1999年10月15日
ウランバートル都市史  JW


〔モンゴル仏教の流れ〕
 モンゴルの首都、そして最大の都市ウランバートル。この都市の発展の段階には、モンゴル仏教の大いなる影響があった。ウランバートルの都市史に触れる前に、モンゴル仏教の流れについて見てみたい。

●モンゴル帝国期
 アジアにおける仏教の勢力圏を考えてみると、モンゴルはチベット仏教圏の北端に位置している。そもそもチベットの仏教は、インドの後期大乗仏教に起源をもち、吐蕃王国時代に本格的に導入された。9世紀半ぱ以降、吐蕃が勢力を失うとともに、仏教勢力も一時姿を消すが、11世紀頃から、特定の氏族と結びついた「氏族教団」が次々に現れはじめる。13世紀の半ば、モンゴルが接したのは、こうして復興した仏教教団であった。そのなかでもサキャ派がまずモンゴルと深く強く結びついた。とりわけ、クビライは、パスパのチベット仏教思想を通じて、「仏教の世界」に君臨しようとした。そして、パスパ率いるサキャ派は、モンゴルの支援をのもとで発展した。

●ポスト・モンゴル帝国期
 クビライ以降、アジア東方の広大な領域を支配した大元ウルスも、14世紀に入ると、陰りが見えるようになった。中国各地の反乱勢力の中から頭角をあらわした明の太祖朱元璋が江南を統一し、北上を開始した。これに対し、トゴン・テムル(順帝)は、対決を避けて大都を離れ、南モンゴルに移った。これ以降、モンゴルは、もっぱらモンゴル高原にその活動の場を移すことになる。モンゴル時代が終わり、サキャ派の優位が崩れた後、チベットには転生による活仏制を採用するゲルク派が誕生する。南モンゴルのアルタン・カーンは、1575年にチベット仏教ゲルク派の高僧ソナム・ギャンツォにダライ・ラマの称号を授け、この派のチベット仏教を信奉し、施主となることを宣言した。これにより、アルタン・カーンは、チベット仏教の外護者としての権威を獲得し、ゲルク派はチベットにおける地歩を固めた。更に、1585年、北モンゴルのアバダイ・カーンは、オルホン河流域の地にチベット仏教サキャ派の僧侶を招き、エルデニ・ゾー寺院を建立した。この二つの事件は、どちらもモンゴル帝国時代の繁栄を復活させようという意図が読み取られる。「ダライ」というモンゴル語の称号は、13世紀、モンゴル帝国第三代カーンのグユクが自ら称した「ダライ・カン」(海内の統治者)を復活させたものであったし、エルデニ・ゾー寺院がっくられたオルホン河流域は、テュルクの時代からモンゴル帝国時代に至るまで、北アジアの遊牧民にとって、いわゆる「ゆりかご」であったかららだ。

●活仏の誕生
 程無くして今度はモンゴル人自身のなかからチベット仏教の活仏が誕生し、モンゴルは自ら宗教者としての権威をも身につける。それが、ハルハ地方の活仏第一世ジェブツンダムバ・ホトクト一世(1635-1723)である。彼は、エルデニ・ゾー寺院を建立したアバダイの曾孫である。チベット仏教の高僧ターラナータの化身として生まれ、後ゲルク派の五世ダライのもとに赴き、その後この派に改宗した。以後、モンゴルではゲルク派が圧倒的優勢を保つことになった。


〔高原の移動都市〕
 ウランバートルは、トーラ河とセルベ河のほとりにある。この都市は、四つの段階を経てその礎が築かれた。この四つの段階は全て、ハルハ地方最大の活仏であったジェブツンダムバ・ホトクトのゲル寺院の動きと関連したものであった。

●活仏の登位(1639〜)
 モンゴルの史書『エルデニィン・エルヘ』によると、1635年に生まれたザナバザル、すなわち初代ジェブツンダムバは、1639年、五歳のときに、「ゲゲーン」という称号を贈られた。ハルハ地方初の活仏の誕生である。このとき、同時にゲルの寺院が建てられた。このゲル寺院は、モンゴル語で「オルゴー」と呼ばれる。1924年にウランバートルと正式の名称が定められるまで、ロシア人がこの都市を「ウルガ」と呼んでいたのは、「オルゴー」が訛ったものである。ウランバートルの前身であるオルゴーをジェブツンダムバ・ホトクトの居所と考えれば、市の起源は1639年のオルゴーの設立と見なすことができるだろう。しかし、実際には初代活仏のオルゴーは、オルホン河流域、エルデニ・ゾー僧院の近辺で移動をしていたらしく、トーラ、セルベ河畔の現在の地にやってきたのは、18世紀以降のことであった。

●初の固定寺院(1680〜)
 第二段階は、現在のウランバートルの北東105キロ、ヘンティ山中に1654年に着手され、1680年に落成したリボゲジャイ・ガンダンシャドブリン寺院である。モンゴル人研究者の調査によると、ヘンティ山脈中に「サリダギィン・ヒード」と呼ばれる廃寺があり、現地の伝承によると、この廃寺がリボゲジャイ・ガンダンシャドブリン寺院であるという。確たる証拠は乏しいが、これがザナバザルの最初の固定寺院であった可能性は高い。しかし、1687年にハルハとオイラトの抗争が起こり、オイラトのガルダンの攻撃を受けて、ザナバザルは内モンゴルに退避し、この寺院も焼失した。1691年、ハルハ諸部が清朝に下って清の援助を求め、これに応えて、清の康熙帝はモンゴル高原に親征し、1696年にトーラ河流域のゾーン・モドの地でガルダンを破った。追いつめられたガルダンは翌年自殺したため、ハルハ諸部は故地に戻ることができた。

●移動寺院から都市へ(1706〜)
 1700年にハルハに戻ったザナバザルは、サリダギィン・ヒードの地に再び本拠を構えようとせず、1706年、オルホン河流域の「ツェツェルレグのエルデネ・トルゴイ」という場所にリボゲジャイ・ガンダンシャドブリン寺院を移した。これ以降、活仏のゲル寺院は三十数年の間に、17回移動を繰り返し、次第にその規模を大きくしていく。それゆえ、1706年はウランバートルの第三の礎の年と見なされている。18世紀になると、ザナバザルのゲル寺院はハルハ地方における宗教の中心だけでなく、政治的・経済的な中心としての性格をも獲得しはじめた。1707年・寺院の管長たるハンボ、寺院行政を行うダーラマが定められ、1723年には、ゲル寺院に住む僧侶・俗人・ザナバザルのシャビナル(活仏直属の民)を管理するために、「エルデネ・シャンザトバ衙門」が置かれた。それまで、寺院財政の管理はハルハの領主たちが行っていたのであるが、この頃には独立採算が可能なほど経済力を持ちはじめていたのである。また、1758年には清朝より辧事大臣が駐屯するようになり、ロシアと清との中継地としてこの地の持つ戦略的重要性が認識されるようになった。同時に、漢人商人にとってもこの地は対ロシア貿易の中継地として注目されはじめた。

●定住都市化の開始(1778〜)
 こうして活仏の移動寺院は、都市としての性格を一歩ずつ帯びていった。1778年、セルベ河畔に移動してきた活仏の移動寺院は、以後しぱらく居を移さず、この間に現在のウランバートルの街区が形成された。これが第四の礎で、現在のウランバートルの直接の起源である。


〔宗教都市イフ・フレー〕
 17世紀、チベット仏教の隆盛とともに移動寺院がモンゴルに誕生したとき、人々はこれをクリエンの口語形「フレー」と呼んだ。クリエンとは、モンゴル帝国時代、遊牧集団が野営のためにつくった円陣のことである。かっての遊牧集団の長は、寺院の活仏に取って替わられたのである。モンゴル各地に移動寺院「フレー」が誕生したなかで、最大規模を誇っていたウランバートルの前身は、やがて、「大きなフレー」すなわち「イフ・フレー」と呼ばれるようになった。

●往時のイフ・フレー
 ジェブツンダムバ・ホトクトの移動寺院は、18世紀に入ってからもオルホン河流域からトーラ河流域にかけての広大な地域を移動し続けていが、1778年にセルベ河流域の現在のウランバートルの地に移動してからは60年間その地に留まった。この間に数多くの固定家屋、木造寺院、漢人商人居住区がつくられたため、1836〜39年に小規模な移動を行った際にも、これらの固定建築物は残されたままであった。もはや活仏の寺院は移動の自由を失ったも同然だった。1855年、最後の移動によってセルベ河流域に戻った活仏のゲル寺院は、以後、移動することなく、現在に至ることになる。
 ところで、移動を続けていた活仏の寺院が、最終的にトーラ河畔の現在のウランバートルの地に落ち着いた理由は、よく分からない。トーラ河流域が、古くはテュルク(突厥)の時代から良質な草原地帯として知られていたこと。1724年に転生したジェブツンダムバ二世の生地が、トーラ河流域のオゴームルだったということだろうか。いずれにせよ、活仏の移動寺院がトーラ河流域に留まるようになると、二世活仏の移動寺院がセルベ河畔にあった1748年にドゥンコル・マンジュシリ寺院が建立され、三世活仏の移動寺院がセルベ河畔にやってきた1765年にはダムバダルジャー寺院が建立されるなど、トーラ・セルベ河流域は、次第にハルハにおける仏教の中心と化していった。

●ズーン・フレーの発展
 かって、イフ・フレーの中心部には活仏の宮殿と、それをとりまく三○の街区があり、西のガンダン寺に対して「ズーン・フレー」(東のフレー)と呼ばれていた。1855年にイフ・フレーが現在の地に定着してから1921年の人民革命に至るまで、ズーン・フレーは一貫して都市の中心として発展してきた。その繁栄の様子は、仏画師ジュグデルの描いた1912年当時のイフ・フレーの都市図によって窺い知ることができる。ズーン・フレーの中心にはジェブツンダムバの宮殿伽藍があり、その西側に張られていたハルハのアバダイ・カーンの巨大な天幕宮殿だけは再建され、現在、ゲル博物館となっている。イフ・フレーは、宮殿伽藍を取り巻くように、三○のアイマグ(僧坊)が配置されていて、そのまわりを俗人や商人の街区が取り囲むという構造になっていた。三○のアイマグは、数千の僧侶を擁するものもあれば、40〜80人の僧侶から成るものもあった。1868年の報告では、東西2300m、南北1980mに及び、1万人余りの僧侶が居住していた。

●宗教都市から国際都市へ
 19世紀半ばのイフ・フレーの総人口は、1万5000〜2万人だったようである。イフ・フレーは、純粋な宗教都市として発足したわけだから、当初入ることを許された俗人は、「イフ・シャビ」といわれるジェブツンダムバ直属の牧畜民だけであった。しかし、19世紀半ぱ頃からは、参拝者がそのまま住みついたり、漢人商人が新たな街区を形成するといったかたちで、俗人の数が増えはじめた。漢人商人の街区はイフ・フレーの東方五キロの地点につくられ、「エルベグ・アムガラント・ガツァー」と名付けられたが、一般には「ナイマーホト」(売買城)の名で呼ばれていた。ナイマーホトは四方に城門を有する中国式の城郭都市で、1807年の時点ですでに800の固定家屋をもち、4000人が住んでいた。現在、ナイマーホトの城壁はかろうじて一部が残されているだけである。1855年に現在の位置に戻ってからは、イフ・フレーは中央にアイマグ、周辺に俗人地区と商人街、西方にガンダン寺、東方に漢人のナイマーホトという区画を持った。宗教・商業・行政の複合した国際都市としての性格を強めていったのである。


〔清朝滅亡〕
●清朝末期のモンゴル
 内モンゴルは満洲皇帝の支配を受け入れていた。清朝のモンゴル支配の基礎となったのは、「旗」であり、それぞれが清朝の統制を受けていた。内モンゴルではモンゴル族の再統合を警戒して旗の編成がかなり厳格に実施されたのに対して、外モンゴルでは比較的寛大な編成となった。だが、清朝の権力によって、兵力を固定されるという状況は、モンゴル人自身の能動性を束縛したといえる。モンゴル騎馬軍団と満洲族の軍事力は強大であるが、19世紀以降、ヨーロッパでの軍事技術を知る清朝にとって、それはほとんど意味のないものとなっていた。更に、モンゴルの遊牧杜会は、富の蓄積という点では、構造が弱く、清朝統治下に入るとともに、漢人商人が大量にモンゴルヘ進出し、商業網を作り上げ、モンゴルは漢人商人の経済的支配に従属することになった。内モンゴルの中国本土に近い地域には、19世紀から大規模な漢人農民の入植が始まり、モンゴル牧地は次第に蚕食され、土地の荒廃も進んだ。これらのことが背景となり、モンゴル人と漢人移入者の敵対関係、紛争も発生した。
 モンゴル人が満洲人皇帝の支配を受け入れたときの論理は、本来ハーンにより支配されるべきところを、満洲人皇帝に置き換え、その保護のもとに伝統的社会構造なり独自の文化や信仰を守るというものであった。ところが、漢人官僚の台頭に見られる清朝の変容、それとともにモンゴルが目の当りにしているモンゴル社会の変化は、清朝に対する不信を次第にモンゴル人に抱かせた。このようなモンゴル人の動きを決定的にしたのが、20世紀に入ってからの清朝の政策である。清朝にとって、モンゴル経営は利益をもたらすよりも、財政的な負担を余儀なくさせるものであった。清朝は、抜本的なモンゴル経営の再検討、またロシアや日本の進出に対抗し、その辺境防衛の観点から、モンゴル支配政策の転換を目指した。このような清朝の動きは、モンゴル人の自らの生活環境や価値体系への危機感を高めさせた。新政策の実施に、モンゴル側は抵抗し、1911年夏、八世ジェブツンダムバ・ホトクトのダンシグ(長寿を祝う式典)において、王公・官吏・活仏らはイフ・フレーに集まり、満洲政権に反対し、モンゴル国の独立を協議した。そして、ジェブツンダムバとハルハ地方の四大王公連名による密書を持った使者がペテルブルクヘと向かった。密書の内容は、基本的には新政策を停止させるためロシアの清朝への圧力を求めたものであったが、モンゴル側にはこの際ロシアの援助のもと独立を目指す動きも見られた。モンゴル使者団を受け入れたロシアはモンゴルの独立を援助する意志は全くなく、ただ新政策が実行されると露清国境の軍事バランスが崩れることに注目した。結局ロシアの申し入れにより、清朝は新政策実施を停止した。そしてまさにそのとき、辛亥革命が勃発したのである。

●ボグド・ハーン政権
 モンゴルも、混乱の中で、辛亥革命つまり清朝体制の崩壊という新たな事態に直面し、独立へと進む。モンゴルの独立に関する論理は、清朝皇帝をモンゴルのハーンとして戴き、満洲人皇帝とモンゴル王公との主従関係により両者の関係は規定されるものであって、その従属の対象であった満洲人皇帝が消滅した以上、モンゴル人は行動の自由を持つというものであった。
 1911年12月、八世ジェブツンダムバは独立を宣言し、「ハルハ臨時最高府」が設立された。そして、清朝の辧事大臣サンドに最後通牒を突き付けた。ジェブツンダムバをモンゴル国ハーン位に推戴する式典は、辛亥年冬中月初旬九日(1911年12月9日)にイフ・フレーの中央シャル宮殿にて執り行われた。その様子は、この式典を実際に目撃したモンゴル人作家ナワーンナムジルの『老書記の回想』に詳しい。この日、ジェブツンダムバは「宗教を栄えさせ、衆生を喜ばせる共戴モンゴル国の元首、政府を掌握する者、日光ボグド・ハーン」に、妃のエルデネ・セツェン・ツァガーン・ダリは「オルスィン・エヘ(国の母)」に推戴され、元号を「共戴」と命名、イフ・フレーを「ニースレル・フレー」と改名した。そして、内務、外務、大蔵、司法、軍務の五省と総理大臣が設置され、まがりなりにも上下両院が置かれた。同時期、ダライ・ラマと清朝皇帝との関係を、チベット教団と施主との関係でとらえていて、数少ない独立の機会を失ったチベットとは対照的であった。
 こうして、「モンゴル辛亥革命」を起こし、モンゴルは法治国家として独立を宣言した。しかし独立の行方は、ロシアと中国という二つの大帝国が握っていた。ロシアは初め、ボグド・ハーン政権と袁世凱政権との仲介を試みたが、それが不可能と知ると、まず日本との間に、内モンゴルでの勢力範囲を確定したうえで、問題の最終解決目標を、中華民国の宗主権下での外モンゴルに限定した領域におけるボグド・ハーン政権の自治に定めた。そしてボグド・ハーン政権の自治を認めた協定をモンゴルと締結したうえで、北京政権と外モンゴルの中華民国宗主権を確認する合意をまとめた。最終的に1915年、キャフタ条約を締結した。その内容は、ロシアはモンゴルを中国の自治領であると承認し、中国は外モンゴルだけに自治を許し、外モンゴルに関する問題はロシアと協議して決定することを約束したものであった。こうして、モンゴル国は独立を取り消され、ロシアは目論見を達成、外モンゴルでの大幅な経済権益獲得にも成功する。もっとも、この交渉過程で、全モンゴル民族独立と再統合を目指すボグド・ハーン政権は激しく抵抗し、与えられる自治の定義と範囲に関してくりかえし確認を求めている。このようにして、清朝政権崩壊の後、中華民国体制下における地域秩序の再構築と当事者による確認という問題で、モンゴルについては合意が成立した。
 ところで、ボグド・ハーン政権の領域が、結果的に外モンゴルに限定された背景には、まず当時の国際関係、特に日露関係がある。日本は南満洲、そして東部内蒙古に関心を示し・対外観に「満蒙問題」が形成された。モンゴル問題の収拾にあたり、ロシアが最も神経を払ったのが日本の動向である。日露協商に従って、ロシアはまず日本との間で内モンゴルにおける勢力範囲が画定され、ついでロシアによる本格的な外交交渉が展開された。つまり、ロシアにとってボグド・ハーン政権の領域に、内モンゴルを入れることは考慮の対象外であった。反対に、ボグド・ハーン政権は、さかんに日本に接触を求めるが、日本は対応を一貫して拒否した。しかしこれだけが原因ではない。中国本土に近い内モンゴルに対しては、袁世凱政権は積極的威圧策に出た。これらの要因が相乗して、結果として内外モンゴル合併は失敗した。

●人民政府の樹立
 1915年のキャフタ協定により、中華民国宗主権下でのボグド・ハーン政権による外モンゴル自治が承認された。しかもこの体制を支えていたのはロシアの存在であった。ところが1917年のロシア革命により、ロシア帝国は崩壊した。このような情勢を見て、北京政権は主権の回復を目指し、19年、外モンゴル自治を撤廃した。このころロシアは連合国軍の干渉で大混乱の中にあったが、シベリアにいた反ボリシェヴィキ派のアタマン・セミョーノフは、日本軍の支援も受けて、全モンゴルの独立を目指す「大モンゴル国」構想を掲げ、モンゴルに接近を試みた。セミョーノフは失脚するが、その部下、白軍ウンゲルン・シュテルンベルグ男爵は、20年モンゴルに侵入し、ボグド・ハーン政権を再興するとともに、反革命の拠点としようとした。しかし彼は数々の圧政を行い、民衆は離反した。これに対して、モンゴル人革命グルーブは、同年スフーバートル、チョイバルサンらが中心となって、モンゴル人民革命党を結成し、ソヴィエトの援助によりモンゴルの解放、社会変革を目指した。ソヴィエトないしコミンテルンが警戒したのは、中国及び日本の反応であったが、日本軍の撤退が明らかになると、モンゴルにおける革命を支援するため、軍事介入の方針を決定した。モンゴル人民革命党は、21年、ソヴィエト赤軍、極東共和国軍に援護されながらモンゴルヘ進撃し、ウンゲルン軍を撃破、二ースレル・フレーを解放し、ジェブツンダムバ・ホトクトを元首とするモンゴル人民政府を樹立した。人民政府はソヴィエト政府との間で友好協定を締結し、独立合法政権として相互承認した。
 ソヴィエトによるモンゴルヘの軍事介入は、当然のことながら中国からの強い反発を招いた。また、日本、欧米諸国も「モンゴル革命」に対して極めて猜疑の目を向けたのも事実である。モンゴル問題に関する中ソ交渉は、両国の最大の懸案であったが、ヨーロッパ諸国のソ連承認、中国国民党の「連ソ容共」政策などの情勢の変化もあり、24年、交渉は妥結し、その協定の中でソ連は「外モンゴルが中華民国の構成要素」であること、「外モンゴルヘの中国主権」を認めた。キャフタ協定で認められている中華民国の権利が「宗主権」であったことを思うと、この中ソ協定でソ連は後退したような印象を受ける。それ以上に21年にモンゴルと締結した協定と明らかに矛盾する内容である。しかしソ連は当時分裂状態にあった中国がモンゴル問題で有効な対応策をとれないことを熟知しており、譲歩することで中国と妥協する一方で、モンゴルの社会主義的改造に力を入れた。
 1924年、八世ジェブツンダムバが亡くなったことを契機に、モンゴルは人民共和国となり、社会主義革命路線を歩みはじめ、当時、ソ連以外の唯一の社会主義国となった。活仏を元首とする政教合一政権の時代はわずか十年余りで終焉を迎えたわけである。一方、内モンゴルではこの革命の影響を受けて、自治運動が展開され、特に内モンゴル人民革命党の活動は、モンゴルは人民共和国、ソ連、馮玉祥との提携のもとに行われたが、結局中国における「国共分裂」の影響で解体した。


〔ウランバートルの時代〕
●社会主義国の首都として
 1924年にモンゴルが人民共和国制に移行し、イフ・フレーはウランバートルと改称された。ウランバートルとはモンゴル語で赤い英雄という意味である。しかし、都市そのものにすぐに大きな変化が起きたわけではない。ウランバートルはあいかわらず宗教都市そのものであった。都市生活に転機が訪れたのは、政府が旧王公や領主の私有財産を強制没収し、商人や僧侶の選挙権を剥奪したときである。このころより政府は急進的な社会主義政策をとる方向に転じ、宗教色は一掃された。
 30年代に入ると、新たな事態が出現する。日本の中国東北地域に対する侵略である。日本は「満洲国」を建国、その中には内モンゴル東部も含まれている。当然、モンゴル人民共和国とソ連は、このような日本の侵略に脅威を感じた。両国は36年に相互援助議定書に調印し、先の中ソ協定で一旦撤退したソヴィエト軍は、日本に共同して対抗するため、37年再びモンゴルヘ進駐した。国内では、急速な社会主義化がはかられるとともに、30年代後半には、「スターリン粛清」の影響で、チョイバルサンが多くの人々を「ブルジョア民族主義者」の名目で粛清した。こうした中で、39年に満洲国とモンゴル国境のハルハ河で武力衝突が発生(ハルハ河戦争)、ソ連・モンゴル両軍は日本軍を撃退した。
 一方、内モンゴル西部では、王公であるデムチュクドンロブ(徳王)を中心に、新たに蒋介石政権に反対する自治要求運動が起こっていた。この動きに注目したのが、日本の軍部であった。関東軍の支持のもと、37年、デムチュクドンロブは蒙古連盟自治政府を組織し、ついで39年、日本の傀儡政権である察南、晋北両自治政府と合併し、蒙古連合自治政府を成立させた。デムチュクドンロブは内モンゴルの統一を構成していたようだが、人口の圧倒的多数は漢人が占め、内モンゴル東部は満洲国に編入されているなど、矛盾に満ちた存在で、実態としては日本の一傀儡政権に過ぎなかった。日本の敗戦が近づくと、デムチュクドンロブは蒋政権やモンゴル人民共和国との接触を試みたが、日本の敗戦とともに政権は崩壊した。
 このようなことで、1925年にウランバートル全人口約61,000人の32%を占めていた僧侶たちは、1935年には半減し、1940年には都市人口3万人余りのうち、残った僧侶は1600人ほどで、それも全て還俗を余儀なくされ、宗教活動を続けられなくなっていた。こうして、1940年のウランバートルは、宗教都市としての面影をすっかり失った。新たな都市づくりが始まるのは第二次世界大戦が終わるのを待たねぱならなかった。

●建設の時
1945年、第二次大戦の終了、それに続く世界情勢の変化は、モンゴルに大きな影響を与えた。大戦前、モンゴルは実質的には独立国家ではあったものの、ソ連の他に承認する国家はなかった。モンゴルがある程度の国際的認知を受けるためには、ソ連が超大国として世界政治に登場すること、社会主義諸国の国家が増えること、中国とは再接合不可能なほど、国家建設が進んでいることが、必須の条件であった。45年以降、この条件を満たす環境が出来上がっていた。ソ連はヤルタ会談で、アメリカ・イギリスからモンゴル人民共和国の現状維持への同意を取りつけ、次いでモンゴルで行われた国民投票では、反対零票で独立が支持された。この結果、46年中国もモンゴルの独立を承認した。
 ウランバートルの都市計画も本格的に実現に移された。市の中心部にスフバートル広場、東北部にモンゴル国立大学、東部に国立中央劇場、南部に外務省と中央病院、西部に映画劇場とアルタイ・ホテル、北部に政府庁舎が建てられた。これらの建物の建築には、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)から第二次大戦によってソ連の捕虜にされ抑留された日本人も動員された。
 内モンゴルに関しては、モンゴル人中国共産党員、ウラーンフーの指導により46年、内モンゴルの統一のための会議が開かれ、47年、内モンゴル自治区人民政府が成立した。これは、中国共産党の政治指導のもとで、内モンゴルの地域統合が達成されたことを意味する。
 52年、チョイバルサンを継いで首相となったのはツェデンバルは、社会主義化の完成を目指し、ネグデル(ソ連のコルホーズに相当)による遊牧の集団化、ソ連式学校教育制度の導入とキリル文字による識字教育の徹底など、経済・文化政策を推し進めた。60年代に入り、中ソ対立、「文化大革命」といった状況の中で、モンゴル人民共和国はますますソ連への傾斜を強めた。また72年には、日本との外交関係を樹立させた。

●これからのウランバートル
 80年代後半、ヨーロッパ社会主義諸国の崩壊の波は、モンゴルにも影響を与えた。89年末、ソ連のペレストロイカの影響を受けてモンゴルで民主化運動が始まり、翌年、モンゴル人民革命党は早くも一党独裁を放棄し、その結果、与野党連立政権が誕生した。民主化とともに社会主義計画経済も市場経済制に移行した。92年には新憲法が施行され、国名が「モンゴル・ウルス」と改められた。また、仏教の復興やウイグル文字の復活に見られるような歴史的伝統への評価も進んでいる。この新憲法により宗教活動の自由が保証され、1930年代の大粛清以来、破壊されていた多くの寺院が再建され、還俗を余儀なくされていた僧侶たちが寺に戻りはじめている。民主化によってモンゴル仏教は復活したが、ウランバートルは宗教都市としての機能を失ったままであり、寺院の中心にいたジェブツンダムバは、八世が死去したあとの九世活仏は存在しない。
 モンゴル民族やチベット民族の歩みを考えると、「中国」という概念が浮かび上がる。清朝が滅亡したとき、彼らはそれぞれの新たなる方向を模索した。結果的に、外モンゴルのモンゴル人は「中国」という概念を拒絶し、自らの独立を達成した。一方、内モンゴルのモンゴル人は「中国」という概念を受け入れて、その枠組みの中で、地域的統合を作り上げた。チベットについては、いまだ解決策を見出していないのである。
 1996年現在、ウランバートルはモンゴル国全人口の約4分の1にあたる63万人が居住する。宗教都市としての求心力は失ったが、それでも草原都市として、牧民の憧れの的であり続けている。モンゴル人は、草原都市の象徴として、ジンギス・カンの再来を待っているのだろうか。それとも、政教をあわせ持つ活仏の転生を期待しているか。いずれにしても、新生モンゴルの未来を見守っていきたい。


〔参考文献〕
●中見立夫  『内陸アジア』  朝日新聞社
●小貫雅男  『モンゴル現代史』  山川出版社
●小澤重男 鯉渕信一  『モンゴルという国』  読売新聞社
●松川節  『図説モンゴル歴史紀行』  河出書房新社
●ドーソン  『モンゴル帝国史』  平凡社
●下中邦彦  『アジア歴史事典』  平凡社


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