2000年6月2日
日本前近代医学史  NF


(1)はじめに
 最近、医療過誤やら教育・医療制度の改革やらが新聞などで騒がれている。日本の医学は今大きな転換期に有る事は確かなようだ。そうした中でこれからどの様に進めば良いのかを考える為、これまでにどうして来たかを考えて見るのも無駄では有るまい。というわけで我が国の医学史を二回に分けて、今回は明治絶新までを扱う。
(2)日本医学の曙
 病気や怪我を恐れ、健康を望むのは古今東西を問わず同じであろう。祈りやまじないによってそれを逃れようとしたこと、自然界の化学物質が薬として経験的に用いられたことも共通している。「醫」という字は上の部分が箱に入った矢と槍で外科手術を表し、下が薬利作用のある酒を意味するという。日本においても、「蘇民将来子孫」という護符が疫病に効果があるといわれた。素盞鳴命に蘇民将来が一家の宿を貸した礼としてその子孫を守る約束を素盞鳴命がしたことに基づくという。(「備後風土記」)また五条天神社に祭られる大国主命・少彦名神が医学の祖とされている。大国主命は鰐鮫に毛皮を剥がれた因幡の素兎を「蒲黄」(止血・利尿作用がある)を用いて治したことで知られる。少彦名神は海の彼方からガガイモの皮の船に乗ってきて大国主命と共に国家経営や病気治療を行ったといわれる。「クスリ」という言葉も元は「草煎」、即ち植物を加工した物がなまったと考えられる。
 ところで、歴史的事実として医学が伝わったのは414年、新羅から金武という医師が来て允恭天皇の病を治したのが公式には始めである。459年こ高句麗から徳来という医師が来日し、難波に住み子孫は難波薬師と言われた。562年、智聡が薬方書(「内経」「本草経」など)や明堂図(針灸の場所を示す人体図)など164巻を持って来朝した。中国から直接医学が伝来した最初である。593年に聖徳太子により建立された四天王寺には施薬臨や療病院が設置されて庶民の治療が行われた。当時仏教を学ぶための「五明」には内明、声明、工巧明と並び医方明が入れられている。608年に小野妹子ら遣隋使が派遣された時に医学留学生として恵日・福因が同行し、十五年医学を学んできた。恵日は更に二度渡唐している。律令国家の成立により医制も整備され、大宝律令の医疾令によって典薬寮が置かれた。長官典薬頭(従五位下)のもと医博士(正七位下)によって医生・針生・按摩生・咒禁生の教育や国家試験が行われた。医生の中では内科が最も多く年数も長かった。地方でも国医師が養成されている。光明皇后によって建立された有名な悲田院・施薬院は仏教のもとにこの頃行われた社会事業である。754年に来朝した鑑真は最新式医術や薬方ももたらしている。麝香・沈香・甘松香など南アジア原産の唐でも珍品であった香薬が多かったという。鑑真のもたらした薬物は正倉院に収められ、今日まで良好な保存状態に置かれている。これを一例として仏教では看病法も重視されていた。道鏡が孝謙上皇(称徳天皇)の看病をきっかけに異例の出世をしたのはその一例である。
(3)平安時代(古代後期・中世前期)の医学
 平安遷都以来、南都仏教の勢力が弱まるのに比例して典薬寮が力を強めた。10世紀後半から典薬頭が和気氏・丹波氏によって世襲される様になっていた。典薬寮は宮廷内のみでなくこの頃には一般にも門戸を開いていた様だ。医生の養成も和気・丹波両氏に委ねられる。以降、後々に至るまでも「和気・丹波」といえば名医の代名詞とされた。例えば982年、丹波康頼は巣元方「病源候論」など隋唐の多くの医書を編纂して具体的・実用的部分を抽出し(薬物処方においても簡便な物が選ばれている)総論・鍼灸・内科・外科・製剤法・産婦人科・小児科・食養法など項目別に分類して、「医心方」30巻をまとめた。現存する我が国最古の医学書である。中国においてその原本の多くが散逸してしまった今日、その史料的価値は極めて大きい。それ以前にも平城天皇の命による安部真直・出雲広貞の「大同類聚方」百巻、菅原岑嗣らの「金蘭方」50巻が作られている。また康頼の孫雅忠は「医略抄」「医心方拾遺」を著した。こうした医学的知識がまとめられる一方で、一般的には疫病は怨霊の仕業と考えられた。平安京の都市建設が行われ人口が密集する中、裳瘡(天然痘)、咳病(流感)、赤痢、麻疹などがたぴたび流行したのである。貞観五年(863)、朝廷は早良親王ら六人の怨霊を慰める為、神泉苑で初の御霊会を行った。特に、貞観十一年(869)には全国の国の数を表す66本の矛を立てて牛頭天王をまつった。これが後に祇園祭となる。庶民の開でも、道の辻辻に祭壇を設け道祖神(塞の神・フナドの神)をまつったり人面墨書土器や形代によって穢れを流したりした。ところで、庶民の病気・治療を描いた「病草子」が現存している。筆者は土佐光長、詞書は寂蓮と伝えられるが確かではない。赤鼻・不眠症・嗜眠癖・風病での眼球の震え・歯痛・歯槽膿漏・痔・毛虱・霍乱・クル病・口臭・急性胃腸炎などが写実的に描かれており、国宝に指定されている。   1
(4)鎌倉時代(中世後期)の医学
 鎌倉時代に入ると、禅僧が盛んに渡宋した影響で、中国の最新医学が流入する。1214年、栄西が「喫茶養生記」を記し、将軍実朝に献上した。「五臓和合門」(茶の生理的効能)と「遣除鬼魅門」(桑の病理学的効能)を述べた我が国最初の茶書である。梶原景時一族である梶原性全(浄観房)は隋代の「病源候論」、唐代の「千金方」「千金翼方」、宋代の「聖恵方」「三因方」「和剤局方」を参考にし、特に本草学や「欧希範五臓図」に代表される解剖学など北宋時代の成果をまとめ、その上に自己体験を加えて体系立て、「頓医抄」60巻を編纂した。和文で書かれていた為、普及しやすかったという。更に1315年には前述した参考資料の原文をそのまま抜粋して自分の意見を加えた「万安方」60巻(後に62巻)も著している。ところで、旧仏教においても西大寺の叡尊は病者救済・社会事業が僧の使命と考え、その弟子忍性が、北山十八間戸を作りハンセン氏病患者を収容して衣食を与え、仏道を説いた。また鎌倉に極楽寺を建立した際も病人修養施設を設けて20年間に57000人以上の患者を収容した。
(5)足利時代(近世前期)の医学
 足利時代には、日明貿易の影響を受けて金・元の医学、中でも五運六気・十二支・陰陽五行に臓器を絡めた理論に基づき陰を上げて陽を下げる(具体的には胃・脾臓を元気付ける)ことによって治療を行うという李朱派が流行した。1360年頃に有隣が主に宋の「和剤局方」に準拠して「福田方」12巻を著した。疾病を12種に分け、それぞれ原因・症状・診断・予後・治療法の順に述べている。これは日本独自の記載方式であるという。この頃、明に渡って医学を学び、現地で名医と称されたものとして竹田昌慶(実乗僧都。太政大臣藤原公経の子)と月湖がいる。昌慶は明太祖の后の難産を助けたことにより安国公となり、多くの医書と鍼灸用の銅人形を携えて帰国した。後に天皇の侍医となって法印に任ぜられる。月湖も銭塘に居住し、「全九集」「済陰方」を著して名医といわれた。田代三喜の師である。さて、足利時代には専門医の分化も進んだ。例えば動乱の世となり負傷者の増加する中で金創医(外科)が増えたのは自然の成り行きである。他にも尾張出身の馬島清眼僧都は眼病治療に優れ馬島流眼科の開祖となり丹波康頼の後裔・丹波兼康は典薬頭として口科を専門とし、子孫は兼康家(金保家)として口科を受け縫いだ。それらの中で最も有名なのは女科の安芸守定であろう。古来お産は重大な出来事であり、神仏に無事を託す物であった。一例を挙げると祇園祭の山鉾のうち占出山は出産の無事を願う物であり、その巡行の籤順によってその年の出産の難易を占ったと言われる。そうした具合であったから、優れた女科医の登場は画期的な出来事であったのだ。二条家の家司であった守定は伝説によると竜神から産前産後の妙薬として安栄湯・神仙散の処方を伝授されたと言われ、足利義満誕生の際に功績を上げて尚薬となった。それ以後安芸家は代々室町将軍家に仕え、「御産所日記」を残している。守定は今日でも日本の産婦人科の祖とされている。
(6)曲直瀬道三
 16世紀になると、日本の医学は中国の影響が弱まり独自の歩みを見せ始める。1528年に阿佐井野宗瑞が明の熊均の「医書大全」を印刷し日本初の医書出版を行ったのはその兆しか。この時代を代表する医師の一人が田代三喜である。武蔵に生まれた三喜は始め僧となったが後に医師を目指して1487年に明に渡り12年間かの地で学んだ。そこで月湖を知り彼の下で金・元の李朱医学を修め、帰国後は鎌倉・足利、更に1509年古河公方足利成氏に招かれて古河に居住し、古河の三喜といわれ名声が高かった。「和極集」「直指篇」「医案口訣」などの著書で知られる。その三喜に学んだのが曲直瀬道三である。道三は京都の生まれで早くに両親を亡くした為10歳のときに近江守山の天光寺に、13歳で相国寺に預けられ教育された。22歳から足利学校で学んで、さらに7年田代三喜に師事した。三喜は道三に自分の全ての知識を注き込み、最後には道三に脈をとられながら没したという。40歳で京に戻った道三は、還俗して医業を始める。彼を以って医学は再び仏教と完全に分離したのである。その医術は、上は皇室・将軍家そして毛利元就・織田信長・豊臣秀吉ら、下は野盗に至るまで評判となった。弟子も多数に上った為、道三はその教育施設として自宅近くに私塾「啓迪院」(上京区新町通上長者通上ル)を作った。我が国初の私立医学枚である。道三は「医の根本は慈仁である」と説き、教育と診療の多忙な合間を縫って1574年「啓迪集」8巻を著した。三喜・道三らに始まる一派を後世派という。「随証治療」と言い、患者の病状を直接診察して治療する実証主義で当時の日本の医学理論としては画期的であった。また、中国では何時からか行われなくなった腹診を重視するのも特徴である(中国では逆に脈診が重視される。腹診は慢性疾患における臓器の状態を知るのに便利であり、脈診は時々の病状の変化を察知しやすい)。尤もこれは後世派に限らず日本漢方一般に言えることなのだが。初めて実証主義を臨床理論に持ち込んだ道三らは今日も医学中興の祖と言われている。将軍秀忠・家光の侍医となった野間玄琢はその孫弟子に当たる。因みに同じ頃名を知られた医師として永田徳本がいた。治療には汗吐下の激しい薬物を用いたらしい。将軍秀忠の病を治し、一服代1文のみを貰って去ったと言う逸話は知られる。
(7)南蛮・紅毛医学
 近世後期の医学を特徴付ける物として後世派の他にヨーロッパからもたらされた一連の西洋医術を無視する訳には行くまい。1543年にポルトガル人が火縄銃を種子島にもたらして以来、様々な南蛮文化が日本に入ることになる。医学においても1557年に来日した宣教師ルイス・アルメイダは豊後の府内で領主大友宗麟の庇護を受けて日本初の西洋式病院を設立し、外科手術を多く行い名声を得た。宣教師達はキリスト教を広める手段として医術を利用した。キリシタンの多い所には慈善医療施設が設けられたのである。例えばアルメイダと共に1564年に入京したフロイスは信長の許しを得て中京区蛸薬師通室町西入ル姥柳町に南蛮寺を建立したがそこで病人を収容したりもしたという。一方フランシスコ会のペトロ・パブチスタは秀吉の許可で妙満寺跡地(下京区綾小路堀川西入ル)に聖マリア教会を立てたが、彼らは貧民救済を目指して50人収容の聖アンナ病院を作り院長レオ鳥丸夫妻らがハンセン氏病患者の世話を行った。更に80人収容の聖ヨゼフ病院を建てパウロ鈴木院長らが病人の世話に当たった。後、秀吉によってレオ鳥丸・パウロ鈴木ら24人(岡山で2人加わる)は捕らえられ、長崎で処刑された。いわゆる「二十六聖人殉教」である。現在聖マリア教会跡には「二十六聖人発祥之地」と記された石碑が立つ。こうしたこともあってこれらの医療施設はこの頃から衰えを見せ、江戸時代にキリスト教が禁教となり鎖国体制に入ったことで南蛮からの医学流入は絶える。尤も、天正年間にルソンで医学を学んだと言う栗崎道喜が栗崎流外科を創始し幕府医官となった。またポルトガル人クリストファー・フェレイラが拷問の末キリスト教信仰を捨てて帰化し沢野忠庵と名乗り、日本人に医学や天文測量法を教えた。彼の口伝を纏めた物が江戸時代初期においては南蛮外科の指針であったという。
 さて南蛮医学に代わって入ったのはオランダからのいわゆる紅毛医学であった。オランダ商館長(カピタン)の江戸参府の際、館員を診察する医師もこれに同行したので、これにより日本人医師は西洋医術の知識を手に入れたのである。中でも通詞は直接彼らと触れ合う機会移が多いため、他の日本人に先駆けて西欧の知識を学んだ。慶安二年(1649)に来日したスハンベルゲン・カスパルから通詞の猪股伝兵衛が医術を学んだ。これがカスパル流外科として伝わる。また通詞の楢林鎮山もしばしばオランダ商館員と接する中で医学を修得し、得た知識を「紅夷外科宗伝」に纏めた。鎮山は後に医業に専念し楢林流外科の開祖となる。同様に西流外科や吉雄流外科も通詞から出発したという。延宝二年(1674)、幕府がオランダに優秀な医者の派遣を求めたのに応じてテン・レイネが来朝レイネはライデン大学でシルビウスに学び解剖学をヴァン・ホルネから習い、パリでハンセン病の研究をした実績のある人物である。彼は日本人から多くの質問を受けまた多くの患者を治療した。長崎を去ってからバタビアに移り日本の樟脳や鍼灸術を初めて西洋に紹介した。また1690年に来日したケンペルは日本人に医学を教え患者の治療に当たると同時に日本の歴史・政治・宗教・風俗・物産・動物・植物などについて調べ、帰国後1727年に「日本誌」として発表した。一方、平戸藩の藩医・判田甫安は藩主の計らいでオランダ医学を学び京で皇族や公家の病を癒し法橋を与えられ、京の滞在地に因んで嵐山と改姓。その弟子の森嶋小吉は後に桂川甫筑と名乗る。甫筑は元禄九年(1696)、当時甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)に仕え、後に幕府の奥医師となる。その四代目が後述する甫周である。その後、京で紅毛流の中心となったのが向井元升・伊良子道牛である。長崎で紅毛流を学んだ元升はオランダ人との問答を編纂した「紅毛流外科秘要」、天文学書「和蘭弁説」などを著した。一方道牛はカスパル直伝の河口良庵からカスパル流外科を学び、「和蘭外科正伝」「和蘭外療集」を著して名声を上げた。伊藤仁斉に私淑して「見道斎」と号した。その子孫は伊良子流外科として代々朝廷の典医を務めた。さてこの頃、通詞の本木良意がドイツ人レムメリンの解剖書を翻訳した。これは原本同様に臓器の形を切りぬいた紙片を重ね合わせ1枚ずつ内部を見るように作ってある。良意の死後、鈴木宗云が明和七年(1772)に「和蘭全躯内外分合図」という題で出版した。「解体新書」より先んじること約百年、この偉業は世に知られていない。世に普及するには余りに早過ぎたと言えるのかもしれない。また、万治年間(17世紀)に鳩野宗巴は鎖国体制の中ではあったが密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、そこで5年間医学を学んで帰り長崎、熊本、大坂で名を上げたと言われる。一方当時のライデン大学こPetrus Hartsingiusという人物が在籍していたらしいがそれが宗巴かどうかは分からない。
(8)古医方の隆盛
 それまで盛んであった金・元医学に学んだ後世派は陰陽五行・五運六気といった抽象的な理論が多かったことからそれに対する批判として、漢方医の中でも張仲景「傷寒論」の様な実証主義へ回帰しようという動きが高まった。これが古医方(古方派)である。張仲景を重んじる学説は名古屋玄医に始まる。玄医畠自身は後世派への批判からそうしたわけではなく張景岳・薛己・程応旄といった明清の大家の影響を受け「素問」「諸病源候論」など古典を学んだのであるが、「百病は寒に傷ぶられる結果生ずる」と唱えで病の原因を一元化し「歴試」という言葉に表される経験主義・実証主義をこれまで以上に押し進めた点で古医方に通じる。さらに後藤艮山が現れ、「一気留滞説」を唱えた。元来主な病気の原因とされてきた内因(感情失調など)、外因(外界からの侵襲)、不摂生に先立ち生体防御を司る気(天地間に広がり万物育成の源泉となるもの)の機能が破綻した時に病気になるというものである。よって、治療には順気・潤涼・解毒・排毒を行うという。彼は民間療法や灸、温泉、熊胆を好んで用いたため「湯熊灸庵」と呼ばれた。当時医師は僧形をしている者が多かったが、艮山はこれを嫌い髪を伸ばした。また弟子たちに伊藤仁斎の古義堂で学ぶよう勧めた。古医方の展開は儒学における古学の興りと連動していたと言えるかもしれない(中国文化の影響の強い分野であったので当然かも知れぬが)。儒者と医師とを兼ねる者も多かった。中でも弟子の香川修庵は「孔子の聖道と医術の本は一つ」として一本堂と号した。修庵は師以上に徽底した考えを持ち、「傷寒論」が太陽・少陽・太陰・少陰・厥陰に病を分けて論じているのを観念の産物として批判し、「我を以て古と為す」と述べた。草木の実際の効能のみを自分の経験により調べて「一本堂薬選」3巻を発表。「一本堂行余医言」30巻を著し、自らの医学体系を示した。艮山のもう一人の高弟に山脇東洋がいる。彼については後述する。古医方でもう一人有名な医師と言えば吉益東洞がいる。畠山氏の子孫として広島に生まれた東洞は、初め金瘡医をしていたが37歳のときに古医方に志して上洛し艮山に入門した。長い間流行ることなく人形作りで口に糊していたが、出荷先であるの問屋の隠居の具合を診立てたのがきっかけで山脇東洋の目に留まり注目を集めるようになる。東洞は「万病一毒説」を唱えたことで知られる。全ての病は体内に後天的に生じた毒によって起こるものであり、「毒を以って毒を制する」つまりこの毒を毒薬で駆除することで病を治せるというのである。現実に様々の病気が存在するのは、その毒が存在する場所、つまり傷害部位が異なるからと言う。好んで劇薬を投与し、死生は天に有り医の預かり知らぬこととして激しい療法を用いた。彼の考え方は、気・血・水などの変調を病の原因とする中国の病理論とは異なる。また実証主義によりこの体内の毒も実際に見たり触れたり出来なくてはならないと考え、腹診により確かめられるとした。徹底した観察に頼る臨床主義を取り「親試実験」を重んじ「目に見ぬことは言わず」「東洞の言葉であっても鵜呑みにするな」と説いた。「方極」「医事或問」など多くの著作を成したが中でも劇薬の処方をまとめた「類聚方」や同一生薬を含む処方の共通適応症から薬能を帰納的に考察した「薬徴」は多くの医師によって読まれたと言う。子の南涯や孫の北洲も医師として知られ古医方といえば東洞の流派を指すようになった。古医方で他に有名な人物としては賀川玄悦・根来東叔がいる。彦根出身の玄悦は古医方を学ぶため京に出て苦学していたが、ある時隣の家の難産で副業の古物屋で使う秤鈎を用いて母体を助けた(これが我が国初の産科手術となる)のがきっかけで産科の研究に力を注ぐようになる。古来胎児は子宮内で頭を上に臀部を下にして育ち、分娩が始まると回転して頭から出てくると考えられてきたが、玄悦は直接妊婦の体に触れることで、これが誤りであり上臀下首が正常胎位であることを指摘した。同じ頃英国でもスメリーが同様の事を発見している。玄悦は明和三年(1766)に「産論」を友人の儒者皆川淇園の助けを得て著している。その養子玄迪は「産論翼」を著し、玄悦の実子満郷と共に賀川流産科として名を上げた。後、シーボルトは玄悦の業績をヨーロッパに紹介している。一方、東叔は白内障が眼球内の中程にある壁の様な部分の病気であることを我が国で初めて述べ、自らの手術の経験から限球内の構造を示す模型図を作った。さらに、享保十七年(1732)には二人の刑死件が白骨化しているの自ら詳しく写生し「人身連骨真形図」にまとめている。これらの医師達の態度には自ら確かめることを重視する姿勢がよく表れている。こうした積み重ねが後の山脇東洋や杉田玄白の偉業につながるのである。
(9)「蘭学事始」
 宝暦四年(1754)、京都六角獄において我が国初の人体解剖が行われた。剖見されたのは屈嘉という男の刑死体で、それを見たのが山脇東洋らであった。東洋は前述した様に艮山の門弟であり、古医方の中では穏健で包容力があったといわれる。「古の道に従い、今の方を採る」といって張仲景を尊重しつつも新しい知識に興味を示した。中やでも古来より伝わる五臓六腑説が正しいのかどうか疑問を持ち実際に調べて見たいと思っていた。律令成立以来人体解剖は我が国では長くタブーであったので師艮山の勧めで内臓が人間と似ていると伝えられるカワウソの解剖を行った。が、疑問は氷解せず、門人の仕えていた京都所司代・小浜藩主酒井忠用に願い出て忠用の英断によってこの度「腑分け」が行われたのである。といっても実際に執刀したのは刑場の係員で、東洋らは臓器の形や色、骨の形や数を観察しながら記録したのである。この成果は宝暦九年(1759)に「臓志」として出版された。脊椎の数を17と記録した事や小腸と大腸の区別がつかなかったと記されているなど、その記述は必ずしも現在から見て正確とは言えない。しかし、初めて日本人医師として実際に体の内部を見たという意義は言うまでもなく大きい。また気管が前に食道が後にあることが確認されたのは当時としては重要だった。もう一つ注目すべき事として「臓志」の附録に「夢覚を祭るの文」が掲載されている事である。当時は刑死体には葬式も行ってはならない事になっていたが、解剖から一ヶ月後に屈嘉の霊を祭り、その際に彼に夢覚信士と戒名が与えられたのである。現在各地の医科大学で行われる解剖体祭の初めである。以降、各地で解剖が行われるようになる。宝暦八年(1759)には伏見で伊良子光顕が、東洋の弟子・栗山孝庵が萩で解剖を行っている。翌年には萩で孝庵が女の刑死体の解剖を行っており、外科医田英仙が医師として初めて執刀した。そのため観察が行き届いたのか膵臓が確認されたようだ(尤もそれが何かは分からなかった様だが)。後には河口信任が京都で刑死体二つ、首一つを解剖。また東洋の高弟である永富独嘯庵は著書「漫遊雑記」中で解剖の重要性を説いている。尤も解剖に対する反対の声もあった。「臓志」発表の翌年に佐野安貞は「非臓志」を著し死人の内臓を見ても生きた人間の治療には役立たないとして解剖反対論を公にし、吉益東洞も解剖無用を唱えている。しかし解剖は次第に広まっていった。そうした中の明和八年(1771)、江戸・千住小塚原の刑場で青茶婆と呼ばれた女の刑死体の解剖が行われる。立ち会った医師は杉田玄白・前野良沢・中川淳庵であった。彼らはクルムス著の解剖書(いわゆる「ターヘル・アナトミア」)を手にしてこれと逐一比較しながら見学した点でそれまでとは異なっていた。それまでは五臓六腑しか関心がなかった関係から内臓組織のみを見ていたのであるが、彼らは本と比べ合わせ筋組織などにも注意を払ったのである。彼らはその解剖書の正確さに驚き、かつ自分たちが患者の体の仕組みを正確に知らなかった事を恥じ、何とか自分達で日本語に訳そうと決意。辞書もなく良沢のわずかな語学的知識のみを頼りにした大それた試みであった。明和二年(1765)に後藤梨春「紅毛談」がオランダ文字を用いているという理由で絶版を命じられた直後だけにその勇気には敬意を禁じえない。桂川甫周をメンバーに加えて連日苦戦した様子は玄白の「蘭学事始」に詳しい。「神経」「軟骨」など、そもそも対応する日本語がなく新たに言葉を作り出す必要があるものもあった。そうした末に三年後、小野田直武に木版図を描いてもらい「解体新書」として出版されるに至る。通詞を通さずにオランダ書を日本人が読む事ができるようになった初めての例である。この書は麻田剛立ら学者の一部から渇望されていたものであり、出版されるや否や広く影響が及んだ。これをきっかけにオランダ語を読む道が開け、西洋の学問は自然科学を中心に急速に広がり始めた。例えば「解体新書」翻訳者の一人である桂川甫周は日本で初めて顕微鏡を医学利用し享和二年(1802)に「顕微鏡用法」を著している。玄白の弟子・大槻玄沢はオランダ語手引書「蘭学階梯」やハイステルの外科書の翻訳「瘍医新書」(これは玄白から引き継いだ仕事であった)を著した。また「解体新書」を改訂した「重訂解体新書」も著し、そこには玄沢自身がその後多くの洋書から得た知識が盛り込まれている。彼の塾「芝蘭堂」からは橋本宗吉や初の和蘭辞書「江戸ハルマ」を著す稲村三伯、そして宇田川玄随が出た。玄随はゴルテルの内科書の翻訳「西説内科撰要」(日本初の西洋内科書の訳)を出す。玄随の養子・宇田川玄真は解剖学を簡潔に説いた「医範提綱」を文化二年(1805)に出版。京都でも小石玄俊が「解体新書」出版をきっかけに解剖学に興味を抱き天明三年(1783)と寛政十年(1798)に行った解剖の結果をそれぞれ「平次郎解剖図」「施薬院解男体臓図」に纏め関西蘭学の祖といわれる。大阪の伏屋素狄は解剖で、腎動脈に墨汁を注入し暫くして腎臓に圧力を加えると尿管から澄んだ水が出る事を解剖で確かめ、腎は小便を漉す役目であることを実証し「和蘭医話」に纏めた(それまでは生殖と関係があるとされた)。そしてこの書には帝王切開の事も記述されている(嘉永五年〈1852〉に伊古田純道が実施)。文政二年(1819)に小柿寧一が40体以上の死体を見て83にのぼる図で「解剖存真図」に成果を纏めた。三年後にそれを補う目的で「存真図腋」が仙台藩医学館洋学教師・佐々木仲沢により書かれている。尤もこれらの蘭学者達もこれまでの漢方を否定したわけではない。杉田玄白が中国の古典「外科正宗」に感銘を受けたり、大槻玄沢が漢方・蘭方の長短を補い合う事を唱え永富独嘯庵一派を先駆者として尊敬し交流した事実もある。
(10)シーボルト
 文政六年(1823)、オランダ商館付の医師として長崎に上陸したフランツ・シーボルトは、これまで来日した外国人医師とは比較にならぬほどの波紋を我が国に残した。彼は祖父が外科医、父が生理学教授、叔父が産科医、従兄弟が比較解剖学に長じた解剖学者という医師の名門に生まれ、ヴュルツブルク大学で医学・博物学・民族学を学び卒業後に外科・内科・産科のドクトルの学位を得た。その後オランダに移りジャワで暫く軍医を務めた後に日本に来たのである。出島に到着してまず彼はジェンナーの牛痘法を日本人の子供に実施したが、長い航海で痘苗が腐っていたため成功しなかったため、日本人にやり方を指示するに留まった。やがて日本人が何人も弟子になったこともあり、長崎奉行から長崎郊外に出て薬草を採取する事や弟子の家に行って患者を診察する事を特別に黙認された。文政七年(1824)にシーボルトは鳴滝に塾を開き美馬順三・岡研介が塾頭となって直接塾生を指導した。シーボルトは定まった日にそこに行き患者を前にして臨床講義を行った。腹水穿刺・腫瘍切除術など外科・内科・産科の実技を示したので名声は上がり遠近から弟子も患者も訪れた。その二年後にオランダ商館長が江戸参府するのに従い、道中で入念に日本のあらゆる事柄を調査した。一方、彼に接した日本人学者は熱心に西洋の知識を手に入れようとした。江戸滞在中、島津重豪・奥平昌高ら大名や桂川甫集・大槻玄沢・宇田川榕庵ら蘭学者、高橋景保、最上徳内らと交流。眼科医の土生玄碩はベラドンナで瞳孔を開かせる方法を詳しく知るため、将軍から拝領した紋服をシーボルトに贈り後にそれが原因で処罰されている。将軍家斉に拝謁した後長崎に戻ったシーボルトは、弟子達に日本の事についてのオランダ語の論文を書かせている。弟子達の語学上達と自らの日本に関する情報収集の一石二鳥を狙ったものであろう。有名なものでは美馬順三の賀川流産科についての「日本産科問答」や「日本古代史」、高良斎「生理問答」「日本疾病志」「天狗爪石略説」、石井宗謙「日本の昆虫図説」「日本の蜘蛛図説」「鯨の記」、岡研介「大和事始」「紀州の鯨について」、高野長英「茶樹の栽培と茶の製法」「南島志」などがある。江戸から帰ってからシーボルトは楠本タキと結婚、二人の娘イネは後に日本最初の女医となる。文政十一年(1828)に台風によってオランダ船が大破し、それがきっかけで彼の積荷の中に国外持出禁止の品々があることが発覚した。中でも、高橋景保から世界地理書と交換で入手した伊能忠敬の日本地図が大問題となり(国防上の機密なので当然であるが)、門人や通詞が捕らえられて尋問された。江戸でも高橋景保・土生玄碩が厳しく詮議され処罰されている。結局シーボルトは国外退去を命じられ、妻子を弟子達に託して帰国。いわゆるシーボルト事件である。国家機密に属する地図を巧みに入手したあたり、彼について単に純粋な学問的好奇心だけでは説明しきれないものがあるのは否めない(因みに諜報活動においては上流階級と交流し、相手の求める情報と交換に風土・地理から文化に至るまであらゆる情報を集めるのが常道だそうである)。その後、ライデンに住み「ニッポン」「日本動物志」「日本植物志」などをそれぞれの専門家の助けも得て紹介。安政六年(1859)に再び長崎に来て付近の動植物を採集したり患者を診察したり新しい門人達を教えたりしている。幕府の外交顧問として江戸に行ったりもしているが、攘夷論の激しい中、彼の在府を好まぬ声が高まった事もあって再び退去。シーボルトの日本史的意義は、蘭学普及後に初めて西洋の臨床技術が実際にもたらされた事、シーボルト事件により防諜問題から幕府が蘭学への警戒心を強めた事、西洋に日本の文物が広く紹介されジャポニズムの一因をなした事であろうか。
(11)漢蘭折衷派
 蘭学が解剖・外科方面を中心に広がっていく中でそれまでの漢方と蘭学の長所を取っていこうとする流れが出るのは当然といえば当然である。その始まりとされるのが前述した山脇東洋の弟子・永富独嘯庵であった。古医方の医師でありながら西洋医学の優秀性を強く説いているのは特筆される。三谷樸は「解体発蒙」で解剖学における漢蘭折衷を図った。六腑に数えられる上焦はゲール管、中焦は膵、下焦はゲール科臼というように、蘭学で言う人体の構造は中国医学においてすでに論じられていると主張。かなり強引なこじ付けなのは言うまでもないが、双方を融合させようという時代の風潮を良くあらわしている。そうした時代の人物で今日でも名が知られているのが華岡青洲であろう。彼は古医方を吉益南涯(東洞の子)に学んだが医術の古今東西に拘泥せず人命を救うのに最善と思われる事は何であれ実践した。特に外科に力を注ぎ、痔・尿道結石など様々な疾患の手術を行ったが患者の痛みを抑える方法に苦慮していた。そこで彼は「三国志」中の華陀が麻沸湯を用いて全身麻酔し腐敗した脾臓を取り出した話を知り、麻酔薬の開発に励んだ。そしてマンダラゲとトリカブトを原料として通仙散を開発。その効力を検定するに当たり母と妻が進んで実験台となり、妻は失明したのは知られる。文化二年(1805)に通仙散を用いて乳癌摘出手術を実施した。彼の名は高まり、彼の住む紀伊国平山村には多くの弟子が集まったため春林軒塾を作った。和歌山藩医に任じられたが辞退したため、「勝手勤」という特別扱いとされている。彼は麻酔方法を秘伝とし子孫や高弟以外には教えず、その著作も「乳癌治験録」とわずかな臨床記録しかない。そのためその後この麻酔が発展する事は残念ながらなかった。彼の高弟である本間玄調はシーボルトにも学び青洲の秘伝を漏らしたため破門されている。玄調は「瘍科秘録」「内科秘録」を著し、膝関節離断・下肢切断・静脈瘤摘出・膀胱側切開などの手術を行った。
(12)徳川時代後期の医学教育―考証派と蘭学塾
 医学の主流は依然として漢方であった。丹波氏の末裔で口科専門の金保氏の元孝が吉宗時代に内科も兼ねて多紀と改姓し、医学校を設けた。因みに小川笙船の発議で貧民救済のために小石川薬園に養生所が作られたのもこの頃である。後に医学校は官設医学館となり、そこでは古医書を読み内容の審議を判断して比較検証する事で公正さを求める考証派が多紀元簡らを中心に行われた。森鴎外の小説で知られる渋江抽斎・伊沢蘭軒もこの流派に属する医師である。考証派の業績として中でも有名なのが「医心方」の筆写で、半井家に蔵されていたものを医学館が多紀家を中心として書き写し、万延元年(1860)に完成。多紀家は医官推薦・蘭書翻訳取締令の下での医書出版許可制において大きな力を振るっていたが、安政五年(1858)に将軍家定の病が漢方では治せないと判断され蘭方医である伊東玄朴・戸塚静海が奥医師となり、幕府内に蘭方が公的に持ちこまれた。考証派は古書復刻などの努力は行ってきたが客観的視点・臨床観察に欠けた為に西洋風医学に敗れる事になる。
 一方で各地で蘭方の塾が開かれている。大槻玄沢の芝蘭堂がその最初である。寛政六年以降、太陽暦での元旦を祝うオランダ正月を行い蘭学仲間が集ったのは良く知られている。また宇田川玄真の弟子・坪井信道は日習堂という私塾を開き蘭学を教え、緒方洪庵ら次代を担う人材を育てた。シーボルトに学び種痘の普及にも貢献した伊東玄朴も象先堂を開設。京都では新宮凉庭が南禅寺に順正書院を開き解剖・生理・病理・内科・外科・博物・化学・薬性を教えた。また儒者を招いて講演会も行ったという。天保九年(1838)に緒方洪庵が大坂で適々斎塾を開いた。彼は大坂での種痘に貢献し、「病学通論」で初めて病理学を紹介した事でも知られる。また安政五年に大坂でコレラが流行したとき、「虎狼痢治準」を著して治療法を発表。橋本左内・福沢諭吉・大村益次郎・大鳥圭介・長与専斎らが適塾で学んでいる。また佐藤泰然は江戸で和田塾を開き、後に下総の佐倉に移って順天堂を開設。そこでは蘭書に従って臨床外科が研究された。その弟子の佐藤尚中は後に長崎のポンペに学んで佐倉藩に仕えた。その結果、佐倉藩は西洋医学のみ採用と決定している。泰然のもう一人の弟子・松本良順は後に医学所頭取となり、明治に入ってからは陸軍軍医総帥となっている。
(13)近代医学への胎動
 安政四年(1857)に伊東玄朴・大槻俊斎らが中心となり種痘所を江戸に設ける願いが出され、翌年に許可され開設。ここで種痘について少し述べる。ジェンナーの牛痘法が入る以前に人痘法が清より伝来し、筑前の緒方春朔が鼻乾苗法に成功しているが人命の危険を伴うため普及はしなかった。牛痘法についてはロシアに拉致された中川五郎次が現地で習得し、通詞の馬場佐十郎が彼の持ち帰ったロシアの牛痘法を「遁花秘訣」として訳したのが最初である。嘉永元年(1848)に肥前藩主鍋島閑叟の依頼でモーニッケが痘苗を持参したが失敗し、藩医楢林宗建の勧めで痘痂を取り寄せて翌年宗建の子に用いたところ、成功。佐賀で日本初の成功を収めた牛痘は全国に広まる。三宅春齢が広島で行い、京都の日野鼎哉は頴川四郎八から苗を得て孫らに行い後に除痘館を設けた。福井の笠原良策がその分配を受け、さらに大坂の緒方洪庵にも苗が行き渡った。良策は痘痂ではなく人から人へ直接移すという確実性の高い方法を取った。そして江戸には伊東玄朴の下に苗が届いた。種痘には害があると心配する声もあり必ずしも平かな道のりではなかったが徐々に普及していったのである。さて種痘所は始め、種痘と同時に西洋医学に志す者が漢方に対抗して集まって学ぶ場所として玄朴・俊斎を中心に運営されていたが、万延元年(1860)に幕府直轄となり俊斎が頭取となった。文久元年(1861)には内容が種痘のみではなくなった関係から西洋医学所と改名され教授・解剖・種痘の三科が置かれた。同三年には医学所と改名、漢方を抑えて医学の本流として西洋医学が幕府から認められたのである。その間に頭取は俊斎から緒方洪庵や松本良順へと替わっていた。薬物・生理・病理・解剖・化学の5教授と句読師4人で授業が行われた。句読師はオランダ語・英語を教えるのが仕事で、学生達に文を読ませ解釈させて成績の良い者を上席とし、宿舎の位置の優先権を与えた。当時の語学教育はそうした方法が主流であったのだ。この医学所が現在の東京大学医学部の前身である。
 一方で安政四年に招聘されたオランダの海軍軍医ポンペは長崎で日本人学生に西洋医学を講義した。戸塚文海・佐々木東洋・長与専斎といった近代医学界を指導する事になる人材がここで育てられる。ポンペは全ての学科について手引書を作って学生に配布し、学生の筆記具合に合わせて説明を行ったという。日本で初めて内臓系・神経系・血管系・脳というように系統立った解剖の講義を行ったのでも知られる。やがてポンペの進言により初めての本格的洋式病院である長崎養生所が作られた。そこでは日本人患者のみならず在留中の外国人も診療を受けた。ポンペは回診・外来・臨床講義という日課を規則正しくこなした。彼が帰国した後もボードインやマンスフェルトが教えた。長崎大学医学部の前身である。
 さてこの頃になると政局は急速に変動。大政奉還・王政復古に引き続いての戊辰戦争において、官軍側は相国寺養源院に臨時病院を設置し負傷兵を収容したが、銃創が殆どであったため処置が分からず死者が続出した。そこで英国公使館からウイリスが招かれた。彼は傷口を過酸化マンガンで消毒しクロロホルムで全身麻酔を行って切開縫合や四肢切断を行った。ウイリスは官軍に従って会津にまで従軍したが、これを目の当たりにした新宮凉介・広瀬元恭ら蘭方医の間で現地の西洋医学の優秀さが改めて認識された。これをきっかけに明治元年、天皇の意思として「西洋医術の儀、御採用可有之、被御出候事」という布告が出される。翌年にはこれまでの蘭学がドイツの医学をオランダ語訳したものが多かったという事や世界的に見てドイツ医学が優れている事からドイツ医学の採用が決まった。こうして近代医学の歴史が始まったのである。
(14)おわりに
 今まで前近代の医学の歴史にふれてきて思った事は、人間の最大の望みが健康である事は変わらないということである。寧ろ治療法が少なく致命的な病が多かった昔は現代よりもその願いは切実であったであろう。そうした中で医師達は全体として可能な限りこれに応えようとして来たし応えても来た。この頃医療に関する不祥事がよく報じられるが、今もなお医師達は人々の健康への願いに応えようと最善を尽くしていると思うしそう信じたい。


参考文献
医学の歴史 小川鼎三著 中公新書
京大医学部 川端眞一著 ミネルヴァ書房
東洋医学 大塚恭男著 岩波新書
京医師の歴史 森谷尅久 講談社現代新書
解剖学教室へようこそ 養老孟司 筑摩書房
茶の湯Q&A 淡交社編集局編 淡交社
国史大辞典 吉川弘文館
日本全史 講談社
新版新修国語総覧 京都書房


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