2000年10月27日
日本前近代軍事史  My


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<はじめに>
 「時代替り、昔これ無き軍器出来仕り候へば、業はこれに随ひて替り候故、軍振り・模様替り行く事に候。これに依り義経・正成は比類無き名将にて候へ共、其の時代の合戦の様子より、信玄・謙信二公の時代の合戦の、全体の取扱ひ違ひ行き候。其の如く二公は小筒計りの時代に候故、此れ以後大筒の至極顕はれ候ふ世に至り候はゞ、二公の軍法はむかし物語に罷り成るべく候。」(荻生徂徠『ツ録外書』 野口武彦『江戸の兵学思想』より)
 徂徠はこのように戦争が時代と共に変化することを説いた。我々は、軍事に目を向けるとき、戦争のこのような性質を忘れてはならない。仮にも歴史を愛好する者ならば、戦争を、歴史的な特徴を無視して、ただ戦略・戦術の観点からのみ論じることは、許されないだろう。今回は日本の前近代の戦いの変遷を見る。
 なお、このレジュメは知識と妄想が混ざり合っているので、間違いと思われるところがあればビシビシ指摘して下さい。



陸軍編
<先史時代>
日本列島において、旧石器時代後期には、しだいに握斧や石槍など様々な武器を使用するようになったことが判っているが、対人使用は確認されていない。
 前8000年頃からの新石器時代には、弓矢も出現し、近接戦用の刀剣類と遠隔戦用の弓矢という、武器の基本的な形態が出そろうが、未だ武器と生活用具の区別はない。また武器の対人使用が確認されてはいるが、戦いは戦争と言えるような段階にはなかった。


<古代前期;農村共同体の軍隊>
 農耕の始まった前5世紀頃から、土地や水をめぐって戦争が起こるようになった。そして武器も、大陸の影響を受けつつ改良が進み、生活用具から分離して行く。当初は石製であったが、前2世紀には青銅器が大陸から伝わる。さらに前1世紀には鉄器も伝わり、青銅器は実用の場から追われ祭器となる。
 この頃の戦争は共同体の全成人男子を兵士として戦われた。戦闘はもっぱら遠隔戦であるが、近接戦が起こることもあり、近接戦を有利に戦うために指揮をとる有力者が存在した。
 なおこの頃、鉄は日本列島で生産することができず、完全に大陸からの流入に依存していた。そして貴重な鉄の確保のため首長の政治権力が確立されて行き、原始的な国家が成立する。さらに、大陸と鉄資源の入手を交渉する地位をめぐる争いの中で、諸国家の連合が発展して行く。そしてこの鉄の流通の支配をめぐる争いは、大乱を引き起こすこともあった。


<古代中期;古代国家の軍隊>
 4世紀頃には日本列島中央部にある程度の統一を持った政権が成立し、それ以降、朝鮮半島へ貢納を求めて武力介入を行う。その結果として日本は大陸の軍事技術との交流を深め、量産を可能にする武器技術、騎馬、そして鉄生産を身につける。だが軍事組織はまだ原始共同体の軍隊からほとんど進歩していなかった。この頃の軍隊は、各自の武装能力に応じて装備をまとった兵士たちが、首長に率いられて雑然と寄り集まったものであり、組織的に運用することはできなかったのである。
 6世紀末になると大陸では強力な国家統一の時代に入り、朝鮮半島でも国家権力の集中が進んで戦争が激化する。日本の雑然たる軍事力では、この激化した戦争に対処することはできず、7世紀半ばからは日本も強力な軍事国家の建設に向かう。そして8世紀初頭に強大な軍事力が完成を見る。
 この軍事国家では、全住民をその管理下に置いて徴兵を実施、国家による訓練教育、規格化された武器の支給、整然たる編成によって、効率的な歩兵軍を作り上げた。この歩兵軍は弓と刀を武器としたが、この時期に独特の武器として弩が配備され、その長い射程を活かしてしばしば活躍している。だが、この頃は、弓はごく至近の射程しか持たず、刀も短く、歩兵によって騎兵の接近に対抗するのは困難であり、実際に戦闘での活躍が期待されたのは、貴族、豪族の私兵や異民族兵から成る騎兵であった。そして、8世紀末に日本が朝鮮半島への介入の意図を放棄すると、巨大な軍事力を維持する必要はなくなり、軍隊はしだいに小規模なものへと転換して、騎兵の重要度がいっそう増して行くことになる。


<古代後期;地方豪族の軍隊>
 政府が軍備を縮小して住民の統制を弱めた9世紀には、中央貴族と結託した地方豪族が台頭して行く。地方豪族は都への税の運送を請け負う立場にあったが、その際しばしば群盗と化して横領や他国の税の強奪を働き、交通の要路における凶悪な活動は政府を悩ませた。政府はこの群盗の神出鬼没の活動に対抗するため、騎馬と弓射に長けた異民族兵を軍事力として利用するが、かえって異民族兵が群盗と結んで大規模に蜂起するという事態を招くことになった。そこで10世紀になると政府の群盗対策は、群盗である豪族層を国家の軍事力に組み込んで群盗鎮圧に利用する、という方針に転換する。
 この豪族層の軍事力は、彼らに従属した少数の騎兵および、一般民衆を動員した歩兵から成り、戦闘においては未だ歩兵戦の伝統が受け継がれていた。豪族が多数の自立した民衆を歩兵として動員できたのは、当時は流通が未発達で、民衆が生活用具の供給を領主の持つ工房に依存するという関係があり、豪族の影響力が広く民衆の上に行使されたからである。だが、異民族兵の騎馬戦闘技術を身につけた騎兵が、高い戦闘能力を持ち、豪族との主従関係も緊密で、精鋭として活躍したのに対し、歩兵は、数の上では圧倒的多数でありながら、少し戦局が不利になると容易に崩壊し、あまり頼りにはならなかった。
 豪族層は群盗鎮圧を通じて、その政治的な地位を確立し、なかには中央で軍事貴族として栄達する者もあった。そしてこれ以降の戦争は、これら豪族層の形成する騎馬戦士主体の集団によって、戦われるようになって行く。


<中世;騎馬戦士の時代>
1.戦士階層の成立
 国家の軍事力として組織された地方豪族層は、騎馬戦士として、11世紀以降もしばしば反乱や紛争の鎮圧に利用され、また私的な合戦を繰り返した。
 この頃の戦闘は、まず楯越しに矢を射あった後に、馬を馳せながらの射撃戦に移行するものであるが、弓の射程が極めて短いため、馬を馳せての闘いがその中心であった。そして騎馬戦士は数名の徒歩の従者を伴うが、この従者たちは射落とされた敵を討ち取ったり、危機に陥った主人の身を守ったりと、戦闘を補助する役割を担っていた。
 戦闘がこのようなものである以上、騎馬戦士として活躍するには、余暇を持って日々戦闘技術を鍛錬し、馬を馳せながら正確に射撃できるようになっておく必要がある。しかも良馬を飼育し、都で製造された優秀な武器を揃え、従者を伴わねばならないから、富裕である必要もある。このような条件を満たす者は一部の有力領主に限られるため、彼らは少数の軍事の専門階層を形成して行くことになった。

2.軍事政権の形成
 11世紀後半以降、国家の軍事力を担った地方豪族たちは、国家による収奪を避けるため、寺社や貴族など中央の有力者の庇護下に入っていった。その結果として、政府は豪族層を動員することができなくなったため、中央で栄達していた軍事貴族に軍事指揮権を与え、私的に地方豪族を掌握させることにする。こうして主従関係にもとずく軍事機構が拡大して行き、その強大な権力が単一化して行く過程で、12世紀末、全国規模の戦乱が起こる。
 全国規模の戦乱によって軍勢の規模は著しく巨大化し、戦闘技能の熟練を欠く小領主が戦力の大きな割合を占めるようになる。このことは、木製弓から複合弓への移行による弓の射程が伸長と合わさって、戦闘のあり方に変化をもたらす。
 この頃の戦闘は、交通の要衝に壕や柵を設ける、楯を並べるなどして防御施設を構築し、それによって敵の騎馬戦士の進入を防ぎつつ、射程の伸びた弓で遠矢を放って開始された。障害物の背後にあって馬を静止して矢を射るのであれば、質の低い兵士でも可能である。そして遠矢を射あって敵が動揺すると、馬を馳せて敵陣に突入し決着をつける。この際、矢が尽きるなどしてして、騎射ができなくなれば、刀を用いた格闘を行うこともあった。
 この時代にも戦闘を補助する徒歩の従者はいるが、このほかの歩兵として、人夫の大量動員が見られる。人夫は防御施設を構築したり、あるいは敵防御施設に突破口を開いたりするなどして、活躍した。なおこれらの従者や人夫に、弓矢を持たせて、闘わせることもあった。
 この戦乱を経て確立された軍事政権は安定した社会秩序をもたらすが、この秩序は13世紀後半から揺らぎだし、日本は長い動乱の時代に突入、戦争もその様相を一変させて行く。


<近世前期;歩兵の台頭>
1.動乱の幕開け
 13世紀後半からの生産力の増大と、それにともなう商工業の発達、貨幣経済の浸透は、社会の秩序を崩壊させる。ありとあらゆる人間がより大きな利益を求め、離合集散を繰り返すようになって行き、14世紀には長い動乱の時代が始まる。
 このような社会情勢の下では、安定した政治権力はどこにも樹立されず、領主層は、商工民や浮浪民など様々な勢力と結びついて、雑多な構成の武力集団を形成、交通の要衝を舞台に争いを繰り返す。そして、このような武力集団が、浮浪民や商工民を歩兵として戦場に投入し、その軽快な戦い振りが戦闘を大きく変化させる。
 この時代の歩兵は弓を武器とするようになり、騎兵に対抗しうる戦力としての地位を得る。この頃の歩兵は確かに平地で騎馬戦士を防ぐことはできなかったが、山林や沼地など複雑な地形を占め、散開して遠矢によって戦うことで、騎馬戦士に対抗できる戦力となったのである。そして騎馬戦士は巨大な刀を武器に少数の突撃部隊となった。戦闘では、歩兵が地形を活かして敵に対する優勢を確保、騎兵攻撃の好機を引き出す。そしてそこに騎兵隊が突入して勝敗を決するのである。
 なお、14世紀末になると戦闘のあり方にまた少し変化が見られる。歩兵が射手として敵を防ぎ、攻撃は騎兵の突入によるという基本的な戦い方は変わらないが、敵を防御する際に、下馬した騎兵が密集して戦うようになった。この頃の騎兵の武器は巨大な刀や槍などであったが、下馬してもこのような長大な武器を構えて密集すれば、騎兵突撃に対抗することができたのである。そしてこうすることで、意味もなく馬上で敵の射撃にさらされるという事態が、避けられたのである。なお、この下馬による密集した戦いが、組織的な歩兵戦法へと育って行くことはなく、次の時代の戦場には無秩序な歩兵があふれることになる。

2.動乱の激化
 15世紀の後半になると、激化する動乱を勝ち残るため、兵力の増強が推し進められる。浮浪民の傭兵としての利用が著しく増大したほか、各地で農村指導者層の動員も拡大し、その結果として軍勢は肥大化、歩兵の比率も非常に高くなる。こうなると騎馬戦士は、比率の低下で威力を失う上に、全軍を統制するため分散せねばならず、もはや突撃によって決定的な働きをすることができない。戦闘中に役にも立たない騎乗を行うことは、敵の射手の的になるようなものであり、騎馬戦士も下馬して、歩兵とともに戦うようになっていった。なお、この時代の戦闘では、攻撃において槍を持った歩兵の無秩序な突撃が目立ち、防御においてはこれまで同様、障害物を利用した射手の活躍がめざましい。いまだ歩兵を組織的な集団として活用するには至っていないのである。


<近世中期;歩兵の組織化>
1.地方安定政権の軍隊
 長い動乱の結果として、争乱と収奪のみを繰り返す支配者に対して不満が蓄積され、しだいに、安定した支配者の出現を望む空気が強まって行く。15世紀末から16世紀の前半にかけては、このような空気を利用することに成功した領主が、他の領主を従属させて行く。そして各地に強大な支配力を持った政権が出現し、安定した支配を行って、強力な軍事力を組織して行く。
これらの地方政権は、支配下にある領主たちを通じて農村指導者層までを正規の兵力として把握しており、これがその戦力の中核となった。そして流浪する傭兵や、一般の農民を必要に応じて動員したため、戦争に当たっては巨大な兵力を動かすことが可能であった。これらの非正規兵はしばしば正規兵の数を上回っていた。
 この時代の戦闘は密集した歩兵集団によって戦われたが、集団戦法が可能になったのは、強大な政治権力が確立され、多数の兵士を常時管理下に置いて、訓練を施すようになったからである。なお、臨時の兵士となることがある一般の農民にも、わずかではあるが訓練が課せられていた。
 戦闘においては、射手が前面に並び、そのうしろに槍兵が配置される。領主階層に属する騎馬戦士は、多くの場合、下馬して兵士の指揮に当たり、騎乗しての攻撃は、追撃の際か、よほど条件に恵まれるかしなければ、行われなかった。戦闘が始まると、まず射撃戦を行いながら両軍の距離を狭め、間合いが詰まって射手が退避すると、槍兵によって白兵戦が行われた。なお16世紀の半ば以降は、鉄砲が伝わったためため、最前面に鉄砲を置いて、その直後から弓兵が、鉄砲の弱点である長い発射間隔を補うという形で、射撃が行われるようになった。だが戦闘の基本的な流れは、これによって何ら変化をこうむらなかった。確かに鉄砲の威力は大きいが、この頃の部隊の編成が、その威力の十分な発揮を阻んでいたのである。
 この頃の軍隊の基本単位となった部隊は、小領主の指揮する縦隊を有力領主の統率下に置いたものであって、鉄砲兵や弓兵も各縦隊に所属し、兵科ごとの編成が為されていたわけではない。そして、各縦隊ごとに細かく分散した鉄砲が、勝手な射撃を行うのでは、火力を効果的に発揮することはできなかったのである。

2.統一期の軍隊
 16世紀の後半には、激しい戦いを越えて、時代は統一政権の樹立へと向かって行く。この過程では、過酷な軍務に引きずり回された領主層が没落し、政権に完全に従属して行く。そのため指揮官による、部隊内での、諸兵科の私的な保有が解消され、兵科ごとの効率的な部隊編成が実現した。部隊は、同一兵科を集めた横隊を、重ねた形を採り、最前列に鉄砲兵、次いで弓兵、その後ろに槍兵の横隊多数が連なった。鉄砲兵は、この編成の下、集中して指揮されることにより、組織的に火力を発揮できるようになった。しかもこの編成では、必要に応じて鉄砲兵を部隊から引き離し、巨大な鉄砲隊を仕立てることも可能であった。こうして実現された大火力は、射撃戦だけで敵軍を崩壊させる力を持つことになった。
 なお、鉄砲の集中使用によって、射撃戦の重要度が著しく高まった結果、強固な陣地を築いて敵襲から身を守り、射撃に徹するという戦い方が、普及して行った。


<近世後期;太平の世>
17世紀初頭には日本は統一され、長い平和の時代に入る。太平の中で軍事技術は発展を止めるが、軍事思想の面では一定の成果が見られた。たしかに一般的な軍事に対する理解の程度は低下して行ったし、軍事思想家の多くは、過去の名将の用兵について、道徳的色彩の強い非実用的な理論をもてあそぶことに終始していた。だがその一方で、過去の戦争について、実用的な視点から、批判的な検討を加え、軍事理解を深化させた者もいたのである。そこでは、戦争のあり方が歴史と共に変化することや、戦争における日頃からの訓練・編成の重要性、などが説かれ、非実用的な同時代人の軍事に対する態度が、激しく批判された。そして、このような実践的な軍事思想の基礎の上に、18世紀末以降の対外的緊張の時期、西洋の軍事知識の摂取が始まる。こうして日本は、西洋近代に屈服する19世紀後半までに、近代への適応を可能にする知的基盤を、築き上げて行ったのである。



水軍編
<先史時代>
人類史において、旧石器時代は、船の存在が明らかになってはいない。日本でも船の存在が明らかなのは、新石器時代になってからであり、一本の木を刳り貫いて造った、単純な丸木船が、確認されている。


<古代;水軍活動の開始>
前2世紀以降、金属器が使用されるようになると、木材加工の技術が向上、複数の丸木をつなぎ合わせたり、丸木の上に木板を付加したりして、従来よりも大きな船が造られるようになった。水軍活動も行われるようになり、海上交通の要衝に武力集団が形成されて行った。
 この時代には、戦闘専用の船は存在せず、水戦には、上部に楯を並べた漁船や輸送船が、使用された。攻撃方法は、弓矢を用いるか、敵船に斬り込むかである。
 なお、水軍には、いまだ集団的な戦術を展開する能力はなく、それぞれの船は、せいぜい至近の数隻と連携するだけで、全体としては無秩序に戦っていた。


<中世;戦術展開能力の獲得>
国家権力が衰退した9世紀から、各地で群盗が暴れ回るようになるが、西日本の海上交通路では、群盗の脅威は、海賊という形を取って現れた。政府は10世紀に海賊を海賊鎮圧に用いて成功を収めるが、そこから水戦専門の戦士階層が形成され、しだいに経験と訓練を蓄積して行く。そしてその結果、水軍は、集団全体を統制し、隊形を整えて、組織的な戦術を、実行できるようになった。なお個々の船の攻撃方法は、以前の時代と変わらない。


<近世;戦闘用艦艇の出現>
14世紀から日本の船は、丸木を基礎に用いる構造を捨て、大型化が進む。そのため、水軍独自の経験を反映させた戦闘専用の船が、建造可能になる。そして15世紀末以降、水軍は、木の厚板で装甲を施した巨船を中核とし、そこに軽装甲の中小の快速船や、輸送船を配した船団で、活動するようになっていった。攻撃方法としては、これまで同様、射撃や斬り込みが用いられたほか、船の防御力向上にともない、火攻めが非常に重要になっている。
 16世紀半ばからは、日本でも火器が使用されるようになり、軍船の装備にも変化が生じる。単なる鉄砲であれば木の装甲でも十分防げるが、構造物破壊用の大型鉄砲も使用されたため、巨船の装甲を鉄板で強化する例が見られるようになったのである。また巨船に大砲を積むようにもなった。
 だが日本において、このような戦闘機能重視の造船・編成が、十分に発展することはなかった。これは、歴史的に水軍活動の目的が、主として物資や兵員の輸送など、陸上作戦の支援にあり、海上での決戦という発想が弱かったからである。そのうえ、平和の確立した17世紀初頭には、水軍自体が解体、破却されてしまう。結局、日本は、海上での争覇という発想を育てることなく、19世紀を迎えた。そして日本は、海上活動に関する全く新しい思想を、西洋から受け入れることになる。



戦例
陸軍編古代:板櫃河の戦い(740年)
 737年、政界の名門藤原氏は、疫病で中心人物をことごとく失い、勢力を大きく後退させる。そのため藤原広嗣は太宰府に左遷されたが、彼はその地で、中央政府に反発する九州北部の軍兵および南方異民族を結集、反乱を起こし、藤原氏の勢力回復を狙う。反乱軍は1万5千ほどに上ったが、これに対して討伐軍1万7千が派遣された。
 討伐軍は九州北東部に上陸すると、まず各地の兵営を撃破した。そして、板櫃河東岸に6千余りの軍勢を置き、これによって西方の反乱軍に備えつつ、周辺地域の制圧を行った。
 広嗣は全軍を三手に分けて板櫃河に向かったが、決戦に間に合ったのは、彼の率いる約5千の軍勢のみであった。
 広嗣は、異民族兵を中心とする騎兵隊を自ら率いて、先頭に立ち、筏を用いて渡河を開始する。討伐軍は弩で射てこれを撃退すると、反乱軍の兵士たちに抵抗せぬよう呼びかけた。反乱軍の士気は大いに動揺し、広嗣が頼みとする騎兵隊から次々に投降者が出始めた。討伐軍は投降者を援護するため、騎兵隊を対岸に差し向けたが、そうすると反乱軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もせず崩壊した。
 この敗北によって反乱勢力は急速に解体、海上に逃げた広嗣も、まもなく捕らえられることとなった。

陸軍編中世;一ノ谷の戦い(1184年)
 源氏との権力闘争に勝利をおさめた平氏は、強権的な支配を推し進めて行ったが、12世紀末、これに対して各地で反抗が生じることになった。そして1183年、平氏は、北陸を制した木曾義仲に、京都から追い落とされる。
 西国に逃れた平氏は、ただちに勢力を再建、翌1184年には京都奪回を目指す。一方関東の源頼朝がこの頃勢力を伸ばし、飢饉で勢力を弱めた義仲を討って、さらに平氏追討に当たることになった。
 平氏は、北を山地、南を海に挟まれた福原の地に、7万5千の兵力で立て籠もる。東の生田の森と西の一ノ谷には、それぞれ山から海まで堅固な陣地を二重に築き、海上には船団を浮かべて防御を固める。さらに、北の丘にも、山間の難路からの侵攻に備えて、兵力を配置した。
 これに対して源氏は兵力7万6千、頼朝の弟である範頼と義経が、それぞれ5万6千と2万の軍勢で京都を出発する。攻撃の日時を定めると、範頼はまっすぐ南西に進んで生田の森へ、義経は北から山地を大きく迂回して一ノ谷へと向かった。
 これを聞くと平氏は、義経の進路である三草山に、7千の兵力を送った。義経はこれを夜襲で破り、そこから軍勢を二手に分けて進んだ。1万3千の軍勢が西から一ノ谷へと向かい、残り7千が義経とともに山間の難路を通って北から福原に接近した。さらに途中で義経は、70騎の精鋭を選抜、これを直卒して山地を踏み越え、一ノ谷の背後を目指す。いっぽう平氏は、三草山が抜かれたことを聞くと、生田の森に知盛、重衡、一ノ谷に忠度、山の手口には盛俊、教経と、それぞれ一門の勇将を送り、全兵力を配置につけて、臨戦態勢を取った。生田の森の兵力5万、山の手が1万、狭隘な要害である一ノ谷へは8千である。
 決戦が始まると、生田の森では、平氏が有利に戦いを進める。源氏は突破口を開いて陣内に突入するが、平氏は包囲攻撃してこれを押し返してしまった。そして、その後も源氏は平氏の堅固な防戦を攻めあぐむ。
 一方、一ノ谷では、陣地前面での小競り合いの後、平氏は陣内に戻って戦うが、源氏は突入してこれを追い散らした。だが平氏は第二の陣地で踏みとどまり、源氏は優位を占めたものの、それ以上は攻め込むことができなかった。
 山の手でも、源氏は平氏を抜くことができない。
 そのまま両軍ともに奮闘し、いずれが勝ちとも分からぬまま戦いは続いていたが、やがて一ノ谷の背後の山上に、義経率いる70騎が姿を現す。そして急斜面を下って、平氏の背後を襲い、陣に火を放ち、大混乱を引き起こした。
 一ノ谷の源氏の軍勢は、第二の陣地も突破して、福原の方へと突き進み、後方を脅かされた山の手の平氏も崩壊する。さらに源氏は福原に火を放ち始めたが、煙の激しくあがる様子を見て、生田の森の平氏も士気を失って行った。重衡の手勢は四散し、最後まで善戦を続けた知盛も遂に支えきれなくなり、逃走した。
 平氏の軍勢は海へと逃れた。大混乱のため、溺死者や、取り残される者も多かったが、源氏に水軍がないおかげで、戦死者は1千2百ほどに留まった。だが、数の上での損害は大きくないものの、重衡が生け捕られ、忠度、盛俊が討たれるなど、平氏は有力部将を多く失った。この敗戦以後、平家の勢力は後退する一方で、徐々に追いつめられて行く。

陸軍編近世前期;天王寺の戦い(1333年)
 1331年、後醍醐天皇は、行き詰まりの状態にある鎌倉政権に対し、打倒の陰謀をめぐらせていた。そして、この計画が漏れてしまったため、天皇は京都を逃れて挙兵に踏み切る。だが大軍の前に、天皇方の勢力は鎮圧されてしまい、天皇自身は隠岐に流されることになった。
 それでも1332年に天皇方は勢力を再建、1333年になると楠木正成が河内・和泉を制圧し、さらにその勢力は拡大しつつあった。鎌倉方は、楠木軍の進撃を阻止するため、京都にいた約5千の軍勢を派遣する。
 正成は、騎兵5百・歩兵1千8百の軍勢で迎撃を準備、主力を天王寺の湿地帯に伏せると、3百の騎兵を淀川の南岸に置いた。鎌倉方の軍勢が淀川北岸に到着すると、楠木軍騎兵は遠矢をわずかに射かけただけで逃走、これを見くびった鎌倉軍は急いで追跡を始めた。楠木軍はそのまま休まず駆けて、鎌倉軍を天王寺まで誘いだしたが、そのころまでに鎌倉軍は人も馬も疲れ切っていた。そこに楠木軍の伏兵が三方から襲いかかる。さらに楠木軍伏兵の右翼端にいた2百騎の騎兵は、鎌倉軍の左側面を回って背後を衝こうとする。鎌倉軍は、騎馬戦士の武術に頼った戦闘を得意とするので、退路を断たれぬうちに後退して、騎馬に不利な湿地から抜け出そうとした。だが楠木軍は、これに食らいつき、乱戦となる。延々と激しい戦いを繰り広げた後、ついに鎌倉軍は潰走、楠木軍は淀川まで徹底的な追撃をかけ、鎌倉軍に壊滅的な打撃をあたえた。
 この戦いは楠木軍にもかなりの損害を強いたので、正成は根拠地の金剛山に撤収、今度はそこで鎌倉の送った大兵力を一手に引きつけ、天皇の勝利を導くのである。

陸軍編近世中期;長篠の戦い(1575年)
 甲斐を根拠地に東海まで勢力を伸ばした武田家と、織田家に従属して、三河から東海を東へ伸びて行く徳川家は、1570年頃から激しく対立し始める。武田家の信玄は、積極的に軍を動かして徳川を圧倒したが、信玄の死んだ1573年には徳川が反撃して武田方の長篠城を奪う。だが信玄の子の勝頼も活発な侵略を行い、1575年には1万5千の軍勢で長篠城の奪回に乗り出す。徳川は盟主織田信長の来援を得て、攻囲に耐える長篠城の救出に向かった。
 織田方の軍勢は、長篠城の西方あるみ原に布陣、3万の兵力で連吾川西岸の丘の上に拠り、壕を掘り、土塁を築き、柵を設けて守りを固めた。これに対して武田軍は3千を長篠城の攻囲に残し、1万2千の兵力で連吾川東岸の丘陵に布陣した。
 信長は4千の別働隊を編成、南を大きく迂回させ、長篠城の攻囲を破らせた。これにより後方を押さえられた武田軍は、退却か決戦かの選択を迫られる。ここで信長は決戦に向けて手を打った。地形の平坦な戦場の南半分、自軍中央から右翼にかけて、軍勢を柵の外に繰り出し、武田軍に誘いをかけたのである。
 武田軍はこれを見て、決戦に引きずり込まれた。まず左翼と中央の部隊が河を越えて突進、織田軍の兵士を陣地の内へと押し込んだ。さらに武田軍は陣地の突破を図ったが、陣内に戻った織田兵は、柵に拠って鉄砲による射撃に徹し、武田軍の攻撃を防ぎ続けた。そして武田軍右翼も戦闘を開始、織田軍左翼が籠もる陣地へと攻撃をしかける。だが、ここではさらに激しい射撃が待ち構えており、武田軍右翼部隊は非常に大きな損害を出した。
 信長はこの戦いに当たって、参戦しない諸将からも鉄砲兵を集め、このときは本隊だけで3千挺を越える鉄砲を有していた。そして、特に戦場の北半分の部隊の前方には、柵際に1千挺の鉄砲隊を編成して、大火力の発揮を図っていたのである。
 各所で武田軍は兵士を撃ち減らされて行く。織田軍は、戦闘に加わっていない各部隊の鉄砲も、次々に柵際へと送り、そのまま射撃のみで戦いを続けた。
 しだいに武田軍は攻撃を弱め、戦闘力を失って川の向こうへと引き上げると、敗走を始めた。織田軍はこれに激しい追撃をかけた。
 武田軍は、戦死者が2千、このほか逃亡者なども多く、1万以上の兵力を喪失してしまった。また武田家はこの戦いで多くの重臣を失った。そして武田家は、この敗北の痛手から回復せぬまま、滅亡へと向かって行く。


水軍編中世;壇ノ浦の戦い(1185年)
 一ノ谷の戦いの後、源頼朝は山陽と四国の二方面から、平氏に対する作戦を進めた。山陽方面に派遣された範頼は、海上からの攻撃で補給を脅かされつつも、かろうじて九州進出に成功、平氏の後方を制圧した。一方、四国方面を急襲によって制圧した義経は、水軍を組織しながら瀬戸内海を西進した。こうして瀬戸内海西端に追いつめられた平氏は、得意とする水戦に活路を求める。
 戦場となる壇ノ浦は東西の潮流が、一日の内に、二度向きを変える。決戦当日は早朝に西向きに潮が流れており、この流れに乗って、義経率いる源氏の水軍840艘から前進を開始した。知盛が指揮する平氏の水軍は500艘、三重に陣を組んで、これを待ち受ける。まず先陣には九州の精鋭200艘を置く。第二陣は四国の船団100艘であるが、これはあまり士気が振るわない。だがその後ろから平氏一門の200艘が、にらみを利かしていた。
 しばらくの間は、潮に逆らうことになった平氏水軍が防御に徹しており、数だけが頼みの源氏水軍も、互角の戦いを続けていた。だが、しだいに弱まって行く潮が、ついには向きを転じると、平氏水軍も攻勢に転じる。今度は、源氏水軍が潮に逆らう立場となった。流れに乗った平氏水軍は、整然たる船列で突入し、源氏水軍は統制を崩して、威力のない反撃を続ける。潮はしだいに勢いを増して行き、勝ちに乗った平氏の攻勢はいっそう強い。ようやく昼前には、潮も弱まりだすものの、平氏の攻勢は依然として続き、源氏を率いる義経は、苦悩の余り神を祈った。
 だが正午頃、攻勢を続ける平氏水軍の中で、四国の船団が源氏に寝返り、平氏一門の船団を攻撃する。これに続いて九州の船団からも寝返りが出始めたため、形成は突如、平氏の敗勢に傾いた。なおも知盛は、一門の動揺を抑え、これを最後の戦いと、抵抗を続ける。だが、しだいに船列は散り乱れ、ついには潮流が再び西を向き、平氏の抵抗も崩壊した。平氏一門は次々に入水、あるいは捕虜となり、ここに滅亡することとなった。

水軍編近世;第二次木津川口海戦(1578年)
 尾張、美濃から畿内に進出した織田信長は、浅井や朝倉、武田といった四周の勢力と激しく争うが、1570年には大阪の石山本願寺も信長に対して挙兵する。これは近江の本願寺門徒が浅井に味方したことによって、信長が本願寺に対し、強硬な態度をとるようになったからである。
 その後、信長が、東方の脅威であった武田の勢力を大いに破り、本願寺への圧力を強めた1575年、両者は一度講和する。だがその翌年の1576年、本願寺は、中国地方の毛利家と結んで、再び挙兵する。これに対して信長は封鎖を実施、大阪湾にも水軍を置いた。だが毛利水軍は質も量も織田水軍に圧倒的に勝っており、木津川口で簡単に封鎖を破り、海上輸送を成功させてしまう。このときの織田水軍の力では、本願寺の補給を脅かすことはできなかったのである。
 そこで信長は、水軍の強化に着手、1578年に、3門の大砲と多数の大型鉄砲を搭載し、鉄板で装甲を強化した巨船を六艘建造する。この巨船は、その鈍重さを補うための無数の小舟とともに、大阪湾の奥に配備された。
 そして、強化された織田水軍と、毛利水軍の輸送船団600艘との間に、海戦が、再び木津川口で、行われることになった。戦闘が始まると、やはり毛利水軍は、織田水軍に対し、優勢に戦いを進めた。だが織田水軍は、巨船に毛利水軍を寄せ付けて、大砲、大型鉄砲を打ちかける。これにより毛利水軍は打ち崩され、その内、数百隻が追い払われることになった。
 信長は、こうして本願寺の補給を圧迫することに成功したが、その一方で中国地方制圧に派遣した軍も着実に成果をあげていった。そして本願寺はしだいに勝利の見込みを失って行き、1580年、講和し、ついに開城することになった。



<おわりに>
 今日の文章は、ひょっとすると、すごく違和感を感じさせるものであったかもしれません。実は、意図的に日本史用語を排除していたのです。しかも、日本史については、センター試験以来の勉強なので、一体このサークルのおたく連中に納得してもらえるようなレジュメになったかどうか…。自分では、何とか理解可能な文章にまとめたつもりなんだけどねえ。何書いてるか分からなかったのなら、ごめんなさい。
 それでは今日の発表はこれでおしまい。じゃあ、飯食いに行こか。


参考資料
日本の歴史;中公文庫
新編日本合戦全集;桑田忠親著  秋田書店
人類にとって戦いとは2戦いのシステムと対外戦略;松木武彦、宇田川武久編  東洋書林
日本の合戦 別巻 地図・年表;高柳光寿監修  人物往来社
日本古代文化の探求・戦;大林太良編  社会思想社
藤原広嗣の乱とその史料;坂本太郎著  (戦乱と人物/吉川弘文館)
平将門の乱;福田豊彦著  岩波新書
東国の兵乱ともののふたち;福田豊彦著  吉川弘文館
中世を考える いくさ;福田豊彦編  吉川弘文館
弓矢と刀剣 中世合戦の実像;近藤好和著  吉川弘文館歴史文化ライブラリー
源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究;川合康著  講談社選書メチエ
歴史群像13源平の興亡;学研
日本騎兵史;佐久間亮三、平井卯輔編  原書房
異形の王権;網野善彦著  平凡社ライブラリー
悪党と海賊 日本中世の社会と政治;網野善彦著  法政大学出版局
中世悪党の研究;新井孝重著  吉川弘文館
武器からみた内乱期の戦闘 遺品と軍記物語;近藤好和著  (日本史研究373号)
南北朝期合戦の考察 戦死傷からみた特質;トーマス・コンラン著  (日本社会の史的構造 古代・中世/思文閣出版)
合戦の機構 『源平盛衰記』と『太平記』との間;今井正之助著  (軍記物語の生成と表現/和泉書院)
楠木正成;植村清二著  中公文庫
歴史群像I戦乱南北朝;学研
グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典A 日本戦国編;学研
雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り;藤木久志著  朝日新聞社
信長の戦国軍事学;藤本正行著  洋泉社
戦国合戦の常識が変わる本;藤本正行著  洋泉社
鉄砲と日本人 「鉄砲神話」が隠してきたこと;鈴木眞哉著  洋泉社
日曜歴史家への誘い 戦国合戦の虚実;鈴木眞哉著  講談社
刀と首取り 戦国合戦異説;鈴木眞哉著  平凡社新書
戦国鉄砲隊、前へ!;河合秀郎著  (歴史群像00年夏〜秋号/学研)
日本の戦史 朝鮮の役;旧参謀本部編纂 徳間文庫
鉄炮伝来;宇田川武久著  中公新書
長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500年〜1800年;ジェフリー・パーカー著 大久保桂子訳  同文館
鉄砲を捨てた日本人;ノエル・ペリン著 川勝平太訳  中公文庫
江戸の兵学思想;野口武彦著  中公文庫
江戸のナポレオン伝説 西洋英雄伝はどう読まれたか;岩下哲典著  中公新書
海と水軍の日本史;佐藤和夫著  原書房
ものと人間の文化史・船;須藤利一ほか著  法政大学出版局
日本古代文化の探求・船;大林太良編  社会思想社
続日本紀;直木孝次郎ほか訳注  平凡社東洋文庫
延慶本平家物語;北原保雄、小川栄一編  勉誠社
平家物語;高橋貞一校注  講談社文庫
全譯 吾妻鏡;貴志正造訳注  新人物往来社
吾妻鏡;與謝野寛、正宗敦夫、與謝野晶子編  日本古典全集刊行會
太平記;岡見政雄校注  角川ソフィア文庫 (付録に楠木合戦注文など)
明徳記;冨倉徳次郎校訂  岩波文庫
群書類従 合戦部
続群書類従 合戦部
信長公記;奥野高広、岩沢愿彦校注  角川文庫ソフィア
原本現代訳 甲陽軍鑑;腰原哲郎解説・訳  教育社
原本現代訳 雑兵物語(他);吉田豊訳  ニュートンプレス


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