2000年10月27日(付属レジュメ1)
戦例の考察  My


とりあえず、今回取り上げた戦例について、必要に応じて、説明や言い訳をしときます。

板櫃河の戦い
 広嗣は1万騎ばかりを率いて、板櫃河に到着すると、自ら隼人軍を率いて、筏で渡河を始めたという。だが、この戦いで官軍に投降した隼人によると、広嗣が5千人ばかり、弟の綱手が5千人ばかり、多湖古麻呂が兵力不詳の軍勢、を率いていた。 そして決戦には広嗣自ら率いる軍勢しか到着していないので、その兵力は5千のはずである。おそらく1万というのは、決戦に遅れた部隊を含めて、広嗣が決戦のために動かした全兵力の概数を言っているのであろう。また1万騎とされているが、先頭に立った隼人軍がおそらく騎兵であり、そのため、あたかも全体が騎兵であるかのように見えたのであろう。
 これに対し板櫃河にいた官軍の兵力は6千余人であり、弩で渡河を防いだあと、広嗣軍に降伏を呼びかけるが、すぐにこれを受けて、三人の隼人が河を泳いで降伏した。このとき官軍は、投降者が岸に泳ぎ着けるよう、援護を行っているが、この時代の弓の射程を考えると、これは対岸に差し向けられたのであろう。なお、ここで援護に使われた兵士も隼人であり、おそらく騎兵である。
 この後は、隼人とそのほかの騎兵の少数について、降伏したことが記される他、決戦の模様について記述はない。おそらくほとんど何の抵抗もなく、広嗣軍は崩壊してしまったのであろう。

一ノ谷の戦い
 『平家物語』、『延慶本平家物語』、『吾妻鏡』を使用するが、原則として、最も古い形態の伝承を残している『延慶本』に頼り、必要に応じて残り二者により修正・補充する。
兵力について得られる数値は、平氏が10万余とされる。源氏については『平家物語』が最も少ない数値で範頼5万余、義経1万余、『延慶本』では範頼5万6千余、義経1万余、『吾妻鏡』が範頼5万6千余、義経2万余とする。まずこれらの数値はできるだけ低く引き下げることが望ましい。
 平氏の兵力については、これを水軍の漕ぎ手も含めたものと考えて、引き下げることにする。陸兵と漕手との比であるが、義経が屋島に向かう際に率いる兵力を参考に、求めることにしよう。屋島に向かった義経の兵力は150人で船は5艘である。そしてこの規模の船であれば8〜10人の漕手が必要である、とされる。以上より陸兵と漕手はだいたい3:1の比であると考えて良いだろう。この比から、平氏の陸上兵力を7万5千と推測する。
 源氏の兵力については、最も少ないのが『平家物語』の示す値であるが、勝者は敗者よりも兵力で勝るのが普通であるから、平氏との均衡を考え、範頼5万6千、義経2万を採用する。
次に、平氏の各地への兵力配分であるが、まず三草山に7千が置かれ、さらに『平家物語』からは、山の手に1万の兵力が置かれたことが分かる。つぎは範頼の源氏主力を迎え撃つ生田の森であるが、具体的な数値が得られないので、『平家物語』が源氏主力として示した5万という値を、平氏に転用することにする。これは源氏主力の5万6千ともまず釣り合いのとれた値であろう。残り8千の兵力が一ノ谷に置かれたことになるが、狭隘な要害である一ノ谷は、少ない兵力で守備できるはずであり、この推測はまず妥当であろう。
 三草山の平氏を破った義経は、一ノ谷に3千、山の手に自ら率いる7千を向けるが、さきに義経軍を2万としたので、前者を1万3千に修正する。
 さらに『吾妻鏡』によれば、義経は特に選抜した勇士70騎を率いて一ノ谷を背後の山から、急襲することになる。これは山の手に向かった軍勢から途中で分離したのだろう。
 平氏は、「東西ノ木戸口ニ二重ニ屋形ヲ並ベテ候也」と言われ、一ノ谷と生田の森のそれぞれに二重の防御施設を築いており、生田では優勢に戦いを進めていた。一ノ谷では城中に突入されて、「残少ク被打ニケリ」と言われるが、義経が背後の山上に現れたとき、「軍ハ盛ト見タリ」とあるので、第二の陣地で、源氏を防ぐのに成功していたのだろう。
 源氏は、義経の背後からの襲撃とそれに続く放火によって、一ノ谷を混乱させ、突破に成功したが、ついで山の手の背後に迫ったのであろう、山の手にいた教経は早々と海へと逃れて行き、盛俊は「トテモノガルベキ道ナラネバトテ、一引モ引カデ残リ留テ戦」い討たれることになる。さらに源氏の軍勢は「平家ノ仮屋ニ火ヲカケ」たが、これは別の箇所で「大将軍宗トノ侍近召テ、各々屋形ヲ並作リ」と記された、福原の本陣付近の仮屋であろう。生田の森を固める軍兵は、福原からあがる煙を見て、逃走を始め、重衡の部隊は「皆係ヘダテラレテ、四方ヘ落失セ」、知盛の部隊も「我先ニト浜ヘ向テ」逃れて行った。

 ところで、ここで用いた巨大な兵力は、現実に可能な数値だろうか。奈良時代との比較を行って、検討する。
 まず人口について言えば、奈良時代の725年は約451万と推計されており、当時の国家は最大で約20万の兵力を動員することできた。これに対して平安末期の1150年には約687万に上ったと推計される。つぎに、これらの時代の動員の程度について考える。奈良時代の兵力は、当時の東アジアの国際的緊張がもたらした異常事態であるが、源平の争覇は日本史上初の全国規模の内乱であり、こちらも異常な動員が行われたと言えよう。そこで二つの時代の動員の程度は似たようなものだとしておこう。以上より、源平争覇時代に全国で動員できた兵力の限界値を求めると、約30万と見積もられる。
 しかもこの見積もりによれば、平安末期に約61万の人口を有した奥羽では、2万7千弱の兵力が動員できることになるが、これは頼朝の奥州征伐に際して、奥州藤原氏が防衛に用いた2万数千という『吾妻鏡』の示す兵力と、ほぼ等しいのである。このことから言って、物語の示す数値にもある程度の信憑性を認めて良いと思われる。
 そして、一ノ谷の戦いにおける、両軍合わせて15万前後という数値は、限界値を大きく下回っており、参戦していない兵力や、源平両氏の支配のおよばない武力の存在を考慮しても、決して不可能なものではないだろう。そこで、ここでは物語から導かれる数値を、だいたいにおいて正しいものとして、信用しておきたい。

天王寺の戦い
 『太平記』によると、この戦いで正成は、淀川の南に「やせたる馬に、縄手綱懸たる体の武者」300騎を置き、天王寺に2千余を伏せている。また『楠木合戦注文』では、正成の兵力は「其ノ勢五百余騎其ノ外雑兵数ヲ知ラズ」とされる。そこで、天王寺の伏兵2千のうち、200は騎兵であると考えられる。敵勢は、『太平記』によれば、5千余で、騎馬武者を中核とする正規の武士団である。
 正成は、騎兵で誘い出した「敵の人馬を疲らかし」たうえで、三方から伏兵で襲撃するが、戦場は騎馬武者に不利な、「馬の足立悪して」と言われる湿地帯であった。東すなわち楠木軍右翼からは「敵を弓手に請けて」攻撃を行ったが、これは、敵の左側面を回って後方を遮断しようとする動きである。正成の使う歩兵は、広く散開して遠矢に頼って戦うものであったから、退路の遮断して逃げようとする敵、とくに騎馬武者、を抑え込むには力不足である。おそらくここには、200騎の騎兵が用いられたのであろう。敵勢は、後方を断たれない内に「広み」へ戻り、態勢を立て直そうと考えたが、後退するところに楠木軍が追いすがった。『太平記』では、そのまま一方的に楠木軍が淀川まで追撃したように書かれているが、『楠木合戦注文』はこの日の戦いが、午前10時から午後9時まで続いたことを記している。おそらく、ここで乱戦に陥り、延々と戦いが続いたのだろう。やがて潰走した敵に対し、正成は徹底的に追撃をかけ、『楠木合戦注文』によれば、それは12時まで続いたという。

壇ノ浦の戦い
決戦当日の潮流は、4:13に西流が最強、8:25に東流が開始、10:26に東流が最強となり、13:27西流開始、15;54西流最強。
 戦闘は、『吾妻鏡』では6時に始まり、正午頃平氏の敗北で終わるが、『玉葉』は正午から、16時頃まで戦ったとし、『平家物語』では6時に戦闘開始。よって6時に戦闘開始し、正午に平氏敗北に傾き、16時に決着が付いたとする。
 兵力は『吾妻鏡』では源氏840艘、平氏500艘、『平家物語』では源氏3000艘、平氏1000艘。『延慶本』は源氏、3000艘、平氏を700艘とする。総兵力については『吾妻鏡』の数字を採用する。
 さらに平氏船団の船列の詳細について、『吾妻鏡』では船団を三手に分け、山鹿兵藤次秀遠と松浦党を大将軍として戦ったとする。『平家物語』では、先陣が山鹿の500艘、二陣が松浦党の300艘、三陣が平家の公達200艘とする。『延慶本』は山鹿の200艘が一陣、阿波民部成美の四国船団100艘が二陣、平家の公達の300艘が三陣、九州の船団100艘が四陣とするが、一門の船団を200艘とする箇所もある。『延慶本』の示す総兵力は、平家直属の船団を200艘とすれば600艘となる。さらに山鹿は九州の勇士であるから、第一陣200艘に九州の船団は全て含まれ、第四陣100艘は存在しないとすると、500艘になる。よってここでは、平家は船団を、三手に分け、九州の200艘、四国の100艘、平家直属の200艘の順に並べたと解しておく。なお四国船団を率いる阿波成美は、息子の教良がすでに源氏に下っていることもあって、士気、忠誠に疑いがあり、そのために平氏一門の船団を後ろに置いて、にらみを利かせたのであろう。
 では以上を前提に、戦闘の経過を、『延慶本』を『平家物語』で補いつつ、追うことにしよう。
 平氏船団を率いる知盛は、「可然人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ」源氏船団を深く誘い込み、「後ヨリ押巻テ、中ニ取籠テ」撃破する、という策を立てて、迎撃を準備する。源氏の船団は西流に乗って「夜ノアケボノに壇浦ニ寄」せたが、平氏船団もこれ「街チ懸」けており、6時頃「矢合シテ」戦闘が開始された。知盛は「各々少モ退ク心アルベカラズ」と全軍に命じて、源氏の攻撃を防いだが、 おそらく源氏船団の攻撃力が予想よりも低かったのであろう、唐船の計略を発動させることなく、防戦に成功した。そして流れが東流に変わると、平氏船団は攻撃に転じる。平氏船団の一陣が、「筑紫武者ノ精兵ヲソロエテ、舟ノ舳ニ立テ舳ヲ並テ、矢サキヲ調テ散々ニ射サセケレバ、源氏ノ軍兵、射白マサレテ兵船ヲ指退ケ」、平氏は勝ちに乗り、「攻鼓ヲ打テ」勢いづく。源氏も、「ツヨ弓精兵ノ矢継早ノ手全ドモヲソロヘテ、射サセ」反撃し、なかには個人的武勇を発揮する者もいたが、『平家物語』によれば「勢の數さこそは多かりけめども、あそこここより何處に精兵ありとも見えざりけり」という有様であった。 だが正午、いまだ平氏が潮流に乗り、義経が「源氏ヨハクミヘテ平家カツニノル 」様子を「心ウク覚テ、八幡大菩薩ヲ拝シ」た頃、阿波成美の四国船団が源氏方へと寝返った。 平氏方は「軍兵周章乱レ」たが、『平家物語』によれば「その後は四国鎭西の兵ども、皆平家を背いて、源氏につく」という有様であり、先陣の九州船団さえ多数の寝返りを生じたことが分かる。知盛は「少シモ周章タル気色モシ給ワズ」、ねばり強く最後の戦いの指揮を執る。いかに知盛が善く戦ったかは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、なお4時間近くも戦闘が続いたことから分かる。平氏一門が次々に入水して、ようやく抵抗が止んだのは、阿波成美の寝返りから4時間後、潮流が再び西流に転じてからでさえ、3時間の後、西流が最強になる頃であった。

長篠の戦いと第二次木津川口海戦については、参考資料に挙げた『信長の戦国軍事学』や『鉄砲と日本人』を読んでもらえれば、十分詳細な知識が得られるでしょう。ただ、一つだけ言い訳めいたことを言っておきます。長篠の戦いにおける信長の鉄砲の数は、数千挺に上ったと考えられますが、臨時編成の鉄砲隊1千挺以外に、具体的にどれだけの鉄砲があったかは分かりません。そこで俗に言う、3千挺を最低限の数として採用しておきました。


参考資料の追加
人口から読む日本の歴史;鬼頭宏著  講談社学術文庫


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