1999年11月26日
トマス・アクイナス  マリー


 先回は、近世思想界の大立者ともいうべきKantの思想を取り上げて論じたのですが、今回は中世思想の大成者といえるTomas・Aquinasについてその生涯と思想の概略について論じてみたいと思います。


(1)生涯
 1225年(?)、トマスは、南イタリア、アクィノの領主ランドルフ伯とテアテのテオドラとの間に、7番目の末子としてナポリ近くのロッカ・セッカの城に生まれた。父はロンバルデイア貴族の家系であり、母はノルマン系貴族の出身であった。
 1231年、6歳の時、彼はモンテ・カシーノの修道院に預けられ、14歳になるまで、そこで幼時の教育を受けた。
 1239年、彼はモンテ・カシーノを去り、ナポリ大学の教養部に入った。それより約20年前、ボローニャにおいて創立されたドミニコ会の修道士は、ナポリに学校を建て、それはナポリ大学の一部となっていた。若きトマスは、かくて、ドミニコ会の修道士たちと、大学において知り合うようになった。
 1243年、18歳の時、彼は、ナポリにおいて、ドミニコ会修道士の着衣を受けた。トマスのドミニコ会入会の報知は、彼の家族を驚かせた。父は数か月前に死に一家の権は母テオドラに委ねられていた。彼女はその報を受けるや否や、皇帝フリードリッヒ2世のもとにあった子息レジナルドのもとに特使を送り、トマスを連れ戻すように命じた。他方、ドミニコ会の上長は、一つにはトマスをその家族から引き離すため、一つには彼の神学研究を完成させるために、彼を当時神学の中心地であったパリに送ることに決め、一行は徒歩でローマを過ぎ、トスカナに到着した。彼らが泉のほとりで休んでいると、突然武装した一団が現れ、トマスを略奪してつれ去った。母テオドラの指令を受けた兄たちの仕業であった。彼はロッカ・セッカの城につれ戻され、そこに幽閉された。家族の者たちは、彼を世俗に引き戻そうとしてある夜、彼の部屋に美女を送り込んだが、彼はそれを追い払った。トッコのギレムス(Guillemus de Tocco)によると、このときトマスは、身のうちに突然情欲のわきおこるのを感じたが、燃えている薪を炉から取って女を追い出し、その後同じ薪で壁に十字を記し、床に伏して眠ったという。やがて疲れから眠りに落ちたトマスは、夢の中で2人の天使の訪問を受けたという。天使たちはトマスが貞潔を守るために戦ったことを称賛し、「われらは神に代わって汝を貞潔の帯で固めよう。この帯はいかなる誘惑によっても破られることはないだろう。」と語りつつ、携えた帯でトマスの腰を強く締め付けた、という。幽閉の期間、彼はドミニコ会の規則を守って生活し、聖書を読み、ロンバルドゥス『命題集』の研究に勤しみ、次第に周囲のものたちを感化していった。そして遂には、はじめ熱烈に彼のドミニコ会入りを反対していた母が、すすんで彼の志望の達成のため尽力するようになった。かくて約1年ののち、彼は家族全体の決議によって幽閉を解かれ、1245年、ナポリに戻り、ついでアルプスを越えてパリに到り、同地のドミニコ会修道院において修練期を過ごし、そこに約3年間留まった。当時パリには、アルベルトゥス・マグヌスが教壇にあり、トマスはそのもとで学んだのである。
 1248年、アルベルトゥスがケルンにドミニコ会の神学校を建設すべく帰国を命ぜられると、トマスも師にしたがってケルンに赴いた。そして同地において4年間、神学校創設の事業を助けつつ、師のもとにひたすら研究に勤しんだ。1252年、彼は師の推薦により再びパリに戻り、聖ヤコブ修道院において、はじめ聖書を、ついで『命題集』を講じた。毎日トマスは聖ジュヌヴィエーヴの丘のうえの聖ヤコブ修道院において教えた。同修道院の神学講座はパリ大学の一部になっていた。単にドミニコ会の学生のみならず、外部からも多数の学生が、彼の講義に集まった。定期的に討論(disptatio)の行われる日には、大学の要職にある人々や司教も列席して討論を聞いた。トマスの名声は日増しに上がった。それにつれて反対者もでてきた。それは聖アムールのギョームを先頭とする世俗司祭たちであり、当時急速に大学内に勢力を拡大してきていた2つの修道会−ドミニコ会とフランチェスコ会−の神学者たちに対し、これを学外に追放しようと企てたのである。トマスはこれに対し『論敵するものたちを駁す』を書いて、新しい修道会の立場を弁護した。1256年、トマスは神学者としての最高学位「magister」を受けた。『イザヤ書』および『マタイ伝』の注解、『命題集』全4巻の注解、『真理論』、等の著作が、この時期にできあがった。前記の著作に引き続いて、1257年に'は、ボエティウス『デ・ヘブドマディブス』および『三位一体論』の注解、1261年には、ディオニシウス『神名論』の注解等が書かれた。『命題論注解』に続く第2の体系的著作『対異教徒大全』もこの時期に着手されている。
 1259年、34歳、彼はイタリアに戻り、そこに9年間とどまった。初めアニャー二に、ついでオルヴィエトに、常に教皇の宮廷にあって、教皇アレクサンデル4世・ウルバヌス4世、クレメンス4世らの知遇を受けた。この時期、彼の知的活動は一段と活発になった。聖書の注解としては、四福音書についての教父たちの注解をまとめた『黄金鎖』、パウロの『書簡』の注解、『哀歌』、『エレミア書』の注解が書かれた。定期的討論の所産である、『能力について』、『霊的被造物について』、『魂について』、『徳について』、『愛について』、『受肉せる御言の一致について』、等の論集が次々と編集され、まとめられて『能力論』という著作になった。アリストテレスの主な著作への注解も、この時期に始まる。まず、『心理学』、『感覚論』、『記憶論』の注解を完成し、ついで『形而上学』、『自然学』の注解に着手した。体系的著作としては、1261年から63年にかけて、『対異教徒大全』第1-4巻が完成し、1265年には『神学大全』に着手し、3年をかけて、第一部を完成している。1268年の秋11月、トマスは突然パリに呼び戻され、ミラノを経て翌年1月、パリに到着、再び教壇に立つことになった。当時、パリ大学の教養部には、ブラバンのシゲルスを代表するいわゆるラテン・アヴェロエス主義者が主流をしめ、旧来のキリスト教の信仰を脅かしつつあったので、彼らに対抗しうる神学者としてトマスはパリに呼び戻されたのである。第3回目のパリ滞在は、1269年から72年4月まで約3年続いた。この間彼は大学で教えながら、アヴェロエス主義者と論争し、これを論駁して『知性の単一説について』を書いた。知性の単一説とは、アラビアの哲学者(特にアヴェロエス)たちのアリストテレス解釈による、人間には能動知性と受動知性とがあり、受動知性は各人の肉体と結合して個別であるが、能動知性は万人に共通で普遍的に一つのものである、という説でこれによると死とともに受動知性は結合していた肉体とともに滅びるが、能動知性は存続する。つまり不死であるのは人間の魂でなくて普遍的知性であり、それは人間に共通的であるのみならず、神の知性にでるものとして、神的性格を帯びている。故にそれが神によって審判されるというようなことはありえなくなってしまう。トマスはこの説に対してそのような考えは、むしろアリストテレス解釈の誤解にもとづくものとして厳しく批判している。知性単一論及び世界永遠論という顕著なアヴェロエス的命題に関して、シゲルスは自己の異端的な意見を撤回したらしい。例えぱ『霊魂論』を注釈して、彼はアヴェロエスの知性単一論が真でないと認めるばかりでなく、トマスやその他の人々によって提出された反論の重要性を進んで認めているからである。したがって二人の違った人間における二つの違った作用が、一つの知的能力のないし数的に一つの原理から同時に生ずることは不可能であると認める。同様に、『自然学討論集』で運動の始めは理性によって証明できないとしても、運動は永遠ではなく始めをもつことを認める。しかしこの表向きの外面上の変更が実際に意見の変更を含んでいたかどうか、あるいはこれは1270年のパリ司教ステファン・タンピエによる禁令を考慮した用心深い態度だったのかどうかを確実に決めるのは困難である。〈この箇所については川添信介氏の論文を参照)トマスはまた、聖書については『ヨブ記』および『ヨハネ伝』の注解を書き、アリストテレスに関しては、イタリア滞在中に着手した『形而上学』の注解を完了し、さらに『ニコマコス倫理学』、『気象論』、『命題論』、『分析論後書』、『政治学』の注解を書き、さらに『原因論』の注解を書いた。また『悪について』、『枢要徳について』、『希望について』の討論集を書いた。これら多くの著作を残しながら、しかも彼はイタリア滞在中に着手しすでに第一部を完成した『神学大全』を書き続け、1268年から70年に到る間に、その第二部の一を、更に71年から72年にかけてその二を書き終わり、5年をかけて第二部を完了した。1272年、彼は上長の命令でイタリアに戻った。それは同地に神学校を創立するためであった。創立の場所として彼はナポリを選んだ。そして同年の秋、ナポリに戻った。その地において彼は、神学校建設の事業をすすめながら、『詩編』、『ロマ書』、『コリント前書』の注解を書き、アリストテレス『天界論』、『生成消滅論』の注解を書いた。『神学綱要』(Compendium Theologiae)もこの時期に完成したものと思われる。同時に彼は全精力を傾けて、『神学大全』第三部の完成に専念した。
 しかし1273年12月6日、聖ニコラウス聖堂においてミサを捧げていた時、突然心境の大変化が彼の心に起こった。以後彼は、それまで寸暇を惜しんで続けてきた著作の筆を投げ、一切筆をとらなくなった。僚友(秘書〉のレギナルドゥスが驚いて、著作を続行するように勧めたのに対し、彼はただ、もうできない、と繰り返すぱかりであった。そして最後に、「レギナルドゥス、私にはできない――私がこれまで書いたものは、すべて藁屑のように見えるからだ。」と答えたという。以後彼は放心状態に陥った。数日後、彼は、深く愛していた姉〈妹?〉サン・セヴェリーノの伯爵夫人に会いたがり、疲労をおして出掛けた。喜び迎えた姉の挨拶に対して、彼は無言のまま茫然としていた。驚いた姉が、「弟〈兄?〉はどうしたのでしょう?何もいいません。」と、連れだってきたレギナルドゥスに尋ねると、彼は、「聖ニコラウスの祝日以来、あの状態なのです。あの日以来、彼は何も書きません。」と答えた。
 翌1274年、教皇グレゴリウス10世は、リヨンにおいてギリシアとラテン教会との一致を主要議題とした第14回公会議を開き、トマスを招いた。フランシスコ会の神学者ボナヴェントゥラもまた、参加するはずであった。トマスはレギナルドゥスとともに、騎馬に乗って出発した。途中、レギナルドゥスは彼を慰める為に、冗談のように言った。「君はボナヴェントゥラのように枢機卿になるよ。我が会にとって大いなる光栄だな。」トマスは答えた。「私は教会のなかでも、我が会のなかでも、何か偉い者になりたいとは思わない。今のままでいるのが一番いいのだ。」
 途中、カンパーニャにおいて、彼はマエンザ城に住む姪のフランチェスカのもとにとどまった。到着するや否や、疲労のため、重体に陥った。病の重いことを感ずるや、彼は近郊フォッサノーヴァのサンタ・マリア修道院に運ばれることを切に乞うた。それは聖ベネディクトによって建設されたシトー会に属する修道院であった。6歳にして、ベネディクト会発祥の地モンテ・カシーノの修道院に預けられたトマスは、その生涯を閉じるにあたり、再び聖ベネディクトのもとに戻ったのである。そこで1か月、彼は最後の病苦を柔和と謙遜とをもって耐えた。修道士たちは、この聖なる学者のために手厚い看護を尽くした。修道士たちの乞いに応じて、彼は『雅歌』についての簡単な解説をした。それから大修道院長テオバルドに聖体を乞うた。修道院長が彼のもとに聖体を運んで行くと、彼は涙を流してその前にひれ伏し、礼拝し、そして言った。「私はあなたを受け奉ります。私は夜を徹して学び、労し、説き、教えました。それはすべてあなたへの愛のためでした。」3日後、彼は死んだ。1274年3月7日、49歳であった。


(2)資料
 (省略)


(3)思想−神の存在証明について−『Summa Theologiae』Pars.I,q.2,a3を読む
 1,2,3の証明に関する補注;
 まずトマスが無限の系列は不可能であると言う場合、彼は時間の中で遡及する系列、言わぱ「水平」の系列を考えているのではない。例えば彼は、子供がその生命を両親に、両親はさらにその両親に自己の生命をおっているが故に、両親をもたず直接に神によって創造されたある最初の一組の男女が存在しなければならないと言っているのではない。トマスは、世界が永遠から創造されたのではないことを哲学的に証明できるとは考えなかった。彼は世界が永遠から創造されるという理論的可能性を認めるが、このことは、同時に始源のない系列が存在しうることを認めるのでないかぎり承認しがたい。彼が否定するのは、実際に依存している原因の秩序における無限の系列、すなわち「垂直」の系列の無限である。実際に世界が永遠から創造されたと仮定するなら、無限の水平の系列あるいは歴史の系列があることになろうが、この系列全体は偶然的存在から成り立つことになろう。始めのない存在があるということは、この系列全体を必然的なものとしないからである。それゆえこの系列全体は、この系列の外にあるものに依存しなけれぱならない。しかし止まることなく遡及するとしても、この系列が存在することについての何の説明も得られないであろう。すなわちそれ自体なにものにも依存しない存在者があると結論しなけれぱならない。
 第二に、前に述べた注意を考えるならば、いわゆる数学的な無限の系列はトマスの証明とは何ら関係ないことがわかるだろう。トマスが否定したのは、無限の系列そのものの可能性ではなく、存在論的依存の秩序における無限の系列の可能性なのである。言い換えれぱ、経験界の運動と偶然性が、究極的な十全の存在論的説明なしにも存在できることを否定する。
 第三に、動かされずして動かすものないし第一原因、あるいは必然的存在が神と呼ぱれるものであるというのは、トマスにしてはやや軽率なことと思われる。明らかに、もし何かが存在するならぱ、必然的存在がなけれぱならない。形而上学が.まったく拒否されるのでない限り、思考は当然この結論に到達せざるをえない。ところが必然的存在は、我々が神と呼ぶ人格的な存在でなけれぱならないかというと、これはそれほど明確ではない。純粋に哲学的な論証が、十全に明らかにされた神の概念を我々に与えないことは特に説明を要しない。しかしキリストによって啓示され教会によって説かれる神の十全な概念を別として、純粋に哲学的な論証は一体人格的な存在を我々に示すだろうか。トマスは神に対する信仰のため、論証の結論の中に実際に含まれている以上のことを見いだすことになったのではないだろうか。トマスが『神学大全』に示した証明に書き添えた実際の句(〈これをすべての人は神と考える〉、第一起動因、〈これをすべての人は神と呼ぶ〉、〈これをすべての人は神と言う〉)は、それだけ取り出してみれぱ、性急な結論であることを認めなけれぱならないと思う。しかし『神学大全』が大綱であり、(そして主として)神学的な教科書であることを別としても、これらの句を引き離して考察すべきではない。例えぱ必然的存在についての実際の概略的説明は、この存在が質料的か非質料的かを示す明確な論証を含んでいない。したがってこの存在はすべての人によって神と呼ぱれるという証明の最後の言葉は、十分な保証はないように思われる。しかし次の論題の最初の項でトマスは神は質料的であるかどうかを問題にし、神はそういうものではないと論じている。したがってこの問題の句は、神を信じているすべての人によっては神は第一原因であり必然的存在であると認められているということを表したものとして理解すべきであって、それ以上の論証に対する不当な圧力として考えるべきではない。いずれにせよトマスはこれらの証明の輪郭を与えているのにすぎない。もし彼が公然たる無神論者であるようなマルクス主義者を扱わねぱならなかったとすれぱ、疑いもなく異なった仕方で、あるいは少なくともより詳細に展開した形でこれをおこなったであろう。が実際は彼の主な関心は〈信仰の前提〉の証明を与えることである。『対異教徒大全』でさえも、トマスは神に対する厚い信仰をもっていたイスラム教徒を対象にしているのである。

 4の証明に関する補注
 議論の対象があらゆる感覚的対象を超える存在であるので、問題になるこの完全性は明らかに自存しうるような純粋な完全性である。この完全性は延長とか分量に対して何ら必然的関係を含まない。この論証の起源はプラトンにあり、分有の考えを前提にしている。偶然的な存在者はそれ自体で自らの存在を所有しないし、その善あるいは存在論的真理をも所有していない。それは自らの完全性を受け取り・完全性を分けもっている。完全性の究極的な原因はそれ自体完全でなけれぱならない。すなわちそれは他から自らの完全性を受け取ることはありえず、それ自体完全性でなければならない。これは自存する存在であり、完全性である。したがってこの論証は、さきの証明ですでに用いられた原理を純粋な完全性に適用する場合に成立する。すなわちこの論証はプラトン的伝統に属するものでありながら、実際には他の証明の一般的な精神から離れてはいない。しかしこの論証についての主な問題点の一つは、絶対的な自存する完全性である一つの存在が現実に存在することを証明する前に、現実に存在や完全性の客観的な段階があることを示す点にある。
 
 5の証明に対する補注
 カントはこの証明の古典性、明晰性、説得性をかなり尊重していたが、『純粋理性批判』の原理にしたがって、証明の論証的な性格は認めなかった。つまりこの証明は、宇宙の設計者、支配者、あるいは建設者に導き、無からの創造者でもあることを示すためには、これ以上の推論が要求される


<参考図書>
世界の名著 トマス・アクィナス 山田晶 中央公論社
トマス・アクィナス 稲垣良典 講談社学術文庫
中世哲学史 F.コプルストン 創文社
ヨーロッパ中世の哲学 エドワール・ジョノー Que sais-je?
聖トマス・アクィナス グラープマン 長崎出版株式会社
『SUMMATEOLOGIAE』 Marietti版
The Divine Comedy Dante Alighieri Tran.by C.S.Singleton Vo1.2 Vol.3
川添信介 特殊講義text et トマスはシゲルスを論破したか−知性単一説と人間の魂のcommunicare esse

その他、良書として
トマス・アクィナス 稲垣良典 けい草書房
後期中世の哲学 J.マレンボン けい草書房
がありますが、取り扱っているtopicが直接関係ないのであえて参照しませんでした。特に後書は現代における中世哲学の実際を扱っていて興味深い本です。


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