2000年11月10日
和算史概論  T.Minami


1)はじめに
 オリックスはBクラスに沈み、日本シリーズで巨人が勝ってから2週間。そろそろ真面目に講義、演習に出なければと思う今日この頃であります。
 今回は、数学教室から出ていくのが億劫になったということもあり、和算史にしようかなと思ってやってみましたが、数学教室の図書館は4時半には閉まってしまうので、なかなか本も借りられず、とりあえずレジュメは書きましたが、もしかしたら間違った見解をしているかも知れません。また高校は世界史だったので日本史の背景についてもほとんど知りません。間違い等があれば指摘してくれれば有り難いです。
 なお、今回のレジュメでは数を取り扱う学問という意味で、内容的に算数と思われるものも数学とまとめてあります。


2)日本の数学の起源
 日本における数学の起源は6Cごろの飛鳥時代、中国大陸からひとつの学問として流入された時と考えられる。それ以前から数の概念はもっていたようだが、中国大陸での数学をほとんどそのまま受け入れている。大化の改新以後中央集権の体制が整うに従って数学が必要性を増し、8C初頭には算博士2人、算生30人がおかれ、政府によって数学教育がなされていた。教科書としては中国、朝鮮半島からの文献を使用していたが、その中でもっとも重要な書物とされたもののひとつが「九章算術」である。レベル的には中学数学のレベルだった。中には比例配分や仕事算、過不足算といった算数的内容もあった。試験はこれらの書物の暗唱だったと思われる。そして算博士は世襲によって決定された。このような体制下では数学にいかに秀でていても算博士の家系でなければ数学を伝授することができず、日本独自の数学の発達はみられなかった。もちろん数学と他の学問との相互関係もみられなかった。ただ律令体制をそのまま輸入してきた中に算博士の制度も入っていただけで律令体制が崩壊していくにつれて数学の重要性は薄らぎ、算博士の家に数学書だけが受け継がれていった。また、このころの数学から後世に受け継がれたものとして算木と九九があった。これらはともに中国では春秋戦国の頃から使われており、四則演算を行う重要な道具となった。


3)江戸初期までの数学
 平安時代中期以降、数学は衰退し、鎌倉時代以降はほとんど一般においては知られることがなかった。そのため数学ができることは神懸かりであるかの如く思われていたようである。「算置き」と呼ばれる、数学を職業としていた人はいたみたいだが、数学のみで生活することができたか疑問であった。一方、中国大陸では天元術(高次方程式を扱う一種の代数学)が宋から元の時代には成立し、インドやイスラムの科学が伝来して数学はひとつの学間として発達していた。さらに民間にも数学は浸透しており、元末期から明にかけてそろばんができたといわれる。1592年には明の程大位が「算法統宗」を著したが、この中ではそろぱんを使った算法が絵つきで取り上げられており、この頃にはそろばんがかなり普及していたとみられる。明と貿易をしていた日本にもこの時期、つまり室町後期から安土桃山時代には少なくとも堺などの貿易港にはそろばんが入ってきていたはずである。このような商人たちのそろばん算法は日本の数学を発達させ、1600年頃には生活上の数学をそろばん算法で解く方法を著した「算用記」が流布していた。この頃各地にそろぱん塾が開かれており、その教科書として使用されていた。「算用記」とは計算の仕方の本というくらいの意味で、そのようなものの総称だったようである。そのひとつが現在龍谷大学に所蔵されている。
 この頃京都でそろばん塾を開いていた毛利重能も1622(元和8)年に算用記を刊行するが、当時重能が「割算の天下一」と号していたこともあってかこの算用記はかなり人気があり、何度も改版を重ねた。この書物は現在「割算書」と呼ばれている。これらの書物は八算(1桁の割算に関する九九のようなもの)から始まることから掛算の九九はそれ以前に覚えておく必要があった。また、これらは日常の中で使う数学レベルのことについての説明中心の教科書だった。そのためさらに数学を学ぽうとするものはさらにレベルの高い師について「算法統宗」などの中国の数学書を学んだ。はじめ毛利重能について学んだ吉田光由もそのひとりで、その後一族の角倉素庵について「算法統宗」を学びその他いくつかの中国数学の本も参考にして1627(寛永4)年に「塵劫記」を世に出した。「塵劫記」はまず数の単位、金銀などの重さ、九九、八算の順でつづきそろぱんの使い方が絵入りで詳しく書かれていた。また問題、答、説明という形で数多く問題がのせられていた。このように数学の入門書としてはたいへん扱いやすかったため、以後寺子屋での教材として使われるようになり、そろぱんの普及とともに日本の数学水準を高める役割をした。しかしこれは裏を返せば「塵劫記」を理解できれば塾を開いてある程度の収入が得られたので光由にすれば講師層の劣悪化が我慢できなかったようである。さらにやはり重能の弟子今村知商は漢文での数学書「竪亥録」を1639(寛永16)年に著した。これはレベル的には当時日本最高の数学書であった。このようなことから光由は「塵劫記」を改訂し、世間の数学者に挑戦する12問を答をつけずに載せて遺題とした。この解答が発表されたのは12年後の1653年、榎並和澄の「山両録」においてであった。彼は自分の書も光由を真似て遺題を載せた。こうして以後の数学書は過去の書物の遺題を解き、自らも遺題を載せるいわゆる“遺題継承”が風習となった。これによって数学は急速にレベルアップし、1670(寛文10)年、沢ロ一之の「古今算法記」では日本で初めて天元術が紹介された。そしてその遺題は天元術で解けないものであり、ようやく中国の数学レベルに追いついてきたが理論的な数学の探求はあまりなかったようである。


4)関孝和について
 関孝和は1640年頃に生まれたとされる。彼がなぜ数学にのめりこんだのかは分からないが、彼の青年期には遺題継承によって生活数学から脱却した数学が扱われるようになっていた。その中で数学について学習していき、数学に興味を持てば当時の数学書の遺題について触れていくのは当然のことであろう。実際に「算法闕疑抄」(1659、礒村吉徳著)の百問の遺題を解答した「闕疑抄一百問答術」を著している。この後孝和は「古今算法記」の遺題に挑戦したと思われる。これは天元術について紹介され、その著者沢ロー之は天元術を以てそれ以前の遺題を解いたが天元術を解くにはそろばんよりも算木が適していた。しかし天元術では解くことのできない問題を解くためには算木では限界があることを孝和は認識した。また、多元方程式を解くには天元術は適さないことが中国では知られ、日本にはこのことはまだ知られていなかったが、孝和はそれに気付いた。このため孝和は傍書法という独自の算法を思いつくことになる。そして1674年に「発微算法」を刊行して「古今算法記」の遺題を解いてみせた。しかし傍書法で遺題を解いたのはほぼ間違いないのだが、「発微算法」は傍書法については触れられていない。そのためか当時の数学者で「発微算法」を理解できた人はほとんどいなかったようだ。傍書法については「解見題之法」(年代不詳、1681〜1685頃)で初めて述べられた。また、多元方程式に関しては中国では「四元術」(4元の方程式に関する術)があったが日本では知られていなかった。孝和は補助未知数(例えばX=x2(二乗)とおくなど)を導入し、4元以上の多元方程式についても解ける解法を発見した。しかしこのような方法ではさらに方程式の次数が増えたため、新たな高次方程式の解法が研究されるようになった。これまでの代数的方法(すなわち四則演算と巾乗{2乗、3乗や√、3√(立方根)など}を用いての計算)では5次以上の高次方程式の解は求められないことが現在知られているが、孝和は高次方程式の研究から導関数にあたるものの存在を認識した。ちなみにアーベルが5次以上の高次方程式についての証明をしたのは19C初頭のことである。
 関孝和が高次方程式の解法として、ホーナー法という、近似解を求める方法の一種での解法を「解隠題之法」(1685)で示した。この中には微分に関する概念が潜在的にあったものと思われる。ただし、ヨーロッパでニュートンやライプニッツが微分に関して、物理学からの必要に応じて考えられ、微分の概念が確立して記法などが整備された状況と比べると微分論として発達するのは困難なことであったが、そのなかでも差分について考えが及んでいたのは孝和の探求心の成果といえよう。
 また、高次方程式における負の解について認めたのも孝和がはじめである。中国ではすでに紀元前から負数の概念があったが、それは加減算に限定されていた。つまり負の掛算や割算の概念はなく高次方程式の解で負の解が考えられることはなかった。そのため複素数概念が誕生することもなかった。孝和は負の解については認めたが、正の解をもたないものは病題として取り扱い、今日では虚数解になる高次方程式については正の解をもつ方程式に変換する努力がなされた。そのため、和算を含む東アジアの数学において複素数が誕生することはなかった。
 なお、関孝和は行列式についても考えていた。本来行列は一次連立方程式の解を求める方法として考えられたものであり、それは東西同じだった。また楕円の面積についても、円柱を斜めに切ると楕円になることを利用した巧妙な解法を考えている。


5)その他
i)円周率について
 円の半径または直径と円周の長さの比についてはどの文明世界においても興味の対象だったが、東アジアでもそうであった。円周率について日本で考察がなされたのは村松茂清が最初といってよい。彼は磯村吉徳と江戸の数学界を二分する学者だったが、1662年に「算爼」で円周率について考察、正32768角形から3.1415926まで正しい数字を出した。それまで日本では3.16が使われていたが、中国ではすでに魏晋の頃には3.141までは知られていたためなぜこのような値なのかは分からない。円周率を知る方法には三平方の定理が使われているが、中国、日本共に同じ方法である。

A)算額奉納について
 関孝和の出現以降は、関派などの流派があらわれ、理論的な研究についても取り上げられるようになった。そのため遺題継承の伝統は薄れていった。それに変わるものとして算額奉納があった。はじめは難問が解けたときに神仏のおかげとしてお礼の意味でなされていたが、次第に流派の宣伝や研究発表の場となっていった。記録では1673年の「算法勿憚改」の中にあらわれ、明治、大正まではこの風習があったようである。

B)旅の数学者について
 山深い農村などでもそろぱんを使って計算をする必要があるのは変わらず、そのような場所でもそろばん教室のようなものがあったと考えてよい。しかし、このような場所で数学を習うとなるとレベル的に限界がある。旅の数学者はそのような場所へ行って数学を教えていた。彼らは主に庄屋クラスの家の好意に甘え、別れるときに適当な謝礼をもらって旅を続けていた。そして数学レベルに応じて5段階に分けて免許皆伝もしていた。このような数学者として、大島喜侍、山口和、佐久問纉等がいる。


6)終わりに
 やはり今回もたいしたレジュメにはならなかった。直前までやる気にならないからだろう、困ったものです。毎回思うことは同じなんですがそれが全然生きていません。人間とはそういうもの、と割り切って今晩はぐっすりと寝ましょう(いつもぐっすり寝ているといわれれぱそうなのだが)。それと某氏のカントのレジュメ並に分かりにくかったと思います。すいません。それにしても少ない本文…。


−参考文献−
・「算木」を超えた男           王青翔     東洋書店
・日本人と数 江戸庶民の数学       佐藤健一    東洋書店
・日本人と数 和算を教え歩いた男     佐藤健一    東洋書店
・和算の誕生               平山諦     恒星社厚生閣
・日本数学史 上             加藤平左工門  槙書店
・幕末・明治初期 数学者群像(上)幕末編  小松醇郎    吉岡書店

・アジアの伝統科学            大橋由紀夫   一橋大学1999講義プリント

Special thanks   コブネ総研前主任研究員


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