らから総スカンをくらう。1762年2月21日、誕生日を祝う祭典に臨んだピョートルは、妻に対して聖エカテリーナ勲章を愛人エリザベータ・ヴォロンツォーヴァに渡すよう命ずる。これは皇后と皇位継承者の妻だけに与えられる名誉であり、エカテリーナを退け、エリザベータを新しい皇后にという意図を明確にしたものであった。しかし妊娠を悟られたくないエカテリーナは黙としてその命に従い、人々の共感を呼ぶ。4月22日、彼女は召使いに助けられ後ロシア最大の名門家となるボーブリンスキー家の始祖、アレクセイを生む。皇帝は、彼女をシュリュッセルブルクの城砦に幽閉しようとペテルゴーフの離宮に移るように厳命する。6月27日、宮廷革命の秘策を練っていた同志の1人パセク大尉が逮捕される。彼の口から秘密が漏れるのを恐れたグリゴーリー、エカテリーナ、ダーシュコヴァ夫人らは一挙にクーデターに走り出し、1762年6月28日の未明、ついに迎えの使者アレクセイ・オルローフがペテルゴーフに到着した。

〔クーデターの日――エカテリーナ2世の即位〕
 「準備が整いました。女帝の位にお就き下さいますよう。」とるものもとりあえず、アレクセイとともに馬車に乗ったエカテリーナは、ペテルブルクに戻り、イズマイロフスキー連隊の兵営の前に美しい姿を見せた。朝日を受けて輝く瞳は、グリゴーリー・オルローフの雄々しい姿を捉え、さらに隊列を組んだ兵士たちに注がれる。一瞬の静寂。ときとして大地を揺るがすような声があがった。「われらが母、エカテリーナ万歳!」歓喜の声が響きわたり、我先にと荒々しい男たちが彼女を取り囲み跪いてマントの裾に接吻する。司令官キリール・ラズモフスキー伯爵が「女帝陛下エカテリーナをロシア帝国唯一にして侵すべからざる君主とする」と宣言し、またノヴゴロドの大司教ドミートリ・セーチェノフから「ロシアの正統君主として、パーヴェル殿下ともども」祝福を授かる。
 教会と元老院によって合法の君主と認められた彼女には、もう1つ大仕事が残っていた。デンマーク攻撃に備えて陸軍の大部隊と海軍を擁し、オラニエンバウムから海上数10キロの地点にいるピョートルに、退位を承認させることである。彼女は街道を封鎖し、クーデターの知らせが届くのを遅らせる一方、その日のうちに自身で近衛と首都の各部隊一万余を率いて夫と対決すべくペテルゴーフへ向かった。皇后の即位の報にピョートル3世は震え上がり、エカテリーナの使者がもたらした「自発的退位宣言」に署名した。彼はロープシャの離宮へ蟄居させられ、おそらくはエカテリーナの将来を慮った友人たちの意を汲んでアレクセイ・オルロ−フが暗殺した。(これには諸説あり)エカテリーナは9月22日モスクワで荘厳で壮麗な戴冠式を執り行う。この時エカテリーナはロマノフ朝の権威を後世に伝える豪華な王冠を作らせたが、反面、自分の生活費と化粧料はバッサリ削減して国庫の赤字補填にまわした。

〔エカテリーナのその後――政治を中心として〕
 エカテリーナはその後、グリゴーリーとの半同棲生活にも飽き、後にエカテリーナの人生の中で最も良きパートナーとなるグリゴーリー・ポチョムキン(あの『ポチョムキン号の反乱』で有名なポチョムキン号の名は彼にちなんでつけられた)と褥をともにするようになり、彼の遠征中は、再び新しい男を寝室にひっぱり込むようになるのだが、ここでは彼女の私的生活を離れて公的生活を中心にみてゆく。

 行政――エカテリーナは自分を権力の座につけてくれた人々に金と領地を与えてその労に報いた。そうして地位を固めると、彼女は改革にとりかかった。審議の能率を促進する為に、元老院は6つの院に分割された。官吏の待遇が改善された。1765年「経済研究自由協会」が設立された、協会は農民の境遇について質問を提出した。これは西ヨーロッパで大きな反響を呼んだ。しかし、彼女は1764年、413あった修道院のうち252を閉鎖し、教会に属していた農民を国家に移しただけで終わった。大主教アルセーニー・マッツェーヴィチ(1697-1772)はこの処置に異議を唱えたため、幽閉されて死んだ。1766年末、宣言書によって、貴族・都市民・国有地農民・カザーク・定住他種族民(聖職者・農奴は除外された)からなる行政代表者の選挙が命じられた。かれらは、エカテリーナがモンテスキューの『法の精神』をもとに書いた『訓示』に従って新法典を作成するため、陳情書をもってモスクワに集まった。「委員会」は1767年8月18日に開かれ、商人と貴族、農民と商人との間の多くの対立点や、裁判、租税に対する批判や、貴族の様々な要求や、農奴制の弊害が明るみに出された。委員会は1768年12月29日、トルコ戦争が始まった時、解散された。

ポーランド問題とトルコ――
 エカテリーナは即位するとすぐ、軍隊をプロイセン軍から別れさせた。しかし、オーストリアとフランスに対する≪北方組織≫の味方であった大臣パーニン(1718-83)は、1864年、ポーランドの弱体な政体を維持し、同国の非国教徒(正教徒と新教徒)を守るために、女帝にプロイセンと同盟を結ばせた。こうして1726年のオーストリアとの同盟は破棄された。ワルシャワ駐在ロシア大使レプニンは非国教徒を励まし≪連盟≫を作らせた。そして、ロシア軍の後押しにより、1767年ポーランド国会に正教徒の権利を認めさせた。1768年、ロシアはポーランドに、その国内秩序の保証者として自己の意思を押しつけた。その結果、フランスの支援で新しい連盟がポドリアのバールにつくられると、ロシア軍はこれを攻撃して、バールとクラクフを占領した。フランスはバール連盟を救助する為、同盟国トルコをロシアに向かわせた。(1968年10月)クリミアのタタール軍がロシア西南部を荒らしまわった。女帝はバルカン半島のキリスト教徒の反乱を期待しつつ、ロシア軍はドニェストル川を越え、ホティーン、ヤッシー、ブカレストを占領した。アレクセイ・オルローフの艦隊はクロンシュタットを出発してヨーロッパを回航し、キオス付近でトルコ艦隊に遭遇、チェスメ沖でこれを焼き払った。(1770)1771年、クリミア半島の占領が完了したが、アレクセイはダーダネルス海峡を通過しなかった。これに対し、オーストリアとプロイセンはロシアの成功に不安を感じ、エカテリーナに1772年、ポーランド分割を強要した。結果、ロシアは白ロシアを、オーストリアはガリツィアを、プロイセンは西プロイセンを得た。トルコとは1774年7月末、クチュク=カイナルディ条約が結ばれ、トルコはブク川、クリミア、クバニ川のタタール人の独立を承認、アゾフの譲渉etc.を行った。

プガチョーフの反乱――
 このころ、ドン=カザークのプガチョフは、ピョートル3世と自称し、1773年9月以来、ウラルとドン川のカザーク、バシュチール人、キルギス人、農奴らをそそのかし、エカテリーナに対し反乱を謀った。ウラル川から始まった乱は西はタンホフ、ニジニ=ノヴゴロド、北はペレミ地方の諸工場、東はシベリアにまで広がった。地主らは絞首台にかけられ、守備隊は虐殺された。プガチョーフは土地と自由を約束し、1774年7月カザンを占領した。しかし、トルコとの講和によりロシア正規軍が帰還、プガチョーフ軍を次々に打破り、ウラル川で彼は手下に裏切られ司令官スローヴォフ(1729-1880)により、モスクワに檻に入れて送られた。1775年1月彼は首を切られた。エカテリーナはこの経験をもとに反動化、ポチョムキン(1739-91)の協力のもと貴族の権限を増大させ、農奴制を強化させる改革を実行した。

〔治世の末期〕
 エカテリーナは1774年の条約を利用するために、ヨーロッパからトルコを追い払い、ギリシア帝国を再建して、コンスタンティンという洗礼名を授けられた孫(アレクサンドル1世の弟)に与えるという雄大な計画を持っていた。そのために彼女は1780年オーストリアと協約を結び、南部の植民がポチョムキンによって活発に進められた。1783年、クリミアはロシアに併合され、彼女はヨーゼフ2世、リーニュ公セギュール(フランス外交官)をともにクリミアへ示威的旅行をおこない、トルコを挑発した。ついに1787年第2次露土戦争が開始、1788年オーストリアもこれに加わった。ロシアに恐れをいだくイギリスがスウェーデンをけしかけペテルブルクとフィンランドに向かって攻撃をしかけるなど多難の中、1792年1月9日に署名された条約で、ロシアはクリミア及びブク・ドニェストル両河間の地域の領有を認められた。一方、ポーランドは1790年に、ロシアから身を守る為プロイセンと同盟を結び、1791年3月3日、「自由な拒否権」は廃止(これにより今までポーランド国会は実質上破滅していた)王位を世襲制とする新憲法を採用していた。これは一種の≪革命≫であった。保守的な貴族はこれに敵対する連盟をつくり、エカテリーナは10万の軍を送った。スタニスワフ・アウグスト2世は彼女と休戦協定を結び、プロイセンもポーランドを裏切り、1793年3月、第2次ポーランド分割が行われ、ロシアはヴィリニュス、ミンスク、ヴォリニア、ポドリアを得、プロシアはポズナニ、トルニ、グダニスクを得た。残りの部分は、実際上、サンクト=ペテルブルクの支配下に入った。コシューシコ(1746-1817)は革命政府をつくり、プロイセンとロシアに宣戦布告したが敗れ、1795年10月の平和条約でロシアはクールラント、リトアニアの残部、ブク川までのヴォリニアの残部を、プロイセンはワルシャワとアゾヴィアを、オーストリアはクラクフ、サンドミェシュ、ルブリンを得た。ここに第3次ポーランド分割は完了、ポーランドは地図上から姿を消した。

〔エカテリーナの死〕
 スモーリヌイ寄宿学校の設立(1763)、エルミタージュ美術館の基礎をつくる(1764)などの文化・芸術の保護者となり、ディドロ、ヴォルテールなどの啓蒙主義者らと親交の厚かった女帝の脳も、年とともに衰え、その精神も、プガチョフの反乱、フランス革命を経て保守化していった。日本で知られる大黒屋光太夫がエカテリーナに謁見したのもこの最晩年である。1796年11月16日、彼女は1人で化粧室にひきこもっていたとき、卒中の発作に見舞われ、数日後、生を受けて67年、帝位について34年の波瀾に満ちた生涯を終えた。彼女の遺体は息子のパーヴェル1世によって34年前に亡くなった若い夫ピョートル3世と一緒に歴代の皇帝の眠るペテロパブロフスク寺院に運ばれて壮麗な葬儀が営まれた。ふたつの柩には、「命ある時に別れ、死後結ばれん」とロシア語で書かれている。パーヴェルは父ピョートル3世(?)を尊敬し、母の治世をすべて否定しようとする。そして皮肉なことに彼も父と同じく暗殺者の手にかかって敢え無い最期をとげる。そしてそれを黙認した息子、アレクサンドルはナポレオンと戦い、一時ヨーロッパ最大の英雄とさえ言われるようになるのである。

〔終わりに〕
 うーっ。しんどい。ちょーつかれた。この後は忘年会のようだ。Let's enjoy ourselves!

参考文献: 女帝エカテリーナ 上・下  アンリ・トロワイヤ 工藤庸子訳 中公文庫
      女帝のロシア        小野理子            岩波書店
      恋と美の狩人 エカテリーナ 南川三治郎           河出書房新社
      ロシア史          ピエール・パスカル 山本俊朗訳 白水社
      おろしや国酔夢譚      井上靖             文春文庫


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