1999年10月22日
アレクサンドロス  My


<はじめに>
 歴史上最大の人物の一人であるアレクサンドロス大王。この人物は日本では「大王」の尊称ばかりが先走り、その名前ほどには業績が知られていないように見える。今回は彼の一生を見ていきたい。
 ただし歴研らしからぬメジャーなテーマなため情報量が多すぎ、その全てを扱うことはできずに偏りのある内容になっている。勘弁していただきたい。

<ピリッポスの子>
 前4世紀前半マケドニアは混乱衰退の極みにあったが、前359年に王位についたピリッポス2世のもとで急速に強大化して行く。前356年夏には、ピリッポスはポテイダイアの占領に成功、オリュンピアの祭典において彼の競走馬が優勝し、重臣パルメニオンが、マケドニアを苦しめていたイリュリアを征服する。そしてピリッポスの周囲に勝利が相次いだこの時期に誕生した王子がアレクサンドロスである。
 ピリッポスは各地を転戦して戦陣にあることが多く、アレクサンドロスの幼時の教育は、母オリュンピアスの強い影響下に行われた。オリュンピアスは隣国エペイロス王家の出身、激しい性格で、密儀宗教に入信してつよく神がかり、アレクサンドロスをピリッポスではなく、蛇に化したアモン神との子である語っていた。この母親との密接な関係の中で、アレクサンドロスは夢想的で衝動的な激しい人格を形成し、行動に際しては常に、父方の先祖ヘラクレスや母方の先祖アキレウスなど、神々や英雄たちを意識するようになる。だがその一方で彼は、子供ながら、誰も御することのできなかった荒馬ブケパラスを乗りこなし、ペルシアの内情に関心を向けるなど、軍事的、政治的な才能の片鱗を幼くして示しており、ピリッポスは息子の才能について、マケドニアは狭すぎると感嘆している。そして、前343年、ピリッポスはアリストテレスを家庭教師として招く。アレクサンドロスは彼のもと、三年間学ぶことになり、倫理学や政治学の教えを受けただけでなく、一般には公にされない秘密の教えをも授けられたという。
 前340年、ピリッポスは十六歳の息子を宮廷に呼び戻し、ヘレスポントス方面への出征に際して彼に政務を委ねたが、この時アレクサンドロスは反乱を討って初陣を飾っている。一方ピリッポスのヘレスポントス方面での作戦はアテナイとの戦争を招き、双方の軍事活動が長引く裏で、決戦へ向けての政略が展開されて行く。そして、この間ピリッポスは、アレクサンドロスを自分のもとに呼び寄せ軍事的な教育を施し、前338年のカイロネイアの戦いでは、マケドニア軍左翼に配置された騎兵隊の指揮官としてアレクサンドロスが登場する。この戦いでマケドニア軍は、アテナイ・テバイ連合軍に大勝するが、アレクサンドロスによる巧みな騎兵攻撃は勝利を決定的にするものであった。
 カイロネイアでの勝利によってギリシアを屈服させたピリッポスは、アレクサンドロスを送ってアテナイに戦死者の遺骨を届けるなど、勝利の喜びをかくしてギリシア諸国に臨んだ。彼はペルシア遠征の総司令官として、スパルタを除いたギリシア諸国を指揮することになり、自分のことをギリシアの将軍と呼ばせたが、マケドニア人はかわりに見事な戦功を立てたアレクサンドロスを王と呼んだ。ピリッポスもこれを喜び、アレクサンドロスを非常にかわいがったという。

<対立:父と子>
 だが、偉大な父と優れた息子の関係は前337年、破綻を迎える。この年ペルシア遠征を間近に控えたピリッポスは、七人目の妻にして初めて、マケドニアの大貴族から妻を娶る。婚礼の席上花嫁の叔父のアッタロスは、この結婚から世継ぎが誕生するようにと祝杯を挙げ、アレクサンドロスはこれに激昂してアッタロスに杯を投げつける。ピリッポスは憤激し、剣を抜いて息子に向かい、だが息子のところに達する前に足を滑らせて転んだ。これに対してアレクサンドロスは、ヨーロッパからアジアに渡ろうとするお方が、座席から座席を渡る間にお転びになる、との嘲りを残し、母を伴いマケドニアを去った。オリュンピアスは、自分の弟であるエペイロス王にマケドニアとの戦争を説き、アレクサンドロスはイリュリアで時を過ごす。そしてピリッボスは、アレクサンドロスは自分の子ではない、と公言する有様であった。
 その後ピリッポスは、家を分裂させたままでいることを諌められ、アレクサンドロスを説得して帰国させる。だがアレクサンドロスが、小アジアにおける同盟勢力獲得のために兄弟アリダイオスの縁談が進むのを見て、それをアリダイオスの地位を高め自分を追い落とすものと受け取り妨害するなど、父子の対立が完全に解消することはなかった。そして前336年、ピリッポスはペルシア遠征に着手し、パルメニオンを主将とする先遣隊一万余りを小アジアに送る。また、エペイロスとの関係も娘とエペイロス王の結婚を決めて修復するが、この結婚式の席上ピリッポスは暗殺され、この事件はオリュンピアスとアレクサンドロスが唆した、との噂が流れる。

<血まみれの王座>
 ピリッポスの死によってマケドニアの内外は不穏な空気に包まれる。アレクサンドロスは重臣アンティパトロスの支持を得て即位すると、直ちに立派な葬儀を営み、暗殺に関与した疑いのある者を次々に処刑、自己の王位の正当性を示す。そしてマケドニア本国を固めた彼は、精鋭を率いてギリシアに急行、迅速な行動に恐れを為したギリシア諸国は、アレクサンドロスの統帥を受け入れる。さらに彼は、小アジアの軍中にあって、反マケドニア勢力と結んだアッタロスを暗殺、パルメニオンの支持も得て、先遣隊をも掌握した。
 そして前335年、アレクサンドロスはペルシア遠征中の後方の安全を確保するため、北方のトラキアに軍を向ける。彼はイストロス川対岸まで勝利を軍ねたが、これによって周辺諸族はこぞって友好を求め、マケドニア北方は平定された。さらに彼はイリュリアの反乱を聞き西進、マケドニア西方も平定される。しかしこの頃ギリシアではアレクサンドロス戦死の噂が流れ、テバイが蜂起、他の国々も不穏な動きを見せる。これを聞いたアレクサンドロスは山地帯を驚異的な速さで進み、テバイを攻囲、6千を越える市民を殺して街を完全に破壊し、生き残った住民3万を全て奴隷化した。テバイの滅亡はギリシア全土を戦慄させ、テバイを支援しようとしていた国々は、あわててマケドニアヘの服従を示し、アレクサンドロスの赦しを得るようつとめる。アレクサンドロスはこうしてギリシアの敵対行動を抑え込むと、マケドニアヘと帰還した。
 マケドニアに戻ったアレクサンドロスは東征の準備に取りかかり、ピリッポス時代の巨大な戦費によって財政が破綻に瀕している中、金策につとめる。彼は王領地や港湾収入を貴族に売り払い、自分のもとに残るのは希望だけと語るほどであったが、それでも資金は足りず、その上に借金を重ねても30日分の糧食しか用意できなかったという。またアレクサンドロスは遠征中の国内の安全にも力を注ぐ。彼は王族やピリッポスの妻の親族に対して殺戮を行い、さらに有能な人材には従軍を命じて本国から引き離すことにし、マケドニアでの反乱の危険を取り除いた。そして前334年、出征の前に世継ぎをもうけるようにとの諌めを退けて、アレクサンドロスはペルシア遠征を開始した。

<東征>
 アレクサンドロスは、本国をアンティパトロスに託し、歩兵3万・騎兵5千ほどの軍勢でペルシアヘの報復戦争に出発する。そしてヘレスポントス海峡に到着すると、先遣隊を率い対岸を確保していたパルメニオンに渡海の指揮を委ね、自身は全艦隊の三分の一に当たる60隻の軍船と共に、海峡の南の口に近いイリオンに向かった。だがマケドニア軍が海峡越えを行うこの間、幸運なことに400隻という圧倒的な勢カを誇るペルシア海軍が、海峡付近に姿を現すことはなかった。イリオンで彼は、槍を大地に投じて真っ先に降り立ち、アジアの地を槍で勝ち得たことを示す。そしてトロイア戦争当時から伝わるという武具を神殿から乞い受け、アキレウスをはじめとするトロイアで死んだ英雄の墓を詣でた。
 アレクサンドロスはイリオンを発って、渡海を終えた本隊と合流するとペルシア軍に向かって東進した。アレクサンドロスの海峡越えを知った小アジアのペルシア軍は作戦会議をひらき、ペルシア王ダレイオス3世の信任も厚いギリシア人傭兵隊長メムノンは焦土作戦を提案、しかしこれはペルシア貴族たちに退けられ、両軍はグラニコス川に進出する。
 アレクサンドロスはギリシア兵は後方に留め、軽装歩兵とマケドニア重装歩兵をあわせた1万3千の歩兵に、騎兵5千を率いグラニコス川に到着、対岸のペルシア軍は川岸に2万の騎兵を並べ、ギリシア人傭兵から成る2万弱の歩兵隊はその背後に配置していた。高く切り立った対岸に敵兵が堅固に布陣しているのを見て、副将パルメニオンはアレクサンドロスに、翌朝敵の機先を制して攻撃するよう進言する。だがアレクサンドロスは、ヘレスポントスさえ簡単に押し渡りながら、グラニコス川のようなけちな流れに妨げられるのは、恥辱であると、即時攻撃を命令した。
 アレクサンドロスは左翼側の指揮をパルメニオンに委ね、自身は右翼側の指揮をとる。ペルシア軍はアレクサンドロスが自軍左翼に対しているのを見ると、その方面に騎兵を重点的に配置するが、アレクサンドロスは右翼集団を率いてペルシア軍の指揮官がいる中央部へと攻撃をかけた。アレクサンドロスは騎兵一隊に歩兵一隊を添えて攻撃を先導させ、その決死の突撃に続いて軽装歩兵と騎兵集団を進める。激戦となり、彼も陣頭で自ら武器をふるい、ペルシア貴族を次々に討ち取るが、この間にマケドニア歩兵は続々と川を渡る。そしてペルシア騎兵はアレクサンドロスの突入を受けた中央部が崩れると、混乱に陥って潰走した。アレクサンドロスはこれを深追いすることなく敵の歩兵隊に向かい、歩兵で攻撃をかける一方、騎兵に周りを囲ませて包囲殲滅した。この戦いでマケドニア軍の戦死者が150人に満たないのに対し、ペルシア側は騎兵1千以上・歩兵1万余りが戦死した。アレクサンドロスは、この戦いの戦利品として得たペルシア人の武具に、自分とスパルタを除くギリシア人が獲得したとの銘を刻んでアテナイヘと送った。
 グラニコス川での勝利の後アレクサンドロスは、小アジアにおけるペルシア最大の拠点サルディスに急行、サルディスは無抵抗で開城する。彼はここから小アジア西南部の制圧を行い、抵抗の構えを見せたミレトスを、ペルシア海軍到着にわずかに先んじて包囲する。そしてこの都市を攻略すると、戦費の不足と弱体を理由にギリシア艦隊を解散、ペルシア海軍については、陸軍で沿岸部を制圧して補給と入港を封じ、解体に追い込む計画を立てた。ミレトスから南下したアレクサンドロスは、次にハリカルナッソスで抵抗を受ける。この都市は、小アジア西部防衛の指揮を執ることになったメムノンのもと、激しく抵抗、アレクサンドロスは苦戦する。やがてメムノンは陥落が近づくと、都市を放棄、軍勢を周囲の砦に移動して抵抗を継続、アレクサンドロスはこれを制圧することができず、警備隊を残して前進を続けることにした。ここからアレクサンドロスは軍を二手に分け、自身は沿海部を進み、パルメニオンには内陸を制圧させる。彼は冬になっても進攻を続け、ゴルディオンで全軍を再結集、本国から新編成の部隊も到着し兵力はおよそ歩兵4万3千・騎兵6千となった。

<勝利>
 前333年アレクサンドロスは、解いた者はアジアの支配者になるといわれる結び目を剣で断ち切り、ゴルディオンを出発する。そして途上、エーゲ海でメムノンが行う大反攻から背後を守るため、艦隊の再建を命じるが、メムノンは海上をヘレスポントス間近まで制圧してしまう。しかしメムノンはマケドニア・ギリシアヘの逆進攻を計画中に病死、ダレイオスは貴族たちの意見で防衛方針を陸上での決戦に変更、王都スサを発って、エーゲ海のギリシア傭兵3万にも合流を命じた。
 メムノンの急死に勢いづいたアレクサンドロスは、急進して小アジア東南部の穀倉キリキアに入り、敵の焦土作戦を未然に阻止する。だが疲労のたまっていたアレクサンドロスが、冷たい川での水浴の後高熱で倒れたため、マケドニア軍の侵攻はこの地で足踏みすることになった。快復したアレクサンドロスはイッソスに進み、そこからダレイオスに向かって海沿いを南下する。
 一方ダレイオスは、シリアの平原で迎撃体制を整えていたが、マケドニア軍がキリキアで停滞する間に補給の不安が生じたため、大軍に有利な地形を捨てる。そして北に大きく迂回して、アレクサンドロスの背後イッソスに進出、海岸の狭い平野に入った。後方にペルシア軍60万、不意をつかれたマケドニア軍はこの噂に動揺する。アレクサンドロスは地形の有利、兵士の質と総司令官の力量における自軍の優越、莫大な恩賞を説いて士気を鼓舞、北へと軍を戻す。
 ペルシア軍16万とマケドニア軍5万弱は川を挟んで布陣する、ペルシア軍はギリシア傭兵3万を中心に歩兵11万を北岸に並べ、ダレイオス自身はその中央に位置、南岸の山並みが後退した部分にも2万の兵力を配備して、マケドニア軍左翼の側背を脅威する。そして騎兵が活動しやすい海岸寄りの右翼に全騎兵3万を集中した。これに対してアレクサンドロスは、まず小部隊を派遣して右翼側背を脅威するペルシア軍を山上に追いやり、それから全軍を進める。彼は右翼騎兵を直率して敵左翼を突破、マケドニア軍の騎兵と歩兵の間に生じた間隙を狙うペルシア軍中央の傭兵隊を側背から包み込み粉砕する。この間、海寄りでは、川を渡ったペルシア騎兵にマケドニア左翼騎兵が押されていたが、ペルシア騎兵は自軍の崩壊を知ると、ダレイオスの戦場離脱を見屈けた後、退却にかかる。重武装のペルシア騎兵は、退却に際して混乱を生じ、左翼を指揮するパルメニオンはこの機をとらえて反撃に成功、ペルシア全軍は潰走した。この戦いの戦死者はマケドニア軍が歩兵300・騎兵150、ペルシア軍が歩兵5万・騎兵3千以上であった。
 左翼の反撃成功の後アレクサンドロスは追撃を開始、ダレイオスには逃げられたものの、その家族を捕らえ、莫大な富を接収した。彼はダレイオスの家族に対して寛大な態度をとり、王族にふさわしく待遇して、辱めを加えることは決してなかった。
 前332年アレクサンドロスはペルシア海軍の根拠地ポイニキアに進出、服従を拒んだテュロスを攻囲する。この間両軍は交渉を行い、ダレイオスはエウプラテス以西と自分の娘を与えるという条件で、講和と王家族の返還を求める。マケドニア陣営はこの申し入れの受諾に傾くが、アレクサンドロスはアジアの王は自分であり、領土もすでに自分のもの、また娘がほしくぱ自カで手に入れると、講和を拒絶、七ヶ月におよぶ攻囲の末テュロスを滅ぼし、ポイニキア全土を制圧してペルシアの海上支配を崩壌させる。そして翌年の帝国中枢部への進攻に備えてシリアでの糧秣集積を命じる一方、冬の間にエジプトに向かい、ペルシアの弾圧を受けていたエジプト人に友好的に迎え入れられた。アレクサンドロスはこの地で、アモン神殿を訪れるが、その時、自分の神的な出生の真偽、全世界支配が達成できるか、ピリッポス暗殺の犯人処罰が果たされたか、について神託を求め、全てに満足するを答え得たのだといわれる。

<アジアの王>
そして前331年になると、アレクサンドロスはエジプトから戻り、エウプラテス川を越える。だが担当者の怠慢で糧秣準備が不足していたため、エウプラテス沿いに砂漠をバビュロンヘと直行することはできず、北方の山地帯に沿った肥沃な地域を東進した。そしてティグリス川を越え、イッソスの教訓から平原に陣取るペルシア軍へと向かった。
 ペルシア軍のいるガウガメラの平原に到達したアレクサンドロスは、パルメニオンが夜襲を進言したのを、自分は勝利を盗み取ることはしないと退ける。そして翌日両軍は全アジアの支配をめぐり両軍は激突する。ペルシア軍は歩兵20万・騎兵4万5千、騎兵主体の戦列の後ろに、巨大な歩兵軍を置き、ダレイオスは戦列中央に親衛隊に守られ位置を占めた。歩兵4万・騎兵7千のマケドニア軍はペルシア軍による包囲に対処するため、主戦列と角度を持たせて両側面に主に騎兵隊から成る戦列を配置、さらに背後を守る第二の戦列を用意した。そしてアレクサンドロス白身は、この戦いでも左翼側をパルメニオンに委ね、主戦列の右翼騎兵隊で指揮をとった。両軍が接近すると、ペルシア軍は両翼から騎兵を進ませ、圧倒的な兵数を活かして包囲にかかる。アレクサンドロスは麾下の諸隊を右斜めに延ばし、これを包み込もうとしたペルシア軍左翼の戦列は著しく引き延ばされる。そして彼は、側面の部隊を次々に繰り出してペルシア軍左翼を防ぐが、ここでついにペルシア軍左翼は戦列に切れ目を生じ、アレクサンドロスはそこに右翼騎兵を率いて突入、側方からペルシア軍中央部を突く。これとともにマケドニア軍歩兵隊も激しく圧迫にかかり、ペルシア軍中央部は潰走、これを見たペルシア軍左翼も敗走に転じる。アレクサンドロスは、大軍による混雑で動きがとれなくなっているダレイオスを追いつめるが、親衛隊がこれに立ちはだかる。ペルシア軍親衛隊は、死に行く者までマケドニア軍にまとわりつき防戦に務め、その間にダレイオスは戦場を離脱した。ここでアレクサンドロスは、左翼のパルメニオンが敵の包囲に苦戦していたにもかかわらず、追撃を開始、そのため追撃に加われない部隊が出てマケドニア歩兵隊に間隙が生じる。そしてそこにペルシア騎兵が侵入して第二列をも突破、マケドニア左翼は崩壊の危機に瀕するが、第二列が何とか反撃に成功し、パルメニオンも猛攻をしのいでペルシア軍右翼を撃退、追撃戦に加わった。この戦いでマケドニア軍は歩兵1千・騎兵200を失い、ペルシア軍は4万人が戦死、だがダレイオスは今回も捕らえられなかった。
 アレクサンドロスはガウガメラで勝利した後、バビュロンに進む。反ペルシア感情の強いバビュロニア人はアレクサンドロスを解放者として讃え、彼は多くの住民と音楽、花でうずめられた街路に迎えられた。アレクサンドロスは、軍を一ヶ月休ませた後、この歓楽の都を発つが、ガウガメラでも勇戦したこの地の太守をその地位に留め、将来を見据えたペルシア支配層との協調方針を打ち出す。そしてスサの引き渡しを受け、そこからペルシア人の本拠地ペルシスに向かった。激しい抵抗を撃ち破り、ペルシスに入った彼は、前330年、王宮のあるペルセポリスを占拠、この街を将兵の掠奪に供する。そして宴の酔いの中、自ら先頭に立って宮殿に火を放つ。これでペルシアヘの報復戦争が終わった。
 アレクサンドロスはさらにダレイオスを追う。そしてパルメニオンをペルシアの夏の宮都エクバタナに残して後方を統括させ、自らは追跡を続けるが、バクトリア太守ベッソスらがダレイオスを殺害して逃走する。アレクサンドロスはダレイオスの遺体をペルセポリスの王廟に葬るように指示、ここでギリシア同盟軍を解散して帰国させ、新たなアジアの王として反逆者ベッソスの討伐に乗り出した。

<ピリッポスの亡霊;ギリシアとアジア>
 ベッソスはバクトリアでアジアの王を称する。アレクサンドロスはこれを討つため東へ奥深くマケドニア軍を駆り立てるが、この頃からアジアの王、そして神の子としての彼の態度に軍中の不満が急速に高まって行き、パルメニオンの長子ピロタスは公然とペルシア人との協調政策を批判する。そこで彼は、ピロタスが王暗殺の陰謀への関与を疑われた機会を捉え、軍中枢を支配するパルメニオンの人脈を粛清、独裁体制を確立した。
 そして前329年アレクサンドロスはバクトリアに侵攻、ベッソスはバクトリアを捨てオクソス川の北方ソグディアナに退く。アレクサンドロスはバクトリアを制圧して、これを追い、ベッソスは部下の裏切りでアレクサンドロス軍に引き渡された。そこでアレクサンドロスはベッソスの処刑を決め、さらにヤクサルテス川まで進出するが、そこでソグディアナとバクトリアの住民の一斉蜂起が起こり、彼はこの鎮圧のため二年近くも時を費やすことになる。アレクサンドロスはこの苦しい時期を乗り越えると、現地の豪族の娘ロクサネを妻に迎えるが、これは彼の生涯唯一の恋が、土着豪族たちとの和解という政治目的に後押しされて実ったのである。
 一方、この間、軍の内部でも流血が続く。前328年秋には、宴席において、マケドニアの伝統の軽視を罵った乳兄弟クレイトスを、怒りに駆られたアレクサンドロスが自らの手で刺殺。前327年春には、近習の少年たちが、アレクサンドロスをマケドニア人の自由を奪う暴君として、王暗殺を企み、関与を疑われたアリストテレスの甥カリステネスが処刑されている。

<未知の大地>
 バクトリアに1万5千近い巨大な駐留軍を残したアレクサンドロスは、前327年秋インドヘと侵攻する。後方との唯一の連絡路を脅かす山岳民族を殲滅したのち、前326年アレクサンドロス軍はインドス川を越える。
 アレクサンドロスは周辺勢力との外交的接触を試みるが、インドスの支流ヒュダスペス川の対岸を支配するポロスは臣従を拒否、4万に近いの軍勢を集めて増水期の川岸を固めた。アレクサンドロスは2万ほどの兵カでヒュダスペス川に向かったが、激流の対岸を敵が固めているのを見ると、陣営に食料を集め、水量が減少する季節を待つかのように見せかける。そして数日の間、夜間に騎兵隊を率いて川沿いに騒々しく動き回り、やがてポロスが警戒をゆるめこれを追跡しなくなると、偽のアレクサンドロスを残し陣営を発った。彼は岸から遠く迂回して川の上流にまわり、歩兵6千・騎兵5千とともに渡河、これに気づいてポロスの送った騎兵2千・戦車120を撃破する。ポロスは、渡河阻止の失敗を知ると、対岸に備える若干の兵カを残し、歩兵3万・騎兵4千、戦車300・戦象200を率いてアレクサンドロスに向かった。
 アレクサンドロスは、戦象を前面に並べたポロスの長大な戦列を見て、前面に軽装歩兵を展開、さらに騎兵戦力の優越を活かすため、自分が指揮をとる右翼に大多数の騎兵を集中、その一部隊に敵左翼の背後への迂回を命じる。ポロスは左翼への集中攻撃に備えて、右翼騎兵を左翼に合流させるが、アレクサンドロスはその戦闘隊形が整わないうちに攻撃、そこに背後からの攻撃が加わった。混乱したポロス軍騎兵は戦象の群の中へ逃げ、戦象はアレクサンドロス軍騎兵に向かって動き始めるが、アレクサンドロス軍歩兵はここで前進して戦象を攻撃する。戦象はアレクサンドロス軍歩兵に攻撃を向け、ポロス軍歩兵もその間に入って攻撃を開始、だがアレクサンドロス軍は軽装歩兵が象に立ち向かい、重装歩兵は象の間からの攻撃を退け、よく防ぐ。そしてアレクサンドロス軍騎兵も、ポロス軍騎兵の反撃を抑えてポロス軍の左翼を包み込み、窮屈に混雑する中で象は味方に大損害を与える。やがてアレクサンドロス軍は敵の抵抗を粉砕したが、半包囲を維持し続けることができず、ポロス軍は逃亡を開始。だが対岸の部隊が渡河して疲れの出た部隊に代わり追撃、大殺戮を繰り広げた。アレクサンドロス軍は歩兵80・騎兵230が戦死、ポロス軍の損害は捕虜9千・戦死1万2千以上であった。ポロスは最後まで戦場に踏みとどまり手傷を負って捕らえられたが、毅然とした態度で王としての待遇を要求、アレクサンドロスはこの男に賛嘆の念を抱き、友として信頼したという。
 この後、アレクサンドロスはさらに軍勢を前進に駆り立てるが、雨期が到来しその労苦に士気は著しく低下、疲れ果てた将兵はついにインドス支流で最も東にあるヒュパシス川で進軍を拒絶する。アレクサンドロスは腹を立て、故郷に帰って王を敵地に置き去りにしたと語るがいい、と幕舎に引きこもるが、将兵は考えを変えない。三日後、彼は、占いによって反転を神意とし、進攻を中止した。
 アレクサンドロスはヒュダスペス川まで戻って川を下り、前326から前325年にかけて、激しい戦闘と殺戮を繰り返しつつインドス河口を目指す。彼はマッロイ人相手の戦闘では瀕死の重傷を負い、楯持ちの掲げるイリオンの盾にかばわれて一命をとりとめる。これにより王の死のうわさが広まり、各地が不穏な情勢となったため、彼は途中で別働隊をイラン高原東部に送り、本隊はそのまま進んで前325年夏インドス河口に到達した。

<死の行進>
 インドス河口からアレクサンドロスは、ペルシア湾まで航海する艦隊を支援するため、海岸の砂漠を西進、だがその目的を果たすことはできず、しかもこの行進は渇き、飢え、悪疫で悲惨なものとなった。アレクサンドロスは、兵士が水を捧げてもそれを飲むことなく、徒歩で指揮をとり、将兵と苦難をともにして士気を奮い立たせたという。だが、自分だけは助かろうと、足早に進む軍の背後には、屍と屍同然の者が動かぬ列をなし、見捨てられた者の絶望と呪誼が渦巻いていた。生きて砂漢を抜けることができたのは4万の軍勢のうち1万5千人にすぎなかった。六十日におよぶ死の行進を終えたアレクサンドロス軍は、周辺から物資を集めて浮かれ騒ぎ、七日の間、酒に酔いつつ歩んだという。
 砂漠を抜けたアレクサンドロスのもとには、内陸で反乱を鎮圧してきた別働隊が合流する。さらに艦隊の無事も報告され、彼はこれを全アジアの征服よりもうれしいと、喜んだ。だがこの間、彼には帝国各地の不穏な情勢も伝わってきていた。

<和解:アレクサンドロス帝国>
 王の長期の不在、さらにその死の噂、これらは帝国の高官たちの間に不正を蔓延させていた。彼らは、当然王の凱旋を歓迎せず、帝国各地に反抗、自立の気配が見える。この情勢下アレクサンドロスは、帝国内の私兵全ての解散を命じ、前324年春スサに到着すると、高官たちの上に大粛清を行った。そして大半がギリシアの没落市民である失業兵士を吸収するため、植民都市の建設を進めるとともに、ギリシアに追放者の帰国復権を命じる。またこれに続いてギリシアには、王を神として祀ることも命じられている。これらを終えたアレクサンドロスは集団結婚式を行い、彼自身はペルシア王女を妻に迎え、側近80名にもペルシア大貴族の娘を娶らせた。
 こうしてアレクサンドロスは帝国の体制を固めて行き、さらにマケドニア式に訓練された3万人のアジア人部隊が彼のもとに到着するが、兵士たちはこれらをマケドニアの伝統の軽視と見て不満を高めて行く。そしてティグリス川中流の街オピスで、アレクサンドロスが老兵と傷病兵の除隊帰国を発表すると、兵士たちの不満が爆発した。自分たち全員をお払い箱にして、お父上のアモン神と戦を続ければ良い、兵士たちは述べ立てる。これに対してアレクサンドロスは、どこへなりと好きなところに行け、といい放ち、三日後、全てアジア人からなる軍隊の編成を発表する。これを聞いたマケドニア人は我慢できずに王の宿舎の前に集まり、涙を流して許しを乞うた。アレクサンドロスはこの後、祝宴を開きマケドニア人とペルシア人の協カを祈った。ついに彼はピリッポスのマケドニア王国を克服し、アレクサンドロス帝国が誕生したのである。

<早すぎた死>
 アレクサンドロスは前323年の初めにバビュロンに帰還した。この地で彼はエウプラテス川の灌概や、バビュロン港の拡張、大艦隊の建造を行う。そしてアラビア遠征の準備にかかったが、病に倒れる。彼は口も聞けなくなり、指揮官たちが病室に詰め、これを知った兵士たちは王との面会を望んだ。兵士たちは列をなしてアレクサンドロスの傍らを通り、彼はわずかに頭をもたげ、兵士ひとりひとりに目で会釈した。その翌日、彼は三十三歳の若さで死んだ。
 彼の死後見つかった覚え書きによれぱ、彼は西地中海世界の征服を考えていたという。だが彼は死に、そこには未完の帝国が残った。そしてその帝国は彼の部将たちの争いの中で、分割されて行く。

<終わりに>
 今回はずいぶん長くなってしまった。これでもがんばって短くしようとしたのだが…。


<参考資料>
アレクサンドロス東征記およびインド誌 本文篇・注釈篇;フラウィオス・アッリアノス著 大牟田章訳 東海大学出版会
地中海世界史:;トログス著 ユスティヌス抄録 合阪學訳 京都大学学術出版会
プルターク英雄伝(9)ほか:河野与一訳 岩波文庫
アレクサンドロス大王 「世界」をめざした巨大な情念:大牟田章著 清水新書
世界伝記双書アレクサンドロス大王:ジェラール・ヴァルテルほか著 大牟田章訳 小学館
アレクサンダー大王 未完の世界帝国:ピエール・ブリアン著 福田素子訳 創元杜
戦争の起源:アーサー・フェリル著 鈴木主税、石原正毅訳 河出書房新杜
世界戦争史2西洋古代篇U:伊藤政之助著 原書房
戦略論 上:リデル・ハート著 森沢亀鶴訳 原書房
世界の戦争1 アレクサンダーの戦争:長澤和俊編 講談杜
王妃オリュンピアス アレクサンドロス大王の母:森谷公俊著 筑摩新書
世界の歴史4 ギリシアとローマ:桜井万里子、本村凌二著 中央公論杜
世界の歴史5 オリエント世界の発展:小川秀雄、山本由美子著 中央公論杜
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