1999年12月17日
天神信仰の展開  NF


(1)はじめに
 学問の神・天神様と言えば皆少なくとも一度はお世話になった事があるのではなかろうか。そこで天満宮の歴史について今回は行いたい。
(2)農業神としての雷神
 農民たちにとって、雨の多少は死活問題であった。そのため雷を伴って雨をもたらすと考えられた雷神(天神)は、彼等には生活を支える信仰の対象となる。「雷の落ちた田には稲がよくなる」という経験則もまたこれに関係したかもしれない。今日、天神として祭られる菅原道真公自身、讃岐守時代には雨を願って雷神に祈りを捧げた記録が残されている。全国各地に雷神を祭る祠が存在したものと考えられる。民俗学的に見てそこで雨を祈って牛を生贄に捧げる儀式が行われたのではないか、というのが定説である。天神とそのシンボル・牛との最初の関りをそこに見出しているのだ。
(3)怨霊としての菅原道真公
 怨霊を人々が恐れる現象は平安時代だけでも数多く存在したが、それには以下の共通点があるという。@都市の発展段階において色々な問題が噴出A自然災害・疫病・都市災害の原因が特定の個人に帰せられているBその個人は謀反(最大の罪)の疑いにより都市から放逐されて異郷で死んだものである。
 さて、周知のように、宇多・醍醐天皇のもとで学者としては異例の出世を遂げた右大臣・菅原道真公は、昌泰四年(901)、左大臣・藤原時平やそれに結び付いた三善清行ら反対派の学者の讒言によって大宰府に左遷され、二年後の延喜三年(903)2月25日にそこで没した。その直後から、奇怪な出来事が起こり始めた。それらが不遇の内に死んだ道真の怨霊の仕業と受け取られたのは、時代背景から考えても自然な成り行きであった。まず、宇多上皇が道真左遷の撤回を醍醐天皇に求めようとした際にそれを阻止した藤原菅根が延喜八年(908)に死去。翌年には時平が急死。延喜十三年(913)には後任の右大臣・源光が事故死。翌年には都で大火。さらに延喜二三年(923)には皇太子保明親王が死去。朝廷はこれに慄いて年号を「延長」と改め、更に翌年には道真を右大臣に復職させ、正二位を追贈して左遷詔書を破棄した。しかしその甲斐なくその翌年には皇太子慶頼親王が死去。延長七年(929)には都で台風による洪水。更に翌年には日照り。そして極め付けがこの年の清涼殿への落雷であろう。大納言藤原清貫、右中弁平希世が死亡した。醍醐天皇も以後病床に伏し、間もなく崩御している。こうした中、941年に道賢上人が吉野金峯山で頓滅して13日後に蘇生し、「日本太政威徳天」となった菅公の霊に遭ったと述べたという。翌年、七条二坊の多治比文子の夢に菅公が現れ右京馬場に祭る様に述べた。後に比良宮の神官の子・太郎丸も同じ夢を見たためそこに祠を建てて菅公を祭った。それが北野天満宮の始めだと言う。一方、大宰府において道真公の舎人・味酒安行が主君の墓所を作りそこに安楽寺を建立した。この時棺を牛に引かせたが途中で動かなくなったので場所がそこに定められたと言う。太宰府天満宮である。しかし、これは道真公の怨霊、特に内裏落雷に怯えた朝廷が雷神などを時に祭っていた北野の地に道真の霊を祭って怒りを鎮めようとしたのが本当であろう。(雷は農民には福音でも都市民には恐怖の対象でしかない。)また、大宰府での棺のエピソードは、雷神と深い縁のあった牛と道真公とを後世に結び付けようとしたものであろう。
(4)学問・文章の神
 やがて、北野・大宰府ともに菅原氏一門によって祭られるようになる。摂関政治の下でも大江氏と共に文章博士の地位を代々受け継いできた菅原氏にとってこの偉大な先祖を祭った祠は氏神的な存在となっていったのであろう。また、藤原氏もこの強力な怨霊を手厚く祭ることで逆に自らの守り神としようとの考えから、祭祀を怠らなかった。例えば、後のこととなるが慈円は「愚管抄」でこう述べている。「天神ハウタガヒナキ観音ノ化現ニテ、末代ザマノ王法ヲマヂカクマモラントオボシメシテ、カカルコトハアリケリ」「日本国小国也、内覧ノ臣二人ナラビテハ一定アシカルベシ、ソノ中ニ太神宮鹿島ノ御一諾ハ、スエマデタガフベキコトニアラズ、大織冠ノ御アトヲフカクマモラントテ、時平ノ讒ニワザトイリテ御身ヲウシナヒテ、シカモ摂ろくノ家ヲマモラセ給ナリ」露骨な摂関家擁護というべきであろう。その為、早い段階から官寺的性格を帯び始めるのである。貞元元年(976)太政官符によって別当が菅原氏から任命されるようになり、また勅祭の社として奉幣をうける時、北野使に菅原氏を選ぶ慣例となったのがその一例であろう。そして正暦四年(993)、道真に正一位太政大臣が追贈された。この際、大宰府で使いが詔を読んだとき、天から次のような詩が聞こえた。
「昨は北闕に悲を蒙る士と為り 今は西都に恥を雪ぐ尸と作る 
 生きての恨み死しての歓び其れ我を奈ん 今須く望み足る皇基を護るべし」(太平記)
以降、国家鎮護の神としても祭られるようになった。寛弘元年(1004)には一条天皇が参詣し延暦寺曼殊院の是算を別当に任じた。以降比叡山の支配する権門の一翼を担うようになる。平安後期となると、ただ菅原氏のみならず、儒家全般に関しての神と受け取られるようになった。例えば、安元三年(1176)に菅原在茂の子在高に学問料を給わる時、儒家の間で反対が起こった。在茂は従五位下に過ぎず在高もまだ一六歳で賢愚が分からぬからである。この時九条兼実は「玉葉」において天神は単なる菅氏の氏神である
だけでなく儒家一般への考慮が必要であろうと述べた。
 一方で、慶滋保胤が寛和二年(986)に「天満天神廟に就いて文士を会して詩篇を献ず、其天神を文道之祖、詩境之主と為すを以て也」と述べている。またある年に菅原輔正が北野廟に宴を設けて文士を会し詩篇を献じた。後になると菅原氏の子弟が17,8歳のときに北野の神前で詩篇を捧げるのが恒例となった。北野献策と呼ばれる。こうして天神は詩文の神としても変身していく。これによってまた様々な伝承が生じる。例えば、道真が白楽天風の漢詩に長じていたことから、道真を白楽天の後身であるとする考えも生まれた。そして何時とはなく道真が能書家であると言う言い伝えが広まっていった。これが発展して、藤原頼長の「台記」には、天神は弘法大師の後身であり、小野東風は北野天神の後身であるという説が載せられている。鎌倉時代になると元久元年(1204)、北野宮歌合が行われ聖廟法楽として和歌・連歌の会が営まれる端緒となった。この詩文の神の出現は、都の貴族の喜びに留まらず、各地に広がり始める。農耕神として天神社が旧態のまま残されていたが、この時期に一挙に詩文の神として変身し始めるのだ。天神講の開催が求められ、菅原道真公との関連を示す為に盛んに天神縁起の絵巻が作られたのである。特に瀬戸内地方の天神社は、道真流謫のさい立ち寄ったと言う伝説が残される。
 一方で、大宰府の安楽寺もそれに連携する様に地位を上昇させていった。菅原氏一族が別当に任じられるようになり、やがて太政官符による任免となった。また大宰府官人により宮廷文化の移入が積極的に勧められたのである。(曲水宴、残菊宴、内宴、五節句など)
(5)広がる効験
 こうした流れとは別に、神仏集合の進む中で天神は十一面観世音菩薩と同一視され慈悲の神として崇められる様になっていく。天神は正式名として「天満大自在天神」という称号を朝廷から贈られているが、一方で観音は三十三身に応化するといわれ、その一つに大自在天身があるためであろう。道真自身やその母が観音への信仰が厚かったというのも無関係ではなかった。「本地を尋ぬれば、大悲大慈の観世音、弘誓の海深うして、群生済度の舟、彼岸に至らずといふこと無し。垂迹を申せば、天満大自在天神の応化の身、利物日々に新たにして、一束結縁の人、所願心にまかせて成就す。」(太平記)一方智恵を司る文殊菩薩もまた文教と深く関っていた為、次第に結合した。今でも25日に文殊天神法楽が催されている。平安時代の早い段階から、冤罪を晴らす神としても信仰される様になった。道真自身が冤罪に苦しんだという考えからであろうか。「十訓抄」「古今著聞集」、「袋草子」には院政期の雪冤のエピソードが載せられていると言う。また、鎌倉時代になると、道真が至誠の人であったとして誠・正義の神としての信仰も集められた。起請文を作る際には熊野と並んで北野の牛王宝印が用いられたのである。特に京都で神官が起請文を書くときには必ず北野で行う様にとの命令が鎌倉幕府から出されたのである。室町時代では起請文の中に天満大自在天神の名号を挙げるのが普通であった。一方で浄土信仰が法然・親鸞といった人々により普及していく中、浄土を擁護する神とされるようにもなる。「北野天神縁起」には仁和寺の西念が北野に参詣して極楽往生を日々祈った所、二年後に来迎往生できたと言う話がある。また孝道の擁護者としても崇められ、「北野事跡」には「おほよそ天神信仰申さむ人は、まづ忠孝をさきとし、」と記されている。また、鎌倉後期には禅僧の間で、天神が宋に渡って仏鑑禅師に参禅し、衣を授かるという渡唐天神の伝承が広まり、唐服を纏い梅枝を持った天神の画像が描かれるようになった。漢詩文・朱子学を学んだ五山の禅僧達の間で道真信仰が盛んになったことによりこうした話が生まれたのであろう。仏鑑禅師の偈「天下梅花主、扶桑文字祖、這箇正法眼、雲門答曰普」という賛が画像には描かれる。室町時代になると住吉・玉津島とともに和歌の神として仰がれ、柿本人麻呂・山部赤人とともに三神として称えられた。更に、この頃から流行した連歌が文学神である天神と結合したのは当然の流れであろう。康暦二年の「新札往来」に天神法楽として「管絃講一座、続歌百首、連歌千句、各一七箇日間可果遂候」とある。こうして天神法楽として連歌の会合が北野の神前に催され、恒例として天皇・将軍もその中の一首を詠じ、時には天神自ら夢想で神作を現したといわれ、天神は特に連歌を好まれると言われるようになった。例えば、「連歌私淑抄」には二条良基の所に天神の使いである童子が百韻の連歌一巻を持ってきて点を所望した話が載せられている。応永年間に北野千句が常例となった。足利義教の時代から北野連歌会所が設けられ、近江国八坂荘を始めとする連歌会所領も存在した。
(6)天満宮の普及
 こうした中、道真公を祭神とする天神信仰が全国に急速に普及していく。前述したように、全国の天満宮はその所在地と道真公との関連を示す為に天神縁起を作成する。天神縁起は縁起絵巻の中でも最も整備された物で、各地の天満宮で鎌倉時代から江戸時代にかけて書き継がれた。前段が菅公伝、後半は神霊としての天神を描いている。「風月の本主、文道の大祖たり。天におはしましては日月に光をあらはし、国土を照らし、地にあまくだっては塩梅の臣と成って群生を利したまふ。」(太平記)という神格として描かれる。ところで、菅公伝は父・菅原是善の邸に童子がどこからともなく現れ「特に定まった家も無いので貴方を親としようと思う」と言った為、是善は喜び子として育てた、これが道真公であるというエピソードから始まる。今まで人間が死後神となったケースが無いため、菅公は元来仏の化身とするための話であるという。また、若き日の道真公が都良香邸で弓を射て悉く射ぬいたというエピソードがあるが、これも「過去現在絵因果経」(釈迦伝)や「聖徳太子絵伝」に倣って菅公が仏菩薩の化身であることを示そうとしていると考えることも出来る。ともあれ、これ等の中では承久元年に作られたと見られる「北野天神縁起」承久本が最も有名である。全九巻であるが、承久の乱の影響か、未完に終わっている。
 一方、初期の天神の荒ぶる神としての影響も、全国に及んでいる。菅公が流される途上、上陸地に休む所も無く浜辺に帆綱を円座の形にして仮の座としたと言う綱敷天神が明石、今治市桜井町、博多などに祭られる。また、菅公没後間もなく、叡山座主法性房尊意の下に菅公の霊が現れ、内裏へ行き恨みを報じようと思うのでたとえ勅宣であっても参内してはならぬと言うので、尊意は、天下は皆王土であるので宣旨が三度に及んだならどうしようもないと答えた。そして喉が乾いているだろうと柘榴を菅公に進めた所、菅公は柘榴を妻戸に刷きかけ、柘榴は炎となり燃え付く。尊意が印を結ぶと火は収まったという柘榴天神の伝説も世に広まった。そして川を渡るときに衰えた自分の姿を見て菅公が憤怒の相を浮かべたという水鏡天神も福岡の端口天神に祭られている。
 謡曲で天神を扱ったものも多い。右近、千手、老松、雷電、輪蔵、舞車、巻絹、橋弁慶、道明寺、藍染川である。雷電・舞車は菅公の怨念を(雷電は前述の柘榴天神の話)、右近・老松は社殿の景勝を、巻絹は天神が文学を好むことを、道明寺は天神が神としての快楽を尽くすのを描くという。
(7)北野大茶会
北野社は中世においては芸能の盛んな地でもあった。舞楽、田楽、猿楽が奉納の名の下でしばしば行われた。中でも猿楽は足利将軍が好んで勧進を行ったのである。慶長年間には、お国が歌舞伎踊りを北野社頭で行ったのは周知の所であろう。さて天正十五年十月一日、関白豊臣秀吉は北野社拝殿において自ら点茶して奉納し、境内に茶席を設けて「唐国の者までも」広く天下の茶人を集め、名器を陳列し、貴賎に関らず参加を許した。北野大茶会である。その布告は足利将軍が勧進猿楽を行ったときのものに倣っていると言われる。これに参加しない者は以後茶を点ててはならぬとの命も出されたと言う。利休により実地の企画が行われたこの茶会は当日、籤取りによって大衆に茶を出したのであるが、一の籤は秀吉、二の籤は利休、三の籤は宗及、四の籤は宗久であった。また、それに先立って秀吉は近衛信輔、日野輝資、家康、信雄、秀長、利休らに自ら点前して一服与えた。著名な黄金の茶室もその場に運ばれていたのではあるまいか。松葉を囲の脇にふすべた美濃の一作や一間半の朱傘を掲げた京の丿貫が秀吉の目に留まり「一段御機嫌」だったという。楢柴の茶入、責紐の釜、鴫かたつきなどの名品も多く出品されたと言う。参会者はこの1日で千人に上った。当初十日にわたって行われる予定であったが、肥後に一揆が勃発した為1日で中止になった。このため博多の神谷宗湛は茶会に間に合わず、秀吉に「かはゐや遅く上りたる哉、頓て茶を呑ませうぞよ」といわれたのは知られる。秀吉はこの茶会を満足に思い、小文琳の茶入と米千石を奉納した。それ以来北野社では遷宮ごとに献茶を行い、12月1日に献茶際を行っている。ともあれ、「かやうの珍具、員を尽して見侍る事、秀吉公の御威光にあらずんばいかにぞや、此度の数寄を見て、一きは心をみがき、数寄の誉を得んと思ふもあり、又価貴き肩衝を諸侯へめしをかれしかば、俄に徳人と成て弥此道に思ひ入侍るはいとめでたう見えたり」とあるように、茶の湯の歴史において、その規模においてのみならず茶の湯が完全に権力者の後見を得たことを示した点でも見落とせない1ページを記したのである。一の鳥居を入ってすぐ、影向松の左の茶室松向軒は細川三斎がこの時に井戸を掘って席を設けた所だと言う。これ以後、北野天満宮は茶の湯にとって大切な神社の一つとなる。利休自身天神を尊崇する気持ちが強かったと思われ、切腹直前に娘に
 利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になるとおもへば
という歌を書き送っている。そうした関係もあってであろうか、平成十五年に行われる大萬燈祭の奉賛の長を裏千家の鵬雲斎千宗室御家元が務めており、その際には各流派による献茶が行われる。
(8)近世の天神信仰
 近世においても天満宮は雪冤・正直の神として引き続き尊崇された。貝原益軒は「忠誠貫金」「熱誠神心」と「天神小影賛」で記して天神を称えている。現在でも北野天満宮で民事訴訟の勝訴を祈願する者があるという。文学神としての信仰は勿論大きく、寺子屋を中心として信仰が庶民により拡大された「天神経」が読まれ、五月の節句に武者人形の代りに天神像が飾られるなど民間習俗に食い込んだのである。菅公が書道の神としても崇められたことから菅原御流と看板を掲げて児童に習字を教えた物があった。また児童が手習上達を祈願して清書し、「天満書き」を奉納する風習が出来た。延享三年(1746)に初演された「菅原伝授手習鑑」(竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲)は菅公伝説や寺子屋での信仰をヒントにして為された物で、「車引」「寺子屋」で知られ、現在でも三大傑作として人気を集める。また、菅原氏が垂仁朝に当麻蹴速と相撲を取った野見宿祢の末裔であることから、相撲の神としても角界関係者から尊崇された。道真の末裔五条家が相撲の家元として吉田司家に対抗して横綱免許を出していたこともある。(現在は公認されていないが。)そのため相撲との関係は今でも深く、大萬燈祭には横綱土俵入りが奉納される。庶民のみならず、貴人の信仰も篤かった。歴代天皇は神号の染筆・和歌短冊奉納など学問の神として尊崇した。林羅山には「菅丞相伝」「菅公賛」「河内国佐太菅廟記」などの著作があり、天神への信仰がよく現れている。その他、室鳩巣・貝原益軒・塙保己一は天神を尊崇したことで知られるし、契沖・荻生徂徠は天神の霊験により病を癒されたことにより天神信仰に入った。他、細井広沢・伊藤仁斎・新井白石・中井竹山・頼山陽・柳川星巌・前野良沢・山県大弐・平田篤胤も天満宮信仰が篤かった。
 近世の天満宮信仰に触れる以上、和魂漢才の思想について述べねばなるまい。中国の学問・知識を学ぶに当たって日本独特の個性や才幹を以って受け入れねばならないとするこの言葉は「菅家遺誡」に見える。しかし公家への様々な注意事項を記したこの書物は早くとも鎌倉時代以前にその成立を遡ることが出来ず、菅公に仮託した偽作であるという。更に、この書の和魂漢才について述べた件は日本の国体について述べたもので、前後の儒教を主体とした文と矛盾がある。又和魂漢才の語は江戸時代以前に遡ることは出来ないという。この頃、垂下神道や国学によって深い日本文化への自覚が重視され、文神に仮託されて江戸後半期の思想に大きな影響を及ぼした。幕末においても日本固有の精神で外国からの学問を活用する精神は「和魂洋才」として生き続けたのだ。
(9)近代の天満宮
 明治四年五月、官国幣社の制度が定められ、北野天満宮は官幣中社に、太宰府天満宮は国幣小社に列せられた。明治期に天皇への忠誠を求める教育の進む中、大宰府にあっても天皇を恨むことなく忠義心を持ちつづけたという菅公像が忠臣の鑑として赤穂四十七士や楠木父子とともに称えられた。「君見ずや死して忠鬼と為る菅相公、霊魂尚在り天拝峯」(高杉晋作・囚中作)「或は菅家筑紫の月と為り、詞忠愛を存して冤を知らず」(広瀬武夫・正気歌)といった詩篇からそれが知られるであろう。「恩賜の御衣今ここにあり」と大宰府で詠んだ菅公のエピソードが歴史の教科書に決まって載せられたのは知られる。こうした風潮の中、特に明治三十五年の菅公一千年祭において菅公研究の機運が盛り上がった。それが第二次大戦での敗戦で空気は再び一変、忠臣道真像は影を潜めたのである。その代わり、経済の発展による進学率の増加の影響を受け、受験合格の神として信仰を集め、今日に至っているのである。。


参考文献
日本歴史叢書天満宮 竹内秀雄 吉川弘文館 天満天神御霊から学問神へ 上田正昭編 筑摩書房
歌舞伎にみる日本史 佐藤孔亮 小学館 国史大辞典9 吉川弘文館 平安時代史事典 角川書店
太平記 二 山下宏明校注 新潮社 日本古典文学大系愚管抄 岩波書店
千利休 村井康彦 NHKブックス 日本漢詩・下 猪口篤志著 明治書院
北野天神 北野天満宮編集・発行 北野天満宮略記

附録:北野天満宮主要行事
歳旦祭 1月1日
筆始祭 1月2日
初天神 1月25日
初雪祭(影向松に菅公が降臨して歌を詠むといわれる)
節分祭(吉田神社・八坂神社・壬生寺・北野に参拝)
梅花祭 2月25日(菅公の命日)
火之御子社例祭 6月1日
御誕辰祭 6月25日(菅公の誕生日)
御手洗祭 7月7日(菅公が七夕の詩を詠めるよう「松風の硯」・筆・短冊・梶の葉を納め、素麺や御手洗団子・夏野菜・果物を供えて無病息災を祈る)
棚機祭 7月7日
例大祭 8月4日(一条天皇が初めて参拝した)
明月祭 旧暦8月15日    名月祭 旧暦9月13日
ずいき祭 10月1日から5日(3基の鳳輦中心に行列が御旅所へ向かう。そこではずいき芋など野菜で作った神輿が供えられ、献茶など色々な祭が行われる)
余香祭 10月29日(「恩賜の御衣今ここにあり」と詩を大宰府で詠んだ)
七五三 11月中   新嘗祭 11月23日   御茶壷奉献奉告祭 11月26日
献茶式 12月1日(北野大茶会をしのんで)
事始め 12月13日(この日境内神苑で取れた梅を大福梅として授与)
終天神 12月25日
摂社火之御子社鑚火祭 12月31日


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