1999年4月30日
ベリサリウス  My


<はじめに>
 4世紀後半のフン族の侵入をきっかけに、それまでローマ帝国の領域外に留め置かれていたゲルマン人が、帝国内部へと流入する。これによって西帝国は滅亡し、西部地中海世界は、東ローマの権威のもとゲルマン王国が支配するようになる。そして6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスは、かつての帝国の栄光を取り戻すべく、地中海世界の再統合に乗り出す。今回はユスティニアヌスの外征を支えた名将ベリサリウスについて見る。

<ペルシア戦線での活躍>
 ベリサリウスは505年にトラキア地方の農民の家に生まれたらしい。この低い生まれのため彼は教養とも縁が無く、その幼時には賛美の材料となるような物は何も無い。ベリサリウスは、ユスティニアヌスの護衛兵として、職務を立派に果たしたらしく、527年彼の主人が帝位に登ると、軍の指揮官に昇進し、メソポタミアの重要拠点であるダラの要塞に赴任する。彼はこの地で、自分の戦功の忠実な記録者となるプロコピウスを部下に迎えることになった。ベリサリウスは、この地からペルシア領アルメニアに同僚と共に進攻、抜群の功績を立てたが、前進が敵軍に阻止されるにおよんで、ダラヘと戻る。そして彼は東部軍司令官となり、ペルシアの進攻を迎え撃つことになった。ペルシアは3万の軍を送り込み、529年ベリサリウスは敗北、彼はダラに戻って兵力を集中、決戦の機会を待った。翌530年、ペルシアの精鋭4万がダラの要塞を破壊すべく進撃、これに対するベリサリウスの手元には、意気阻喪した2万5千の兵力しかなかった。
 ベリサリウスは、丘陵に挟まれたダラの要塞正面の低地に、壕を掘ってペルシア軍を迎え撃つ。壕は、弱体な歩兵部隊の守備する中央部において、城壁から支援可能な距離にまで要塞に追り、ベリサリウスの軍勢は両翼の騎兵部隊が突出する形となっていた。さらに彼は左翼に沿った丘の蔭に騎兵の小部隊を隠しておいた。一日目は小競り合いに終わり、翌朝ベリサリウスは平和的な解決をペルシア側に説く。これを恐怖の証と見たペルシア軍は攻撃を再開したが、ベリサリウスの見せるあからさまな罠がその動きを制限、包囲を恐れて、戦闘は両翼の騎兵に限定される。ベリサリウス軍は右翼においては城壁まで押し込まれたが、左翼では伏兵が背後を突いてペルシア騎兵を敗走させる。さらにベリサリウスは、騎兵の深入りによって生じたペルシア軍の間隙に手持ちの全騎兵を投入、ペルシア左翼騎兵を四散させると、むき出しになったペルシア中央部隊側面を攻撃した。これによってペルシア歩兵は盾を捨てて逃走、戦場には5千の戦死者と8千の敗兵が残された。
 翌531年、ペルシア軍は通過不可能と考えられていた砂漠を越えてシリアヘと進攻する。しかし国境沿いに能率的な通信網を築き、軍を高度に機動化していたベリサリウスは、2万の軍勢を率いて北方から急行、ペルシア軍に退却を強いて、その本国へと駆逐していった。こうしてベリサリウスは無血の勝利を収めるはずであったが、まだ若い彼に対し部下の諸将は服従に欠け、功を急ぐ将兵に追撃を認めた結果、東ローマ軍はぺルシア軍に大敗することになる。ユーフラテス右岸で戦闘は行われたが、東ローマ軍右翼では、臆病心あるいは裏切りからアラブ兵が離脱する。これをきっかけに東ローマ右翼は潰走するが、ベリサリウスは左翼の歩兵隊にあって自らも下馬して奮戦、ユーフラテスを背に、ペルシア騎兵の度重なる攻撃を最後まで崩れずに支えた。そして彼は夜の闇に紛れてユーフラテスを渡って去り、ペルシア軍も勝利の犠牲があまりにも大きかったため退却していった。
 そして、この年の秋ペルシア王が急死、その後を継いだホスローは国内情勢の処理に追われ、ペルシア戦線の緊張は緩和される。そのためベリサリウスはコンスタンティノポリスに帰還し、翌532年に重税への不満から起きたニカの乱では、3万人の暴徒を殺して反乱を鎮圧、皇帝の恩義に報いることとなった。ニカの乱の後、軍を西方の異民族制圧に向けることを望んだユスティニアヌスは、ペルシアとの間に「永遠の和平条約」を結び、ヴァンダル討伐が決定される。

<アフリカ征服>
 この頃、西地中海のゲルマン人諸国では、内部にゲルマン人とローマ帝国を懐かしむ人々の反目を抱え、その支配は安定してはいなかった。そしてアフリカのヴァンダル王国においても、530年に東ローマに友好的な国王が、貴族の反発を受け王位を追われる。これを見たユスティニアヌスはアフリカ遠征を決意、この困難な遠征には反対意見もあったが、アフリカ教会の開放こそが神の意志とする、狂信的な司教の叫びと、内紛によるヴァンダル弱体化への期待によって、ベリサリウス率いる遠征軍の派遣が決まる。陸海の最高指揮権を委ねられたベリサリウスは、騎兵5千に歩兵1万、5百隻の運送船と92隻の護衛船を率いて、533年夏コンスタンティノポリスを出航、シチリア島では、ヴァンダルの精鋭がサルディニアに遠征中との情報を得る。彼は直ちにアフリカに向かうが、兵士たちの海への恐れを見て、海上での襲撃を避けるため、カルタゴから離れた地点で上陸、陸路進攻することにした。
 上陸したベリサリウスは、現地住民の支持の必要を説いて、厳格な軍紀で部隊を律し、何の抵抗もうけずに前進、船団と連絡を取りつつカルタゴに迫る。ヴァンダル側はサルディニア遠征軍が戻るまでは戦闘を回避したかったのだが、アフリカ内の要塞は彼らの祖先によって破壊されており、ベリサリウスの進軍を阻むものは何もなく、やむを得ず兵力を結集してカルタゴ近郊で決戦に出ることになった。ベリサリウスは3百の騎兵を先頭に、左側面の守護にも6百騎を配して前進。これに対してヴァンダル側は主カで東ローマ軍を受け止めつつ、王自身の率いる一隊が大きく迂回、ベリサリウス軍の背後を襲う計画であった。しかしヴァンダル軍主力は攻撃時刻に先んじて戦闘を開始、指揮を執る王弟は戦死し部隊は四散、さらに東ローマ左翼を攻撃した部隊も撃破される。王自身は山間で道に迷い主力の敗走の後に戦場に到着、前進する東ローマ軍を背後から突き崩したが追撃を行わず、戦死した弟の葬祭を行い時間を空費する。ベリサリウスは自ら騎兵隊を率いて部隊を再結集し、ヴァンダル王を撃ち破った。この翌日ベリサリウスは歓呼に迎えられカルタゴに入り、軍の厳正な秩序を保って占領を行った。
 ヴァンダル王は四散した兵力の結集に力を尽くし、サルディニア遠征軍にも征服地を放棄して救援に戻るよう言い送る。ヴァンダル人は王国の危難にあって結集し、サルディニアから帰還した部隊も合流、その兵カはローマ軍の十倍に達したと誇張して噂されるまでに膨れ上がった。ベリサリウスはこれに対して敢えて攻勢をとり、カルタゴを出撃、両軍は川を挟んで対時する。ベリサリウスは騎兵隊を第一列、歩兵隊を第二列とし、自身は騎兵隊の中央で親衛隊の先頭に立つ。ヴァンダル軍は、サルディニアから戻った精鋭を中央に東ローマ軍を待ち受ける。ベリサリウスは挑発攻撃と偽装退却を行うが、追撃する敵に川を渡らせることはできず、敵中央部へ攻撃を集中する。中央を守るヴァンダル軍精鋭は飛び道具を捨てて攻撃を待ち受け、東ローマ軍を三度にわたって退ける。しかしヴァンダル軍の注意が中央部に引きつけられたところで、ベリサリウスは全戦線にわたって攻撃を拡大、ヴァンダル軍は崩壊し、自軍陣地へと退却した。激しい戦闘ではあったが、戦場に残った死体はローマ軍が50、ヴァンダル軍が8百であった。さらにベリサリウスは歩兵隊を率いて敵本陣を攻撃、ヴァンダル王は逃亡し、その軍勢は四散した。敵陣に入った東ローマ軍は掠奪へと散って行き、この時はさすがのベリサリウスも軍勢の秩序を保つことはできず、敵軍の再結集を恐れる不安な一夜を過ごした。
 彼はヴァンダル王を追跡したが捕捉できず、カルタゴで冬を越すことにし、皇帝に征服の完遂を報告した。ベリサリウスがカルタゴ近郊を制圧すると、アフリカの諸地域のみならず、コルシカ、サルディニアといった島々もその支配下に入り、さらに東ローマ軍はジブラルタル海峡のアフリカ側をも速やかに占領した。そして534年の春には山中に追いつめられていたヴァンダル王も降伏する。しかしコンスタンティノポリスでは嫉妬からベリサリウスが王位につこうとしていると囁かれ、彼にはアフリカに留まるか帰国するかの決断が委ねられる。ベリサリウスの純粋な忠誠心は帰国を決断し、これによって皇帝の不安も消え、彼はコンスタンティノポリスでは前代未聞の凱旋式の名誉に浴した。

<イタリア遠征>
 この頃、イタリアを支配していた東ゴート王国は、アフリカヘ遠征するベリサリウスを歓待するなど、東ローマに友好的であった。しかし、ユスティニアヌスに好意的であった女王は、ローマ人を重用し過ぎることでゴート人の反発を受けており、535年に内紛により殺される。そしてこれを口実にユスティニアヌスはイタリア征服に乗り出した。ユスティニアヌスはフランクに東ゴートを攻撃するように補助金を与えたほか、アドリア海の東岸ダルマティアに軍を派遺、これらの処置によって東ゴートを牽制し、イタリアにはベリサリウスを向かわせた。
 535年秋、ベリサリウスはわずかに騎兵4千5百・歩兵3千を与えられ出発、カルタゴヘ向かうと宣伝して、シチリアの敵情を調べる。そして占領が容易なのを見て取ると、シチリアに上陸した。東ゴートはシチリアを厚遇していたにもかかわらず、島民はベリサリウスを解放者として歓迎、パレルモだけが抵抗を試みる。ベリサリウスは、船団を港の奥まで突入させ、帆柱の頂点に引き上げたボートから城塞を射撃。高所からの攻撃でパレルモを陥落させた。これに恐怖を感じた東ゴートは平和を哀願するが、ダルマティアで東ローマ軍が惨敗すると高圧的な態度に変わり、イタリア本土への進攻を招く。
 536年春、アフリカで反乱が起きるが、ベリサリウスはこれを粉砕、さらにシチリアで起こった暴動も鎮め、東ゴートとの戦争を再開する。彼はシチリアに十分な守備兵を残すとメッシナ海峡を渡ったが、対岸を守備する東ゴート軍が寝返り、何の抵抗もうけずにイタリアに上陸した。彼は船隊と連絡を取りつつ進み、ナポリを陸海両面から包囲、ナポリ側は東ゴートを倒した後に服従を要求するよう主張したが、ベリサリウスは尊大な微笑で答えて聞き入れず、攻囲は続行された。ナポリは堅固に要塞化されていたが、ベリサリウスは乾いた水道の通路から兵士を市内に送り込み、内外からの攻撃によってナポリを攻略、北上してローマを目指した。これに対しゴート側は事態収拾のためにローマを放棄、決戦を翌春に延ばして、ダルマティアやガリアに分散した軍主力を結集する。ベリサリウスは各地に守備兵を残し、6千の軍勢とともに市民の熱烈な歓迎を受けてローマに入城、周辺地域を制圧するとともに、ゴート軍による包囲に備え、各地から食料を調達、ローマ市の防備を強化した。
 冬の間に戦力を集中したゴート軍は、537年本拠地ラヴェンナを出発しローマヘと進撃、一年余りにおよぶローマ包囲が開始された。偵察に出ていたベリサリウスを襲撃して退けられた後、ゴート軍は15万の軍勢でローマ市の北半分を包囲、ベリサリウスは3万の市民を徴発して防衛する。ゴート軍は攻城兵器を揃えると総攻撃を開始、ベリサリウスは自ら敵最前列の指揮者を射殺して味方の士気を鼓舞すると、攻城兵器を引く牛の射撃を命じ敵の計画をくじく。そして危険に身をさらしつつ、冷静に指揮を執り続け、夕方まで続く激しい戦いの後、ゴート軍を撃退、さらに出撃して敵の攻城兵器を壊滅させた。ゴート軍はこの戦闘によって3万の死者およびこれと同数の戦傷者を出し、あまりの損害の大きさに、攻囲は無気カな封鎖へと変わった。南方からの補給路は機能を保っており、また婦人と子供、そして奴隷を市内から退去させたこともあって、東ローマ軍はよく包囲に耐え、再三の出撃によってゴート軍を消耗させる。しかしゴート軍が補給路を遮断するにおよんで、ローマ市は飢餓と疫病に苦しみ、さらに内通者まで現れる。この窮状にあってベリサリウスは、細心の注意でローマ市を守り通す一方、皇帝に援助を要請、ユスティニアヌスは微弱ながら援軍を送った。城外のゴート軍も飢餓と疫病に悩んでいたが、東ローマの増援を見てさらに弱気になり、冬期の休戦が決まる。名ばかりの休戦が成ってゴート軍が各地から部隊を引き払うと、ベリサリウスは軍を送って交通線を回復、また包囲の陣営への攻撃や、ミラノで起こった反乱の支援を行った。さらに彼は別働隊にアペニン山脈を越えさせ、敵後方を撹乱する。これによってラヴェンナが脅かされたため、ゴート軍は攻囲を解いたが、撤退の際の混乱を攻撃され致命的な損害を出した。
 538年ゴート軍は、ローマから撤退。戦闘や疫病、飢餓によってその3分の1を失ったものの、依然として大兵カであり、重要拠点の守傭とミラノの反乱鎮圧に兵カを割いたうえで、東口ーマ別働隊の籠もる要塞を包囲した。しかしベリサリウスがおびただしい篝火で兵力を誇張して進み、さらに宦官ナルセス率いる東ローマの最精鋭がイタリアに上陸、また東ローマ艦隊も接近したため、ゴート軍は恐慌に陥ってラヴェンナヘと逃げ帰った。この時点でベリサリウスの軍勢は増強によって2万に達し、イタリア制圧は目前に迫った。しかし勝利が間近になると、羨望から東ローマの部将たちはベリサリウスに反抗、彼に対抗するためナルセスを担ぎ出し、作戦計画を混乱させる。これによって東ローマ軍は各地に分散してしまうが、ベリサリウスはこの危機を忍耐強く乗り切り、ラヴェンナ攻撃の準備を整える。しかしこの不和は東ゴートにミラノの反乱を制圧する余裕を与えてしまった。
 東ゴートが苦境にあるのを見たフランクはこれに対する援助を決定、1万の軍勢がミラノ包囲に参加、ミラノは掠奪を受け、破壊される。そしてこの成功に気をよくしたフランク族は翌年10万の兵力でイタリアに押し寄せ、東ローマ軍と東ゴート軍の双方を攻撃した。両軍はともに逃亡、フランク族は北イタリアを蹂躙したが、飢餓と疫病により自滅する形でアルプスを越え去っていった。内部の不和と外敵から解放されたベリサリウスはイタリア平定に乗り出す。彼は堅固に城塞化されたラヴェンナに対し、水陸の通路を封鎖、穀倉に放火し、飲料水を汚染して、兵糧攻めを行った。ゴート軍は追いつめられたが、ユスティニアヌスがベリサリウスを無視して講和を交渉、東ゴートの北イタリア支配を認め、戦争継続を不満に思う東ローマの指揮官たちもこれを歓迎する。しかしベリサリウスは、勝利目前での無茶な命令を拒んで攻囲を続行、落胆したゴート軍は降伏し、一応イタリアの平定は遂げられた。しかし540年イタリアの支配が確立せぬうちに、皇帝の嫉妬とペルシアの脅威によりベリサリウスはイタリアから転出させられる。

<ペルシア王ホスローとの戦い>
 この頃ペルシアは東ローマの勢威の伸張に脅威を感じていたが、539年末東ゴートの急使が危機を訴え、東ローマの背後を突くように要請する。ホスローは、後に不死の魂を持つ者と讃えられた文武を兼ね備える英傑であり、540年に自ら軍を率いて出陣、砂漠を横断してシリアに侵入し、多くの戦利品を得て去った。
 ユスティニアヌスはペルシアに対処するため、そして成功への嫉妬からベリサリウスを呼び戻し、541年ベリサリウスは訓練も受けぬ弱兵を率いてペルシア国境に向かった。彼は、ホスローが行方は不明ながら遠征に出たことを闇き、ペルシア領に侵入、ティグリスを越えて部隊を派遺し、アッシリアを攻撃させる。この攻撃は黒海東岸の東ローマの拠点ラジカに進出していたホスローの背後を脅かし、交通線の遮断を恐れたホスローは急遽帰国した。
 この後まもなくベリサリウスはコンスタンティノボリスに呼ぴ戻されたが、翌年ホスローが10万の大軍でシリアヘ侵入すると、再び指揮権を与えられ単身東部戦線に急派された。今回のホスローの遠征は、軍の規模が大きすぎて砂漠越えができず、ユーフラテスに沿いに進んで、北からシリアに侵入するものであったが、ベリサリウスはシリアに入ったホスローの交通線に進出する。ホスローは講和の交渉と称して密偵を送り込むが、彼は巧みな部隊配置と自信に溝ちた態度で、この使節を歎き、自軍を大兵力に見せかける。そのため退路に脅威を感じたホスローは侵攻の継続を断念、ペリサリウスは血を流すことなく帝国の防衛に成功した。だがベリサリウスの再度の勝利はまたもや皇帝の嫉妬を招き、彼はユスティニアヌスの後継者間題に絡む陰謀に加担したとの疑惑を受けて、財産は没収、その身は軟禁される。結局、彼は赦免を得るが、その内容は不名誉なもので、罰金を科されたうえ、感謝を行動で示すために情勢の悪化したイタリアに向かうことを命じられた。

<東ゴート王トティラとの戦い>
 ベリサリウス転出後、イタリアでは部将たちの拙劣な支配によって東ローマは民心を失い、畏敬する敵将の不在で勇気を回復したゴート族は王国の再興に乗り出した。そしてこの頃には、中世最初の騎士とうたわれるトティラ王のもと、東ゴートの勢力はイタリア南部にまで達し、ローマを圧迫、東ローマの部将たちはそれぞれが受け持った都市で身動きがとれずにいた。
 ベリサリウスはこの事態に対処するため544年出征、アドリア海を奥へと進んでラヴェンナに入り、イタリア人を再び従わせるため懸命に説得を行った。しかし説得は効果が無く、そのため彼は皇帝に自軍の弱体と資金調達の困難を訴えて、資金と兵力を送るよう要請する。しかし援軍は得られなかったため、彼は一旦イタリアを離れて緩慢に集められた兵力の到着を待った後、依然として不十分な兵力を率いてティベル川河口を目指して航行した。
 545年にトティラはローマを包囲して兵糧攻めを闘始、飢餓と病のため絶望がローマを支配し、ベリサリウス軍はこれを救うために546年ティベル川を遡って進んだ。トティラはベリサリウスのローマヘの接近を防ぐため、ティベル川に橋と塔によって防御施設を築いたが、ベリサリウスは船団の先頭に巨船をつないでつくった浮き城を押し立てて進み、これによって敵の守る塔を圧倒、さらに火攻めを行って防御施設の突破を図った。しかしローマにいる軍勢が呼応しての出撃を怠ったうえ、河口を守備する部隊が優勢な敵軍の術中に陥り敗北、ベリサリウスは仕方なく港を擁保するために退却し、飢餓に苦しむローマにはこの年の末、内通によってゴート軍が入城した。トティラは5百にまで減っていた市民には寛大に接したが、ローマ市そのものには容赦せず、その破壊に取りかかる。しかしベリサリウスは、トティラに都市の破壊で名誉を汚さぬように忠告、ローマは、城壁は破壊され住民は退去させられたものの、壊滅を免れた。
 トティラはベリサリウス軍監視のためにローマの南に部隊を置き、自らは南イタリアヘと進軍したが、ベリサリウスは監視の部隊を出し抜いて547年ローマに潜入、昔の住民たちも食料を与えられることを期待してローマヘと集まってきた。彼はトティラが戻るまでに市の城壁を修復、再建が間に合わなかった城門には最精鋭を密集させて、トティラの攻撃に傭えた。トティラは直ちに戻ってローマに総攻撃をかけるが、三度にわたる攻撃はベリサリウスに全て退けられ、かえって反撃を受け混乱に陥る。ベリサリウス軍は、ゴート国王の軍旗を脅かすほどの勝利を収め、東ゴートはその最精鋭を失い、トティラの名声は失墜した。この勝利によってベリサリウスには、戦争終結への道が開けたが、この成功にまたもや嫉妬したユスティニアヌスは、彼が繰り返し訴えたにもかかわらず、十分な増援を送ることをしなかった。そのためベリサリウスはイタリアの再征服に乗り出すことができず、このあと沿海部の要塞の間を数年間放浪、トティラの挑戦に応じることなく、攻撃しては逃げるという作戦に徹する。この時期にあっても彼の軍事的手腕は一層冴え渡ったが、困窮の中ではそれまでイタリア住民の親愛の情をつなぎ止めてきた、彼の個人的美徳が発揮される余地はもはやなく、彼の作戦は、未だ支配下にあるラヴェンナやシチリアに対する抑圧によって、辛うじて継続された。
 そして548年、援軍要請のためコンスタンティノポリスに派遺されていた妻のアントニナが彼のもとに帰国の許可を持ち帰り、549年春ベリサリウスはイタリアの地を後にした。

<最後の勝利>
 ベリサリウスはイタリアから帰ると戦闘から身を引き、栄光の蔭でその身を休め、ナルセスによるイタリア征服(552〜555年)に関わることもなく、平穏に暮らしていた。しかし558年厚く凍ったドナウ川を越えてブルガリア人が帝国に侵入、559年にはコンスタンティノポリスに迫った。この頃帝国の軍隊はイタリア、アフリカ、ペルシアの戦線に分散しており、防備の手薄なコンスタンティノポリスは激しく動揺、皇帝と民衆の期待はベリサリウスの一身に注がれる。彼はこの国難に当たって、再び軍の指揮を引き受け、宮廷の馬から競技用の馬にいたるまで徴発し、プルガリア軍に向かった。彼はブルガリア族の進路の両側にある森に伏兵を置いて、自らは3百の古参兵を率いて東ローマ軍の先頭に立つ。ブルガリア族は、伏兵の攻撃で動きが鈍ったところに、ベリサリウスとその古参兵の突撃を受け、最前列が崩壊、逃走していった。こうしてコンスタンティノポリスの危機は去ったが、成功に対する羨望の念から、彼には未だ帝国内に留まるブルガリア族の撃破が禁じられ、ブルガリア族は夏の間を帝国内で過ごした後、ドナウを越えて去った。
 この最後の勝利の後も、ベリサリウスは平穏に過ごし続けることはできなかった。562年にはユスティニアヌスの健康不安から来る混乱のさなかで、皇帝暗殺の陰謀が摘発されるが、彼はこの陰謀に関与したとの嫌疑を受ける。ユスティニアヌスは、40年におよぶ忠勤に対し、財産没収と軟禁で報い、ベリサリウスは7ヶ月間自宅で囚人として過ごす。最後には彼の無罪が承認され、自由と名誉は回復されたが、彼は565年、釈放後8ヶ月にして、おそらくは悲嘆と憤概によって早まった死を迎えたのである。

<おわりに>
 とりあえずベリサリウスの戦歴をたどっただけでずいぶんな量になってしまった。彼の栄光だけでなく、妻に対する見苦しい態度という汚点についても書くべきだったかもしれない。それに時代の流れももう少し押さえておいた方が…。でもまあ、あまり多すぎるのなんだから、この辺でおしまいにしよう。


<参考資料>
ローマ帝国衰亡史6;エドワード・ギボン著 朱牟田夏雄・中野好之訳  筑摩書房
世界戦争史 西洋中世篇1;伊藤政之助著  原書房
戦略論 上;リデル・ハート著 森沢亀鶴訳  原書房
週刊朝日百科 世界の歴史26 5〜6世紀の世界 展望;朝日新聞社
週利朝日百科 世界の歴史28 5〜6世紀の世界 人物;朝日新聞社
世界の歴史11ビザンツとスラブ;井上浩一・栗生沢猛夫著  中央公論社
世界の歴史10西ヨーロッパ世界の形成:佐藤彰一・池上俊一著  中央公論社


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