1998年5月22日
ポンペイウス  My


<はじめに>
 カエサル、クラッススとともに第一回三頭政治を行ったポンペイウス。この人物は共和制末期のローマで類い希な武将としての才幹を示し、アレクサンドロス大王と同じマグヌス(偉大な)の尊称で呼ばれた。しかしこの人物の受ける扱いといえば、三頭政治のその他の人物、カエサルをねたむブタ親父、といった感じであまりに気の毒である。そこで、今回はこの人物のささやかな名誉回復を図る。

<スッラの許で>
 第二次ポエニ戦争の後、ローマではその覇権の拡大とともに社会不安が増大、混迷の時代へと突入するが、ポンペイウスはその混迷の中、前106年に誕生した。彼は優しさの中に威厳を備えた容姿と、聡明で誠実な人柄、無欲で質素な生活態度により、大いに人々の好意を受けていたという。
 前88年、民衆派のマリウスと閥族派のスッラとの抗争が始まり、前87年マリウスがクーデターを行った際に、彼の父は殺され、十九歳であった彼は多くの所領を持つピケヌム地方に隠れ潜むことになった。そして前83年春、ポントス王ミトリダテスと戦っていたスッラが、講和を結んで小アジアを安定させ、イタリアに軍を向けてブルンディシウムに上陸すると、ポンペイウスはピケヌム地方で3個軍団2万ほどの軍勢を集め、スッラの許へと向かった。彼はその途上、通過した地方を敵から離反させつつ進み、襲い来る敵を撃退、スッラのもとにたどり着いたが、スッラは2万もの兵力を連れての参戦を大変喜び、彼を厚遇した。彼は、スッラに北イタリアに送られ、その地で功績をたてた。
 内戦は前82年1月ローマの城壁まぎわでの戦闘を最後に終結、イタリアを手中に収めたスッラは反対派を一掃し、元老院主導の政治体制の建て直しを図るが、この際ポンペイウスも民衆派として殺された人物の娘であった妻と離婚、スッラの妻の実家の娘と結婚させられている。ポンペイウスは反スッラ派の残党の基地となっていたシチリア島制圧を命じられ進発、シチリアは直ちに彼に明け渡され、さらに彼はアフリカに逃げた反スッラ派の討伐をも命じられた。彼が6個軍団と共にアフリカに上陸すると、敵兵7千が投降してきたが、この地で兵士たちはカルタゴの財宝を求めて穴掘りに熱中、彼は進軍ができなくなり数万人の穴掘りを笑って眺めるしかなくなった。やがて兵士たちは宝探しにも飽き、ポンペイウスに軍を進めてくれるように懇願、彼は敵に向かって進軍を再開した。彼は2万の敵勢と峡谷を挟んで向かい合ったが、嵐の中敵が退却しようとした機をとらえ、敵を駆逐、敵兵のうち逃れることのできた者は、3千にすぎなかった。彼は続いて敵陣を占領、敵将を戦死させた。この勝利の後ポンペイウスはヌミディアに侵入し、ローマの力を見せつけてから帰国、出迎えたスッラはこの時彼に「ポンペイウス・マグヌス」と尊称をつけて呼びかけている。ポンペイウスはこの機会に凱旋式挙行を願い出、スッラはこれを許可、彼は本来その資格がないにもかかわらず、特例として凱旋式を行った。この時ポンペイウスは二十五歳、ローマ史上初の若さで凱旋将軍となった。

<偉大なるポンペイウス>
1.セルトリウス戦役
 その後、前78年にスッラは死んだが、その年の執政官であったレピドゥスは、翌前77年親スッラの仮面を脱ぎ捨て、反スッラ派を集めて旗揚げした。しかしこの年の執政官は武将としての力量に問題があったため、ポンペイウスはその幕僚というかたちでレピドゥス征討の指揮を執った。レピドゥスは中部イタリアで蜂起し北イタリアをもその手に収めていたが、ポンペイウスは難なくこれを平定、レピドゥスの残党はスペインで決起していたセルトリウスに合流することになった。
 この頃セルトリウスは、「第二のハンニバル」と呼ばれてスペイン原住民の支持を受け、その勢いはピレネーを越えかねないほどであった。そしてスッラ存命の頃よりセルトリウス鎮定にあたっていたメテルス・ピウスは、セルトリウスの駆使する俊敏なゲリラ戦法に苦しめられ、成果をあげられずにいた。そこでポンペイウスはメテルスヘの援軍となることを志願、東方でポントス王ミトリダテスが不穏な動きを見せ始めたため、早期決着のためにポンペイウスのスペイン派遣が決定した。セルトリウスの勢いからして、物資の現地調達は不可能と見たポンペイウスは、南フランスのガリア人の動揺を鎮め、補給線を確保しつつ進み、実質的には前75年からスペイン戦線に参加した。
 スペインに着いたポンペイウスは兵士たちの気分を一新し、セルトリウスに完全には信服していない部族を味方に引き入れた。ローマ軍は敵の柔軟な動きに対応するため二手に分かれて攻勢に出て、ポンペイウス自身もセルトリウスの部将を会戦で破り、セルトリウスとも戦ったが、この果敢な攻勢にもかかわらず、ローマ軍は制海権を握ったセルトリウスに圧倒され、とても戦役の早期解決は望めない状況であった。そしてこの年の冬ポンペイウスは元老院に支援を要請、支援が得られなくてはスペインから撤退せざるを得ないと、書き送っている。翌前74年には、元老院はポンペイウスの要請を入れて2個軍団1万2千の歩兵と2千の騎兵、そして戦費をスペインに送ったが、それでも戦役は、セルトリウスがその部将の手にかかって殺されるまで、さらに二年も続く。ポンペイウスはセルトリウスを失った敵軍を囮の部隊でおびき出して撃破、前72年冬セルトリウス戦役は終結した。

2.スッラ体制崩壊
 スペインのローマ軍はめぼしい混乱を鎮めるとイタリアヘと帰還、北イタリアでポンペイウスは、スパルタクスの乱が鎮圧されたため逃れてきた、奴隷軍の残党を討った。この頃、スッラの定めた法により、属州からの軍隊はイタリア半島に入ってはならなかったが、ポンペイウスは軍を従えたままルビコン川を越えローマ郊外まで迫り、スペインで戦った部下への土地の給付、凱旋式挙行の許可、執政官への立侯補の許可を求めた。またスパルタクスの乱を鎮圧したクラッススも、執政官の地位を求めて軍隊と共にローマに迫った。彼ら二人は、ポンペイウスがクラッススの手段を選ばぬ蓄財を軽蔑し、クラッススがポンペイウスの華やかな名声に嫉妬していたため、非常に仲が悪かったが、ここで互いの利益のために協力することになった。人望のないクラッススのために、兵士の信望を集めるポンペイウスが選挙での票を回してやり、元老院議員であるクラッススが、ポンペイウスのために元老院で根回しするという協定が成立、両者は軍隊を解散した。この協力関係により、スッラの定めた資格年齢を満たさずに、ポンペイウスは前70年度の執政官に当選、再度の凱旋式も認められた。彼らはポンペイウスが一般民衆の、クラッススが経済界の利益代表として、権力維持のための人気取りに走ったが、そのためスッラの定めた元老院主導の政治体制は完全に崩壊してしまった。一年の任期が終わるとポンペイウスは首都での華やかで安寧な生活に入った。

3.海賊掃討戦
 前67年、ポンペイウスは積極的な活動を再開、彼の腹心が護民官として、ポントス王ミトリダテスの資金提供により強大化し、地中海の物資の流通に甚大な被害を与えていた海賊の一掃作戦を、市民集会に提案した。この提案は総司令官となるポンペイウスに、三年もの間、非常に大きな権限を与えるものであり、元老院の大勢はこれに反対であったが、民衆の支持によりこの提案は市民集会で可決された。この提案が可決されただけでローマでは突然物価が下がったという。
 これによりポンペイウスは重装歩兵12万・歩兵5千・軍船5百隻の戦備と、地中海の海面および沿岸部での命令権を得て、海賊一掃に向かった。彼は地中海全域を十三の区域に分け、それぞれに兵力を配置、海賊船団を攻撃し、その本拠地であるキリキアの方へと追い込んでいった。彼は40日で西地中海から海賊を一掃、東地中海になだれ込んだ。彼は東地中海全域で海賊の基地を陥落させ、降伏に対しては寛容な態度で臨み、賊をキリキアヘと追い込んだ。追い込まれた賊は艦隊を進めてくるポンペイウスを迎え撃ったが、包囲され降伏、ポンペイウスはわずか89日で海賊一掃を達成した。この間4百隻の海賊船を捕獲、1千3百隻を沈め、1万以上の賊を殺し、海賊の基地にある造船所、要塞は全て破壊された。ポンペイウスは2万を越す捕虜を得たが、彼はこれを殺すつもりも、奴隷として売り飛ばすつもりもなかった。しかしそのまま自由にすると問題を引き起こすと考え、捕虜がまともな生活が送れるよう、諸王の抗争によってさびれた小アジアの町々に土地を与えたうえで、解放してやった。

4.第三次ミトリダテス戦役
 この頃中近東では、スッラ派の第一人者であるルクルスが、第二次ミトリダテス戦役を戦っていたが、彼は鮮やかな勝利で敵を圧倒しながら、兵士たちの従軍拒否にあい、ミトリダテスにとどめを刺せずにいた。そこで、海賊の一掃が伝えられるとローマでは、ルクルスに代わってポンペイウスに、ミトリダテスおよびそれに協力するアルメニア王の制圧を任せる、という提案が市民集会になされる。専制君主の出現を恐れる元老院議員の大半は、これにもやはり反対したが、市民集会は今度の提案も可決した。
 ポンペイウスはキリキアから北上、ガラティアでルクルスと会い、両者は互いの功績を讃え合って、非常に友好的な雰囲気で会談は始まった。しかしついにはポンペイウスがルクルスの金銭欲を、ルクルスはポンペイウスの支配欲を罵るという有様となった。
 こうしてポンペイウスはルクルスから軍勢を受け継いだが、ルクルスに対して、凱旋式に使う兵士としてものの役に立たない兵士のみを残す、という辱めを加えたため、両者は互いの業績をも侮辱し合うこととなった。
 前66年オリエントでの総指揮権を得たポンペイウスは、6万の陸上戦力と2百7十隻の軍船を与えられ、第三次ミトリダテス戦役を開始、彼は小アジア沿岸の地中海と黒海に艦隊を配置して海上を制圧すると、自らミトリダテスが急ぎ編成した歩兵3万・騎兵2千の軍勢に向かった。ミトリダテスは積極的に戦いを挑む気はなかったが、ポンペイウスはこれを城壁で囲い込んだ。ミトリダテスはしばらくは包囲に耐えたものの、強壮な兵士のみを連れて脱出、しかしポンペイウスはユーフラテス河岸でこれに追いついた。彼はミトリダテスが河を越えて逃れるのを恐れて、夜中に襲撃、ローマ軍は万を越える敵兵を殺し、敵陣を奪取した。ミトリダテスは東へ逃れアルメニアヘと急いだが、ポンペイウスは深追いせずに、外交戦を展開、パルティアをローマ側につけることに成功する。これによって、パルティアと境を接するアルメニアは動揺、王子の一人が父から離反しポンペイウスを迎え入れた。ポンペイウスの進攻を受け窮地に陥ったアルメニア王は、ミトリダテスの受け入れを拒みその首に賞金をかけ、ポンペイウスの許を訪問してローマと同盟を結んだ。このためアルメニアを頼ることもできなくなったミトリダテスは、北へ向かいコーカサスヘと逃れたが、ローマ艦隊が黒海全域を監視下に置いており、沿岸部に姿を現すことさえできなかった。ポンペイウスは軍を東と南の二手に分け、自らは全軍の三分の二を率いて東に向かい、コーカサス周辺の諸部族を制圧し、アルメニアに戻ってユーフラテス対岸のパルティアにローマの威を示しつつ、前66年から65年にかけての冬を越した。一方南へ向かった別働隊は、アルメニア王の侵入によって荒廃していたシリアに入り、制圧を行いつつポンペイウスを待った。
 前65年、コーカサスに潜むミトリダテスは、残る資金全てをなげうって3万6千の軍を編成、しかしポンペイウスはこれを相手にもせず、ミトリダテスが賠償金とローマの覇権の承認を条件に講和を申し出ても、ローマヘの服従を求めるのみであった。これに対してミトリダテスは返答も送らず、黒海周辺の諸部族に呼びかけ西征を計画、しかし周囲は彼のことを見捨て、王子はポンペイウスにポントス王国のローマヘの服従を申し出た。これを見届けたポンペイウスは全軍をシリアに向け、ダマスカスに入城した。
 ポンペイウスはこの地をローマ属州として秩序を回復、さらにこの地とユーフラテスの間に住むベドウィン族を破り、パルティアとの間に緩衝地帯を置いた。その後、ダマスカスで中近東の再編成を行っていたポンペイウスの許に、ユダヤの有力者が訪問、内紛の調停を求める。しかし、ポンペイウスはユダヤの政教一致の統治法を見直すように命じたため、ユダヤ人は反発、彼はイェルサレムを制圧することになり、ユダヤをシリア総督の統治を受ける半属州に変えた。そして彼の許には、ペトラを中心にインドとの交易で栄えるナバテア人から友好関係樹立の申し出がなされ、さらに自殺したミトリダテスの遺体も送られてきた。
 こうして前63年ポンペイウスはオリエントを平定、黒海からカスピ海、紅海に至る全地域にローマの覇権を打ち立てたが、これによって国家ローマの歳入は一挙に二倍になったという。戦後処理を終えるとポンペイウスは帰国の途についたが、彼は立ち寄った土地では哲人を厚遇し、アテネでは復興のために多額の寄付を行ったため、輝かしい栄光に包まれて、前62年末イタリアに上陸した。

<三頭政治>
 元老院ではポンペイウスが軍を率いてローマに入り、独裁政治を行うのを恐れたが、6万の兵を率いてブルンディシウムに上陸したポンペイウスは、軍を解散し少数の側近を従えただけでローマヘと向かった。しかしローマヘの全行程において、ポンペイウスを一目見ようと人々が集り、その後に従ったため、彼にその気があれば、軍団の助けがなくてもクーデターが可能なほどであった。前61年ポンペイウスはローマ城外に到着、凱旋式挙行の許可と執政官への立侯補の認可、部下への土地給付、オリエント再編成の承認を求めた。しかしポンペイウスヘの恐怖のなくなった元老院は、彼を凱旋式か執政官のどちらか一方しか手に入れられない状況に追い込み、さらに残りの要求に対しても曖昧な態度をとることで、彼の兵士と征服地に対する面目を丸つぶれにした。ポンペイウスは元老院への対策を試みはしたが失敗し、彼が面目を施せたのは盛大な凱旋式のみであり、嫌気のさした彼は別荘に籠もって姿を現さなくなった。
 前60年、元老院に対して不満を抱くポンペイウスに、執政官への当選を狙うカエサルが接近、ポンペイウスが旧部下たちの票でカエサルを当選させ、カエサルはポンペイウスの要求を実現させる、という条件で彼らは手を組んだ。そしてカエサルは、強大すぎるポンペイウスとの力の均衡を図って、クラッススを引き込み、三頭政治が成立した。前59年、四十七歳のポンペイウスは二十二歳のカエサルの娘ユリアと結婚。ポンペイウスは誠実で女性を引きつける魅力も備えていたため、この年の離れた夫婦は非常に仲が良く、これ以後彼は別荘での若い妻との生活にひたりきって、政治の動きに関心を払わなくなった。その後カエサルはガリア戦役を開始し、元老院は三頭政治を崩すためカエサルとポンペイウスの離間を図るが、カエサルは前56年北イタリアのルッカで会談を行い三頭の結束を固める。しかし前54年にユリアが産褥で世を去り、前53年にクラッススがパルティアで戦死すると、元老院派のポンペイウス取り込みは成功、元老院派は勢いづき、カエサルの完全な追い落としに乗り出した。

<内乱>
 元老院派はカエサルから兵力を剥奪しようとし、カエサルはこれに抵抗、両派のにらみ合いが続く中、前50年には元老院派はポンペイウスに剣を手渡して国家の楯となることを要請する。そして、前49年元老院はカエサルを国賊とするが、カエサルは軍勢を率いてを率いてルビコンを越えた。季節は冬であり、カエサルの侵攻を予期していなかったポンペイウス側は、カエサルの電撃的な進軍に不意をつかれて動揺、ポンペイウスは、ローマに留まる者はカエサル派と見なすと宣言して、ローマを捨てる。彼は一度は自らの地盤であるピケヌム地方に入る構えを見せたものの、カエサルの猛進によってその意図をくじかれると、ブルンディシウムに直行した。内戦の早期解決を望むカエサルは急追し、ブルンディシウムでポンペイウスに追いつき港の封鎖を企てたが、海軍で勝るポンペイウスは、カエサルの会談の提案を拒み、封鎖を突破してイタリアを脱出した。
 イタリアを去ったポンペイウスは、カエサルの支配領域である、貧しいガリアと食料の自足もできないイタリアを、オリエント、スペイン、アフリカおよび海洋を押さえて囲い込み、戦力の充実を図る。これに対してカエサルは、食糧確保のためすみやかにサルデーニャ、シチリアを手中に収め、さらに各地に制圧の軍を派遣した。ポンペイウス側は北アフリカヘの侵攻を退け、アドリア海の制海権をめぐっての戦いにも勝利したが、スペインの陥落、西地中海一の海港都市マッシリアの降伏により、ポンペイウスの、カエサルを三方から包囲するという壮大な戦略は、瞬く間に崩壊していった。
 前48年になるとすぐ、カエサルはギリシアヘ向けて出航、船の数が足りないため、ただでさえ劣勢な兵力を二度に分けて渡海させた。しかしギリシア西岸では、ポンペイウスは6万の兵力を持ちながら、友軍の到着とカエサルの消耗を待って積極的な攻勢には出ず、カエサル率いる軍勢とにらみ合いを続ける。そして一応第二陣との合流阻止に乗り出したものの合流を許してしまうと、カエサルの補給線を完全に絶ち、再びシリアからの友軍を待つ姿勢をとった。合流は果たしたが食糧補給のたたれたカエサルは、ポンペイウスが会戦に応じないため、別働隊をギリシア中東部に派遣、食料及び支持者の獲得、シリアからの軍勢の阻止を命じる。そしてカエサル自身は、約2万の軍で、ポンペイウスと補給基地ドゥラキウムとの間を絶つため、その大軍を海岸に包囲した。
 ポンペイウス軍はドゥラキウムからの海上補給を受け、食糧不足はカエサル側の方が深刻であったが、馬の飼料不足と水不足に悩んだポンペイウスは、二ヶ月間包囲に耐えた後、ついに攻勢に出ることになった。ポンペイウスはまず、カエサルをドゥラキウムで寝返りの動きがあるとの噂で包囲網から引き離し、そしてドゥラキウムにも海側から兵を送らせ、合計六ヶ所で包囲網の突破を試みた。カエサル軍は圧倒的多数の攻撃を退けたが、この数日後、脱走兵から包囲網の弱点について情報を得たポンペイウスは、再び攻勢に出る。ポンペイウスはわずか2千5百の兵が守る、包囲網の未完成な南部4キロに、手持ちの兵力の三分の二を投入、陸上からの攻撃と海上からの攻撃を併用し、カエサル軍を前後から挟み撃ちにした。この日はポンペイウスが一日中主導権を握り、急ぎ駆けつけてきたカエサルに押し返されると、優勢な兵力を生かして複数の地点から攻撃をかけ、混乱に陥ったカエサル軍を敗走させた。カエサル軍はカエサル自身の呼びかけも無視して逃走したが、敗走を罠だと疑ったポンペイウスは追撃を控え、カエサル軍は壊滅を免れることができた。
 この敗北の後カエサルは、ポンペイウスの追撃をかわすために、包囲を解いて撤退、先に派遣した部隊と合流しポンペイウスを会戦に引きずり出すべく、中部ギリシアヘと向かった。これに対してポンペイウスも、西進を阻まれていたシリアからの部隊が攻撃されるのを恐れ、また勝利により士気が抑えがたくなっていたため、中部ギリシアに軍を向けた。カエサルは合流すると、食糧の補給に適したパルサルスの地に進み、ポンペイウスの到着を待った。ポンペイウスの軍も友軍との合流を果たすとパルサルスに向かったが、軍中では合流によって勝利への希望が膨らみ、従軍する元老院議員たちは、作戦会議でも勝利後の栄達や金銭的利益のことのみを考えるようになり、ポンペイウスが慎重な態度を見せようものなら、それに非難が浴びせられる有様であった。
 パルサルスの戦いに参加するポンペイウス軍は、歩兵4万7千・騎兵7千、ポンペイウスは、両軍が全面戦闘にはいる前にカエサル軍を壊滅させる、と断言して会戦に臨んだ。彼は右翼を河に接して騎兵と軽装兵を左翼に集中、カエサル軍の右翼を粉砕しての包囲殲滅を狙っていた。これに対してカエサル軍は、歩兵2万2千・騎兵1千、右翼に少ない騎兵を集中し、その背後に騎兵をくい止める任務を与えた古参兵2千を配置した。
 会戦が始まるとカエサル軍の四分の三が士気に任せて突撃、ポンペイウス軍は敵の疲労を狙って動かず整然とこれを迎え撃った。ポンペイウスの騎兵隊はカエサルの騎兵隊を圧倒、これを見たカエサルは古参兵を突撃させる。すると押されていた騎兵隊も回り込み、古参兵と共にポンペイウスの騎兵隊を前後から囲い込む。ポンペイウスの騎兵隊は、カエサル軍の槍に顔や目を狙われると、耐えきれずに一人残らず逃走、カエサル軍最右翼はさらに騎兵の援護を行っていた軽装兵を蹴散らし、ポンペイウス軍の包囲に取りかかる。ここでカエサルは温存していた兵力を投入、ポンペイウス軍は前後からの猛攻を受けて潰走、カエサルはポンペイウスの陣営の攻撃に向かった。騎兵の敗走を見て陣営に戻り守備を固めていたポンペイウスは、カエサルの兵がなだれ込むと、陣営を捨てて逃走、無敗を誇ったポンペイウス・マグヌスは、その生涯に於いて最初で最後の敗北を喫した。この戦いでポンペイウス軍は6千の戦死者2万4千の捕虜を出したのに対し、カエサル側の死者は2百名であった。
 この敗戦の後、ポンペイウスは海上に逃げるが、各地で締め出しの動きが起こり、エジプトヘと逃れる。そしてその地で彼は、王の許に案内すると言われて小舟に乗り込んだところを、殺された。前48年9月28日、享年58歳であった。

<その後>
 ポンペイウスに勝利したカエサルは、その後地中海世界を統一し、一時の平和をもたらすが暗殺され、ローマがその長い内乱の時代に終止符を打つには、前30年オクタヴィアヌスによる統一を待たねばならないのであった。

<おわりに>
 元老院体制が崩壊し帝政へと向かう時代の流れを、もっとしっかり抑えるべきだったのだろうが、ポンペイウスという個人の生涯を見ていくのが今回のレジュメの目的であり、時代の流れを捉えていないという点については、勘弁していただきたい。

<参考資料>
ローマ人の物語 V・W・X;塩野七生 著  新潮社
プルタルコス英雄伝 中・下;村川堅太郎 編  ちくま学芸文庫
ガリア戦記;カエサル 著  國原吉之助 訳  講談社学術文庫
内乱記;   同上
ローマ皇帝伝 上;スエトニウス 著  國原吉之助 訳  岩波文庫
世界の歴史5 ギリシアとローマ;桜井万里子・本村凌二 著  中央公論社


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