2000年6月30日
梁朝建国史  下田


【南朝貴族制の展開〜東晋から斉〜】
 司馬炎の晋により中国は統一されたのであるが、その栄華は長くは続かなかった。統一の完成からわずか二十年後におこった「八王の乱」、そしてそれに続く北方からの騎馬民族の侵入により晋は瓦解。南に逃れた晋皇族の生き残り、司馬睿が建康において晋を再興させる。これ以後宋、斉、梁、陳と江南にその拠点をおいた王朝を南朝と呼ぶ。東晋は北来貴族と江南の土着勢カとの連合政権であった。東晋の維持において彼ら土着勢カの協カは必要不可欠であったが、先進文化を背景とする北来貴族の伝統的権威の下に、江南の土着勢カは見下され、政治的にも下位に置かれた。また北から逃れてきたのは貴族だけではなく江南の人口をはるかに凌ぐ大多数の流民集団であった。この流民を軍隊として組織することで、北方勢カの南侵を防ぐための軍事カを得ただけでなく、江南の土着勢力を抑え北来貴族主導の政権を支えることになったのである。このようにして組織された軍団の司令官は北来貴族の独占するところとなったのは当然で、太元八(383)年に90万と号する大軍を率いて南侵してきた前秦の苻堅を淝水で破った謝玄も北来貴族出身であった。このように東晋は貴族が大きな権カを握っていたため、北来の名家出身でなけれぱ出世はおぽつかず、北方からの移住者は原籍が北にあることから「仮住まい」とみなされ、税制面で優遇措置があったため不公平が生じるなどのいろいろな杜会的矛盾をかかえていた。これに乗じたかたちでおこった宗教反乱が、孫恩の乱である。この乱を鎮圧する過程で、頭角をあらわすのが劉裕である。劉裕は寒門出身で、乱の当時東晋の将、劉牢之軍の配下に過ぎなかった。乱の平定後、政権簒奪をねらう桓玄により劉牢之が殺害された後は、残存軍を率いて桓玄を討ち、ついには宋公となり東晋の実権を握った。このとき劉裕は土段法を制定し、租税や兵役を平等に課すようにしている。栄初元(420)年、ついに劉裕は禅譲というかたちで皇帝に即位、国号を宋とした。
 この宋の建国者であった劉裕は先にも触れたように寒門の出身である。これは南朝貴族制の大きな変質を示しているといえよう。これまでは貴族政権の傭兵にすぎなかった軍隊が、自ら政権を握ることとなったのである。しかしながら、政治体制を含めた文化的権威はなおも貴族にあった。宋においても建国当初の軍事政権的性格はすぐに薄れ文化国家へと変貌し、「士庶の際は天より隔たる」(『宋書』王弘伝)といった門閥主義が支配的となる。武帝劉裕の死後即位した少帝が殺され、その後即位した文帝の時代は「元嘉の治」と呼ばれ国内はよく治まった。ところが、それまで貴族に帰していた軍事力を皇族間に分散させたため、その後は宗室同族間の激しい権カ争い、血で血を洗う粛清劇が繰り返される。まず「元嘉の治」を演出した文帝は皇太子の劉劭を廃そうとして逆に殺されてしまうが劉劭もまた反旗を翻した弟の武陵王劉駿により殺害されてしまった。武陵王は即位して孝武帝となった。彼もまた自らの権力の安定を兄弟や皇族を殺し尽くすことによって維持しようとする血に狂った皇帝であった。孝武帝の後即位した前廃帝劉子業は孝武帝の弟の明帝に殺された。『南史』によれぱ明帝時代に孝武帝の息子十六人を殺し、その後即位した後廃帝劉cにより残り十二人が殺されたそうである。孝武帝第八子の劉子鸞は十歳のとき後廃帝に殺害されるのであるが、死に臨んで、「願わくば身の復た王家に生まれざらんことを」という言葉を残している。このような皇族間の血みどろの争いは結果として帝室の衰退と諸将の助長を招いた。ついには北魏に備える軍団の司令官であった蕭道成が、他の政敵を圧倒後、後廃帝を殺害し、宋の順帝から禅譲というかたちで即位し、斉(南斉)を建国。宋はほろんだ。この時代における亡朝の宗室一族の末路は悲惨極まりない。このあと、宋の遺臣たちの反乱を恐れた蕭道成により、宋の皇族である劉氏一族は根こそぎ殺害されている。もちろん順帝も禅譲後、実にあっさり殺されている。宋の劉裕も東晋最後の皇帝である恭帝を禅譲後殺害している。魏晋時代において禅譲した後漢の献帝や魏の元帝が天寿をまっとうしたことを考えると、あまりに酷い。事実、『資冶通鑑』の注釈にも、「是れ自りの後、禅譲の君、全きを得たるは稀なり」と記されている。この血で血を洗う粛清劇は斉においてもまた繰り返された。特に第五代の明帝の時代は宋時代をはるかに凌ぐ。明帝自身は高帝蕭道成の兄・蕭道生の子であったことと、自らの子らが病弱であったことなどから武帝の子、直系の孫、そして武帝の兄弟はことごとく、もちろんその他の王族は数知れずというほどの大殺戮を行い、次の東昏侯においては殺戮だけではなく、その荒淫乱行ぶりは目に余るものがあった。

【南斉朝末期〜無道の皇帝、蕭宝巻〜】
 後に東昏侯と呼ぱれる蕭宝巻が即位したのは永泰元(498)年のことである。即位後わずか一年にして先帝の遺言で皇帝を補佐する任を受けていた六人の重臣ことごとくを殺しつくし完全な独裁体制を樹立する。亡き明帝の寵愛を一身に受け、自制心なるものをまったく身につけぬまま皇帝となった宝巻はますます暴走していく。深夜、酒を飲んでは馬に乗り宮殿の外を駆け回ることを好んだ。否、駆け回るだけではない。通行人をみかけると馬蹄で蹴りつけるのである。蹴りつけられた人の中には臨月を迎えた妊婦もいた。この不幸な妊婦は腹を蹴破られ胎児が外に飛び出し、母子ともに死んだという。この事件は民衆の反感を決定的にした。しかし、そのようなことを気にもとめない宝巻の暴虐はとどまるところを知らない。巨億の国費を投じて後宮を新築し、庭園の歩道には黄金でつくった蓮の花を敷き詰めた。この上を宝巻は寵妃に歩ませ、楽しんだ。「金蓮歩」の由来である。
 このような中、華北の統一王朝である北魏を征討するために出陣したはずの平西将軍、崔慧景が不意に軍を返し、首都建康に突入した。反乱軍の士気は高く、たちまち皇宮は包囲されてしまった。あと一歩で皇宮が陥落するというところで予州刺史・蕭懿が援軍を率いて到着。激戦の末、崔慧景を討ち取った。さすがの宝巻も感謝し、蕭懿を尚書令(宰相)に任命した。この後、蕭懿は宮廷の改革に着手するが、それを目障りに思った宝巻の命により毒殺された。尚書令となってからわずか一ヶ月でのことであった。

【蕭衍の決起、梁朝成立へ】
 兄蕭懿の死を知った雍州刺史・蕭衍は直ちに兵を挙げ、宝巻に反旗を翻した。永元二(500)年十一月のことである。この蕭衍は、姓からもわかるように斉皇室の遠縁にあたる人物である。皇位継承の資格圏内にはいなかったので殺されずにすんでいたのだが。崔慧景を倒したあと建康にとどまる兄に対し、建康に残るのなら自立し、その気がないのならすぐに建康を去るように忠告する。が、蕭懿は聞き入れなかった。蕭衍はこのときより兄の横死を予想し、準備をしていたと考えられる。
 翌年になると襄陽で宝巻の弟、南康王が帝を称し自立。蕭衍もそれに合流する。また韋叡、曹景宗などの後の梁朝を支える武将もこの時期に蕭衍の配下となっている。四月、襄陽軍は曹景宗を先鋒とし、建康へむけて進撃を開始する。その数七万。これに対し、宝巻は十万の軍をもって蕭衍の軍を迎撃させる。両軍が最初に激突した江寧の会戦で、曹景宗が宝巻側の征虜将軍、李居士を討ち取り、蕭衍軍が大勝する。その後も蕭衍は連戦連勝。そして十月には国都建康を包囲するにいたった。このような状況に陥っても宝巻の乱行ぶりは続いたといわれる。そして建康は要害であったが、内部から自壊する。十二月、衛尉・張稷と北徐州刺史・王珍国が兵を率いて後宮に乱入、宝巻は斬り殺されてしまった。こうして蕭衍は国都建康を攻略した。翌年、帝位についていた南康王から禅譲というかたちで、帝位を得、蕭衍は即位し国号を梁とした。この蕭衍こそが南朝最高の名君、武帝である。この時代、革命(王朝交替)といえぱ、滅亡した王朝の一族郎党皆殺しが普通であったが、蕭衍は殺す人数を必要最低限にとどめた。この点は大きく評価されてよい点であろう。

【北魏との激突〜鐘離の戦い〜】
 梁が建国されて間もない天監五(506)年、華北の統一王朝、北魏の軍勢が侵入してきた。北魏の軍勢は中山王・元英を主将、平東将軍・楊大眼を副将とし一説に百万の大軍であった。中山王は北魏でも屈指の教養人として知られ、玉笛の名手であった。南斉・梁と戦っただけではなく、北方の騎馬民族とも戦っている。漢中ではたった三千の兵で二万もの南斉軍を破るなどの武功を重ねており、この時代北魏随一の用兵家であったといえる。副将の楊大眼は南北朝期随一の猛将として知られ、その鬼神のごとき強さは江南の兵卒、民衆にいたるまで畏怖の対象となり、泣く子をあやすとき「楊大眼いたる」といえぱ、泣き声がぴたりとやんだという。
 対する梁軍の指揮官は韋叡である。このときすでに六十歳を越えている。韋叡は名門貴族の出で、宋、南斉、梁の三つの王朝に仕えた。蕭衍が宝巻を討つため建康に進撃している間、襄陽に残り後方の安定に努め北魏につけいる隙をあたえなかった。また、生涯にわたって甲冑を身に着けたことがなく、木製の輿に乗り、竹の杖を振りかざし全軍を指揮するという一風変わった人であった。またその副将であった曹景宗、陳慶之らもまた面白い人物である。曹景宗は南斉、梁を通じて随一の猛将で、弓と槍の達人であった。が、素行となると評判が悪く、大変な女好きで知られ、蕭衍が宝巻を倒し建康を陥落せしめたときに宝巻の後宮の美女五十人を自分の妾にしたという話はあまりにも有名である。陳慶之は数少ない寒門出身の将軍であり、稀代の用兵家として知られ対北朝戦において数々の輝かしい武勲を立てた。『梁書』には、「将略有り、戦えば勝ち、攻めれぱ取る、蓋し頗、牧、衛、霍の亜なるか」としるされており、廉頗、李牧、衛青、霍去病に準じるほどの名将であることがわかる。後年、わずか七千の兵士を率いて洛陽を占拠するという大功をたてるが、当時はまだこの「鐘離の戦い」は生涯にわたって無敗という彼の輝かしい軍事的業績の出発点となった。
 北魏軍は、国境を流れる淮河のほとり、鐘離に攻撃を開始する。対する梁軍も二十万の軍勢をもって鐘離城の救援に向かう。百万と号する軍勢で、一気に鐘離を陥落せしめようとする中山王であったが、鐘離城の守将昌義之はよく耐えた。そして梁軍の主力が到着し戦端が開かれる。北魏が淮河の両岸に巨大な陣営を築き、二本の長大な浮橋でむすんだかとおもうと、梁軍は一夜にして北魏の陣の前面に堅固な陣地を築いたりもしている。この陣地の出現にはさしもの中山王も「是なんぞ神ならんや」と叫んだといわれる。年が明けても両軍の激突は続いた。このときの陳慶之の働きはすぱらしく、敵の布陣の弱点を瞬時に見抜き、わずかに数百の白馬騎兵でそこに突っ込み北魏軍をしぱしぱ混乱に陥れたという。南朝ではその地形上、従来から水軍重視、騎兵軽視の傾向があったなかでのこの部隊の活躍は梁軍だけでなく北魏にとっても驚きであったろう。さて梁の援軍がきたことを鐘離の昌義之は知らなかった。いや、知りえなかった。依然として四方を完全に北魏軍に囲まれていた。しかも包囲を突破しても淮河の両岸には長大な北魏の陣営があった。梁の援軍と連絡をとりようがなかったのである。唐の張九齢によって伝書鳩という画期的な方法が考案されるのは二百年以上もあとのはなしである。城内にはわずか数千の兵しかおらず、周りを圧倒的な数の北魏軍に囲まれていたので士気の維持もままならない。梁軍もまた鐘離を失うわけにはいかなかった。ここが陥落すると、淮河下流域は完全に北魏に抑えられ、建康を守るのが難しくなる。そのために梁軍は鐘離城内の者達になんとか自分たちの存在を知らせる必要があった。そして天監六年(507)年一月、梁軍は鐘離城へ援軍の存在を知らせるため決死隊を組織、運よく鐘離城へたどり着いた無名の一兵士が援軍の存在を城内へ伝えた。沈みかけていた城内の士気は大いに高まった。『資冶通鑑』ではこのときの様子を「城内、勇気百倍」と記している。なお、このときの無名の一兵士は、この活躍で歴史に名を残した。言文達という。もちろん依然として鐘離城の包囲は続いたが。
 また、このころから、淮河一帯が大雨に見舞われた。二月、三月になっても降り続いた。この時期、梁は自分たちのほこる最新鋭の軍船を淮河の北魏の陣営の下流側に配備した。上流側は魏軍の監視が厳しかったためであろう。最新鋭といっても所詮は船。河を上り攻撃するなど不可能に等しかった。しかし、それでも梁軍は下流側に配置。そのまま鐘離は雨期へと突入していくことを知っていたからである。淮河は主流の他に多くの支流からなる。その支流は多くの湖や沼とつながり、さらに多くの人口水路からなる。このような雨が重なるとそのような水路でも十分に軍船が通ることができる。そして、北魏はそのことを知らない。いつのまにか梁の軍船は上流側に移動したのだった。
 そして四月突如上流から現れた梁の軍船が北魏軍に対し攻撃を開始する。依然として雨は降り続き、淮河も荒れていたが、さすがに梁朝の水軍の動きは迅速で、北魏を圧倒する。さらに陳慶之、曹景宗らが、両岸の北魏の陣営をつなぐ二つの浮橋を炎上させた。さらに韋叡の正確な指揮により北魏軍は完膚なきまでに大敗、こうして建国まもない梁朝はこの未會有の危機を乗り越え、勝利し、隆盛を極めていくことになるのである。

【最後に】
 いや、実は今回が初めてのレジュメっちゅうことやったんですけど、実は今目実験のレポートの締切日でもあったんで、まじしんどかったれす。本当はもうすこし量と質のあるものにしたかったんですけど・・・なんかだめだめなれじゅめになっちまったっす。す、すいまそん・・・。


【参考書籍】
『中国の歴史 三』(講談社 陳舜臣)
『中国帝王図』(講談杜 皇なつき・田中芳樹他)
『中国武将列伝 上』(講談杜 田中芳樹)
『東洋史概説』(学術図書出版社 愛宕元)
『世界の歴史 4』(中公文庫)


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