1999年10月29日
続茶の湯 数寄者たち  NF


(1)はじめに
 昨年私は茶の湯についてのレジュメを発表したが、一年以上たった最近もう一度読み返してみて、次の事に気付いた。明治以降の数寄者たちについてはそこには触れられていない。近代の茶のあり方に大きな影響を与えた彼らについて語らずして茶の湯の歴史のレジュメを全うしたとは言えまい。そこで今回はその補足版として数寄者たちについて述べたい。
(2)数寄者たちの登場
 「数寄者」とは何であろうか。辞典によると「風流を好む」人のことであるらしい。室町時代には連歌師のことを主に指していたが、書院茶・珠光以来の侘茶が盛んになるにつれて茶人のことも意味するようになった。連歌が衰え一方で千利休の登場により茶の湯が一般に普及すると、茶人のみを言うようになった。近代に入ると、宗匠制度が確立していた関係もあって、宗匠以外の茶の湯愛好者のことを意味するようになる。このレジュメでもこの意味で用いる。
 さて、明治維新を迎えて西洋文明を吸収するのに熱心に成った日本は、自身の優れた伝統文化を軽視する傾向を見せた。そのため、多くの伝統美術が海外に流出すると共に、伝統芸能に従事する人々も生活に窮するようになった。例えば狩野芳崖は東京砲兵工廠の図案課に勤務して生計を立てていたし、狂言の十世茂山千五郎は京都駅で切符売をして漸く口に糊する有様であった。そうした中、当然茶の湯も沈滞の中に入った。裏千家の宗匠・玄々斎が明治五年の第1回京都博覧会で立礼式(椅子点)を始め正座の苦手な外国人にも茶に親しんでもらえるようにしたり、茶箱点・大炉扱い・和巾点を創始した。また次代宗室は女学校を対象として茶道教育を行った。こうした宗匠側からの努力があったため命脈を繋ぐことが出来たのである。こうした事情が一変したのは明治も半ばに入ってからである。明治39年に岡倉天心が「茶の本」を著し、日本文化の復権を唱え、茶の湯に精神的支柱を与えた。例えば茶の湯を「美の崇拝に身をささげる」ものとし、茶室を「真に外界のわずらわしさを遠ざかった大聖堂」と表現したのは知られる。一方、日清・日露戦争で経済が発展、更に国民の自身回復による伝統の再評価により茶器が高騰を始めた。そのため産業革命を通じて生まれた実業家達は茶器を売り買いすることで利益を得る投機を行ったのだ。しかし、それだけでなく、美術品保護の精神もあった。後述する益田孝によれば、外国の富豪は自国の文化財を収集してその文化の優れた姿を見せてくれるが、日本では自国の文化を捨てて顧みないので、伝統の優品を集めて文化財の海外流出を阻止したいと考えたという。彼らは、自分たちが手に入れた茶器を通し、新しい文化を創ったと言える。
(3)井上世外と益田鈍翁・馬越化生
 近代最初の数寄者と言えるのは明治の元勲井上馨(世外)であろう。井上は長州の下級武士の子で、高杉・伊藤等と共に攘夷に参加したが後に伊藤と渡英し、開国に意見を転じた。維新後は大蔵大輔・元老院議官・外務大臣・農商務大臣を歴任。彼は明治20年に天皇を招いて自邸の「八窓庵」の茶席開きを行った。東大寺四聖坊にあったのが、取り壊されて風呂屋に薪として払い下げられようとしたのを買い取ったものである。この際、茶席の見学に始まり、饗宴、そして余興として歌舞伎が演じられたと言う。井上はここでしばしば茶事を催し、客としては益田鈍翁、高橋箒庵、原三渓(帝国蚕糸社長)、三井八郎右衛門、鉄道王根津嘉一郎、馬越化生、安田松翁などが招かれている。他、井上は絵の収集に熱心で、十一面観音像、孔雀明王像、虚空蔵菩薩像などの仏画や徽宗皇帝桃鳩図、日観葡萄図など宋元画の名品、他にも「松島茶壷」や長次郎作「雁取」など名物を数多く所持した。
 一方、随一の数寄者として知られる益田孝(鈍翁)は、佐渡から江戸へ金を輸送する家に生まれ、江戸へ出てからアメリカ公使館で英語を学び、幕府の外交使節の一人として渡欧し、後には騎兵頭となる。維新後は横浜で貿易商となるが、明治六年、井上に誘われて設立されたばかりの先収会社の東京支店頭取となり、三年後には三井物産を設立して社長に就任。仕事においては商業主義を唱え、中上川彦次郎の産業主義と対立した。三池炭坑の払下、商法講習所の設立を通じて三井財閥の力を巨大なものにした。また銀行・物産・鉱山を株式会社方式とし、三井合名会社の設立にも尽力した。因みに、後に三井の手を離れて日本経済新聞へと発展する「中外物価新報」を作ったのも彼の業績の一つである。こうした功績から三井家仮評議会会員、三井家同属会参列員、三井商店理事会会員、三井営業重役会会員、三井家同属会管理部専務理事などをも歴任。一方で日本古美術品の収集にも意を注いだ。ところが集めてみると、日本の美術品は単純な鑑賞品でなく生活文化のための道具であることが分かって来たのである。こうした時、弟の克徳(非黙)から茶の湯を紹介されたちまち夢中に成り不白流川上宗順に師事した。原叟作・銘「鈍太郎」茶碗を手に入れたことから鈍翁の号を名乗ったという。弟の非黙、英作(紅艶)とともに数寄者三兄弟として知られるようになる。尤も、鈍翁は初めから茶の湯に明るかったのではない。横浜貿易商時代のことであるが、ある日出掛けた家の二階で昼寝をして目が覚めると、目の前に羊羹が置いてあったので手近なヘラで切って食べていた。すると、見慣れぬ老人が上がってきて激怒したという。「これはけしからぬ、茶杓というものは、そんなことをするものではありませぬ。」それが近代最大の数寄者になるから世の中分からぬものである。ところで、名物猿若茶入を松平家から買うなど道具収集に熱を入れていた鈍翁は、ある時、狩野探幽秘蔵の弘法大師座右銘一巻を入手し、これを記念して品川御殿場の自邸・碧雲台に大師堂を立て明治28年、近代の大寄せ茶会の先駆け「大師会」を催した。政財界の名士を多数紹介してのものだったため、「招待されねば面目立たぬ」といわれた。茶会と古美術展、そして社交とが一体となったものであったのだ。後、大師会は場所を三渓園、音羽護国寺と移しながら続けられ、昭和49年から現在に至るまで根津美術館で開かれている。また、猿若茶入を茶事に用いたときは、その茶入のために茶室「狙庵」を移築したというから驚きである。鈍翁は茶の湯における座右の銘として「茶の湯の掟は常識を外るべからず、常識を離れて茶はなし」と唱えた。「奢り虚礼は大の禁物、只真心こめて交るをば、茶の則となさむのみ」といい、世間の融和を目的と掲げた。晩年は小田原の掃雲台で茶の湯三昧に過ごしたという。
 一方、鈍翁と親交を持ち、並び称される数寄者として知られたのが馬越恭平(化生)である。備中の医者の子として生まれた彼は、13歳で鴻池新十郎家に丁稚奉公した。ある時座敷を掃除している最中に、誤って書院に飾ってあった青磁桃花香合を取り落とした。見咎めた番頭にしたたかに殴られる中、財力と権威を象徴する茶道具の意味を、身をもって覚え、いつの日かこの香合を買い取ってやろうと決心したという。やがて彼は益田鈍翁の招きで先収会社に参加し、明治九年に三井物産横浜支店長となり、二十年後には三井を離れ、大日本麦酒(現在のアサヒ・サッポロビール)を創立、ビール王といわれた。鈍翁の感化で茶の湯を河上宗順に学び、道具の収集に熱を上げた。因陀羅筆「寒山拾得図」、中興名物「田村文琳」「残月蕎麦」「柿の蔕」「龍田」「芦屋島地紋釜」などを所持していたことで知られる。明治34年ごろ、鴻池新十郎家で茶道具の売り立てがあり、化生は香合を入手。これこそが若き日に化生が買い取ってやろうと決心した青磁桃花香合であった。このエピソードからは次の二つの事が読み取れる。まず、明治の前半に数寄者として活躍した人々の中には、江戸時代に富を築き名品を数多く所持していた商人などがいたこと。そして新興財界人にとって茶器収集とは単に自分の趣味を満足させるだけでなく旧勢力に代り自分自身が新時代の主役であることの証明でもあったということである。
(4)平瀬露香
 江戸時代以来の名家の代表として、松浦詮(心月庵)・三井一族・川喜多半泥子・平瀬亀之助(露香)について述べよう。平戸藩主の子孫で伯爵であった心月庵は曜の養子として家督を相続し、石州流鎮信派を中興した。茶器の鑑識眼が優れていたほか、和歌・漢詩・書・花・礼法・弓馬にも卓越していたという。大師会にならぶ茶会として知られる「和敬会」を始めたことで有名。七卿の一人東久世道禧、軍医総監石黒忠悳(況翁)、伊藤祐麿、東胤城、房松勝成、伊藤雋吉、戸塚文海、三井八郎次郎(松籟)、三田葆光、中岡維素、松浦恒、金沢三右衛門、石見鑑造、青地幾次郎、安田松翁ら16人が持ちまわりで釜をかけたため「十六羅漢」ともいわれた。後欠員補充で益田鈍翁、馬越化生、高橋箒庵、団琢磨、三井高保、藤原銀次郎(王子製紙)、加藤正義、近藤滋弥らも加わった。
 三井一族にも茶の湯を好んだ物は多かった。八郎右衛門高福は三井物産社長・三井銀行頭取を歴任し、茶の湯を表千家の吸江斎宗左に学んだ。また三井物産社長の高泰(泰山)は薮内流を学び、自ら削った茶杓もある。高福の子の八郎次郎(松籟)は表千家の惺斎に茶の湯を学び、京都美術協会副会長にもなっており、十八会のメンバーでもあった。その兄弟で三井銀行頭取・高保(華精)は表千家の碌々斎・惺斎に学んだ。その子の高大(小柴庵)も遠州流を学んだことで知られる。
 川喜多半泥子は、綿を商う伊勢商人の出身で、百五銀行の頭取となった人物であるが、陶芸や俳諧を趣味とし、独特の茶碗を数多く作ったといわれる。茶の湯は久田無適斎に学んだという。
 平瀬露香は、74万両を越える大名貸しでしられた千草屋に生まれ、千草屋を銀行組織化し(第三十二銀行)、保険会社や阪神電鉄を組織し、大阪貯蓄銀行取締役、日本火災保険社長、大阪博物場長にもなった。尤も、露香自身は経営にはノータッチで、和歌・書芸・歌舞伎などの31にものぼる趣味に没頭していたといわれ、「蝙蝠大尽」と綽名された。その趣味生活を学問・宗教・遊戯に至るまで31の項目に分けて一冊の書物に纏めようとしたともいわれる。残念ながら実現はしなかったが、若し現存すれば天下の奇書であったであろう。番頭たちとしても、露香に下手に商売に手を出されるよりも趣味に没頭していてくれたほうが商売の危険は少なかった。茶の湯は彼の趣味の中で最も熱をいれた物で、木津宗詮から武者小路千家流を学び奥義に達していた。年少の愈好斎が成人するまで武者小路千家の奥義を守ったこともある。松平不昧に私淑し、不昧の大崎別邸にあった独楽庵の扁額を手に入れ、同名の茶室を作ったことで知られる。また、江戸時代から貸付金の返済として茶道具を受け取ることもあった関係から、家蔵品も優品ぞろいであった。柴田井戸・雪舟達磨絵・青磁人形水指などが十三貫目で露香が生まれる以前から既に手に入れられているのはその一例である。後に日清戦争後の不況での平瀬家の零落による道具売り立ての際、花白河硯箱が一万六千五百円という最高額で落札したのを始め、一万円を越える道具が3点も現れた。値段を書く書記の手が震えたというエピソードさえ残るこの売り立ては、戸田弥七・春海藤次郎・山中吉郎兵衛が札元となり、益田鈍翁・根津甚一郎・藤田香雪らが参加し、茶道具市場が活気を呈する火付け役となった。それにしても彼の趣味三昧が結果的に家の財政危機を救ったのである。しかし、それでも露香は千草伊羅保茶碗と長崎井戸脇茶碗は手放さなかったという。
(5)安田松翁と藤田香雪
 独力で安田財閥を作り上げた安田善次郎(松翁)は、越中富山の下級氏族の子で、19歳で江戸に出て丁稚奉公の後、43歳で安田銀行・帝国ホテルや安田生命を創設。明治13年、田安家邸で始めて茶を行う。このとき、世間は「何事もひっくり返る世の中や、田安の屋敷安田めが買う」といった。以後43年間、378回にのぼる(「松翁茶会記」)茶会を催した。客としては馬越化生、高橋箒庵、三井番頭三野村利左衛門や渋沢栄一、大倉喜八郎、三井八郎次郎といった財閥総帥、三井参事の朝吹英二や高橋是清、松方正義、根津甚一郎らが招かれたという。
 一方、藤田伝三郎(香雪)は長州萩の酒造家の子として生まれ、高杉晋作について奇兵隊に入隊した。負傷して奇兵隊を退いてからは御用商人として藤田組を興し、ことに西南戦争では政府軍の軍装・糧食を一手に引き受け毎日数万円の利益を挙げたと言われている。他、児島湾干拓も請負い藤田組を一大財閥へと育てた。また大阪株式取引所の支配権を握り、大阪硫酸製造・山陽鉄道・大阪紡績をも牛耳った。彼は武者小路千家の磯矢宗庸に茶の湯を学び、朝日新聞創設者村山龍平(暁山)、上野理一、百三十銀行の松本重太郎、大阪初代市長の田村太兵衛、大阪商船の田中市兵衛、帝国銀行・北浜銀行創立者の磯野小右衛門、日本蒔絵合資会社の芝川又右衛門、白鶴酒造の嘉納鶴庵・次郎左衛門、住友春翠、茶道大学を提唱した高谷宗範らと毎月一八日にくじで当番を選び家蔵品中心に釜をかける「十八会」を行った。網島にある本邸に40にのぼる茶席を設けたといわれる。斗々屋「唐織」、「田村文琳」、ノンコク茶碗「千鳥」、紅葉呉器を所蔵するなど香雪は精力的な道具収集家として知られていたが、会心の道具組で茶会を開こうと考えており、そのためにはどうしても交趾大亀香合が欲しく、生島家と何度も折衝を重ねたがまとまらなかった。明治45年3月、遂に生島家蔵品の入札があり、香合も出品された。香雪はその頃病床にあったが、出入りの道具商戸田弥七に何としても買い取るよう命じ、九万円という驚異的な値段で落札した。戸田が病床に入手の報告をした時香雪はまさに臨終、報告を聞きにっこり笑って息を引き取ったという。道具収集家にふさわしい最期であったと言えよう。このエピソードは道具の急騰する時代を象徴すると言える。因みに息子の平太郎(江雪)、徳次郎(耕雪)、彦三郎も茶の湯を好んだ。
(6)高橋箒庵
 これら数寄者たちの茶事についての記録がよく残っているのは、偏に高橋義雄(箒庵)のおかげである。彼は水戸藩士の子として生まれ、福沢諭吉の影響を受けて上京し、慶應義塾で学んだ。卒業後、時事新報社に入社し、「商政一新」を著した。これが井上馨の目に留まった関係で、三井に入社し、銀行の大阪支店長を勤めた他、越後屋呉服店を日本初のデパート・三越に編成した。その後、三井鉱山や王子製紙などの社長を歴任。明治25年に益田鈍翁に無為庵に招かれたのをきっかけに茶の湯を始め、川部宗無、藤谷宗仁と交わった。二畳台目の好の席を箒庵と名付けたことからその号があるという。明治31年には麹町一番町に茶室を建て、由利公正から「寸松庵」の名を貰った。また、護国寺に多くの茶室群を作ったことでも知られる。「阿倍仲麿塚」と書かれた石碑を古道具店で手に入れ、それを記念して九尺四方の仲麿堂を建立。他にも、六畳の三笠亭、三畳台目の箒案をはじめとして廟門・蹲踞・石灯篭の寄進を受けた三畳台目・円成庵、八畳の不昧庵、大書院慶長館を品川御殿場の原文郎から譲り受けた月光殿、馬越化生の屋敷から移した化生庵、更に艸雷庵、宗澄庵などを次々に建立した。そして大師会をそこに移して発展させたのである。箒庵のもう一つの大きな業績といえば卓越した文筆活動であろう。「東都茶会記」13冊・「大正茶道記」8冊・「昭和茶道記」により数寄者たちの茶の湯の催しが今日でも詳しく判る他、「大正名器鑑」「近世道具移動史」によりこれまで一般人には秘密のベールに包まれていた名物といわれる道具の情報(付属物、伝来、所載文献、寸法、実見場所、形容、釉景、高台など)が詳しく広まったのである。これは人々の名物の認識・風流心を掻き立てる結果となり、流通をより活性化させた。大名や豪商が蔵品の売り立ての際、箒庵に指導を求めたといわれている。特に「大正名器鑑」は茶入五編・茶碗四編からなり、その特徴・個性に注目し、丹念に実見している。箒庵の文筆活動においてもう一つ特筆すべきことは、「おらが茶の湯」「箒のあと」「趣味ぶくろ」に代表されるように茶の湯についての考えをまとめ人々に広めた点であろう。後にはラジオ放送で茶の講座をしたこともある。「茶の湯は本来趣味である。趣味として之を楽めば夫れでおらは満足する。」「近頃世間には茶の湯と云ふ事に馬鹿々々しく勿体をつけて道徳の教訓と結び附け、忠君愛国の気風を養い危険思想防止の効能があると言ひ触らし、甚しきは茶道経国など云ふ大げさな宣伝をする者もあるやうだが、おらが茶の湯はそんな者ではない。」(共に「おらが茶の湯」)から分かるように、箒庵は趣味を趣味として認め、精神論を振り回す道徳主義を嫌った。道具の売買を積極的に容認し、美的生活に奉仕する趣味をこの上なく高尚な人間霊的特徴と見なした。そのため名器・趣向・美食を楽しむという耽美的な傾向を彼の茶の湯は見せるのである。そしてこれは数寄者一般にも当てはまることであった。彼等数寄者たちは茶禅一味的な茶道観や道徳的な修行論からすら縛られなかったのだ。尤も箒庵の趣味至上主義は十八会の一員でもあった高谷宗範には容認できぬ考えであった。宗範は中津藩士の家に生まれ、大蔵省・司法省に務めて、茶の湯は遠州流の小堀宗舟に学んだ。宇治に「松殿山荘」を建て、義政・一休・利休ら36人を奉る「聖賢堂」を作った。茶の湯の儀礼性に注目し、道徳を重んじて人々を教化する「茶道経国」を唱え、「茶道大学」の設立を唱えた。それだから箒庵の考えが許せぬのは当然であった。二人
が雑誌上で論争を繰り広げたのは有名である。
(7)その他の人々
 詳しいエピソードが無い為余り述べることは出来ないが、他にも数奇屋として知られる者たちは多い。野村證券の創立者・野村得七(得庵)は薮内節庵・竹空紹智に茶の湯を学び、南禅寺に碧雲荘を作り502回の茶会を開き、一方で2077回もの茶会に招かれたという。帝国蚕糸の原富太郎(三渓)は、「三渓園」を作りそこに「臨春閣」「月華殿」「春草廬」などの茶席を設けた。この三渓園では大師会が開かれていたこともある。和敬会のメンバーであった軍医総監石黒忠悳(況翁)は、「好求録」を著して名物の名にとらわれることなく科学的に陶器としての茶道具の価値を鑑定しようとしたことで知られる。阪急電鉄の創立者小林一三(逸翁)は、三井に入社後に表千家流を学び、雅俗山荘を作り、また著書「大乗茶道記」では家元の選挙制を提唱した。王子製紙を支配し製紙王といわれた藤原銀次郎(暁雲)は昭和六年にパルプの原料輸入の関係で親密であったスウェーデンの首都ストックホルムで日本展が催された際、茶席を作る事を依頼された。これに応じる形で四年後に「瑞暉亭」が建てられた。彼はフィラデルフィアにも茶席を移築しており、これらによって外国人による茶の湯への憧憬が加速され、その国際化に貢献することとなった。他に、弘仁堂・撫松庵・無車庵を建てた東武鉄道の根津嘉一郎(青山)、五島慶太、荏原製作所の畠山即翁、山口銀行を創立し薮内節庵に茶を学んだ山口吉郎兵衛が知られたところである。これら数寄者たちの集まりとして大師会・和敬会・十八会の他に知られた茶会としては大寄せの「光悦会」が有名である。光悦寺を復興するために京都の古美術商土橋嘉兵衛が大虚庵を寄進し、大正五年には土橋の他に高橋箒庵らが本阿弥庵を寄進した。その二年後の11月に、土橋や山中定次郎、益田鈍翁、馬越化生、団琢磨を主要メンバーとし、三井松籟を初代会長として第一回の光悦会が開かれたその後昭和十年に徳友庵も寄進され、関西の数寄者が集まる席として栄えた。現在でも11月の11,12,13日に催されている。戦後の財閥解体などによりいわゆる数寄者たちの時代は終わりを告げた。しかし彼等の収集した嘗ての秘蔵品は、美術館に収められて一般公開されている。有名な所では根津青山の根津美術館、五島慶太の五島美術館、畠山即翁の畠山記念館、藤田香雪の藤田美術館、小林逸翁の逸翁美術館、村山玄庵の香雪美術館、山口吉郎兵衛の滴翠美術館、嘉納鶴翁の白鶴美術館がある。
(8)数寄者たちの歴史的評価
 以下は私の個人的意見であるが、茶の湯の歴史における数寄者たちの特徴とは一体どういう物だったのか考えて見たい。道具の収集とその披露という美術鑑賞、そして山海の珍味に舌鼓を打ち場の趣向を味わう、楽しみとしての茶の湯。その道具立てにおいても過去の仕来たりにとらわれず自由に機智を働かせたのである。また、大寄せ茶会は名士たちが集い社交の場としても機能した。これを、茶禅一味をモットーとする珠光・利休らの侘び茶と比べるとその違いは明らかである。「わび座敷の料理だて、不相応なり。」「名物一種だにあらば、わび数寄するが本意なり。」(「南方録」)「藁屋に名馬をつなぎたるごとし。」(「山上宗二記」)「仏法を以て修行精進することなり。」「家はもらぬほど、食事は飢えぬほど。水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏に供え」「仏祖の行いのあとを学ぶ」(「南方録」)「無二無三みがけやみがけ竹茶杓みがき上れば一物もなし」(一燈宗室)こういった仏道修行の一環としての本来の茶道観からすれば数寄者たちの茶の湯は批判されて然るべきであろう。利休が嘗て「私亡き後、茶の湯は隆盛し、何十畳の座敷で行われるであろう。しかし茶の心は滅ぶであろう。」と予言したのはこのことかもしれないのだ。柳宗悦も「著名な諸道具がよく揃い、結構な茶室で行われる茶の湯」を「金持権力の「茶」に落ちるもの多く、そんな「茶」に「茶」の帰趣があるわけがない。」と否定している。これらの批判は無論一理があり、厳粛に受け止めるべきであろう。人間修行としての面が欠落したなら、最早「茶道」とは呼ぶことは出来まい。成金達の中には社会的ステータスとしての一面に気を取られる余り金に任せて道具を買い漁り茶の心得も無いにもかかわらず茶会と称するものを開いた手合もいないではなかったのだから。しかし一方で、これら数寄者がいなかったなら、今日まで茶の湯は存在し得たであろうか。大寄せ茶会を通じてこのように庶民にまで茶は普及したであろうか。茶の湯の生存に彼らの力が大きな役割を果たしたことは疑えないであろう。また、彼らの趣味趣向によって新たな生命が吹き込まれたことも争えない事実である。松平不昧が「習にかかはり、道理にからまれ、かたくるしき茶人は、田舎茶の語と笑ふなり」と述べているが、その考え通り、流派に関り無く自由であったのだ。益田鈍翁を始めとするこのレジュメで取り上げた数寄者の茶会を見るかぎり、金持の贅沢ではあるかもしれないが成金趣味とは断じて言えない。彼らなりの美意識を作り上げ、それによって自らを洗練させ磨き上げたと見るのが妥当であろう。(何しろ茶の湯に一家言持つ者すら少なくないのであるから。)禅の修業として人間完成を目指す茶は、現実問題として誰にでも出来る物ではない。ならば客と亭主との交わりを重んじ、もてなしの心を忘れない限り、色々な形の茶があっても構わない気が私はするのである。評価は人によって分かれるであろう。ともあれ数寄者たちの存在が現在の茶の湯のあり方に大きな影を落としていることだけは疑いの無い所である。。


参考文献
茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法 講談社編
裏千家茶道教科教養編G茶人伝 千宗室監修 井口海仙編 淡交社
裏千家茶道教科教養編H茶道史 千宗室監修 村井康彦編 淡交社
近代の芸文と茶の湯 戸田勝久 淡交社
茶人と茶器 筒井紘一 主婦の友社
国史大事典 吉川弘文館
茶道辞典 井口海仙・永島祐太郎監修 淡交社
茶道名言集 井口海仙 社会思想社
チャート茶道史 谷端昭夫 淡交社
必携茶の湯便利帳 主婦の友社編
高橋箒庵大正名器鑑実見記 小田栄一編 淡交社
茶の湯ハンドブック四茶人・花押小事典 小田栄一 主婦の友社
茶室の見方 中村昌生 主婦の友社
茶の心 桑田忠親 東京堂出版
柳宗悦茶道論集 熊倉功夫編 岩波文庫
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 金園社
茶の湯Q&A 淡交社編集局編 淡交社
岩波国語辞典 岩波書店
マイペディア99 日立デジタル平凡社


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