2000年7月7日
明朝衰亡・中  J.W.


〔魏忠賢〕
●開読の変
 魏忠賢が目の仇にしたのは東林党であった。彼は東林党と目される人々をブラックリストに載せ、東廠をもってその主要人物を拘引し、汚職などの罪名の下に拷問・虐殺を行った。東林党の中でも清廉剛直な人物として知られていた周順昌が郷里の蘇州でで逮捕されたことから起こったのが、天啓六年の「開読の変」である。当時の言葉で「民変」と呼ばれる都市民衆暴動は、十六世紀の後半からしばしば起こっていたが、開読の変はその中で最も有名なものであり、小説や戯曲となって後々まで語り伝えられたのである。
 この事件の経過は次のようなものである。天啓六年三月、魏忠賢が周順昌を逮捕すべく、蘇州に役人を派遣した。当時の慣例として、被逮捕者の北京護送に先立ち、逮捕理由を示した皇帝の勅旨を公開の場で読み上げる「開読」の式を挙行しなければならなかった。開読式の当日、周順昌に同情する多数の蘇州の生員(秀才)や庶民が、開読の行われる西察院に詰めかけ、民衆と役人との小競り合いをきっかけに、役人の一人が民衆に殴り殺された。知県らの説得により生員・庶民は解散し、その後、周順昌は密かに北京に護送され拷問の末に獄死した。一方、巡撫らは首謀者を捜索し、顔佩韋ら五人の庶民がリーダーとして打首獄門となり、五人の生員が資格を剥奪されるなどの処分が行われた。
 この事件は暴動としてはそれほど大きなものではないが、魏忠賢を動揺させたのみならず、士大夫にも激しいショックを与えた。というのも、この事件は「士大夫は何故に庶民より偉いのか」という問いを士大夫たちに突き付けるものであったからである。本来「君子は義に悟り小人は利に悟る」というように、一般庶民が自分の利益を求めて行動するのは仕方ないが、士大夫は自分の身を犠牲にしても大義のために行動すべきものであり、そこに士大夫と庶民との違いがある筈であった。ところが魏忠賢の専権時代、ほとんどの官僚は保身に汲々として、むしろ積極的に魏忠賢にへつらう者もたくさんいたのである。それに対しこの事件では、周順昌に恩を受けたことはもとより会ったこともない無学な貧しい人々が、身の危険を顧みず周順昌のために奔走し、果ては果敢に実力行動に出て我が身を犠牲にした。彼らは死に臨んでも従容として魏忠賢を罵ったといわれる。
「その時、党人の親戚や朋友は全て遠くに避難し、恥を知らぬ士大夫はいち早く魏党の旗下に投降していった。いささか公平な言葉を使ってみると、東林党の諸君子に手を貸そうと考えたのは、僅かに何人かだけであった」(謝国禎『明清之際党社運動考』)
「まことに庶民は四書五経を読まない。だが大体から見てよく黒白を明らかにし、是非を弁ずることのできる点では、高潔で物事に通じた士大夫の、断じて及ばないことが往々にしてあるのである」(魯迅)

●没落への途
 東林党の弾圧に成功した魏忠賢は粛寧侯に封ぜられ、彼の一族徒党は政府の要職を独占して益々権勢をふるった。官僚も立身出世を望むものはこぞって魏忠賢に取り入り、内閣・六部の高官から、地方の総督、巡撫に至るまで、宦官派に与するものによって占められた。魏忠賢の歓心を得ようと、天啓六年九月、彼らは遂に魏忠賢のために生祠を建てることを進言するに至った。生祠はまず杭州の西湖のほとりに建てられ、やがて蘇州、松江、淮安、揚州を経て北京に到達し、遼東地方に及ぶまで全国各地に広がった。その建設費も数十万両に達し人民を苦しめたという。生祠に祀られた魏忠賢には「尭天舜徳至聖至神」の称号が授けられた。その上奏文の一節に次のような言葉が見える。
「孔子は『春秋』を作り、忠賢は『要典』を作る。孔子は少正卯を誅し、忠賢は東林党人を誅する。宜しく国学を建て、先聖と並べて尊び、並びに忠賢の父を以て啓聖公の祠に配すべし」
 孔子と無学文盲の魏忠賢を同列に置こうというわけで、到底常識では考えられないことである。政治の腐敗、堕落はその極に達し、全国各地では官憲の不当な収奪に苦しめられ、生活に窮した人民たちの蜂起が相次いだ。これまで経済的繁栄を誇っていた明朝も、暗雲に覆われ、今や没落への一途を辿るしかなかった。こうした魏忠賢を中心とする恐怖政治が横行し、官民とも苦痛を嘗めていたにも拘らず、暗愚無能の熹宗は全く政治に関心を示さず、何の手立ても講じなかった。在位の七年間、魏忠賢に一切の政務を任せたまま宮廷の奥深くに閉じ籠もり、道具を手にして趣味であった細工作りに熱中するだけであった。死に臨んでもなお、閣臣を呼んで「魏忠賢は恪勤忠貞であれば、大事をはかるべし」と言い残す始末であった。このような暗愚な君主のもと、党争に乗じて権カを手に入れた無学の宦官の跋扈を許したのが天啓の七年間であった。


〔崇禎帝の登場〕
 天啓七年、熹宗天啓帝が病死したが、子供がなかったので、異母弟である信王由検が継いだ。毅宗崇禎帝(位一六二七〜四四)である。時に十八歳、無為無策のまま亡くなった兄とは違って、王朝再建の志を持ち、英主たるべき素質を備えていたとされる。殊に天性の意志の強さは、廷臣の一致して認めるところであった。朝政を一新し崩壊に瀕している明朝を建て直すことを第一に考え、即位するとすぐ、崇禎帝は政局の転換を目指して対策を打ち出した。宦官派が後ろ楯を失い、東林党の人士が次々に上書して彼らを弾劾したのを受けて、崇禎帝は亡兄の遺言を無視して魏忠賢を退けた。さらに崇禎二年、崇禎帝は魏忠賢に与した宦官派を摘発して『欽定逆案』を作りそれぞれに罪を定め、同時に天啓時代に罪に落とされた臣僚の名誉を回復し、内閣の人事を一新するなど、新政の準備を整えた。なかでも前朝における宦官の弊に鑑み、勅命を奉じないまま、宦官が勝手に宮内を出るのを禁じたのは、政治のあり方を本来の姿に戻そうとする、帝の決意を示したものと理解できる。経典の扱いを受けていた『三朝要典』も廃棄され、勿論生祠も全て廃棄された。崇禎帝はまた政務は全て自ら決裁するように努め、即位の直後から国務に精励した。このように積極果敢に行動する新帝の姿を見て、廷臣たちはあるいは頽勢の挽回も可能ではないかと期待した。しかし現実はすでに手のつけられないところまで来てしまっていて、崇禎帝の努力だけでは、この難局を乗り切るのはほとんど不可能であった。すでにこの頃、国内の各地には流賊が蜂起しており、また外では満洲族が関内を脅かしつつあり、国運はまさに累卵の危機に立っていた。このような内外に抱えた諸問題の重圧の下、十七年後に明朝は滅亡し、帝は最後の皇帝となる運命を免れることはできなかった。

●多疑
 明朝滅亡の原因についての譬え話が伝わっている。……明朝はすでに重病人であった。女真人の侵攻は腰背の病、李自成らの内乱は腹心の病、打ち続く災害は傷寒・失熱の病である。一身にこれだけの病気を抱え込んで、さらにこれを治療したのがまた藪医者ときている。その藪医者の筆頭は崇禎帝である。崇禎帝は政治の改革のために人材の必要を痛感し、破格の抜擢を試みた他、これまで厳禁されていた宗室の科挙受験を許し、文官に任用することを認めた。また従来大学士への登用は翰林院出身者に限られていたが、彼は有能な人物なら翰林院出身でなくとも、大学士に充てることにした。崇禎帝は危機に瀕した明朝統治の建て直しを図ったが、成果を上げることを焦るあまり、臣僚に対して厳し過ぎ、虚栄心が強過ぎて自己中心的となり、更に臣僚を信用せず結局また宦官に依存するという欠陥に陥ったため、彼の政治改革の意図は空転し益々政治混乱を深める結果となった。
 崇禎帝は気力も能カもあり、中興の英主たらんと努めたのは事実であるが、「多疑」つまり疑い深いという点があった。一種の被害妄想といえようが、それに起因する、臣僚に対する苛酷な処遇と不信が、国政の運営に大きな障害となったことは否定できない。殊に彼の高官たちに対する態度は厳しく、誅殺された総督は袁崇煥はじめ七人、巡撫も十一人に上った。彼の十七年間の治世中、兵部尚書は十四人が交代し、刑部尚書は十七人に達し、彼らの在任期間は平均して一年程度に過ぎない。兵部尚書については、責任を問われず無事退任できたのは数名だけで、死刑に処せられた者が四名もいる有様であった。俗に「崇禎の五十相」といわれるが、内閣大学士も多くは短期間に交代し、十七年の治世中、任用された大学士は五十人に達し、首輔も十人余りが交代した。その内、二人は死刑、二人は流刑に処せられた。永楽から天啓末年に至る二百三十余年間の宰相が八十余人であったのと比べると、その異常な多さが理解できる。崇禎帝が官僚に対してこのような厳しい態度をとったので、彼らはひたすら法に抵触することを恐れて積極的に行動しなくなった。こうした苛酷な扱いを受けると、人心は離れ、国家のために全力を厚くそうとする者がいなくなるのも当然であった。『明史』には「陛下治を求めること甚だ急にして、法を用いること甚だ厳しく、布令甚だ煩にして、天下の士を進退すること甚だ軽し。諸臣罪を畏れて非を飾り、敢えて職業を尽くさず。故に人ありて人の用なく、餉ありて餉の用なく、将あるも治兵する能わず、兵あるも賊を殺す能わず」とあるが、これは崇禎帝の治政の実情をよく反映したもので、政治の改革を図るどころか情勢は益々悪化していった。


〔袁崇煥〕
 崇禎帝の疑い深い性格が引き起こした代表的な事件として、崇禎三年八月の袁崇煥の処刑がある。満洲政権の離間策に手もなく引っかかり、明朝にとってかけがえのない有能な将軍を殺し、東北方面の防衛体制を危うくしてしまったのである。

●満洲概観
 東北と呼んでいる遼東地方は精悍な狩猟民族である女真人の居住地域で、明朝の成立とともにその支配下に入っていた。明朝は女真に対して巧妙な分割統治の方策をとり、こられの集団を小部族に分裂させた上、それぞれに衛や所を設け、酋長に都督、指揮使などの名義だけの官職を授け、それに応じて貿易上の特典を与え朝貢を許したのである。明末になると女真族統合の気運が起こり、その原動力となったのはヌルハチ(一五五九〜一六二六)である。建州女真の一部酋の家に生まれたヌルハチは二十五歳で自立、近隣の諸部を統合し、ほぼ三十余年の間に遼東の大半を征服して、程無く明朝と対立する勢力を作りあげた。万暦四十四年正月、ヌルハチは撫順関外の興京でカーン位につき、国号を「後金」と称した。金朝の後を継ぐ意志を表明したもので、明朝に対する独立宣言でもあった。そして万暦四十六年二月、ヌルハチは「七大恨」という七ヵ条からなる明朝の罪状をあげ、今回の出兵が正義の戦いであることを天に告げた後、宣戦を布告、まず明軍の根拠地である撫順を攻略し、次いで増援に向かう十数万の明軍をサルホ山の決戦で殲滅して戦局の主導権を握った。以後、後金軍は向かうところ敵なく、瀋陽・遼陽を占領して、明軍を遼河の西側に追いやり、天啓五年に国都を瀋陽に遷した。

●袁崇煥
 このヌルハチの前に立ちはだかったのが袁崇煥である。袁崇煥(?〜一六三○)は万暦四十七年の進士で、元々文官であるが、辺境の軍事に詳しいというので起用され、山海関の出城である寧遠城を守っていた。天啓六年一月、ヌルハチは二十万と号する大軍を率いて寧遠城を攻め、これに対する守備軍は一万余、死守を誓う袁崇煥の下、明軍は頑強に抵抗した。加えて宣教師湯若望(一五九一〜一六六六)が設計鋳造した紅夷大砲が威力を発揮し、突撃してくる満洲鉄騎隊の中に砲弾は正確に炸裂し、多数の人馬を倒し、思いもかけぬ大敗に激怒したヌルハチもまた自ら陣頭に立とうとして重傷を負った。この一戦は二十五歳で挙兵して以来、不敗を誇ったヌルハチにとって、四十余年にして初めて経験する敗北であり、同年八月、ヌルハチは憂鬱のうちに六十八歳で世を去った。寧遠で受けた傷が死因であったといわれる。一方寧遠の勝利は明朝としては、久しぶりに聞く朗報であった。袁崇煥の名声は頓に上がり、翌年即位した崇禎帝は彼を北京に召し、兵部尚書に昇格させるとともに、薊遼総督に任じて、山海関方面の全権を委ねた。袁崇煥は「五年にして全遼復すべし」と約束して寧遠に帰った。
 さて鴨緑江の河口にある皮島を根拠地として、対満のゲリラ活動をする傍ら、密貿易にも関わっていた毛文竜という人物がいた。彼は豊臣秀吉の朝鮮侵攻に際して送られた援軍の残党であったらしいが、時々試みたゲリラ活動の成果を誇大に報告しては莫大な軍餉を受け、禁止されている貿易にも手を出して大儲けしていて、こうした不法行為を隠蔽するため、北京の有力者に賄賂を贈っていた。袁崇煥はこの毛文竜を除こうと決意し、崇禎二年六月、彼は口実を設けて毛文竜を呼び出し、十二罪を挙げて首を刎ねた。これは独断専行であったが、毛文竜の罪状は知れ渡っており、袁崇煥の先功を考えて、崇禎帝は咎め立てしなかった。これで一件落着したが、後日に尾を引き、袁崇煥の立場を悪くすることになる。
 ところで袁崇煥に大敗した後金としては、その対策を考えねばならなかったが、ヌルハチの後を継いだホンタイジ(一五九二〜一六四三)は謀略を用いて彼を失脚させることを思い付いた。崇禎帝に彼を疑わせるのが最上の策と考え、直ちに投降していた宦官が「袁崇煥は後金と通じている」との噂をばらまくべく、北京に送り返された。北京には毛文竜の殺害について、袁崇煥に反感を持つ有力者がかなりいた。毛文竜からの賄賂を失った人々である。袁崇煥の戦功を妬む者も少なくなく、かくして袁崇煥への疑惑は日毎に強まった。こうして一応の布石を終えると、ホンタイジは崇禎二年十月、十万の大軍を率いて長城を越え、薊州を陥れて北京に迫った。後金軍の第一回の本格的な侵攻であった。知らせを受けると、袁崇煥はすぐさま兵を派遣して後金軍の背後を衝き、数日後両軍は北京城外で対戦した。袁軍は十倍もの敵を撃破して退却を余儀なくさせたが、自らもかなりの損害を受けた。そこで袁崇煥は疲労した部下を休息させるため、城内に入ることを願い出た。崇禎帝は国都に不意の衝撃を受けて動揺していた。袁軍は城外で敵と交歓していて、城内に入ろうとするのは内応せんがためだと告げる者もあり、崇禎帝は彼への疑惑を深め、たちまち袁崇煥は逮捕され、詔獄に繋がれる身となった。
 崇禎帝はこうしてホンタイジの謀略に引っ掛かったが、その後の経過もまた党争の繰り返しである。国家の将来よりも、党派的・個人的利害が優先する、万暦末年以来の弊風の再現であった。時の宰相温体仁は毛文竜と同郷で、彼に与えられる軍餉の半分を受け取っていたから、毛文竜の死は収入減につながり、袁崇煥を恨む余り、厳罰を主張した。兵部尚書梁廷棟は袁崇煥の専断と成功を妬んで、斬刑に処すことを主張した。魏忠賢の一派であった御史の高捷も、東林党の巨頭である銭竜錫が袁崇煥と関係のあるのに目をつけ、政敵追放に利用しようと暗躍した。不利な発言が続く中で、僅かに大学士周廷儒らの弁護論もあったが、帝の怒りを解くに至らなかった。袁崇煥の部将の祖大寿は主将の罪を償おうとしたが許されず、失望した彼は手兵を率いて北京を去り、やがて後金に降っていった。崇禎三年八月、獄に繋がれること半年の後、袁崇煥は処刑された。
「崇煥智は疏なりと雖も、差や胆略有り、帝又讒間を以て之を誅巣す、国歩の将に移らんとするや、刑章顛覆す、豈に天に非ざるや」と『明史』は語っている。この一件は崇禎帝の猜疑心の強さに発し、有能な将軍を失い、軍隊の士気を阻喪させる結果を招来した。だが問題はこれに尽きるのではない。逮捕後の処置をめぐって再び党争が表面化し、崇禎新政の前途に暗い影を投げかける契機となった。袁崇煥の無実は後に発表された清朝の記録によって明らかにされる。


〔再び党争〕
 崇禎帝が即位して魏忠賢が失脚すると、彼の一派閹党(宦官派)は存立の支柱を失った。彼らは一挙に勢力をなくしたわけではないが、新政に伴って有力者が退けられると、次第に劣勢に追い込まれつつあった。これに対し魏忠賢に抑圧されていた東林党系の人々は次々に登用され、急速に勢力を回復していた。その先頭にいたのが銭竜錫である。銭竜錫(一五七九〜一六四五)は万暦三十五年の進士であるが、魏忠賢に睨まれて官職を奪われていた。崇禎帝が位につくと真っ先に復活し東閣大学士、次いで文淵閣大学士に任じられ、首輔の李標らとともに国政の枢機に参画していて、閹党の側からいえば最も憎むべき人物であった。こうした時期に袁崇煥の事件が起こり、閹党は好機至れりとばかり、この一件を銭竜錫追放に利用しようと計画した。彼らは大金をぱらまき、流言蜚語を撤き散らし、毛文竜の殺害は満洲のために明軍随一の精鋭を壊滅させる行為であったと極論された。閹党の背後には銭竜錫を追って自分の立場を強化しようとする宰相温体仁の影もちらついていた。閹党の操作によって、袁崇煥は処刑され、銭竜錫も定海衛への流罪ということになり、銭竜錫が政界から姿を消すとともに、復活し始めていた東林党は中心人物を失って大きく後退した。
 崇禎帝の心中にも東林党は信頼するに足りないとの思いが強まった。即位の直後、果敢に魏忠賢とその一派を退け宦官の政治への介入を禁じて、国政の一新を図ろうとした崇禎帝の計画も僅か三、四年の間に破綻してしまった。この原因は、崇禎帝の性格が頗る疑い深く、臣僚の言うことに必ず疑いの目を向け、自己の周辺にたむろする宦官を信用したことにある。即位当初、彼は天啓帝の魏忠賢一味の横行が朝政を乱していたことを知っていたので、魏忠賢を処刑し宦官派の官僚も一斉に追放し東林派の官僚を再登用したわけであるが、それも信用できないとして宦官勢カの再台頭を許すことになった。宦官の登場で官僚・将帥の職権は奪われ、支配体制内部の正常な秩序維持も困難になり、朝臣の間から激しい批判反対も出てきた。しかし官僚と宦官の衝突が起こった場合、皇帝は必ず宦官の側に加担し、これでは官僚たちもやる気を失い、政治の革新どころか政治の頽廃が進行するぱかりであった。東林党人として獄死した父黄尊素をもつ黄宗羲は次のように語っている。「逆案未だ翻せずと雖も、烈皇の胸中、已に隠然として東林の敗類を疑う。是れ由り十余年の行事、小人に親しみ、君子を遠ざけ、以て救わざるに至る。然らぱ則ち有明の亡ぶや、逆案の小人の之を亡ぼすに非ざるか」これ以後、政権はほとんど「逆案の小人」つまり閹党ないしその周辺人物に握られたのは事実である。温体仁や周廷儒が中心にいるが、彼らはともに『明史』奸臣伝に名を連ねている人物である。この間国家の綱紀は乱れ、財政は破綻し、腐敗は積もる一方で、もはや頽勢の挽回は不可能となった。袁崇煥の一件は国防体制を崩壊に導いたばかりでなく、政治の流れをも一変させ、明朝の滅亡を決定的にしたのである。

●復社
 このような状況の中で、崇禎七年、温体仁が周延儒を排斥して首輔になると、彼は再び宦官派と結託するに至り、『逆案』にあげられていた人物を再起用し、自己の意のままに政治を運営したので政治はいよいよ混乱した。このような状況を批判したのが「復社」に結集した知識人たちであった。明末、知識人はしばしば団体を結成して学問を研究し文学を講じた。天啓・崇禎年間には東林党の伝統を継承したものといえるこのような団体が多くなり、科挙試験の準備のために参加する者もあったが、積極的に政治活動に参加する者もあった。当時、著名な知識人の団体として、松江の畿社、浙西の聞社、江北の南社、呉門の羽朋社、武林の読書社などがあったが、なかでも影響力が最大だったのが崇禎初めに張溥をリーダーとして成立した復杜であった。復杜は崇禎二年に成立、多数の小さな文杜と連合として結成したもので、陸世儀『復社紀路』によれば、「江北の匡社、中州の端社、松江の畿社、莱陽の邑社、浙東の超社、浙西の荘社、黄州の質社と江南の応社、各々文壇を分つ。張溥乃ち諸社を合して一となす」とある。張溥は復社の規条を立て、課程を定めて社員が互いに研究に励み将来有用の学をなすことを期待した。
 復社の社員で科挙に合格するものも多く、官界に一定の勢力を占め、民衆の世論を借りて政治活動を展開した。しかし東林党に比して復社では官僚が少なく比較的下層の知識人が多かったらしい。彼らは東林党の子弟とも連合し、宦官派やそれに依附する官僚たちを厳しく批判攻撃した。温体仁が首輔の座を追われたのも復社の活動によるものであった。十四年に周延儒が首輔に返り咲いたのも彼らの活動に預るところが多く、復社のグループは「小東林」と称されることもあった。いわぱ復社の活動は東林党の延長であり、政界では激しい党争が展開されたのであった。


〔相次ぐ農民叛乱〕
 崇禎年間、中央における政治の混乱・腐敗・堕落は著しいものがあり、さらに周縁部の自立勢力の成長によって明の支配は外側から解体しつつあったが、明朝を直接に倒したのは内陸部の窮乏する農民による農民反乱軍であった。その最大の首領となった李自成(一六○六〜四五)と張献忠はいずれも陝西の出身である。陝西地方は古代においては歴朝の国都が置かれ、生産力の高い肥沃な土地であり、経済的にも文化的にも世界の中心をなしていたが、時代が下るとともに、経済中心の東方・南方への移動、気候変化のために、しばしば旱魃に襲われるなど痩地となっていた。しかし軍事的要衝であることに変わりなく、明朝も北辺防衛の中核として重視し、多数の軍隊を駐屯させていた。ところが政府の財政が窮迫してくると、給与の遅配・欠配が起こり、その不満から軍隊自体が動揺し始めていた。加えて崇禎元年、陝西地方に大規模な飢饉が発生し、これが導火線となり各地で飢えた農民の叛乱が起こった。「崇禎元年、陝西の饑民、加派に苦しみ、流賊大いに起こり、延安を分掠す」と『明史』が記すように、飢えた農民は加派(臨時付加梯)に反発して決起したのである。明朝末期、一六世紀の末から一七世紀の中頃にかけて何度も飢饉が起こっているが、これには党争に明け暮れて充分な対策を講じなかった政府による人災的な側面が大きい。この叛乱は陝西に止どまらず河南、山西、河北と広がり、かくして陝西を含む西北方面の危機は一層拡大するに至った。
 叛乱を鎮圧するための軍事費が必要となるが、明朝の財政はすでに破綻していた。万暦四十六年から対満軍事費(遼餉)捻出のための増税は続いていたが、崇禎二年になると内乱を鎮圧するための増税(剿餉)が加重され、同十年にはさらに軍隊訓練のための増税(練餉)が強行された。この重税に人々は到底耐え切れず、さらに重税に疲れ果てた人々の上に天災が追い打ちをかけ、税を払えなくなった人々は続々と叛乱に加わった。こうして各地に広がった叛乱は飢饉や増税のため、土地を離れて流民化した農民を主力として集団を作り、集団ごとに食糧を求めて移動し、李自成や張献忠もこうした流民の指導者であった。流民は後から後から発生したから、いくら討伐しても彼らの勢いは減少せず、李自成や張献忠はしばしば敗北し、捕虜になりそうになったこともあったが、二人が殺されたとしてもそれで収まるような底の浅い叛乱ではなかった。


〔参考文献〕
●『中国史 C明・清』  山川出版社  山根幸夫
●『明末清初』  同朋舎出版  福本雅一
●『世界の歴史K 明清と李朝の時代』  中央公論社  岸本美緒
●『世界の歴史H 最後の東洋的社会』  中央公論社  田村実造
●『亡国の皇帝』  講談社  寺田隆信


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