98年4月24日
茶の湯  NF


(1)はじめに
 今や日本の押しも押されぬ伝統文化の代表である茶道。その現在に至る経緯をまとめてみた。
(2)「茶の湯」以前
 最澄が初めて唐から持ち帰り、比叡山で栽培を始めたのが周辺に拡がり嵯峨天皇時代には宮中に入ったのが日本における茶の始まりとされる。しかしそれは定着することなく遣唐使の終りと共に跡切れた。その後鎌倉時代に入って間もなく栄西が宋から茶を持ち帰り、建保二年(1213)に将軍源実朝に「喫茶養生記」を献上したのは知られている。栄西は「白氏大帖」「白氏文集」「太平御覧」から引用して茶が五臓を整える妙薬であることや茶の性質や効能、悪霊を除く桑の解説、喫茶法を記したという。ともかく栄西が背振山・博多聖福寿山で栽培したのを明恵が栂尾で栽培するようになり禅宗の寺院中心に拡がった。鎌倉時代末期には各地で茶の品質に差が出たことから京の栂尾の最高の茶を本茶、その他の茶を末茶として本非を当てるのが流行するようになった。これを一般に「闘茶」と呼ぶが当時は「飲茶勝負」「茶寄合」といった。正中元年(1324)の「飲茶会」(「花園院宸記」)、正慶元年(1332)の「飲茶勝負」(「光厳天皇宸記」)の頃から急速に流行し、「二条河原落書」で「茶番十炷ノ寄合」が批判され、「建武式目」にも「茶寄合」の禁が定められている。「太平記」に佐々木道誉に代表されるバサラ大名が景品を山のように積み上げ「百本ノ本非ヲ飲」んだという話がある。やがて本茶に宇治茶も入り、本非の二つだけでなく多くの種類に分けられるようになる。それにつけ四種十服、百種茶、四季茶、回茶、六式茶、釣茶、系図茶、源氏茶などの競技に分かれる。その中の四種十服の競技法を記そう。四種のうち試飲つきでは三種を四袋づつ作り、一袋づつ試飲する。それぞれ味と香りを記憶し、残りの九袋に残りの一種(客茶といい、「ウ」と表記)を加え順不同で立てて飲ませる。飲んだものは記憶に従い一、二などで答える。飲み終わってから正解が示され参加者の順位が決定する。当時の学僧玄恵法印が記したと言われる「喫茶往来」から、この頃の茶の風潮を知ることができる。@座敷飾りの繁雑性A濃厚な異国趣味・豪奢性B禅寺の茶礼の法式の残留Cギャンブル性D酒宴遊興の猥雑性という特質が見て取れる。
(3)珠光と紹鴎
 茶礼はやがて応仁の乱の後、足利義政やその同朋衆・相阿弥により中国情緒の強い芸能として東山文化の一角をなす。まだ闘茶の性質を残しているが茶器を献ずるなど道具を重んじる傾向が生まれていた。そんな中、「佗・わび」の精神を茶に持ち込んだのが村田珠光である。かつて珠光は実在でなく「茶祖」として後世の茶人が作り上げた人物とされた。しかし色々な史料から現在は実在説が定説である。彼は奈良の称名寺の徒弟であったが、追い出され上京した。京で「下々の茶」喫茶に興味を持ち、一方で義政の下の能阿弥による書院台子の茶儀を知った。能阿弥に点茶の方式、座敷飾り、道具の目利きの指南を受け、秘伝書を伝授された。(「君台視左右帳記」と思われる。)その後、大徳寺の一休宗純について禅の修行をし、「圜悟克動」の墨蹟を授与された。珠光は下々の茶、茶儀と禅を一体化させ四畳半の茶室を生みだした。彼の流儀は当時経済力を付けつつあった京・奈良・堺の町衆に受け入れられ、村田宗珠(養子)、松本珠報、鳥居引拙、石黒道提、大富善好、十四屋宗伍、竹蔵屋紹滴、古市澄胤ら多くの有力な弟子が出た。彼の流儀の特色は次の五点にまとめられる。@座敷飾り・書院飾りの面影は残しているが座敷が縮小され飾りも簡素になった。道具本位からの解脱傾向を示し始めたと言える。A座敷が狭まることで自ずと参会者数が制限されその結果一座の和合同心が進んだ。B「禅鳳雑談」に「月も雲間の無きはいやにて候」、「山上宗二記」に「藁屋に名馬をつなぎたるはよし」と記されたように、外見は粗相、内面は清純・充実という美、円満具足の美でなく不完全な美を良しとした。C茶禅一味D古市播磨法師澄胤へ与えた「一紙」で「此道の一大事は、和漢のさかひをまぎらかす事」とあるように、唐物趣味一辺倒の従来の茶趣を和様で中和し日本人の美的感覚に諧和的茶趣を醸し出した。この風を受け継ぎさらに推し進めたのが武野紹鴎である。紹鴎は堺町衆の武器製造を生業とする家に生まれ、三条西実隆に和歌・連歌・歌学を学んだ。若い頃は従五位下・因幡守に任ぜられ山科本願寺について出陣したりしたが、31才で大徳寺の古岳宗亘(せん)について出家し、村田宗珠・十四屋宗伍に茶を学び、唐物崇拝の風が残る喫茶に、佗茶の展開を進めた。彼の家は60の名物を所蔵し富裕であったが、彼は定家の「浦の苫屋」の歌の無一物の境涯を推奨した。彼にとって佗とは、富裕・簡素の二極の間の遊泳を楽しむものだったようだ。その閑雅な風は子の宗瓦、孫の宗朝、女婿の今井宗久、津田宗及らに受け継がれた。紹鴎の著作として、「紹鴎十ケ条」や「佗の文」が伝わるが真偽は不明である。
(4)宗久と宗及
 紹鴎の死後、女婿の今井宗久が松島茶壺・紹鴎茄子などの名道具を譲り受け、遺児宗瓦を後見し茶の指導的位置にたった。さらに三好義賢・松永久秀らに接近し、政商として財を蓄えた。信長上洛の時には松島茶壺・紹鴎茄子を献上、堺矢銭問題では信長方に立ちその功から茶頭に任ぜられ、さらに鉄砲製造で富を築いた。信長が茶の湯を重んじたのは茶の寄合性・融和性・密室性ゆえ政治的儀礼として用いられるからであった。そのため家臣に茶器を与えることで茶頭公認で茶を行える印として茶の湯の統制をした。滝川一益が関東を任されたにもかかわらず茶器を授からなかったことを嘆いた話は知られている。さて宗久は堺町衆の懐柔・支配のため重用されたが、石山本願寺と堺の離間が図られるようになってからは津田宗及の下に甘んじることとなった。宗及は紹鴎と親しい茶人・宗達の子で、利休・宗久と並び「三宗匠」と呼ばれる。大林宗套から禅を学び「天信」の号を与えられた。信長への接近は石山本願寺との縁が深いために宗久より遅れたが、やがて茶頭として宗久をも凌ぐようになる。天正二年(1574)の相国寺茶会で宗及・利休が名香蘭奢待を与えられた話はその勢いの絶頂ぶりを表して余り有る。また政商として活躍したのは言うまでもない。本能寺の変の時、家康は堺の宗及邸宅での茶会の直後ですぐ逃げ出したのは知られている。豊臣時代にも天正十三年の大徳寺総見院茶会、二年後の北野大茶会に参加しているが、宗久・宗及ともに利休の下風に立つこととなった。それでも宗及の子宗凡も茶人として名高かったという。宗久の子宗薫も豊臣家に仕えるが関ケ原で東軍についたため大坂の陣で大坂方に捕えられ、織田有楽斎に釈放され家康に味方、後に幕府の茶頭となり子孫は旗本となったという。
(5)千利休
 豊臣時代にはいると栄華に翳りを見せ始めた宗久・宗及に代わり茶の湯の第一人者となったのが千利休である。利休は堺に生まれ、十七才で書院茶湯の北向道陳に、十九才で草庵茶湯の武野紹鴎に弟子入りした。道陳は能阿弥の弟子・島右京に教えを受けた人物である。利休は書院茶湯・草庵茶湯を総合させ、大徳寺大林宗套に参禅し禅の精神も合わせて茶の湯を完成させたのである。彼は二十三才までに「宗易」の号を得ており、若くして茶人としての名を揚げたようだ。三好三人衆・松永久秀と交わり、後に信長に仕えた。天正元年・二年の間に茶頭の一人になったが、信長在世中は宗久・宗及の下に立っていた。秀吉の時代に重用され、天正十三年(1585)三月の大徳寺大茶会、十月の禁裏茶会を後見し、その際に正親町天皇に「利休」号を与えられた。二年後の大坂城大茶会・箱崎八幡茶会も後見、北野大茶会では秀吉・利休・宗及・宗久という等級順の茶席となり全盛を極めた。秀長が、「外の事は自分、内々のことは利休に相談せよ。」といったのは有名であるが、その通り豊臣政権の二本の柱の一角にまでなっていた。蒲生氏郷、高山右近、細川三斎(忠興)、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部ら大名達が「利休七哲」として名を残しているのでも権勢が知られる。(兵部、織部の代わりに織田有楽、荒木村重を入れることも。)しかし秀長の死や博多重視による境の地位低下、それによる博多商人神谷宗湛、島井宗室の台頭から利休の立場に陰りが見え石田三成ら実務官僚と摩擦が激化した。天正十九年(1591)、大徳寺山門の利休像問題を理由に切腹を命じられた。真因は茶器を不正に売買したためとも娘お吟を秀吉の側室にするのを拒んだためとも三成との対立とも秀吉との価値観の相違とも言われるが定かでない。辞世の句は「人生七十 力・希咄(りきいきとつ) 吾這(わがこの)宝剣 祖仏共殺(そぶつともにころす) 提(ひっさぐ)ル我得(わがえ)具足の一(ひとつ)太刀 今此時ぞ天に抛(なげう) 天正十九年仲春廿五日 利休宗易居士(花押)」である。ところで、利休は高麗茶碗、瀬戸茶碗を好み特に瀬戸には利休瀬戸といわれる茶入もある。また「宗易型」という楽茶碗も存在。他ににじり口を考案するなど現在の形を完成させた人物なのは言うまでもない。茶室として妙喜庵待庵が知られる。利休の示した教則は「利休七則」といわれ@茶は服のよきように点てA炭は湯の沸くように置きB花は野にあるようにC夏は涼しく、冬暖かにD刻限は早目にE降らずとも傘の用意F相客に心せよ、とあり「とかく茶の湯は結構を好まず、きれいさびたる仕様よく候」と結んでいる。細やかな点まで行き届いていると言える。自然としての形式美、主客共に一つの茶事に美を構成しようという社会性、生活を基本とした実用重視という日常性、小型化する空間から醸し出される「一期一会」的厳しさ、草庵本位、これまで同様茶器に関心を寄せるものの茶から離れると三文の価値もない物を名物と称える点が特長である。日常性と虚構性の微妙な接点に茶の湯の極意があるとするものである。
(6)千家再興
 利休切腹の後、千家は暫く遠ざけられたが、文禄三年(1594)、秀吉によって利休の女婿・少庵に千家再興が許された。少庵は天正六年の津田宗及茶会で33才の遅いデビューをしたがその才は利休から認められていた。温厚篤実な人柄で、文事によく通じていた。茶室不審庵を設けた。二年後の慶長元年正月に息子宗旦に不審庵を譲り隠居した。宗旦は大徳寺三玄院に入り得度、春屋宗園に禅を学んだ。千家再興の際に還俗。世俗を離れ禅に絞って茶の道を追い求め貧に美しさがあるとし大名に仕官せず隠遁姿勢を取ったため「乞食宗旦」と呼ばれた。藤村庸軒、山田宗徧、杉木普斎、松尾宗二が「宗旦四天王」といわれる。「一閑塗」で知られる飛来一閑と親交があった。四人の息子のうち宗拙・宗守と宗左・宗室の間に年の差があった。正保三年(1646)に不審庵を三男宗左に譲り隠居、今日庵を建て又(ゆう)隠(四畳半)、寒雲亭(八畳)を合わせた茶亭住宅としそこに引き篭った。今日庵は後に四男宗室に譲られた。また親交の合った塗物師に養子に行った宗守も宗旦の死後に千姓に復し官休庵を興した。これがそれぞれ表、裏、武者小路の三千家の起こりである。ところで、千家は少庵の流れが継いでいったが、利休の嫡男・道安は娘を万代屋宗安の子・宗貫に嫁がせ、与吉郎を得た。宗貫、与吉郎が千姓をも称していることから考えて、秀吉に再興を許された少庵流千家の他に堺千家が存在したことになる。晩年は父祖の地・堺に領地を与えられ利休嫡男の面目を保った。千家主流は譲ったもののその弟子に金森雲州・宗和父子、片桐石州の師・桑山宗仙、古田織部という名が並んでおり彼の茶人としての意地が窺える。
(7)大名茶人達(有楽・織部・遠州・石州)
 三千家の話をする前に、ここで千家以外の主な茶人について触れておこう。織田有楽斎は信長の弟にあたる。豊臣家に茶人として仕え大坂の陣では徳川方に通じ江戸に屋敷を与えられた。それが有楽町の地名に残っている。利休に台子の作法を教わり有楽流を創設した。建仁寺正伝院に二畳半の台目、裏に三畳の水屋のある如庵を作った。利休からの「武蔵鐙の文」が現存する。さて、織部流の始祖・古田織部は大徳寺春屋宗園に参禅して金甫の号を得、利休に茶を学んだが、利休が静中に美を見いだし佗を重んじ草庵本位であったのに対し、彼は動中に美を見いだし佗を重視せず書院形式の茶であった。その明るく大きい武家好みの流儀により利休亡き後の第一人者となった。彼は大変器用でもありそのため技術本位・多種多様な作意を施した茶の湯を行った。その風は道具にも表われ沓形茶碗、餓鬼腹茶入、織部形伊賀水指など豪華な桃山風を器物に大胆に表現した異形な作意の物が多い。独特の道具観故、誤解を受けることも多く相反する評価のある茶人であった。例えば全くな器は嫌いだからと茶碗を一旦割って用いたという。また作法の知識に少々欠けるところがあったのもその誤解に輪をかけた様だ。関ケ原以降徳川に仕えたが、大坂夏の陣で末子九八郎が大坂城の小姓だったので呼応して徳川勢を挟撃しようと図ったため戦後切腹させられたという。織部流は織部切腹・松平忠輝の失脚で自律的展開を失うが、高弟として小堀遠州、毛利甲斐、山本道句、大久保藤十郎、本阿弥光悦、佐久間寸松意、上田宗箇、徳川秀忠、清水通閑という顔ぶれが並ぶ辺り彼の底力を感じさせる。また後に茶の湯が官僚文化・禅宗寺院文化に埋没した文化現象になるとその反発としての茶道の流儀として常に意識された。また後家人層の一流派、京都下京の町人の一流派、血統を主張する九州の二流派が存在した事実は、幕藩体制下で地方文化として生き延びえた何物かの存在を示している。そして、遠州流の祖・小堀遠州は秀長の小姓として育ち古田織部に茶の湯を学んだ。また彼も大徳寺春屋宗園に参禅。十八才で露地手水の遣り水に工夫し師織部を驚かせたという。茶人としてのみならず建築・造園にも優れ禁裏・二条城の建築や桂離宮の数寄屋造の庭園は有名である。彼の茶の湯は師匠譲りの書院式、技術本位の物であったが、衣食住を基礎にしていることを常に念頭に置いていた。実用の上に技術により自然を表出しようというものであった。「遠州好み」「遠州の綺麗さび」といわれるように装飾豊かで洗練された美しさ・都市的な均衡の取れた瀟灑な美しさを重視した。墨跡中心の禅的茶の湯・豪華な書院茶の湯・王朝風古筆歌切を総合した物を目指した。忠孝・悌といった封建的倫理感を重んじ、道具の新旧に関わらず良いものは良く悪いものは悪いという実際的な考えから、遠州七窯といわれる陶器の他、茶杓、花入を新作することにも関心を示した。彼は能筆でも知られ「歌銘」といい古歌から銘をとり箱などに歌を散らし書きするのも彼が始めである。寛永十三年(1636)に江戸品川御殿で将軍家光の茶頭となり清拙正澄の墨跡を拝領、「将軍家茶の湯指南」と呼ばれた。遠州流の六代目宗友は「宗友記」を記したが天明八年(1788)に寛政改革で取り潰しに遭う。文政十一年(1828)に宗中に再興が許された。宗中は優れた鑑識眼を持ち尾張徳川家の道具類を整理し「茶道四祖伝書」を著した。分流として権十郎政尹系、青木宗鳳系、県宗知系、黒田正玄系、大森漸斎系などがある。さて、石州流の初・片桐石州は桑山宗仙に茶を学び、大徳寺玉尚に参禅。慶安元年(1648)に家光の前で柳営名物の鑑賞・整理を行い、寛文五年(1665)に家綱に点茶を献じ、将箪家茶器を鑑定した。著書「石州三百ケ条」は幕府茶の湯の規範となった。弟子は藤林宗源、大西閑斎、恰渓宗悦、尭然法親王など多岐に渡る。将軍家を始め、仙台伊達家、会津松平家、新発田溝口家など武家の多くが石州流を学んだ。「茶の湯はさびたるはよし、さばしたるは悪敷」の言葉でわかるように、結構・作物、つまり作意が目立つのを嫌い、自然なのを良しとする石州の考えが石州流の基本となった。武家に多くの信奉者を出した関係で分流は多く、宗源派や其処から派生した松浦鎮信の鎮信派、清水派、野口派、恰渓派や其処から派生した伊佐幸琢の伊佐派などが挙げられる。幕末の大名茶人・松平不昧は伊佐派の出である。珠光、紹鴎、利休に織部、遠州、石州を入れて「茶道六宗匠」と呼ぶ。
(8)表千家
 宗旦の三男・江岑(しん)宗左が父から不審庵を継いだのが表千家流の始まりである。宗左は宗旦の勧めで仕官先を求め、唐津寺沢広高・高松生駒高俊を経て紀州徳川頼宣に茶頭として仕えた。著書に「千利休由緒書」「江岑夏書(げがき)」がある。六代目覚々斎は「千家中興」と呼ばれる。町田秋波、山中道億、三谷宗鎮、鈴木宗閑、堀内仙鶴、松尾宗二などの高名な弟子が名を連ねたからだけでなく、大徳寺無学宗衍や川上不白、裏千家の又(そう)玄斎と相談し「七事式の作法」を定めたことにもよる。因みに「七事式」とは茶の練習のための「花月、且(しゃ)座、茶カブキ、一二三、員(かず)茶、廻り花、廻り炭」のことをいう。その後、了々斎は紀州家拝領の武家構を誇り、次の吸江斎は紀州公徳川治宝から逆伝授を受けるなど代々紀州家との関係は濃厚であった。そのため千家嫡統としての矜恃を高めていく。そのため真台子の位置を重視し、構え高い佗茶を強く残しているのが特長である。また分家が多く、久田家から随流斎・了々斎・吸江斎が出、覚々斎から堀内・松尾家が出、如心斎から住山家、碌々斎から吉田家が出た。このように多くの分家に本家が守られる体制となったのも特質。現宗匠は十四代目而妙斎。
(9)裏千家
 裏千家は宗旦の四男・仙叟宗室が父から今日庵・又隠・寒雲斎を継承したのが始めである。他の二家と同じく利休を初代とするが特に宗旦の茶を継承する立場を代々取ってきた。家祖の年回にあたりその時々の裏表両家の宗匠のうち年長者が法要を営むのが通例になっていた。例えば、表から養子入した又玄斎は表の父を早く失くした啐啄斎を叔父として指導し、宝暦四年(1754)に実父覚々斎の二十五回忘茶会を主催した。またその子不見斎が表の啐啄斎より七つ年長だったので利休二百回忌を指導。しかしこの頃は表裏千家の力の差はあまり無かった。ところが、天保十年(1829)、玄々斎が表の吸江斎より八つ年上だったため二百五十回忌でリードしそれを機に咄々斎の稽古場や筌斎の客間を大増築し、さらに稽古でも仙遊、雪月花、茶箱点、椅子点を始めて表千家と訣別した。その結果、伊予松山藩、尾張徳川家、田安家など大名家の他に知恩院尊超法親王・九条尚忠など公家、松阪町人長井九郎左衛門ら広い門弟層を獲得した。そのため彼は「裏千家中興」と言われる。女婿に京の名家角倉家から又玅斎を迎え、勢力の強化を計った。二代後の円能斎は田中宗卜らと明治を乗り切り、新島襄夫人ら女性を普及対象に加えた。女性茶人に裏千家が多いのはそのためである。また、昭和十五年に淡々斎が裏千家の全国組織「淡交会」を結成。内部の結束強化を狙った。これらによって現在裏千家は最大の人数を誇っている。雑誌「淡交」や淡々斎の弟・井口海仙の研究誌「茶道月報」が多くの人を引き込んだ。現宗匠は十五代鵬雲斎。昨年茶人初の文化勲章を受章したのは記憶に新しい。
(10)武者小路千家
 塗師吉川三右衛門に養子入し吉川甚右衛門と名乗っていた宗旦の次男・一翁宗守が女婿中村宗哲に塗師を譲り、慶安二年(1649)に大徳寺玉船宗璠に宗守の名を与えられて父の没後に千姓に復し官休庵を創設したのが武者小路千家の始めであった。京都の武者小路通小川に住んだのでこの名がある。因みにこれ以後、宗匠が代々宗守を名乗り、若宗匠(後継者)は宗屋、隠居は宗安を名乗るのが通例となった。彼は高松松平頼重に仕官したが、他二千家より出遅れたのと裏表二家からの養子相続が多かったことから第三の家という扱いを受けることになってしまったのは否めない。例えば直斎・一啜斎・好々斎は裏千家出身で、以心斎・一指斎・愈好斎(久田家)は表千家出身である。明治三十一年に一指斎が没し東大出の愈好斎が再興するまで、大阪の平瀬露香・卜深庵木津家により宗家が守られた時期もあった。愈好斎は文筆活動を好み「茶道妙燈」「茶道風与恩記」「利休居士の茶道」「武者小路」など数多くの著作がある。それにより少しづつ人数も増え始めた。大正十五年の官休庵改築・昭和十五年の弘道庵再建はその象徴である。その女婿・有隣斎の千鶴子夫人は料理家としても知られた。現宗匠は不徹斎。
(11)おわりに
 これまで茶の湯の主要な流れ・主な茶人を一通り挙げてきた。茶の湯というと何か堅苦しい、形式張った伝統芸能といったイメージが一般にあるようだが、岡倉天心が著書「茶の湯」で「日常生活の俗事の中に見出される美しいものを崇敬する一種の儀式である。」と述べ、利休もその道歌で「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて飲むばかりなる本と知るべし」と言っている。もし茶の湯に接する機会が有れば、難しく考えずまずは気楽に接したら良いのではないだろうか。
(12)参考文献
 國史大辞典 1〜5、8〜1O、12、13巻(吉川弘文館)
 新編日本史辞典(京大日本史辞典編纂会編、東京創元社)
 茶の湯Q&A(淡交社編集局編、淡交社)
 裏千家茶道のおしえ(千宗室、日本放送出版協会)
 茶道辞典(桑田忠親、東京堂出版)
 日本茶道史(重森三玲、藤森書院)
 茶の湯人物志(村井康彦、角川選書)
 赤膚焼―まほろばの茶陶(山西敏一、なにわリンデンブックス)
 平成十年度茶道手帳(淡交社)


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