2000年5月11日
明朝衰亡・上  J.W.


〔亡国への傾斜〕
 一三六八年朱元璋は南京を国都と定め明王朝を建国した。皇帝となった太祖洪武帝は三十一年の治世を通じて明朝の国礎を固めた。太祖の死後、位を継いだ建文帝と叔父にあたる燕王との間に靖難の変が起こり、四年に及ぶ戦いの後、勝利した燕王が即位した。成祖永楽帝である。成祖の後は仁宗洪熙帝が継いだ。以後、宣宗宣徳帝、英宗正統帝、景宗景泰帝、天順帝(英宗復辟)、憲宗成化帝、孝宗弘治帝、武宗正徳帝、世宗嘉靖帝、穆宗隆慶帝と続くが、一四二〇年代から一五七〇年代にかけての百五十年がこの間に経過した。


〔張居正〕
 武宗から世宗へと続いた二人の君主の放恣と劉瑾、厳嵩の専横とですっかり蝕まれた明を、鋼鉄の意志カと果断な実行カとで建て直そうとした革新の政治家が張居正(一五二五〜八二)である。嘉靖四十五年に世宗が亡くなり、その子穆宗隆慶帝が即位すると、張居正は礼部尚書のまま大学士として内閣に起用された。入閣後彼が奉った上奏文「陳六事疏」には、(1)議論を省き、(2)綱紀を引き締め、(3)詔令を重んじ、(4)官僚の実際の能カを調査し、(5)財政を健全化し、(6)武備を整える、の六条の方針が挙げられている。穆宗の信任の下で政治の粛正をはかろうとする彼の決意が窺える。彼の目標は、皇帝を頂点とする中央の強カなリーダーシップのもとに富国強兵を図ることであった。しかし隆慶六年五月二十六日、彼が望みをかけた穆宗が三十六歳で急死した。その後には皇太子が十歳で即位した。神宗万暦帝である。

●張居正の革新政治
 神宗の治世は明代を通じて最も長く四十八年に及ぶが、最初の十年間、張居正は幼少の神宗を助けて政務を担当した。張居正は神宗が位を継ぐと待望の首輔(首席大学士)となり、時には独断専行と非難されるほどの強い意志と実行カをもって国務に全精カを傾注した。特に張居正の業績は内政の整備において目立っている。第一に彼は積極的な政策によって財政の建て直しを図った。節約を旨として支出を削減するとともに、地方官に対する厳しい成績審査によって税の全額徴収を目指した。また嘉靖年間にはモンゴル族の侵略や倭寇に対する防衛のための軍事費が膨張して、国庫がひどく窮乏したので、張居正はこの財政の窮乏を救うために様々な対策を立てた。それらのうち最も根本的な対策の一つが万暦六〜九年にかけて全国的に実施した土地丈量であった。土地の所有者を確定し、脱税や税割り当ての不正を根絶し、隠田の摘発もできて、政府は課税の対象である土地を正確に把握することができたのである。この結果全国の耕地面積は全国で約三十%も増加し租税収入は大幅に増えた(しかも彼の土地丈量と関連して、一条鞭法の施行も拡大した)。財政再建計画は見事に達成され、政府の倉庫には十年分の米穀が備蓄され、倭寇の制圧やモンゴルとの和議によって軍事支出が抑えられていたことも幸いして、国庫の余剰金は四百万両を越えたといわれている。
 第二にともすれば中央政府を批判する監察官や世論を抑えるために、内閣が監察官を監督する制度を作りあげた。本来内閣とは皇帝の顧問機関であり、一般官僚とは統属関係を持たない筈のものであったが、この制度によって内閣が監察官をコントロールできるようになった。また、政府批判の根城となっていた各地の書院の閉鎖を命じた。陽命学派の特徴であった多数の聴衆を集めての講学活動も圧迫を受けたのである。第三は行政整理であり、万暦三年、南京の官職は必要がなければ今後補任せぬことし、同じく八年にはこの方式を全国に及ぼして百六十九人分の官職を整理あるいは併合した。第四には「宗藩要例」の改定である。これは明初以来、宗藩の取締り規定が次第に厳重になりその待遇も苛酷に過ぎるものがあったからである。第五に黄河と大運河を修復して輸送カを向上させた。
 加えて彼は幼い皇帝の教育も忘れなかった。万暦十年に亡くなるまでの十年間、彼は神宗の教育に没頭した。即位の直後から皇帝としての教育が始まったが、これは張居正の定めたカリキュラムに従って実施された。明代のおける皇帝の教育には、経筵と日講の二種があり、いずれも儒教の古典や歴史書の講読が行われたが、経筵は儀式の体裁をとって多数の朝臣が参列したのに対し、日講は関係教官だけが出席する目常的な行事である。張居正が神宗に課した日講のカリキュラムは、(1)『大学』『尚書』の講読、(2)正字官による文字についての講義、(3)『通鑑節用』の講義、(4)疑問点があれば大学士らの講解、(5)講読の済んだ経書の復習、(6)『貞観政要』の講義などであった。また張居正は自ら、尭舜以来の帝王の事績を纏めた『歴代帝鑑図説』や『明朝歴代宝訓』を編纂して帝王学を図説したり、あるいは政治や軍事その他の学を講義した。張居正はまた尊厳なる教師であり、神宗は彼を「張少師先生」と呼んで宰相というよりは師弟の礼をとっている。張居正は神宗にとって全く頭の上がらない存在であり、時には何となく反発を感じ、疎ましく思うこともあった筈である。年齢を積み重ねるにつれて、その思いは募ったに相違ない。

●張居正の死
 政治家としての張居正は確かに傑出していて、名宰相といわれるに値する人物である。『明史』も「事にあたって勇断、豪傑を以て自ら許す。しかも沈深にして腹があり、凡人のよくはかる所ところではない」と称している。彼は正徳、嘉靖に渡って混乱した政冶、秩序の弛んだ世の建て直しを自分の任務と考え、国家に殉ずる覚悟で政局を担当し大改革を断行した。内政上の改革ばかりではなく、外に対しても李成梁や戚継光らの名将を配して女真族やモンゴル族の防衛に当たらせたので、彼の在世中は北辺一帯は安泰であった。しかし彼の神宗すらも眼中にないような専制ぶりは、多くの人々から反感と非難を被った。
 かくするうち万暦九(一五八一)年となり張居正は病に倒れた。年が改まると病勢はつのり、遂に十年六月二十日、偉大な政治的才能の持ち主であった宰相は世を去った。神宗は上柱国の封号と文忠の諡を贈って彼の死を悼むとともにその功績に報いた。張居正が亡くなると政界に大変動が起こり、今まで鳴りを潜めていた反対派・不平派が一気に台頭してきた。強引ともいえる彼の政治手法に対する反発から起こった現象である。監察と弾劾を職務とする言官は次々と張居正の不正を暴き立てた。こうなると神宗も態度を改め、十一年三月、自ら与えた封号と諡を自分の手で剥奪し、更に翌年には家産の没収が命じられ、遺族は辺境に流されることになった。そして張居正によって起用された官吏もみな政府から追放され、かくして張居正を中心とする政治勢カは崩壊した。かわって反対派が復活台頭したが、彼らによって張居正の断行した諸政策も次々廃止もしくは改変された。そして二十歳となった青年皇帝親政の時代が始まるのである。ところがこれ以後の神宗の行動を見ると、張居正の教育は完全に裏目に出たとしか言い様がない。あまりの厳格、熱心さが逆に心の奥深いところに反抗の芽を育み、人間としての欠陥を生じたのか。張居正の死を契機に、あらゆる束縛から解放されて、良き皇帝たらんと真面目に努力していた少年時代とは一転して、自己の快楽の追求にしか興味を持たない人間と化してしまった。


〔神宗親政〕
●内憂外患
 張居正の死後、明の政治は急速に弛んできた。神宗は元々優柔不断な性格であったから、張居正の監視の眼がなくなると、忽ち無気カな政治になってしまった。神宗の親政期は万暦十年から四十八年まで三十八年の長きに渡っているが、張居正在世中の十年間と全く別の時代であるかのようであった。この間神宗は政冶に殆ど関心を示さず、二十五年もの間一度も朝延に姿を見せず、大臣とも会わないという記録を作る有様であり、張居正亡き後、政治の中枢に国政をリードする人物はおらず確たる政策もないままであった。
 だが平穏無事の三十八年ではなかった。万暦の中頃から内外に大小の戦乱が起こり、それらを「万暦の三大征」と呼ぶ。まず万暦二十年三月、寧夏地方でモンゴル族のボバイが反乱を起こし、一時はオルドス地区がこの騒ぎに巻き込まれた。この反乱が収束しないうちに、次いで同年四月には、朝鮮半島に豊臣秀吉の日本軍が侵攻してきたため、明朝は救援の大軍を送らなければならなかった。朝鮮の役がまだ終結しないうちに、更に二十五年七月、苗族首長、播州宣尉使の楊応竜が反明の旗を上げるなど、内外に戦乱が相次いだのである。これら「万暦の三大征」の鎮定は明朝に莫大な軍事費の負担を強いた。歳入のほぼ二年分にあたると計算されている総額千数百万両を越える経費が支出された。これを契機に国家財政は急速に窮乏し、国庫の衰退に拍車をかけた。更に遼東方面の駐屯軍を朝鮮へ派遣したため、この方面の防衛体制を弱体化させ、女真族に飛躍の好機を与えることにもなった。

●鉱税の禍
 このような内外多事の時代であったにも拘らず、神宗は態度を改めなかった。従って万暦の後半は政治不在の時代といえる。万暦中期以後、神宗の道楽と相次ぐ戦禍とで国家の財政が窮乏を告げると、神宗は宮廷費の調達のために金銭の獲得に狂奔した。国内の銀鉱山を開掘して税銀を徴収しようと、神宗は鉱税の使いとして宦官を四方に派遣した。だが銀鉱脈は殆ど採掘されつくしていたので、税吏となった宦官はただ金貨や物資を搾取することだけに熱中し、実績は上がらず徒に民の憤りや恨みを買うばかりであった。これを「鉱税の禍」と呼ぷが、万暦二十四年に始まり、神宗死去の日まで止むことはなかった。鉱税に味を占めた神宗は次には塩税の徴税にも宦官を起用した。貪欲な宦官は不法取り立てを行い、あるいは脅迫しては私服を肥やしたのであった。このため被害を受けたところでは民衆の反税闘争を引き起こした。礼部侍郎の上奏文の中には「鉱使が出ると人民の苦しみは戦争よりも甚だしく、税使が出ると人民の苦しみは鉱使よりも更に甚だしい」という言葉があるほどである。しかしこれほどまでして搾り取った金銭も、破綻しつつあった国家財政の再建に使われることなく、全て宮廷費に充てられたので、国家の窮乏は一向に救われなかった。
 神宗は張居正が亡くなると、二十歳の若さにも拘らず、六年の歳月と八百万両の大金を投じて定陵を造り始めた。また万暦二十四年に乾清宮と坤寧宮が、次いで翌年には皇極・中極・建極の三殿が火災にあったが、神宗は直ちに再建を命じた。再建のための用材は四川・広東・広西の各地から遥々北京に運ばれた。周囲に木材資源を持たない北京に木造の建物を建てること、ことに巨大な宮殿を建てることは途方もないことである。しかも投入された資金の大部分は関係した宦官の懐に入ってしまい、神宗の亡くなった万暦四十八年になっても工事は完成しなかった。

●破局への道
 万暦三十年前後に書かれた文章「歙志風土論」がある。明朝の盛衰を四季の変化に譬えて・無名の著者はこう述べている。
「国家の厚沢深仁は重熙累洽し、弘治に至りて蓋し基隆なり。……此れ正に冬至以後、春分以前の時なり。尋いで正徳末、嘉靖初めに至れば稍異なれり、商賈既に多く、土田重んぜられず、貲を操りて交接し、起落常ならず。……此れ正に春分以後、夏至以前の時なり。嘉靖の末、隆慶の間に至るに迄びては、尤も異なれり。末富多きに居り、本富益々少し。……此れ正に夏至以後・秋分以前の時なり。今に迄る三十余年は則ち夐に異なれり。富者は百人にして一、貧者は十人にして九なり……此れ正に秋分以後、冬至以前の時なり」
 国初以来、弘治までの約百四十年間は春の如く穏やかであったが、以後次第に悪化の一途を辿り、ことに万暦年間に入ってからは、貧富の差は益々拡がり救いようのない時代となってしまった。ということが人々の実感であったとこの一文は示している。神宗が政治を放棄して享楽に耽っている間に、社会的経済的矛盾は表面化しつつあった。貨幣経済は全国的規模に拡大し・土地所有関係を含む農村の生産形態を変革するとともに、農民の暮らしを破壊していた。宮廷では派手な生活が繰り広げられていたが、農村は疲弊の速度を速めていた。


〔三案〕
神宗は後継者の決定をめぐっても騒動の種を撒いた。神宗の皇后は子を産まなかった。そこで宮女の王氏を第二夫人とし、万暦十年八月に第一皇子常落が生まれた。続いて第二王子常淑が誕生したが、一歳足らずで死亡した。その後第三皇子常洵が万暦十四年正月に生まれた。母親は鄭貴妃であったが、神宗は彼女を寵愛して長い間皇太子を立てようとしなかった。大学士の申時行らぱ順序に従って第一皇子常落を皇太子に冊立するように上奏した。そして万暦二十九年八月になって、ようやく神宗は立太子を決意し、十月十五日に第一皇子常落は皇太子に冊立された。これに応じて常洵は福王に、他の皇子もそれぞれ王に封じられた。これで一件落着となるべきところであるがそうはならなかった。権勢欲の強かった鄭貴妃は我が子を皇太子にする計画を諦めなかった。福王に封ぜられながら、常洵は任地に赴こうとしなかった。この後、宮廷内部を舞台に数年間に三度も怪事件が起こることになる。

●挺撃の案
 万暦四十三年五月、根棒を持った男が突然皇太子の住む慈慶宮に押し入り・門番を負傷させるという事件が起こった。犯人は張差と名乗る得体の知れない人物であった。彼は瘋癲を装ったが・厳しく訊問していくうち正気であるのが分かった。しかもこの事件の首謀者が鄭貴妃の兄の鄭国泰であり、宦官やその他の廷臣が関係していることまでが明らかになった。鄭貴妃の肉親が関わった皇太子暗殺未遂事件であったのである。これを「挺撃の案」と呼ぶ。このことがあってから数年後、万暦四十八年四月、王皇后が亡くなると、間もなく神宗も病に倒れた。七月に入ると重態に陥り、二十一日の夜、遂に息を引き取った。遺体は皇后とともに定陵に葬られた。五十八年の生涯・四十八年に及ぶ治世のうち、張居正の宰相時代を除いて、善政を施さず人民を苦しめ亡国の原因を作っただけであった。神宗の死後二十四年で明朝は滅んだが、亡国についての神宗の責任は重大であったと言わねばならない。

●紅丸の案
 神宗の後は皇太子が継いだ。光宗泰昌帝である。皇太子に立てられても暗殺者が送りこまれるような不安の中で育ったが、英明な人物であり朝野の期待が集まったと伝えられる。ところが即位の翌九月、三十九歳で急逝してしまった。在位僅か一力月余りであた。光宗の死亡に関わる事件が「紅丸の案」である。即位後日ならずして光宗は下痢にかかった。鴻臚寺丞を務めていた李可灼なる者が丸薬を勧め、光宗が一つ服用したところ気分がよくなった。安心した臣僚が退去した後、光宗はもう一丸飲んだが、翌日俄かに死去したという事件である。これを後宮の陰謀とみなし、背後関係を追及すべきだと言い出す者が現れた。まず李可灼が弾劾され、次いで紅丸を勧めるのを止めなかったとして大学士の方従哲が弾劾された。

●移宮の案
 第三の事件は「移宮の案」と呼ばれ、光宗急死直後に起こった。光宗が亡くなったため、後継者を求めねばならなかったが、皇太子が立てられていなかったから、皇長子を探したところ、何処にいるか分からなかったという事件であった。皇長子由校はこの時十六歳であった。生母も既に世を去っていたから、皇長子は父親の寵愛する李選持という女官に養育されていた。ところが光宗は彼女を貴妃にする約束をしており、彼女はこれに不満で皇后にするように要求したが容れられなかったという伏線があって、これを恨んだ李選持が光宗が急死すると皇長子を乾清宮に隠してしまったのである。次期皇帝を擁して宮廷に君臨しようという思惑が李選持にはあったようであるが、この他愛無い事件は呆気なく幕を閉じた。皇長子は取り戻され、李選持は仁寿殿に移されてしまった。こうした経過を辿つて皇長子由校は即位した。熹宗天啓帝であるが、明朝随一の暗君と評される皇帝である。以上がいわゆる「三案」である。


〔東林党〕
 三案では論議をめぐって廷臣の意見が分かれ、彼らが党派を組んで政治批判と政権争奪を繰り返す契機となつた。つまらない事柄があたかも政治問題であるかの如く深刻に議論されることが万暦から天啓にかけての時代の特徴であった。明代の官僚は万暦以後政冶的主張で結びつく風が生じていた。神宗親政の時代は政治不在の時代であったが、この頃一つの政治的党派が誕生した。後に東林党と呼ばれる党派である。この一派は最終的には宦官の専横に反対し、反宦官の性格を強く持つようになったが、初めは反張居正のグループであった。多くの国政改革を成し遂げた張居正はその過程において反対派の言論を抑圧し、数多くの政敵を蹴落として自己の政治的抱負を実現したのであった。従って彼が亡くなると、その反動として言論は急に活発となり、官僚は一斉に張居正を批判し始めた。こうした風潮の中から東林党は生まれたのである。彼らは自ら清議派と称し、野党的言論活動を続けていたが、その指導者と目される顧憲成によって党派的性格を明確にし始めたようである。
 顧憲成(一五五〇〜一六一二)は万暦八年に進士となって官界に入ったが、二十二年吏部郎中であった時、神宗が皇太子決定を延期しようとしたのに反対したため、官職を剥奪されて故郷の無錫へ帰ってきた。帰郷後の彼は、宋代の朱子学者楊時の東林書院を再興し、弟の允成や同志の趙南星・鄒元標・高樊竜らを招いて自説を講義するとともに、「講学」と称する討論会を開いて時政を論じ人物論評を行った。顧憲成の学風は朱子学の立場に立ち救世の意欲に溢れていた。彼の主張によれば、士大夫の士大夫たる所以は、儒学を修めることによって、天下の政治的道徳的責任を負うところにある。学問は単なる博識や個人の興味の対象でなく、政治批判の方法であるべきであった。だから学者たる者は眼前の政治的腐敗にあくまで抵抗しなければならなかった。特に宦官の政治への容喙を許すような政治体制は断固として徹底的に批判しなければならぬと主張された。朱子学の倫理観を政治に反映させることで、退廃しつつある国家と時代を救おうと考えたのである。多くの学者や官僚、知識人の共感を得て、顧憲成の名声は天下に轟き、東林党の権威は次第に高まった。学生らは講学の余暇にしばしば朝政を論議し、政治家たちの人物批評も試みたので、自ずと時論を形成し、ここに集まるグループは東林党と呼ばれるようになった。支持者が増加すると、東林党は急速に政治団体としての色彩を強め、意識的に党人を翰林院や都察院に送り込むに至った。翰林院は別に詞林と呼ばれる文学の府、都察院は言官ともいわれる言論の府であるが、ここを本拠にして本格的な政冶活動を始めたのである。もっぱら文学や言論に生きようとする彼らが、実際の政治に携わっている内閣や実務派と衝突したのは当然である。顧憲成は万暦十四年に亡くなったが、明末の政局に大きな影響を与えることになった。
 都察院は御史台にあたり、左右の都御史、副都御史、僉都御史の他に監察御史が置かれ、官吏の風紀を取締り弾劾する職権を持っていた。また吏・戸・礼・兵・刑・工の六科に代わって都給事中、左右の都給事中があり、別に各科専属の給事中も置かれた。このような弾劾諌言の職権を持っている御史と給事中など言官の言論は頗る自由であり、彼らはまた皇帝に封しても諌言することができた。洪武から成化・弘治の時代までは、その議論は概ね公正で驕慢になることは少なかったが、正徳から嘉靖になると、彼らの言論は理論に偏し公正を失うようになった。ただ張居正の執政時代には言論は弾圧されたため、彼らの活動は一時休止の状態にあったが、彼の死後再び議論は活発化し、時勢の風潮を受けて理論に偏する極端な主張口にすることも多くなり、しばしば過激に走り公正を欠くことが多くなった。彼らは事の善悪を問わず、行政を非難攻撃し、その上党派の争いが絡まってきたので、政界はいよいよ混迷していった。
 東林党は以上のような時代風潮の中に生まれ、そうした風潮を一層顕在化したといってよい。顧憲成が朱子学の立場に立ちその倫理観を持ち込んだ結果、自らを高く標榜し相手に全きを求めることが多く、このため公正を失い過激に流れる傾向を東林党は自らの中に持っていた。彼らが内閣と鋭く対立したのはこうした偏狭な姿勢の中に原因が求められる。三案においては非東林党が実際の事情を考えて現実的な立場から処理しようとしたのに対し、東林党はあくまで理論的に究明しようと主張したのである。これらの事件を契機として党争は泥沼に落ち込んでいった。例えば紅丸の案において大学士方従哲を弾劾するのは全て東林党であり、そうでない者は閣臣派であると断定された。となると議論は正邪善悪の問題であるよりも、党派色を明らかにするための材料でしかなくなる。かくて互いに相手を中傷し自派の立場を有利することのみを目的とする議論が横行し始め・熹宗即位の前後から止めどもない論争が始まりエスカレートするばかりであった。いつ果てるとも知れない無意味な論争が延々と続いたのである。国勢が日々傾きつつあったというのに、建設的な討議は一つもされなかった。そしてそれが末期的症状を呈するに至った時、思いもかけない人物が現れ政権を掠め取ってしまった。宦官の魏忠賢である。


〔魏忠賢〕
 熹宗の治世は天啓の年号で紺れて七年間続くが、前代と全く代わりばえしない、というよりも退廃と混迷の度を一層深めたと表現するのが適当であるような時代であった。
 「明は世宗より後、綱紀日に以て陵夷し、神宗の末年に廃壊栖まれり、剛明英武の君有りと雖も己に復た振うこと難し、重ねるに帝の庸懦を以てす。婦寺窃柄し、濫賞淫刑し、忠良惨禍して、億兆離心せり。亡びざるを欲すと雖も、何ぞ得べけんや」とは『明史』の論評だが、熹宗は凡庸懦弱の君主であり、婦寺つまり婦人と宦官に権カを盗み取られて為すところなく、その治世において人心は既に明朝を去ったというのである。婦人とは熹宗の乳母客氏、宦官とは魏忠賢を指す。この二人が天啓年間の政局を動かす実カ者であった。
 魏忠賢は宦官の専横が甚だしかったといわれる明代でも、最も権勢を縦にし国政に害毒を流したとされる。本名は李進忠、市井の無頼であったが、博打に負けて自暴自棄となり、自ら進んで去勢手術を受けて宦官に身を投じた。宮中に入ったのは万暦十七年頃で、神宗の孫である後の熹宗に仕えたことが出世の糸口となった。そして乳母の客氏と結んで、熹宗の即位とともに側近の地位につき、全ての権力を握るに至った。魏忠賢は無学であり文字を知らず、皇帝の勅旨を代筆する秉筆太監にはなれない筈であるが、客氏の後押しでその地位についた。こうした人物が政治の中枢に座を占め、凄まじい権カを行使できたのは、東林・非東林に分かれて政争を繰り返した政界がこの種の人物を必要としたこともその原因である。憎悪を剥き出しにした闘争は反対党を容赦なく弾圧してくれる人物を求め、それに応じて魏忠賢は歴史の舞台に登場する。
 熹宗の即位前後、頂点に達した観のある両派の論争はあらゆる問題が対象となった。東北方面に興起しつつあった女真族への対策を例にとると、戦略戦術から個々の戦闘の勝敗まで、一つ一つが悉く党派的立場で論じられた。天啓元年、鄒元標は両派の和解を進める意見を述べている。彼は東林党の指導者の一人とされる人物であるが、憂うべき現状を目の当りにして発言したのであろう。これは極めて公平妥当な正論ではあるがその実行は殆ど不可能であった。そして天啓三年、東林党の趙南星が吏部尚書となり政局を担当することになると、自派の人物だけを任用し反対派を退け、両派の軋轢はもはや回避できないものへと突き進んだ。憤激した反東林党派は自衛のために遂に宦官の魏忠賢と手を結んだのである。
 かくして政局の中枢に位置を占めた魏忠賢は、熹宗が全く政治を顧みる気を持たず諸務を彼に任せたことも手伝って、権力を一手に掌握するに至った。彼の専権時代、明朝はまるで魏氏の王朝であるかの如くであった。意のままに権カをふるえた魏忠賢の東林党弾圧は、実に冷酷かつ激烈であり徹底的であった。天啓三年、東廠の長官となり警察権を握ると東林党の弾圧に乗り出し、五年には彼らを政界から追放して代わりに非東林党を要路に据えた。この時左副都御史の楊漣、僉都御史の左光斗、給事中の魏大中ら六人が次々と逮捕され拷問にかけられた後に惨殺された。更に全国に指令を発して書院の破壊を強行した。当然、無錫の東林書院も取り潰された。各地の書院では講学が行われ、清議派の拠点となっていたからである。六年になると三案についての文集である『三朝要典』が作られた。全て東林党が悪かったとする見方をとり、挺撃を論難し、紅丸を告発し、移宮を支持する者は政権奪取の陰謀を企てた邪党であると宣告した書物である。こうなるとかつて内閣と対立し論争を挑んでいた東林党は反宦官党とならざるを得ない。党人たちは嵐のような弾圧に耐え激しく抵抗したのであるが、彼らはあらゆる官職を失った。だが党人の中にも時の最高権カ者に取り入って立身出世を計ろうと魏忠賢に擦り寄った者がなかったわけではない。趙南星との個人的確執から魏忠賢と結んだ魏広徴らがその例である。東林党は清議派と自称するが、内実は必ずしもそうではなかった。このように党争に乗じて権力を手に入れた無学の宦官の跋扈を許したのが天啓の七年間であった。明朝はこの間に、致命的、決定的な打撃を被ったのである。


〔参考文献〕
●『中国史C 明・清』  山川出版社  山根幸夫
●『世界の歴史K 明清と李朝の時代』  中央公論社  岸本美緒
●『世界の歴史H 最後の東洋的社会』  中央公論社  田村実造
●『亡国の皇帝』  講談社  寺田隆信


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