1999年6月11日
エパメイノンダス  My


<はじめに>
 「ペロポネソス側は笛吹き女たちの伴奏に合わせて、この日こそギリシアの地で自由が始まる日なのだと信じて、熱心に城壁を破壊し始めた。」(クセノポン『ギリシア史』根本英世訳)
 前404年、封鎖を受け飢餓に苦しむアテナイは降伏、ペロポネソス側がアテナイの城壁を破壊してペロポネソス戦争は終結する。だが、この後もギリシアの混乱は止まず、覇権をスパルタからテバイヘと移した後、ギリシアはマケドニアの支配下に入ることになる。今回はペロポネソス戦争後のギリシアに、テバイの覇権を打ち立てたエパメイノンダスを扱う。


<ペロポネソス戦争後のギリシア>
 ペルシアの援助を受けてペロポネソス戦争に勝利したスパルタは、やがて政策を転換してペルシアと交戦する。だがペルシアの工作によって、スパルタの覇権拡大に不満を持つギリシア諸国が結集、ギリシア本土でコリントス戦争(前395〜386年)が起こる。この戦争でアテナイはペルシアの援助により海軍を再興、これに脅威を感じたスパルタは前386年、大王の和約でペルシアとの友好関係を再構築し、反対勢カのカを殺いで、アテナイの孤立化に成功した。そしてこの後、スパルタは敵対的な国の情勢に干渉を行い、自己の地位を強化していく。


<貧乏哲学徒>
 エパメイノンダスは、前420年頃、テバイの貧乏貴族の家に生を受けたが、その先祖は、大地に撤かれた竜の歯から生じた、スパルトイという戦士であったとされる。彼は貧しくはあったがテバイ人として最高水準の教育を受けて育ち、ピュタゴラス派の哲学を愛好して慎み深い生活を送っていた。
 コリントス戦争後、スパルタは諸国への介入を強めるが、前385年にはマンティネイアを攻撃、これにはテバイも援軍を送り、エパメイノンダスも重装兵として参加している。この戦いではスパルタ側の彼の属する一翼が崩れたが、彼は傷を負った親友のペロピダスを守って踏みとどまり、スパルタ軍に助けられるまで戦い抜いた。
 その後、前382年、スパルタはテバイにも介入し、親スパルタ派の説得を受けて町を占領、ペロピダスたち反対派を追放する。この時エパメイノンダスは、哲学を好む生活態度と貧乏から、政治的な危険性はないと判断され、追放を受けずにテバイに留まっている。ペロピダスたちはアテナイに亡命したが、前379年テバイに入り込んで市民を決起させ、テバイで仲間を集めていたエパメイノンダスたちの応援を得て、スパルタ軍から祖国を解放することに成功した。
 解放されたテバイはペロピダスの指導の下、アテナイと結んでスパルタと対抗、スパルタ軍の進攻に際しては会戦を避け、小規模な戦闘を繰り返すことで軍隊を強化、この間に神聖部隊も創設されている。しだいにテバイはスパルタとの戦いを優勢に進めるようになったが、海上でもアテナイの第二次海上同監が制海権を握り、さらにスパルタ国内に政治的不満が広がる。そのため前374年には情勢は講和に傾くが、このときはアテナイ軍とスパルタ軍が衝突してしまう。その後テバイとアテナイは反目しあうようになり、アテナイがスパルタとの講和を望み出したため、前371年に講和会議が開かれた。
 この講和会議に、テバイからはエパメイノンダスが出席、彼はスパルタ王アゲシラオスと衝突した。テバイのボイオティア諸都市に対する支配権の放棄を求めるアゲシラオスに対し、エパメイノンダスは、スパルタもラコニアの諸都市を支配から解放するように要求、怒ったアゲシラオスは講和条約からテバイの名をはずし、孤立したテバイに対して戦争を宣言した。


<スパルタの覇権の崩壌>
1,レウクトラの戦い
 テバイの壊滅に取りかかったスパルタ側は、ボイオティアの西方ポキスに滞在していたクレオンブロトス王が歩兵1万・騎兵1千を率いて出撃、テバイ軍の予測の裏をかいた進路を取り、テバイ市に接近した。テバイ側の指導者たちの意見は早期の決戦と、テバイ市での迎撃に割れるが、エパメイノンダスたちの決戦の主張が通り、レウクトラで会戦が行われることになった。
 戦闘前の状況を見ると、テバイ軍の兵カはスパルタ側の6割にすぎないものの、テバイ側の逃亡者をスパルタ側が陣営に押し戻したため、兵士たちは決戦に向けて覚悟を固めており、これに対してスパルタ側は酒を飲み士気がゆるんでいた。
 両軍の布陣は、スパルタ側が全体を12列の戦闘隊形に組み、右翼に最精鋭であるスパルタ市民兵を配置、これに対してエパメイノンダスは、左翼を圧倒的な兵力集中によって3百名の神聖部隊を先頭とする50列の隊列に組み、敵中枢を破壊するための主カ部隊を形成した。両軍は正面に騎兵を配置、スパルタ軍右翼は、騎兵の激突の背後で、テバイ軍の左側面に向けた迂回を開始する。しかし練度で勝るテバイ騎兵は、優勢な兵力を持つスパルタ騎兵をすぐに撃破、スパルタ騎兵は自軍右翼部隊の左側面になだれ込み、スパルタ軍は混乱に陥る。さらにこの混乱にテバイ騎兵が突撃、これに続いてペロピダス率いる神聖部隊が突入する。スパルタ市民兵は、この混乱の中で驚異的な実力を見せて隊列を維持したが、エパメイノンダス率いる巨大なテバイ左翼部隊による圧迫が加わるとさすがに支え切れず潰走、スパルタ軍中央と左翼もこれを見ると戦闘を交えぬまま敗走した。この戦闘でスパルタ側はクレオンブロトスが戦死、従軍したスパルタ市民兵1千8百のうち半数以上を失った。
 この戦いが終わると、エパメイノンダスはスパルタの同盟国の軍勢には退去を認め、スパルタ兵をレウクトラに閉じ込める。そしてテッサリアからの援軍を得てスパルタ兵の全滅を図るが、スパルタの組織した救援軍が近づいたため、テッサリア軍の勧めを容れて、スパルタ兵の退去を認め、ボイオテイア内での戦闘を回避した。

2.ペロポネソス遠征
 翌370年、エパメイノンダスはペロポネソスに進軍、エリス、アルゴス、アルカディアをスパルタから離反させ、アルカディアでは諸都市の結集を支援してアルカディア連邦を結成、これらの地方の兵カを加えて、その軍勢は5万を越えたといわれる。彼はスパルタ人の奮起を恐れラコニア進軍をためらったが、スパルタ内の不満分子の説得を受けて進攻、スパルタは初めてラコニア内に敵勢を迎えることになった。エパメイノンダスは軍勢を二手に分けて国境を越え、カリュアイで全軍を再結集、エウロタス川を右手に見つつ南進した。このラコニア進攻の最中に、前369年になり彼の指揮権は任期が切れたが、彼はこれを無視、ペロビダスら同僚に対しても自分を見習うように言って、作戦を継続した。
 エパメイノンダスはアミュクライでエウロタス川を渡りスパルタに接近したが、スパルタ市内の要所を固めたアゲシラオスを会戦に誘い出すことができず、沿岸部へと向かい、スパルタの不満分子を味方に加え、スパルタの造船施設のあるギュテイオンに攻撃を加えた。この後エパメイノンダスは、しだいに軍勢の維持が困難になり、アチナイのスパルタ支援も決定されたので、遠征の終了を決める。そして彼は、スパルタに従属させられていたメッセニアを解放してスパルタの国力を半減させ、アルカディアではスパルタに対抗できない弱体な町々を解体してメガロポリスを建設、これらの措置によってスパルタを押さえ込む体制を固めると、帰国の途につく。そしてコリントス地峡を、アテナイ軍の警備の隙をついて通過し、テバイに帰還した。


<テバイの時代>
1.テバイの覇権
 ペロポネソス遠征によってスパルタを抑え、テバイの覇権を打ち立てたエパメイノンダスであったが、帰国した指擦官たちは、指揮権延長を死刑とする法律によって、裁判を受けることになる。だがエパメイノンダスが、政敵の挙げる罪状を認めた後に、祖国と全ギリシアの解放を国民に強制した罪で自分を死刑とする、と宣告するように求めると、裁判官をつとめた人々は誰一人として彼を裁こうとせず、指揮官たちは死刑を免れることになった。彼がこの裁判から解放されると、子犬が尾を振って迎えたが、これを見た彼は、子犬は世話になった恩を返すのに、テバイ人は恩人を死罪にしようとした、と傍らの者たちに漏らしたという。
 そしてエパメイノンダスはこの年に再ぴ遠征を行う。彼はコリントス地峡を固めるスバルタとアテナイの連合軍に、夜明けの無防傭な状態を襲撃して勝利を収めると、シキュオンとペレネを攻略、さらにエピダウロスに進攻した。エピダウロスを荒らした後エパメイノンダスは引き返し、コリントスを攻撃する。だがこの攻撃は退けられ、さらに敵方にシュラクサイからの援軍が加わったため、彼はテバイヘと帰国した。
 前368年、前年の裁判の後もエパメイノンダスに対する誹謗の手をゆるめずにいた彼の政敵たちは、エパメイノンダスの遠征が完全な勝利を得られなかったことに国民が不満を抱いているのを好機として、彼の政界からの追放に成功する。そして、この年にテッサリアで捕らえられたペロピダスを救うため、テバイが軍を送った際には、エパメイノンダスは一兵卒として従軍することになった。この遠征軍はテルモピュライで敵の待ち伏せを受けて全滅の危機に陥り、エパメイノンダスに頼らざるを得なくなつたが、指揮権を委ねられた彼は、見事に軍勢を敵の包囲から救い、帰国へと導いている。翌年にはテバイはエパメイノンダスに軍を授けてテッサリアに派遣、エパメイノンダスは彼の勢威の前に敵が戦意を失うまで戦争を長引かせ、ペロビダスを釈放させることに成功した。

2.テバイの覇権の動揺
 テバイに戻ったペロピダスは、この年ペルシア王のもとに赴きテバイに有利な詔勅の獲得に成功する。そしてテバイはこれによってスパルタとアテナイを抑え、覇権を確立しようとしたが、諸国はこれに反発、しだいにテバイの指導を嫌うようになって来たアルカディアも反抗し、ペロピダスの計画は失敗する。そのためエパメイノンダスは、テバイ側の勢力を強化し、テバイの指導力を強めるため、中立を保っていたアカイアに出兵、彼のもとに嘆願に現れた貴族たちの支配権を認めて、同盟を誓わせる。しかしアルカディアがこれをスパルタを利するものと告発し、テバイ人が貴族たちの追放に乗り出したため、アカイアはスパルタ陣営に立つようになってしまった。
 その後エパメイノンダスは、アテナイが海上で勢カを伸ばしているのを見て、前364年、テバイ人に制海権の掌握を説き、テバイは艦隊を創設、エパメイノンダスに指揮を委ねる。そして前363年に、彼は各地にアテナイからの離反を勧告するとともに、自身は艦隊を率いてヘレスポントスに出撃する。これはテバイ人の行った唯一の海上遠征であり、アテナイ海軍を驚かせたものの、何の戦果を挙げることもできなかった。
 さらにこの年には、周辺諸国と抗争を続け、連邦軍維持の資金繰りに苦しんでいたアルカディアが、戦争の継続をめぐって分裂する。そしてマンティネイアがスパルタと結び、テゲアはテバイの出兵を求めたため、エパメイノンダスはアルカディアに対する出兵を決めた。


<マンティネイアの戦い;テバイの時代の終焉>
 前362年、エパメイノンダスは、同盟国の軍勢を率いてペロポネソス半島に入り、ネメアにおいてアテナイ軍を待ちかまえた。しかしアテナイ軍が陸路をあきらめ、海路をとってスパルタ経由でアルカディアを目指したため、彼もアルカディアに向かい、テゲアに入った。歩兵2万・騎兵2千の敵軍に対し、エパメイノンダスの持つ兵力は歩兵3万・騎兵3千と優越していたが、敵軍はマンティネイア付近の要害を固めていたために、彼は状況の変化を待った。しかし、敵はスパルタ全軍が揃うのを待って要害から動こうとせず、味方が増える様子もないため、エパメイノンダスはそのまま時を過ごすことに危機感を抱いていたが、そこにアゲシラオス率いる軍勢がスパルタを出てペレネに達したとの知らせが届く。そして、これを聞いたエパメイノンダスは、1万5千の兵力を率いて直ちにスパルタに向かった。
 夜中に出発したエパメイノンダスは、軍勢が出払った状態のスパルタを襲うため、昼夜兼行で進んだが、運良くその接近を知ったアゲシラオスは、スパルタ市に警告を発すると共に、エパメイノンダスの到着前に帰来、街の警備につく。エパメイノンダスは攻撃に有利な高所を占めてスパルタ市に攻めかかったが、スパルタ側は、わずか百名の老兵が先頭に立って攻撃を支え、これを見た全軍が奮起、エパメイノンダスの撃退に成功した。エパメイノンダスは勢いづいたスパルタ側の追撃を退けると、スパルタ軍が全軍集結する前に戦争の決着をつけるため、急いでテゲアに戻り、騎兵隊を使ってマンティネイアの街を急襲した。しかしこの攻撃はアテナイ騎兵の来援によって失敗、エパメイノンダスは失態を穴埋めするために、決戦に乗り出すことにした。
 テゲアを出発したエパメイノンダスは、最初は敵陣営に向かって最短経路をとって進んだ。敵軍はエパメイノンダスの進路に面して戦闘隊形をとったが、彼は敵軍に接近すると、突如左に進路を変え、山地へと入っていった。彼はそこで宿営に向かうような動きを見せて進み、敵の隊列を弛緩させたが、その一方で自分の位置する正面に兵力を集中する。そして強力な突撃部を形成すると、エパメイノンダスは軍勢を、戦闘準備を解いた敵軍の方へと向けた。彼は、敵の中央および左翼に対時する脆弱な部隊を後方に置いたまま、自身は突撃部を率いて敵右翼に向かい、敵左翼正面にはいくつかの歩騎混成部隊をおいてその動きを牽制する。テバイ側の左翼突撃部は、軽歩兵を伴った騎兵の突撃が敵騎兵隊を破ると、それに続いて敵右翼を制圧した。これによって敵全軍は潰走していったが、エパメイノンダスが負傷して戦列から運び出されると、テバイ側の軍勢は勝利を十分に活かすことができず追撃に失敗、完全な勝利を得ることはできなかった。戦列から運び出されたエパメイノンダスは、傷の痛みの中、戦いの行方を見守りつつ、彼に代わって指揮を執ることのできる人物を捜したが、そのような人物は戦死して残っていないことを知り、敵と講和するよう言い残して死んだ。
 全ギリシアが相まみえたこの戦いが、ギリシアに安定をもたらすことはなかった。テバイは勝利を収めたものの、エパメイノンダスを失ったことで、覇権を維持することができなくなり、ギリシアはこの後も混乱を続ける。
 「ギリシアの混乱と騒乱は、戦前よりも戦後のほうが、ずっと大きくなった。」(クセノポン『ギリシア史』根本英世訳)


<おわりに>
今回のレジュメはかけた時間と労カのわりに、量が少なくなってしまった。でも今日は新歓コンパ、だから、少なくても、多分、誰も、文句は言わない…だろう。


<参考資料> プルターク英雄伝(四)・(八)ほか;河野與一訳  岩波文庫
ギリシア奇談集;アイリアノス著 松平千秋、中務哲朗訳  岩波文庫
アポロドーロス ギリシア神話;高津春繁訳  岩波文庫
ギリシア史1・2;クセノポン著 根本英世訳  京都大学学術出版会
地中海世界史;トログス著 ユスティヌス抄録 合阪學訳  京都大学学術出版会
ギリシア記;パウサニアス著 飯尾都人訳  龍溪書舎
英雄伝;ネポス著 上村健二、山下太郎訳  国文社
戦略論 上;リデル・ハート著 森沢亀鶴訳  原書房
世界戦争史1 西洋古代篇I;伊藤政之助著  原書房
古代ギリシア人名辞典;ダイアナ・バウダー著 豊岡和二ほか訳  原書房
戦争の起源;アーサー・フェリル著 鈴木主税、石原正毅訳  河出書房新社
世界の歴史5 ギリシアとローマ:桜井万里子、本村凌二著  中央公論社


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