2000年6月9日
日本近現代医学史  NF


(1)はじめに
 前回は明治維新までの医学史を扱った。今回は明治の西洋医学採用から現代の状況までを扱い、今後日本医学はどう進んでいくのか、その中で医師はどの様に有るべきなのか考えたい。
(2)前史
 明治を迎える以前から、我が国では西洋医学の優秀性が次第に認識され始めていた。各地の西洋医学を伝える塾の設立はその現れである。例えば、宇田川玄真を育てた大槻玄沢の芝蘭堂、玄真の弟子坪井信道の日習堂、緒方洪庵の適塾、ニーマンに学んだ佐藤泰然の順天堂、新宮凉庭の順正書院などである。そしてそこで当時普及したのが種痘であった。嘉永二年(1849)にモーニッケが長崎で成功させて以来、京都の日野鼎哉・広島の三宅春齢・福井の笠原良策・大坂の緒方洪庵らによって普及、江戸でも大槻俊斎・伊東玄朴らにより種痘所が作られ西洋医学を学ぶ中心地となった。そこはやがて幕府直轄となり西洋医学所、医学所と改名し西洋医学を修める学校となる。同じ頃長崎にポンペが来日し初の洋式病院である長崎養生所を設置。やがて戊辰戦争により江戸が官軍に明渡されて後、医学所頭取であった松本良順は会津へと逃れ林洞海が継いだ。新政府にこれらの施設が接収されてから旧職員は皆解雇され前田信輔が取締となる。やがて坪井芳洲・田代基徳ら旧職員の一部が復帰すると嘗て漢方の中心地であった医学館が医学所に吸収され種痘所となり、1日おきに種痘が行われるようになる。既に漢方を捨てて洋方を採用するという新政府の方針が見える。一方相国寺養源院に設けられた軍病院で過酸化マンガンによる洗浄・クロロホルムでの全身麻酔で外科手術を行ったイギリスのウイリスは横浜の軍病院に移った。横浜の病院はやがて江戸に移され「東京府大病院」となる。ウイリスの持つ技術を目の当たりにした新宮凉介・広瀬元恭・江馬権之助・山科元行ら蘭方医らにより西洋医学を取り入れようという機運が更に高まり西洋医学採用を表明する布告が出されたのは前回述べた通りである。十月、前田信輔に替り緒方惟準が医学所知事となる。惟準は洪庵の子であり、ポンペやボードインについて長崎で学び更にオランダに留学した後、帰国して典薬寮医師となっている。(これは朝廷が西洋医学を採用した最初。)天皇が一旦京都に帰る際に、「今般医学所お取建に相成り候」「学の成否術の巧拙を篤と試考し免許これ有り」と太政官布告が出された。明治二年、相良知安・岩佐純が医学取調御用掛となる。共に順天堂や長崎で学び西洋事情には明るく、特に知安はドイツ医学の採用を強く唱える。それまで日本に紹介されたオランダ書はドイツ医学の蘭訳が殆どで有りドイツ医学が当時世界最先端であったことが理由である。オランダやウイリスへの遠慮から反対もあったが、開成学校教頭フルベッキの意見によりドイツ医学の採用が正式に決定。明治八年には東京・大阪・京都で医師開業試験が、更に同十六年には医術開業試験規則及医師免許規則が施行。これで医師となるには西洋医学を修めねばならず従来の様な漢方医の存続は不可能となった。日本の医学界は西洋医学一本となる。
(3)ドイツ式医学教育の確立
 明治二年、医学校兼病院(大病院の後身)は大学東校となり佐藤尚中が大学大博士として最高の地位につく(この頃湯島聖道に有った大学は今の文部省も兼ねる)。彼の養子佐藤進は新政府初の海外渡航免状を持ってドイツ留学し、翌年には池田謙斎・長井長義・大澤健二らがドイツ留学を命じられる。しかしドイツに依頼した教師が普仏戦争の影響で中々来日せず暫くフルベッキに滞在を延ばしてもらった。明治四年に陸軍軍医レオポルト・ミュルレルと海軍軍医テオドール・ホフマンが遂に来日。彼らは医育制度を根本的に改めドイツ式大学に整備した。特に予科に重点を置きそれまでの正則生・変則生(速成コース)が本科五年予科二年とされた。ミュルレルは本科生に解剖学・外科学・婦人科・眼科を、ホフマンは内科を講義し、予科の教師としてシモンス・ワグネル・ヒンデンドルフ・コヒウス・フンクらを迎えた。この頃のもう一つの大きな変化は人体解剖の自由化である。明治二年にミキという女性の特志解剖が医学校で行われたのが初めで、本人の生前の希望により病死体が解剖されたのは日本では前代未聞であった。政府が厚葬を条件に許可した為か、丁寧に埋葬され永代読経料として遺族に大学から金を払うのが常となった。更に刑死体・引取手のない死体の解剖許可が明治三年になされた。解剖の法制上認可は初めてであった。
(4)医学教育制度の整備
 さて東京医学校は明治十年に東京大学医学部と改称された。池田謙斎の下、本課ではドイツ人教師がドイツ語で、別課(速成コース)では日本人教師が日本語で教えた。漢方は排斥されたが一方で洋方医の不足は深刻であった。別課が設けられたのはそのためである。また長谷川泰は明治九年に済生学舎を設立し洋方医の速成を目指した。野口英世や後に日本の女医育成に貢献する吉岡弥生がここ出身である。他、各地に公立・私立の医学校が作られる。明治12年の時点で公立20校・私立25校である。特に京都で明石博高らが中心となって青蓮院に設立した療病院はこの頃唯一の民間主導型病院であり府の医業総取締の場でもあった。例えば市中の医師の自己流派申告を命じたりしている。また廃仏毀釈の風潮の中で新しい社会事業に従事する事で古い体質から脱却しようと図っていた願成寺・慈照寺・永観堂などの寺から多額の寄付を受ける。因みに博高らは京都医学研究会を作り洋書輪読や温泉成分分析などを行い、祗園に私立療病館・島原に黴毒療養所(梅毒対策)を作り遊女の健康対策をした事でも知られる。多くの公立医学校は明治20年に経費を地方税で支弁してはならぬと定められた為廃止されたが、京都の医学校は療病院からの収入が多く経済上の問題は少なかった。現在の京都府立医科大学の前身である。千葉・仙台・岡山・金沢・長崎に国立の高等中学校の医学部ができる。更に明治30年に京都帝国大学が設立され二年後にその医科大学ができたことで帝国大学(明治19年に改称)は東京帝国大学となり、医学教育の中央集権は緩まる。初期の京都帝大医科大学の教授で知られる人物として薬酒・玄米食を勧めた皮膚病学の松浦有志太郎、「めしうまい、かぜひかぬ、昼元気よい、夜よく寝る」と唱えて啓蒙に励んだ衛生学の戸田正三を挙げておく。因みに京都帝大と療病院は近接していたが帝大側は研究中心で患者は寮病院に多く両者は共存。この頃から東京帝大の卒業生が母校の教授となることが多くなりそれに連れて外人教師は減少した。内科のベルツ・外科のスクリバの20年近い滞在を最後に医学校の教師は殆どが日本人となる。更に京都帝大に属する福岡医科大学(後の九州帝大医科大学)の他、官立・公立・私立の医学養成学校が出来た。その背景下第一次大戦中ドイツ依存の空気が薄れ独自性を求めるようになる。大正・昭和初期には東北・北海道・京城・大阪・名古屋・台北の帝大医学部や千葉・新潟・金沢・岡山・熊本・長崎の医科大学、京都府立医科大学(大学令により大学となった)ができ東京中心主義は消えていく。明治21年には医学博士の制度が始まり、始めは推薦であったが後に論文を提出し請求により決定した。これも医学水準を高めるのに貢献した。
(5)漢方の動向
 明治政府が西洋医学、特にドイツ医学に傾くことは一方では従来の漢方の没落を意味していた。前述した様に明治八年に医師開業試験が、八年後には医術開業試験規則及医師免許規則が施行され医師になるには西洋医学を修める必要ができた。医師になってから漢方をするのは自由であったが、漢方を学ぶ者は当時のエリート医師には殆どない。こうした風潮の中、山田業広・森立之・浅田宗伯ら漢方医は明治12年に温知社を設立して漢方の啓蒙運動を行い政府の洋方偏重に抵抗したが、大勢に抗する事は出来なかった。最後の抵抗として医師免許規則改正を議会に何度も訴えるが、その度に失敗。尾台榕堂・浅田宗伯ら漢方の重鎮が死去した辺で漢方の流れは絶えたと言えるかも知れない。しかし明治43年に和田啓十郎が「医学の鉄槌」で医学理論は西洋医学が優れているが臨床に関しては漢方に優れた面が有ると述べる。昭和に入ると佐々木隆興・朝比奈康彦・板倉武らが漢方の復権を唱えた。佐々木は講演「現代医学と東洋医学」で「精神と肉体の関係、環境の精神・肉体に及ぼす影響」が漢方では重要視されていると言い、朝比奈も講演「和漢生薬の研究」で化学薬より生薬の様な複合薬の方がやんわりした効果があるとした。板倉は東亜治療研究所を設立し漢方・鍼灸による新しい治療を目指した。更に昭和51年には漢方製剤が薬科基準に乗せられた。(しかし個々の症状に薬が処方され薬づけなのは変わらない。)話が横道にそれるが、現在日本において重大な病気は糖尿病の様な生活習慣病、悪性新生物、心疾患、脳血管疾患であり個々の症状に対応するだけでは不充分な物ばかりである。長期間病と付き合うことで精神的問題も大きい。漢方に見られる、身体全体の臨床問題を見る目・精神の肉体への影響の考慮にウエイトを置くことが不可欠になろう。
(6)細菌学での成果
 ヨーロッパでは微小な生物により病気が起こるという考えは昔からあったが、19世紀後半にパスツールやコッホが出たことで細菌学が脚光を浴びる。パスツールはアルコールの発酵と腐敗が微生物の仕業であることを証明し、蚕の伝染病の予防、羊の脾脱疽・鶏コレラの研究とワクチン開発、更に狂犬病ワクチンの開発に成功した。コッホは細菌の検査方法を発表、ゼラチンと肉汁で培養基を作った。@その病気でその細菌が常に見つかる事A体外でその細菌を培養できる事B健康体にその細菌が入るとその病気が起こる事と言うある細菌がある病気の原因であることの条件を提唱したことでも知られる。更に破傷風の病原体や結核菌・コレラ菌を発見。彼に師事した北里柴三郎は明治22年に破傷風菌の純培養に成功。嫌気性菌の培養に成功した初めである。更に破傷風菌の毒素を抽出、兎に注射して血清を取りその中の抗毒素で病の治療・予防に成功した。翌年に北里とベーリングの共同研究として発表され、さらにベーリングがジフテリアの血清療法を発表。そのため北里は免疫学・血清療法の開祖の一人として名を残す。北里は始め軍人を志したが熊本医学校でマンスフェルトに学んで医学の重要性を知り後ドイツに留学しコッホの下にいたのである。北里の帰国後、福沢諭吉が森村市左衛門と共に資材を投じて彼の為に伝染病研究所を作った。(後年北里はそれを恩として慶應義塾大学医学部の初代学部長に就任。)以後、東大の緒方正規と伝染病研究所が研究成果を競い合い日本の細菌学は急速に発展する。北里は他にインフルエンザ桿菌やペスト菌も発見した。(ペスト菌の研究では青山胤通も有名。)後に伝染病研究所が文部省管轄になってからは北里研究所を私財で設立。明治30年、伝染病研究所で志賀潔が赤痢菌を発見。その功績を称えて現在の微生物学の分類では赤痢菌全てをShigellaという属に含めている。明治43年には秦左八郎がエーリッヒと共同で長らく恐れられていた梅毒の特効薬サルバルサンを開発。フレミングのペニシリンやワクスマンのストレプトマイシンに代表される抗菌薬の先駆けである。ところで一種の脳・脊髄の病が梅毒と深い関係があるといわれながら証明が出来なかった。大正二年、野口英世がその患者の脳と脊髄の断面を辛抱強く顕微鏡で観察し、スピロヘータ・パリダ(梅毒の病原体)を発見し、前述の説を実証した。周知の様に野口は幼少時に囲炉裏で手を大火傷し、それを外科治療された感動から医師を志す。済生学舎で学び米国に渡ってロックフェラー研究所所員となった。蛇毒の研究、スピロヘータ・パリダの純培養の研究に続いてのこの快挙であった。(因みにスピロヘータ・パリダ純培養には野口の他、島峰徹・中野等も寄与している。)大正四年には稲田竜吉・井戸泰がワイル病レプトスピラを発見した。一方野口は後に中南米へ黄熱病研究のため赴く。一時病原体を発見したとして話題になったこともあったがボレリアの一種の間違いであった。アフリカの黄熱病を研究中、自らもその病に罹り昭和三年にアクラで没した。後に黄熱病の病原体はウイルスであることが判明。当時の実験技術でそれを見抜くのは無理に近かった。細菌学は19世紀のヨーロッパにおいて丁度勃興していた分野であったため西洋医学に入ったばかりの日本人にもその勤勉さを武器として入り込みやすかったのである。やがて前述のペニシリンやストレプトマイシンなど抗生物質により多くの細菌性感染症が治療された。しかし近年耐性菌の増加による結核などの再興や新興感染症が問題化している。細菌、そしてウイルスとの人類の戦いは終わることがない。
(7)病理学での成果
 明治・大正期の日本医学は病理学においても世界的な業績を上げている。東大・ベルリン大学で学び京大初代病理学講座教授となった藤浪鑑は明治34年に移植可能な鶏の肉腫があることを発見し藤浪肉腫と名づけた。同じ年にラウスが同様の発見をしラウス肉腫と名づけている。しかしどちらも当時は信じられず、学界で無視される結果となった。後のことだが、これはウイルスによって発癌することを示す先駆けである事が明らかとなりラウスはノーベル賞を受賞しているがこの時藤浪は既に死去していたのである。さて更に明治37年に広島県片山で桂田富士郎と共に日本住血吸虫の生態を研究し、その寄生虫が水中で経皮感染することを発見。日本住血吸虫病は発熱・肝腫大・粘血便、慢性期には肝硬変・腹水を起こし死亡することもあって藤井好直が弘化四年(1847)に「片山記」に詳しい症状を記載した重症の病であった。藤浪の研究成果によって病の予防に前進が見られた。これにより桂田と共同で帝国学士院賞を受けている。(因みに宮入慶之助・鈴木稔によりミヤイリガイが中間宿主であることが発見されている。)その他満州へペストの調査に行ったりもしている。ドイツでウィルヒョウに学んだ山極勝三郎は市川厚一と共に周囲の嘲笑を他所に長期間兎の耳にコールタールを塗続け、皮膚癌の発生に成功した。世界初の人工癌である。度重なる刺激により癌が発生するという師ウィルヒョウの説が実証された。この時山極は、癌出来つ意気昂然と二歩三歩 と感慨の余り詠んだという。大正四年に東京医学会で発表され、反対者からは「癌か、頑か、玩か」と嘲られたが同時に世界的注目を浴びた。ノーベル賞候補に挙げられたが賞は刺激性癌の発表に与えられた。その発表は完全な誤りだったことが今日では明らかで山極が受賞を逃したことを「幻のノーベル賞」として惜しむ者は今でも多い。ともあれ四年後に帝国学士院賞を受賞。台湾でのペスト調査や「癌」「病理総論講義」「胃癌発生論」などを創刊したことでも知られる。昭和七年には佐々木隆興・吉田富三がオルトアミド・アゾトルオールをネズミに与えることで肝臓癌を発生させ、肺に転移させることに成功。更に吉田は、移植しても発癌性を維持し実験癌として利用できる腹水癌「吉田肉腫」を発見し、石橋守三らと癌化学療法剤ナイトロミンを開発している。佐々木も血圧測定の重要性を指摘したりX線断層装置や冷水摩擦を導入するなどの業績を残す。また陸軍軍医の石原忍は眼科で色盲検査を開発した事で知られる。他、京大に学び生体染色の研究から人骨に興味を引かれ考古学研究に移った清野謙次が有名である。清野は大正十年に「生体染色の現状」を発表して翌年に帝国学士院賞を受賞。後に原人の研究に入ってから「日本石器時代人」を発表、日本人とアイヌ人の先祖を共通と考えた。他、病理学とは分野を異にするがこの頃著名な研究をした日本人として鈴木梅太郎を挙げたい。この頃白米を主食とする地域で恐れられた病気に脚気があった。日本陸海軍では総兵員の三分の一が罹患したという。長らく原因が不明であったがオランダのエイクマンが鶏の多発神経炎の研究から玄米・糠で防げることを発見。これを受ける形で鈴木は明治44年に糠から有効成分としてオリザニンを抽出。実験によりオリザニンが動物の栄養として不可欠であることを証明した。同年にポーランドのフンクが酵母から同じ働きのものを発見しビタミンとして発表。これがビタミン学の出発点となるのである。
(8)医師法・医師会の設立
 ここまでは医制の整備や近代日本の生んだ基礎研究者の業績について述べてきたが、ここで一般臨床の推移について述べる。明治政府は一般臨床に関しては医師数の不足・環境整備の困難さから、それまでの開業医形態を引継ぐ方法を取った。また診療費に関しては収入源を薬代に吸収し診療単位で徴収するようになる。明治七年の医制では医師の申し立てにより診療費の取立てを医務取締・医戸長がする事が定められ後に診察料の定額化が行われる。やがて医師数が増加すると開業医の権限・利益を守る為に医師の組織化が求められるようになった。明治16年には開業医組合設置法が発布され、県の認可で組合が作れる事になる。例えば京都では明治23年に医師の親睦会である養神館や京都医事会社を基に京都医会が設立され「同業公共ノ利益ヲ保全シ医事ノ進歩ヲ企図」する事を目的に、伝染病防疫・医師間協定・医薬分業反対を行った。当時はコレラ・赤痢・腸チフス・ジフテリア・猩紅熱・発疹チフスが伝染病としては多く、明治30年に発布された伝染病対策法(疱瘡・ペストも対策に加えられる)に基づく消毒や患者の届出・隔離しか有効な方法はない。そうした病気の防止の為にも地域の医師の組織化は重要であった。そして開業医は権利擁護の為、内務省は医療統括の為、共に医師法の必要を痛感していた。明治31年、東京医会は医師会法案を大日本医会(明治26年に全国組織として成立)、更に帝国議会に提出したが森鴎外ら大学の医師達が営業の自由を奪うと反対し貴族院で否決された。しかし明治34年、今度は関西で関西連合医会が発足、二年後にはその呼びかけで全国連合医会が結成され医師法案が再び提出される。一方大学の医師も明治医会を作り、今度は独自に医師法実現を目指す。全国連合医会は既存開業医の利益、明治医会は新卒医師の利益を追求して明治39年に妥協案が成立、議会を通過した。医師免許取得資格を大学・専門学校卒業生に限るが暫定的に医術開業試験を八年間認めること、医師会設立は任意だがその規定は内務大臣が定めることなどが定められた。この法以降、医師会設立されると官公立病院以外の医師は強制的に加入させられる。
(9)救療体制の整備
 明治後半、都市労働者が増加し労働条件改善を求める声が高まる中、社会主義思想が広がり始めた。そうした中で明治43年に起きた大逆事件は医療にも大きな影響を与える。労働者の不満をそらすためであろうか、幸徳ら処刑の翌月に施薬施療の勅語が発布され資金150円が下賜された。更に管理・財閥からも資金が集まり翌年に恩賜財団済生会が設立される。内務省と地方自治体が中心になって施療病院の設置・施療券配布を行った。実際には例えば京都では自治体と警察署長の協議で患者に治療券を渡し病院医師・開業医に依託するに過ぎなかったが、ともあれ治療券を持参すると診療・1日1剤八銭分の薬、入院地には一日60銭の医療が保障された。しかし対象となる人々に十分に普及するのには時間がかかった。やがて医療費が庶民にとって負担であることを避けるため「医療の社会化」を求める声が高まる。明治44年に軽費診療・健康保険法が施行され、民間では実費診療所・無産者診療所・産児制限運動が興った。大正期には医師会も救療を行っているが、「此の種の患者には常に僻み根性の絶えぬもの」「差別待遇の態度を取らないやう」「怨言と悪声を買ふ」「多大の迷惑」と記された内部通達文書の存在は医師会の本音を伝えて余りある。差別意識・保身のみが目に付き、救療に当たる者としての使命感は感じられない。大正デモクラシーの流れの中嫌々行っていた様子が分かる。現実の医療レベルは推して知るべしであったろう。一方王子製紙の鈴木梅四郎・医師加藤時次郎は貧窮に陥ろうとしている中産・無産階級を助ける「防貧」が社会対策に重要と考え、明治44年に内相の許可で夜間のみの実費診療を開始。日収1円50銭以下の俸給生活者・労働者・学生を対象に診察無料で薬代は医師会協定料金の三分の一、というものである。これは医師会料金への一般の批判を招く結果となり、医師会は実費医療に「現金主義の大量販売」と猛反対した。しかし政策的な必要性もあって、全国にこうした診療所は広がる。医師会も軽費診療の必要性は認めざるを得なくなる。この頃実費診療の普及や恐慌による財政難で救療の理念が動揺、昭和八年には済生会も全国的に実費化する。労働者階級の間でも無産者診療所が設けられた。山本宣治の通夜で発議され、病院設立基金募集委員会・解放運動犠牲者救済会の協力で昭和五年に大崎無産者診療所が設立。診療科は産婦人科・小児科・眼科・内科・外科で、診察無料・薬代一剤十銭・洗眼代五銭、医師は無報酬であった。中でも京都洛北診療所の太田武夫の避妊リングは注目に値する。彼は戦後に労農党から衆議院議員となり優生保護法公布に一役買う。しかし無産者診療所は左翼運動の連絡先でもあり、東京や大阪では共産党との関係で厳しく弾圧され、昭和16年には全国に二十数ヶ所あったにもかかわらず全滅した。
(10)軍と医学
 軍の内部では明治・大正初期はトラコーマ・梅毒などが問題であった。しかし後に問題化したのは結核だった。紡績女工を蝕み、病んで帰郷した彼女等から農村に広がり国民病となる。大正八年の結核予防法、昭和12年の保健所設置、二年後の結核予防会設立など結核対策は力を注がれ、医師も結核予防協会を結成、また軍も兵力維持の為結核予防に尽力した。昭和13年の厚生省設立も軍部の強い要求による。さて戦時色が強まるにつれて医療も他分野同様軍事化し、昭和13年の第十回日本医学会は「戦争医学に赫々たる成果」で終了した。討議対象となったのは毒ガス後遺症・戦争結核克服であった。昭和13年の国家総動員法第21条により国民職業能力申告会が施行され、医療従事者も国家の下に組込まれた。新体制運動の際には管野力の様に「開業医は既得営業権を捨てて、医療を国営とする」「医師の大政翼賛」を求める声も挙がる。また石井研究所、即ち関東軍防疫給水部(731部隊)の様に積極的な軍部への協力も見られた。石井研究所は捕虜を使った人体実験で細菌兵器を極秘研究、細菌爆弾の開発やペスト菌に感染した蚤の増殖など実戦化を進め、実際に中国などでペスト菌を散布する細菌作戦も展開。実験の犠牲者は三千人にも上ると言う。
(11)戦後の公衆衛生の進歩
 戦後になると、復員兵士らによって発疹チフス・天然痘・コレラが海外よりもたらされた。栄養失調による国民の体力不足・混乱による防疫対策の不備・医薬品欠如により瞬く間にこうした伝染病は蔓延。そのため公衆衛生による社会的予防が重要視される。そもそも日本の公衆衛生は明治七年に内務省に衛生局が設立されたのが始まりである。後藤新平や長与専斎が中心となって当面の大問題であった伝染病対策に取組んだ。「衛生」という語は専斎が荘子からとってhygieneの訳語として付けたのである。明治13年に伝染病予防規則を制定し、前述の伝染病研究所などの成果を参考に対策を立てた。ワクチン・血清の製造・供給や人材養成など。大日本私立衛生会が衛生知識の普及・伝染病対策の支援に活躍。当時の衛生は届出・消毒・隔離中心の内務省の警察行政で下水道網整備などの対策は遅れた。国民の為、という視点が欠落していたのである。昭和13年の保健所法成立により健康危機管理における医師の役割は増大。地域の衛生に当たる保健所の所長は医師と決められているからである。戦後に入ってからGHQの指導で保健所の機能が強化された。具体的には昭和22年に保健所法が改正され監督取締でなく保健指導を中心とする行政方針とされた。知事や政令市長の下の行政機関として診療所・試験検査・健康教育・個人への公衆衛生サービスを担当する。保健所がまず対象にしたのは当時多かったコレラ・発疹チフス・マラリアであった。DDTにより水から蚊や蝿を駆除し、頭から蚤・虱を駆逐。また栄養補給の為学校給食を充実。次に結核が対象とされ、寄生虫駆除も行われた。更に母子保健も充実。国からも母子手帳が公布されたのはこの頃である。集団検診・講習会などが地域住民により自発的に行われたのが特徴であろう。こうした教育の成果の下に環境整備・生活改善が進み乳児死亡率・伝染病罹患率は飛躍的に減少した。しかしこの頃経済が発達するにつれて新しい問題が生じた。公害である。明治においても田中正造の尽力で知られる足尾銅山鉱毒事件が存在するが全国的に公害が深刻になるのは昭和30年代である。イタイイタイ病・水俣病・第二水俣病・四日市喘息などの著名な公害病が続出。特に四日市喘息裁判における吉田克巳らの疫学的調査の結果疫学的・法的因果関係の立証が公害裁判では重視される様になる。昭和42年に公害対策基本法が成立し水質・土壌・大気の汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭が法定公害とされた。しかしこの段階ではこうした問題は局地的な物と思われ、地球規模で考えられるようになるのは近年になってからである。
(12)医療の進歩・普及
 終戦直後GHQの指導により病院の充実が図られ、地域別に病院設立が計画された。しかし資金不足の為、開業医を優遇する制度とした。そのため医師は診療・開業・受診の自由が認められる。特に診療に関して大きな裁量権が与えられ、収入面にも中央社会保健医療協議会に定められた点数表による診療報酬出来高払いという保証がある。また昭和36年には国民皆保険が実現、全国民が地域保険である国民健康保険・国民年金、職域保険である健康保険・厚生年金、共済組合、船員保険の何かに加入している事になった。昭和48年には老人医療費が無料化、高齢者にも医療が手の届く物となった。しかしこれは病院のサロン化・梯子受診などの無駄、医師の儲け主義といった弊害を生み出し昭和58年には70歳以上の老人に老人診療報酬を設ける老人保健法に切りかえられた。尤もサロン化・社会的入院は後を絶たないが。ともあれこうした政策が医療の普及を助け折りからのCT・MRIなどの技術の進歩とあいまって死亡率低下・平均寿命上昇に貢献。これは米国に公的保険がなく人口の30%が無保険で低額所得者に医療が遠い存在であるのと比べると大きな違いである。但し乱診乱療という問題を生み出したのは否めない。こうした医療の進歩は現在も継続中である。その代表として以下では遺伝子治療と臓器移植について述べる。
@遺伝子治療
 20世紀後半に分子生物学は急速に発展した。メンデルの法則発見で遺伝子の存在が意識され出して以来その正体が求められてきたが、核の染色体中にあるDNAという核酸分子がそれである事をハーシーとチェイスが1952年に証明した。翌年、周知の様にワトソンとクリックがDNAの構造を二重螺旋であると発表。DNA中の塩基であるアデニンとチミン、グアニンとシトシンがそれぞれ存在比が等しい事を示したシャーガフの法則を参考に、二重の鎖上にあるこれらの塩基がそれぞれ水素結合で引き合っていると唱えたのである。これをきっかけにDNAの仕組みの解明は急速に進んだ。これらの研究は主にアメリカ中心に行われたがここでは三人の日本人の名を挙げる。岡崎令治、木村資生、そして利根川進である。DNAの構造やその暗号の解読などが解明され、更にDNAは少しづつ鎖を解かれながら解かれた鎖に合わせて新しく鎖を合成させることも分かった。しかしDNAを合成する酵素の進む方向は一定のはずであり合成される鎖の片方はその方向に逆らう様に作られねばならない。その難問に答えを与えたのが名古屋大で学びスタンフォード大に留学した岡崎令治であった。岡崎は昭和42年に新しいDNA鎖の片方は酵素の進む方向に従って小さい断片として合成される事を発見した。この断片が後でつながれて鎖が完成するのだ。これを岡崎フラグメントという。岡崎は若くして白血病で没したが、その妻恒子夫人は岡崎フラグメントを始める分子がRNAである事を付き止めている。これによりDNA複製機構の解明が飛躍的に進んだのである。さて、ダーウィン以来長らく進化は環境による自然淘汰で興るとされて来たが、京大で学んだ木村資生は昭和43年、遺伝子進化の機構は偶然による突然変異(中立突然変異)に基づくと唱えた。中立説である。それまでの自然淘汰説では、突然変異は個体に有利な性質をあたえる場合にだけ、集団の中に定着して進化につながる。これに対して中立説は、分子レベルの進化は大部分が有利でも不利でもない中立的な突然変異が偶然に蓄積した結果であると主張。進化の要因として偶然を重視するのである。当初世界的な反発を浴びたがその後の分子生物学研究の結果、この説が認められつつある。ところで、同じ生物個体では全ての細胞のDNAは同一であると考えられてきた。無論基本的にはそれで正しいのであるが、昭和53年に例外が存在する事がわかったのである。利根川進は肝臓など様々な細胞のDNAを解析しているとき、偶々免疫抗体を作るリンパ球B細胞のDNAが他と違う事に気付いた。詳しく研究した結果、B細胞のDNAは組換えを起こす事を発見。B細胞がそのDNA量から考えられない程多種多様な抗体を合成する事は疑問とされて来たがその答えが与えられたのである。利根川がこの業績で昭和62年にノーベル医学生理学賞を受賞したのは余りに著名であろう。遺伝子治療はこうした分子生物学の成果に基づく物である。病気の細胞に新しい遺伝子を組み入れることで治療をする。1990年、米国で免疫系の重大な疾患であるADA欠損症患者の女児に対し初の遺伝子治療が行われた。無害化したウイルスにADA遺伝子を導入し、免疫細胞に故意に感染させる方法が取られた。治療は一応成功、新しい遺伝子は今まで出来なかったADA酵素を合成し、免疫の働きは正常になった。日本でも、平成七年八月、東大で男児のADAに対し初めて遺伝子治療を行い、一定の効果を挙げた。遺伝子治療は筋ジストロフィー・若年性糖尿病など、現在治療法のない先天的な病気に対し大きな効果を期待されている。また、遺伝子組換により全く新しい働きを細胞にプログラムできるため、遺伝性疾患以外にも、効果的治療が期待できる。例えばエイズでは遺伝子を導入して細胞が抵抗力をつけるという方法などが、癌についても遺伝子を操作して正常化したり変異遺伝子の産物生成を阻害する方法などが試みられている。しかし人間の遺伝子を操作する事には倫理的に問題がある。難病解決に大きな光明である事は確かだが、その採用には慎重な検討が必要だ。少なくとも今は他に治療法のない致命的な病に限るほうが良いのではないか。金の掛かる療法である事から、どれほど役立つのか、医療の貧富の差を拡大しないのかといった懸念もある。その有効性・限界についてもまだ見えておらず今後を見守る必要があろう。
A臓器移植
 回復の見込みのない重い病気のとき、臓器を取りかえる事が出来たらという望みは、昔から持たれていた様である。1902年、ウルマンが犬の腎臓を別の犬の首に移植する実験を行い成功させている。第二次大戦中に火傷の人に皮膚移植を行った英国のメダリーは、1度目より2度目のほうが生着率の悪い事を発見。免疫による拒絶反応が意識された始めである。1961年にリイ・カーンが初めて免疫抑制剤アガチオプリンを用いて犬の腎移植を行った。更に米国のスターツルは世界ではじめて肝臓移植を行い1963年には失敗したが四年後には患者の400日生存に成功した。この年、南アフリカのバーナードが初の心臓移植(無論脳死移植である)を行ったが18日で患者は死亡。この頃は免疫抑制剤が強力でなかった為生存日数は短かった。1970年には強力な抑制剤シクロスポリンが開発され、移植の成功率は飛躍的に上昇。1992年、スターツルがヒヒの肝臓を人に移植したのは知られる。日本でも明治43年に京大の山内半作が犬・猫の腎臓移植の実験を行っている。1964年には東大の木本誠二が腎移植を、千葉大の中山恒明が肝移植を行った(肝は失敗)。四年後、札幌医大の和田寿郎が心臓移植を行った。いわゆる和田移植である。技術的には問題は少なかったと言われるが、患者は短期間で死亡。脳死判定の適切性・情報公開性に当初から疑問が出され、和田は殺人罪で告訴された。これにより日本の移植医療は外国に後れを取ったといわれる。彼が何とか患者を救おうとした志を疑う積りはないが、脳死自体が少なくとも日本では定着しておらず法的にも認められていない条件の下という点、更に判定に慎重さを欠いたという点でこの件についてはやはり疑問が残る。一方で、腎移植や生体肝移植は少しづつ日本でも定着し始めた。筑波地方の土壌から優れた免疫抑制剤FK506が発見されたのもあったであろう。1990年には京大で初めて生体肝移植が行われた。1995年に移植外科講座が設置。ところで昭和60年に厚生省は脳死判定の為の基準を設定。1深昏睡2同行固定3脳幹反射消失4脳波平坦化5自発呼吸消失6六時間後再確認、という竹内基準である。平成九年、臓器移植法案が国会を通過。これにより脳死体も死体として法的に認められるようになった。また、15歳以上を対象に本人のドナーカードでの意思表示・家族の同意があれば心臓・肺・肝臓・腎臓・眼球・膵臓・小腸を移植できる事も別に定められた。しかし現在の制度には意思表示の有無で脳死者の生死が法的に異なる点など矛盾点も多く、今年秋に再検討する事が法文により決められている。また脳死が本当に人の死と言えるのかという問題にも決着したとは言えない。脳死判定が本当に公正・慎重に行われるかと言う問題もある。現在まで脳死移植件数は少数。脳死が人の死という考え方が定着するか、それとも脳死移植がやがて我が国で消滅するのか、それはまだ分からない。私は脳死移植そのものを否定する気は現在ない。現状としてやむをえないと思う。しかし出来たら避けたい選択肢ではある。倫理・宗教的に無理が生じる上、ドナー不足・費用の高さが原理的問題としてあり、医療の主流となるのは難しいのではないか。
(13)これからの日本医学
 これまで見てきた様に紆余曲折を経ながら主要な感染症を駆逐し乳児死亡率を低下させることで日本は世界的長寿国となった。しかし近年新たな問題を抱えている。感染症の克服はそれへの知識・関心を持たぬ医師を増加させた。また無闇に抗生物質を多用する風潮があるため多剤耐性菌が次々に出現、医療機関で脅威となっている。抗生物質の使用に関しても出来る限りよく原因菌を見定めて無闇に強力なのを使うのでなく有効な投与が必要であろう。耐性菌による結核など再興感染症、新興感染症の出現により再び感染症対策に力を注ぐ事が重要になっている。物資・人の移動が世界レベルになった今日、何時海外の感染症が入ってきても不思議ではない。伝染病予防法は平成十年に感染症新法に変更されそれに伴いペスト、エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、マールブルグ病、ラッサ熱が一類感染症とされた。こうした感染症に対しては有効な治療法さえ出来ていないのが実情である。また高齢化に伴い癌・心疾患・脳血管疾患など慢性的な病気が増加。老年介護の問題も避けては通れまい。2000年四月に介護保険が施行された。この財源は今後どうするのか。こうした流れの中、精神的・全人的に対処するべき事が叫ばれ出して久しい。また患者の生活習慣の改善、治療に当たってのインフォームド・コンセント、科学的・疫学的証拠に基づくEBMも重要視されるようになったが定着にはまだ時間が必要である。難問が山積みの未来にどう対処すべきなのか。医学史を振り返って見ても導き出せるのは残念ながら確固たる答えでなく、現状を常に把握し「医」の理想を常に忘れることなく行動するべし、ということのみである。「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す」という言葉がある。これを胆に命じ、少なくとも病変やその対処にしか目が行かない事があってはなるまい。そして詰まらないミスをしない様に、徴候を見落さない様に臆病なほど慎重でありたい。更に何よりも患者に接する一人の人間として誠実であらねばならない。(長々と書いて来た割には有触れた結論である。しかし妥当な答えは往々にして平凡なものであろう。)


参考文献
医学の歴史 小川鼎三 中公新書
東洋医学 大塚恭男 岩波新書
京医師の歴史 森谷尅久 講談社現代新書
国史大事典 吉川弘文館
医師の歴史 布施昌一 中公新書
図説人体寄生虫学 吉田幸雄 南山堂
公衆衛生学 田中平三編 南江堂
ストライヤー生化学第4版 トッパン
エンカルタ百科事典 マイクロソフト
京大医学部 川端眞一著 ミネルヴァ書房
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/index.html
その他、環境・社会医学、病理学、免疫学、法医学や平成十年度生命化学入門のノートを参照。


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