2000年12月1日
楠木正成  NF


(1)はじめに
 「今夕より正成出づ。」江戸時代、この貼紙一つで「太平記」の講釈は大入満員になったという。能にも正成・正行の別れが題材の「桜井」という演目が嘗て存在し、時代物浄瑠璃にも「太平記菊水之巻」「蘭奢待新田系図」と楠木親子を取上げた物があった。また私自身は吉川英治「私本太平記」・北方謙三「悪党の裔」などを読んだ際、それぞれ足利尊氏・赤松円心が主人公なのにも関らず何故か一番心引かれたのは正成であった。この時代を舞台にした物は、誰が書いても誰が主人公でも正成は魅力的に書かれている。これらを考えると、正成の人気は近代の皇国史観による宣伝の為のみとは言切れないかもしれぬ。私はこれまで何回か南北朝時代の人物を扱ってきたが、今回は四年間のレジュメ作りの締めくくりにこの正成の生涯を可能な限り追ってみたい。そして最後に日本人にとって正成とは何なのか少し考えて見たい。
(2)元弘以前
 楠木氏は橘氏の末裔と言われる。しかし河内周辺は橘氏を称する者多く、任官の関係上そう名乗ったと考えられるらしい。楠木氏の出自は全くと言って良い程不明だ。「吾妻鑑」によれば頼朝上洛時随行した武士の後陣42番に忍三郎・五郎に続き楠木四郎という名がある。一方、播磨国大部荘の文書に永忍三年(1295)河内楠入道や宗円房・垂水繁昌らが非法をしたと訴えがある。楠木四郎と正成の関係は不明だが、河内楠入道は諸条件から正成の近い先祖と考えて良い。正成自身が「悪党」と呼ばれた事をも考えると、当時荘園・公領で非法を働き幕府の取締も及ばぬ人々の一員と見られよう。また河内新開荘・玉櫛荘・宇礼志荘や和泉若松荘にも権益を持ち和田・橋本・神宮寺と一族が摂河泉一帯に分布していた様だ。中でも玉櫛荘は摂河泉の中心に位置し南は大和川、東は葛城川に面する交通の要地で、そこを中心に淀川・大和川の水運を握り地元の水神を祭る建水分神社の氏子総代として水利権を持つ。また観心寺・金剛寺とも関係があった。更に京で装飾に用いる水銀の採掘権も手中にし財を成した。楠木氏はこうした活動を通じ「散所」の長者として力を持ったとされる。「散所」とは河原・道路脇など農業不能故に課税外の土地を言い、ここに声聞師・放下・万歳など芸能・運搬・貢納を生業とし時に卑賤視される人々が集まる。楠木氏は是等の人々を束ね貨幣経済の発達した畿内で活動。正成はこうした中で生まれ「観心寺寺伝」によると滝覚坊に文学、毛利時親に兵学を学んだという。一部記録には正成は初陣で河内八尾別当と戦いその領地千五百貫を得、紀州安田荘司・摂津渡部党・大和越智四郎を幕命で討ったとある事から前述の楠木四郎と併せ楠木氏を御家人とする説もある。幕府公文書・「花園院宸記」で正成を「兵衛尉」と記している事、正中の変で和田助家が48ヶ所の篝役を務めた事も根拠とされる。真偽は不明だが、正成が御家人だったか否かは大して問題でない。何れにせよ貨幣・商業を背景とし土地に縛られぬ新しい型の人物なのは間違い無い。
(3)後醍醐の夢
 この頃朝廷では後醍醐天皇が親政を行い、幕府を倒しての権力一元化を目指していた。寺社・幕府に不満を持つ武士に呼掛け味方に引入れる工作を続ける。元徳三年(1332)八月十日、後醍醐は元弘と改元。しかし幕府方はこれを認めず以前からの元徳を用いた。これは天皇の廃位宣言に等しい。間もなく、東使が繁く京に訪れた。こうした情勢下、天皇は御所を脱し、比叡山に行くと見せ掛け東大寺を経て笠置山へ篭る。近くの武士達が味方として参集したが、戦力は不足していた。「太平記」によるとそうした時、後醍醐は夢を見たという。紫宸殿の庭先に大きな常盤木が茂り、南への枝が特に育っていた。その木の下に朝臣達が参列し、南面する玉座には誰も座していない。鬟髪の童子二人が涙を流して跪き、「この国に御身を安らかに隠せる所はありません。あの木の陰に南に向いた玉座があります。これは貴方の為の物ですから暫くここにおいで下さい。」と言って天高く上っていったのだ。天皇は、木に南と書けば楠となることから楠木と言う者を頼みに帝業を為せという日光・月光菩薩の夢告と考え住職に楠木と言う武士がいるか尋ねた。案の定河内国金剛山西麓に楠木多聞兵衛正成という者がいるとの事で、万里小路藤房を勅使として正成を召す。しかしこれがフィクションなのは言うまでもなく、「増鏡」は「事のはじめより、頼みおぼされ」ていたと伝える。嘗て日野俊基と接触したとも金剛寺との関係から醍醐寺の道裕、その師文観を通じて後醍醐と繋がれたとも言う。商業と結付の強い朝廷に土地を基盤とする幕府が倒される事で商業の重要性が高まり利益が飛躍的に大きくなる事を夢見たのかも知れぬ。何れにせよ一土豪に過ぎぬ彼の許に正二位中納言が勅使として訪れるのは例がなく正成はこれに感激し笠置の天皇の許に参上したとも言う。天皇に見通しを問われての正成の答えは有名である。「鎌倉の近頃の悪逆無道ぶりは天の咎めを受ける程です。その衰え乱れ、弱果てたのに乗じ天誅を加えるに何の困難もありますまい。しかし天下平定には武略と智略共に必要です。まともに戦えば六十余州の武士を集めても武蔵相模に打勝つのは難しいでしょう。しかし策を廻らし戦うなら、鎌倉の武力は闇雲に鋭い刃を砕き堅い甲冑を打破るしか出来ません。これは計に掛易く恐れるに足りません。勝敗は合戦の常ですから一時の勝負で一喜一憂なさらぬ様。正成一人生きていると御聞きなら、帝の御運は開けるものと御考え下さい。」これは「大乗院日記目録」によると九月十日の事で、一説にはこの時に菊水の紋を賜ったと言う。信貴山に現存する菊水旗に「元弘元年九月十日」とある。九月晦日、幕府方の夜襲で笠置は陥落、後醍醐は正成の赤坂へ向かい山中をさ迷うが結局捕らえられた。
(4)赤坂城
 ところで、正成は勅使が来る時点までは挙兵に慎重だった様で、特に準備をしていた様子はない。天皇の挙兵を時期尚早と見ていたのか。実際築城に掛かったのも笠置から帰って後である。更に、九月に臨川寺領和泉若松荘に「悪党楠木兵衛尉」が侵入、乱妨を行ったと「天竜寺文書」にある。これは正成が篭城に備え兵糧を徴収したのだと考えられている。食糧確保もこの時までされていなかったのであろう。館近くに構築した赤坂城は、東は東条川に通じる崖、西は佐野川への谷、北は高塚山と大軍の展開に向かない所に位置していた。ただ城自体は極めて小規模であった。尊良親王・四条隆資が正成と共にこの城に篭り、更に「増鏡」によれば護良親王も叡山から逃れて吉野へ赴く際一時赤坂に身を寄せたという。正成を後醍醐方の人々が如何に頼みとしていたか知れる。さて笠置を落とした幕府軍は大和路から大仏貞直、河内から金沢貞冬、天王寺から江馬越前、伊賀から足利高氏をそれぞれ大将に総勢30万(実数は三万四千位か)で赤坂城に押寄せた。これほどの大軍で攻寄せたのは正成の武名が既に高かった為とも言う。城は見るからに俄拵えで堀も満足でなく塀も一重だけで二町四方に過ぎず、寄手の兵達も何かの奇跡でせめて1日持ちこたえてくれれば功名を挙げられるのに、と思う程であった。そして寄手は城に押寄せ我先にと攻めかかる。正成は予め弟の七郎と和田五郎正遠に300余騎を付けて城外に伏せさせていた。一方守備兵は攻め手に矢の雨を浴びせたので多くの死傷者を出し幕府方は退いた。そこへ七郎と和田五郎が急襲し彼方此方へ攻掛かり幕軍は更に混乱した。幕軍は次に背後を襲われぬようにして城を包囲してから塀に取り付いたところ塀が実は二重になっていて楠木軍はそれを切って落としたので幕府方千人が押潰されそこへ石を落とされ多くが討たれた。更に楯を作り射られない様にして堀の中から熊手で塀を破ろうとした所、長い柄杓から熱湯が浴びせられ数百人が火傷。総じて要塞戦でよく用いられる方法を正成は取っていたと言う。ともあれ万事この調子であったので予想外に幕府軍は攻倦み戦線は膠着。しかし正成のほうも十分な準備がなく、20日ほど経ったある風雨の強い晩に穴の中に二三十人の死体を入れ、脱出し暫くして城に火を付けさせた。幕府側は火の手を見て城は落ちたと勝鬨を揚げ、城中に入った。焼け跡から死体が多く見つかったので正成は自害したと皆思込んだ。一説では正成は老僕に命じ自分に似た死体に縋って泣かせたとも言う。鎌倉方は誰もが敵ながら見事な最期と称えた。
(5)天王寺未来記
 正成は自らを死んだと見せかけ脱出したが、「北条九代記」には「同二十一日楠落城。但楠兵衛尉落行云々」とあるので幕府方も早い段階でそれを掴んでいた様だ。それ以降暫く正成の行方は不明だがともあれ幕府は赤坂城には紀州の湯浅成仏を入れて地頭とした。元弘二年11月、湯浅は兵糧の準備が足りず所領から人夫500人に運ばせた。正成はそれを待伏せ荷を奪い俵に武器を詰め兵二三百人を警護兵に見せて城へ向かわせ、楠木勢がそれを追うと見せかけたので城兵は急いで人夫を導き入れた。しかし彼等はすぐ武装し鬨の声を揚げ、外からも同時に攻入ったので成仏は降参。正成は下赤坂を奪還した。以後成仏は楠木方につき、後に湊川直前には正行と共に河内に向かっている。さてこの知らせに驚いた光厳天皇の朝廷では天下静謐を祈る十二社奉幣使を送った。正成は更に叡福寺で幕府軍を破り、楠木勢と戦うよう六波羅から動員令の出された隅田氏の拠点隅田荘を攻撃、天見で井上入道・山井五郎の兵を破り、その上和泉・河内の守護を破りその一帯を支配下に置き摂津の住吉・天王寺に進出、渡部橋に陣を敷く。知らせを受けた六波羅は隅田次郎左衛門・高橋又四郎を大将に五千の軍勢を天王寺へ向かわせた。京はこの頃兵力が不足していたらしく篝屋武士(市中警察)・厳嶋神社の武士も動員している。正成は二千の軍勢を3つに分け、本隊を住吉・天王寺に隠して貧弱な300騎を渡部橋に配置。幕府軍はすぐ橋を渡ってその囮に襲いかかった。楠木勢は少し矢を射てからすぐ退却。幕府軍が激しく追撃し疲れて来た頃に楠木軍は天王寺の東から、天王寺西門の鳥居から魚鱗で住吉の松の陰から鶴翼で攻掛かる。幕府軍は大軍に包囲されたと思込み退却。幕府兵は我先に橋へと集まり押されて水に落ちる者が多かった。幕軍が散々に討たれて帰ってきたので、
渡部の水いかばかり深ければ高橋落ちて隅田流るらんという狂歌が洛中に流行った。因みに正成はこの戦で河内源氏の石川氏・摂津の平野氏・大和の越智氏らを軍勢に組入れ四条隆貞を大将として戦っていた。これが護良との緊密な連絡の下での公の戦であることを天下に示す為である。京の衝撃は大きく朝廷はそのまま鎌倉へ落去しようとの決定が一旦はなされた程であった。宇都宮公綱が500騎を率いて到着したので沙汰止みになったのである。宇都宮はすぐ正成との決戦に赴くが決死の兵と戦い味方を失うのを恐れ正成はその鋭鋒を避けた。宇都宮はその為武名を幕府内に轟かせる。楠木勢は数多くの篝火を焚き夜毎にその火を近づけたので宇都宮は次第に恐れをなし引揚げた。その一部隊が東条を攻撃したが却って楠木軍に撃退され捕虜とされたとも言う。正成は再び天王寺に進出。その際民衆に迷惑をかけず兵卒に礼を尽したので多くの者が正成の下に馳参じた。「太平記」によるとこの頃正成は住吉に参詣し神馬3匹を奉納。翌月には四天王寺で馬・太刀・鎧を奉納し、寺僧にこの寺に伝わる聖徳太子の書いたという未来記の披見を望み許可された。そこには「95代目の帝の時に天下は一旦乱れ帝は安泰でなくなる。この時に東魚が来てこの世を呑込む。日が西に没し370余日、西鳥が来て東魚を食い、その後天下が統一され三年、猿の様な者が天下を奪い30余年、国は治まる。」とあった。正成はこれにより、間もなく幕府が滅ぶと知った。言うまでもなくこれは虚構であろう。ただ聖徳太子に仮託した未来記が存在したのは事実らしい。いつの世もこうした思わせぶりな予言は好まれ後を絶つ事がない。
(6)「金剛山ハ未ダ破レズ」
 正成は1月23日には金剛山に撤収、城に立篭った。事態を重視した幕府は直ちに大軍を畿内に送った。赤坂城攻撃は阿曾治時を、吉野攻撃は大仏高直・二階堂道薀を、紀川流域へは名越元心を大将に総勢80万、号して100万と「太平記」は記す。実際は10万程であろう。いずれにせよ圧倒的大軍なのは間違いない。これで勝っても当り前で寧ろ戦後の論功行賞や財政的手当が問題になる。もし勝てなければ幕府の威信に関り、幕府にすれば割に合わぬ行動であった。しかし正成・護良親王の動きが最早放置できず、中でも朝廷が一時逃亡を決定した事が直接のきっかけだったであろう。幕府はある意味ではこの時点で正成の術中に嵌った。この動員の際、幕府は民に乱暴を働くのを禁じ護良・正成を討取った者にはそれぞれ近江国麻生荘・丹後国船井荘を与えると公布。一方正成も赤坂城奪還直後からそれに備え金剛山での築城にかかっていた。奪還した下赤坂城を前哨基地とし、更に高さ352mの所に上赤坂城を築城。東は足谷川・西は千早川・北は崖に囲まれた要害である。そして最終防御地点として千早城を作る。これも北は風呂谷・南は千早谷・東は妙見谷という守るによい土地であった。その上に曲輪ごとに堀切(人工崖)を作り登り難さを増していた。上赤坂は「楠木本城」、千早は「楠木詰城」と呼ばれた。そして金剛山頂には護良の側近四条隆資・隆貞父子が篭った。他に平岩・持尾・竜泉寺・金胎寺・石仏に城があったとも言われるがこれまでの戦いから見てそれだけ配置できるほどの兵が正成にあったとは思えないしあったとしてもこのように分散させるのは上策でなかろうから信用できない。この頃正成は左衛門尉に昇進しているらしい。前年12月の天野山金剛寺からの戦勝祈祷報告への礼状、1月の久米田寺への戦勝祈祷依頼の書状に左衛門尉の自署がある。護良と後醍醐との連絡により叙任されたのであろうか。笠置で既に叙任された可能性もあるが。(因みにこれ等の直筆文書で筆跡を見ると、正成は割合教養豊かだったのでないかと言われる。)護良も吉野落城後一時金剛山に滞在したと言う。正成と護良の緊密な関係を示していよう。さて吉野へ向かった幕府軍は閏二月に攻撃開始、僧岩菊丸の手引で短期間で落城、護良は一説によると一時金剛山に入って高野山に逃れた。隆貞は護良の令旨を多く執筆しており、これも正成と護良の関係を表す。一方二月に河内方面軍は上赤坂城に攻撃開始。本間氏・須山氏・結城氏はこの攻撃で多くの死者を出した。中でも本間恩阿、資貞・資忠父子が華々しく戦死した経緯を「太平記」は伝えている。出切るだけ早期に決着を付けるため強行突破が図られたのか。城兵の勇戦による幕府軍の被害は大きかったが城中に通じる水樋を絶ったために城兵は乾きに苦しみ、守将平野将監は兵282人と降伏。正成の弟七郎は城を脱出し、上赤坂は落城した。将監らは京で処刑されたが、これにより却って降伏する兵士はいなくなったと「太平記」は伝える。赤坂・吉野も落ちた後、これ等の兵力も全て千早に結集。合戦の詳細については不明なので以下は「太平記」による。幕府軍はこの時も力攻めにした。城兵は櫓の上から大石を投下ろし、逃惑う所に矢の雨を降らせたので、軍奉行長崎四郎左衛門尉が書記役12人を使って昼夜3日かかり記録するほどの死傷者が出たという。日に約五千人。城攻めの方法を全く知らず、以前の教訓が生かされていない。そこで暫く睨み合いとなり、名越越前守が軍勢三千騎に谷水の流れに陣をしき以前の戦いと同様水攻とした。しかし正成は前もって既に水の利便を調査済で、「五所の秘水」を城中に確保、更に水槽二、三百個作ってこれに水を蓄え、その上陣屋の軒に樋を繋いで雨を水槽に受けるようにしていた。その為水攻も効果なく、名越勢も次第に気が緩む。正成はこれに対し明方に奇襲、名越は防ぎ切れず旗も忘れ慌てて元の陣へ逃亡。翌日、その旗が城正面に掲げられ城兵の嘲笑う声がした。恥を受け憤激した名越勢は突撃を敢行、多くの犠牲を払い城壁まで辿着く。その崖を登れずにいるうちに上から大木を落とされ、混乱した所を狙い射られ、名越勢は恥の上塗りとなった。そこで幕軍は兵糧攻に切替える。幕軍は手持無沙汰になり連歌・碁・双六・闘茶・歌合で退屈を紛らわす。数日後、城外に鎧武者が数十人おり鬨の声が揚がったので、鎌倉方がさては城から討って出たかと城の方へ駆付けた所、上から大石が降ってきて幕軍は再び大打撃を受けた。鎧武者と見えたのは藁人形で、鬨を揚げたのは少数の伏兵であった。それ以来再び睨合いとなったので大将の陣前に落首が出た。余所にのみ見てや止みなん葛城の高間の山の峯の楠「白雲」(恋人を暗示)を「楠」に置き換えた新古今集の歌のパロディである。それはさておき持久戦となると幕府方では暇潰しから諍いが起こるなど軍中のまとまりも失われてきた。三月に入り鎌倉からの督促で長い梯子を作らせ滑車で城の崖に立掛け攻込んだが、正成は松明に火を付けその梯子に投付け、油を水撒きで注いだので梯子は悉く焼落ち、昇っていた兵は全て焼死。そんな中、宇都宮公綱は勇戦して塀まで攻寄せ山を掘崩しにかかり、3日で大手の櫓を崩す。皆もこれに倣い掘りにかかるが容易に掘崩せない。日本初の本格的城砦戦である。これ等の攻防のどこまで信用できるか疑問であるが、熊谷直経着到状案に「千葉城に馳せ向い、大手掘鰭に於て相戦い、矢倉を構え」「二月廿五日より楠木城郭(上赤坂)に罷り向い、同廿八日まで大手木戸口に於て相戦い、数十枚の楯、土石を以て、最初堀を埋め」とあり、和田系図裏書に「和泉国御家人和田修理亮助家茅葉屋城大手箭倉の下の岸を掘る之時」とある様に櫓での攻防・堀埋め・坑道戦などは事実行われた様だ。吉野・十津川・宇陀・宇智の野武士が護良の命により幕軍の糧道を遮断し楠木勢の補給路を助ける役を果たしたので、幕軍の補給は段々苦しくなった。又この頃には赤松円心が挙兵し京を攻撃していた。それに対応する為に兵力を割く必要もある上、西国で河野通益・得能通綱が挙兵したので自分の領地が心配な武士も多く引揚げる者も増加。新田義貞もこの頃国に帰った一人である。この頃の反幕諸軍にとり正成は希望の星であった。「博多日記」には「廿二日金剛山ハ未ダ破レズ」と記されている。やがて名和長年が隠岐を脱出した後醍醐を迎え船上山に篭り、九州では菊池武時が挙兵。更に幕軍として上洛した足利高氏が寝返って六波羅を滅亡させ、形勢は決定。知らせが金剛山麓に翌日伝わり、城中では非常に喜び一方包囲軍は急いで引揚げ始めた。野武士の攻撃を受け後からは楠木勢が追撃。嘗て脱走者を出さぬため設けた逆茂木が却って邪魔になり、多くの犠牲を払い幕軍は奈良に逃れた。楠木勢は100日の包囲から解放されたのである。直後、新田義貞が関東で挙兵、鎌倉を攻略。船上山から帰洛する後醍醐を正成は5月30日に兵庫福厳寺で迎え、勅命により還幸の前駆となる。天皇が京に到着したのは6月4日のことであった。
(7)三木一草
 後醍醐天皇による建武新政の目標は、武家政権・摂関を廃止しての天皇親政にあった。しかし現実問題としてこれを補佐すべき公家に事務処理能力はなく、結局武士、特に旧幕府法曹吏僚の力を借りぬわけには行かなかった。記録所・雑訴決断所など政務執行を司る機関に相当数の武士が加えられる。正成も記録所寄人・雑訴決断所三番局(山陽・山陰)・恩賞方三番局(畿内・山陽・山陰)に名を連ねた。月18日勤務という厳しい日程である。一族も武者所に楠木帯刀正景・橘正遠、窪所に弟正季(七郎か)が勤務した。また河内・和泉・摂津の守護、河内国司にも任じられ、建武元年九月の石清水行幸の際には尊氏と共に天皇護衛の役に付く。天皇の正成への信任が窺える。ところで新政府の当面課題は恩賞であった。武士達が倒幕の為働いたのは幕府への不満もあったが何よりも恩賞目当てなのは言うまでもない。しかし得宗領の朝廷領への組入、公家中心の土地分配で武士達に与える恩賞は不足且つ不公平な物となった。そうでなくとも多くの寺社・武士がその軍功を主張する中で皆を満足させる様論功行賞を行うのは至難で武士の不平は大きい。更に拍車をかけたのが大内裏再建のため地頭に臨時徴収し紙幣を流通させようとした事であった。正成は記録所・雑訴決断所・恩賞方の一員としてこうした問題にどう対処しようとしたか全く伝わらない。戦場においての英雄も政治の場では平凡な一人の臣に過ぎなかったのであろう。恩賞に関しては正成自身は前述の様に河内・和泉・摂津に権限を与えられ更に河内国新開荘・土佐国安芸荘・出羽国屋代荘・常陸国瓜連荘を賜り検非違使・左衛門少尉に任じられて足利・新田・名和らに次ぐ厚遇を受けていた。ただ正成の位は従五位下であり長年らと比べ抑えられている。また楠木一族で任官しているのは正成以外には左近蔵人正家のみで、名和氏が皆任官しているのと違いがある。阿野廉子と結付いた隠岐閥の尊重により護良と縁深い正成は割を食ったという。しかし出自を考えると破天荒な立身には違いなく、人々は結城・名和(伯耆)・千種忠顕と共に「三木一草」と呼び当時多かった成上がりの最たる者と目した。この頃興福寺と楠木氏との間に水争いがあり正成が井水を違乱したため僧兵達が朝廷に強訴したという。正成自身もその厚遇・栄えを誇った証拠であり、働きに比べて薄賞にも拘らず忠誠を捨てなかったと言う俗説は成立しない。ただ「菊池武朝申状」は正成が功績第一として九州で北条方と戦い討死した菊池武時を推奨したと伝える。事実なら自らの功を誇るのみでなく他を認める度量の持主とは言える。さてこの頃武士達の不満を背景に護良と尊氏の対立が深刻化。「梅松論」は護良が天皇の意を受け正成・義貞と共に尊氏を襲撃しようとしたと伝える。建武元年11月正成は紀伊の飯盛山での佐佐目憲法の反乱を鎮定に三善信連と共に出陣。中々苦戦した様で斯波高経も途中から参戦している。翌年正月に楠木一族の木本宗元が憲法を討取り乱は鎮圧された。この戦いにおいて正成は終始指揮を採ったらしく「元弘日記裏書」に「正成殊功アリ」と記される。その最中、尊氏は廉子と結び護良を謀反の罪で捕らえさせた。正成の精神的打撃は恐らく大きかったであろう。この時彼が在京していたら阻止できたのではといわれるが護良の逮捕は朝廷権力によって行われており正成の権限ではそれは望めなかった。(不穏な動きを告げる位は出来たかもしれないが。)後に北条時行が鎌倉を陥落させた際に護良は直義の命で淵辺義博に殺害された。悲運な最期である。
(8)動乱再び
 新政府成立直後から北条氏残党の反乱が各地に起こっていたが、それらの最たる物が建武二年の北条時行による中先代の乱である。時行は京の西園寺公宗とも連絡を取り全国規模で旗を揚げようとしたが事前に漏れ、関東で蜂起。その勢いは凄まじく忽ち鎌倉は陥落した。尊氏は直義を救う為に関東に下向、反乱を鎮定した後も鎌倉に止まり独自で論功行賞を行う。この為後醍醐は義貞に尊氏を討たせる事とした。ここに再び動乱が幕を開ける。義貞は直義の指揮する軍を破りながら箱根まで進むが、弟の危機を聞いた尊氏が迂回路を取って新田軍を急襲、新田軍は潰走した。この頃正成は河内・和泉の指揮官として京を守護する為か京に止まっている。但し一族の正家が代官として常陸国瓜連に派遣されている。それはさておき義貞を追って京へ迫る尊氏を迎撃つ為、宮方は防備体勢を取った。正成は宇治方面で大和・河内・和泉・紀伊の軍勢五千を率い敵の渡河を防ぐ為に川の中に大石を積み逆茂木を植え東岸を切立てた。また左岸に敵陣設置のできぬ様に橘の小島・槇の島・平等院の辺を焼払った。旧来の寺院も必要なら火を付けるやり方は何処か師直・道誉を彷彿とさせる。尊氏は宇治攻撃を一日で諦めた様で戦闘は淀方面で激しく、新田勢は足利軍に敗れ退却。宇治の守備もこうなっては意味を為さず正成も京に退いた。後醍醐は叡山に行幸、宮方も坂本に集結。奥州から北畠顕家軍も到着し、足利方の三井寺を攻撃、更に義貞を中心に洛中の尊氏と二条・三条辺りで激戦を演ずる。「太平記」によると延元元年1月27日の戦いで正成は糺の森で500騎を率い結城宗広・名和長年と共に上杉・畠山5万を迎撃。正成は兵に軽い楯を5、6百枚持たせ板の端に掛金・留金を付けて楯を繋ぎ、馬が飛越せない様にして隙間から矢を射させた。さながら動く城壁である。どうやら矢を浴びせるのを基本とし数少ない騎兵は遊撃にのみ用いた様だ。義貞・顕家・正成らの力戦でこの日の戦いでは尊氏を撃退。正成は味方が京に留まる事で兵が富に心を奪われ軍のまとまりがなくなる事を恐れ、坂本に引揚げ休養する事を義貞に進言。義貞もそれを容れて撤収した。翌日、再入京した足利勢の目に映ったのは律僧数十人が戦場で遺骸を探す姿であった。彼等によると前日の激戦で新田・北畠・楠木の三人が討死し供養の為遺骸を捜しているとの事である。足利方は昨夜宮方が退いたのはその為かと三人の首を探し、義貞・正成の首と思われる物を獄門に掛けた。その晩、叡山から多くの松明が小原・鞍馬方面に降りて行くのを見て尊氏は将を討たれた敵が逃げると思い軍勢を遣って追撃させる。その為京は完全に手薄となり翌朝に宮方の奇襲を受け壊走。但しこれらは「太平記」にのみ見える話で、少々出来過ぎの感もあり恐らく虚構であろうが宮方の攻撃で程なく尊氏が京から逃れたのは事実である。足利軍は摂津へ逃れ、2月10日・11日には正成が西宮で攻撃をかけたが夜になると撤収。味方の到着を待ったのであろうか。次の時代が尊氏にあるのを感じて戦を避けたとの説もあるが翌日の豊島河原での合戦にも正成は参加している事が和田氏軍忠状から分っており考えにくい。尊氏はこれらの戦いにも敗れ筑紫へと逃れた。
(9)「青葉繁れる」
 尊氏が九州に向かうに当り宮方は速やかに追撃を行うべきであったが総帥義貞にその気配は見られない。降伏した武士の組入・軍再編成の為だったろうがこれが結果的に尊氏再挙の時間を与えた。尊氏は途中光厳院院宣を入手し西下。「梅松論」によるとこれを憂慮したのか正成は義貞を追放し尊氏と和睦する様進言、自らがその使者に赴くと申出たという。この前の戦いで京の多くの武士達が足利軍に身を投じたのを目にした正成は遠からぬ日の尊氏再上洛を予期したという。尊氏は先頃敗れたばかりで朝廷優位の妥協が為されるにはこれが最後の機会であったが、勝利に酔いまたこれまでの様に武士同士を争わせる事で権威を保とうとした天皇・公家はこれを容れなかった。実際是まで功の大きい義貞を明確な理由無く排斥するのは無理であったろう。義貞はやがて西に赴くが赤松円心の篭る白旗城で苦戦。その間に尊氏は多々良浜で菊池氏の大軍を破り大軍団を編成して西上。新田軍はこれを知り摂津兵庫に退く。これを聞き震撼した朝廷は正成に戦略を問うた。正成は、天皇が叡山に逃れ義貞に守護させて京に足利軍を導き、自分は河内で軍を整え淀川の輸送路を絶ち義貞と共に足利軍を挟撃するという案を述べた。この際、義貞も同じ考えであろうが一戦せずの撤収は面目なく兵庫に留まったのだろうと述べ、以前と違い義貞の体面に考慮したのは注目される。事ここに至っては義貞と一致協力するよりないと考えたのか。一旦はその案で決定する方向に衆議が傾いたが、坊門清忠が年に二度も天皇が都を明渡すのは体面に関わると反対、天皇・公家達もそれに結局同調した。正成はこの決定に逆らえず黙って退出したと「太平記」は伝える。しかし古態本は「この上は意義を申しますまい。さては私に討死せよとの命令でありましょう。」と正成が捨台詞を残したと言う。この方が正成の本音・気性をより表している様だ。皮肉混じり且つ悲痛な最後の諫言である。戦略的には、正成の作戦に従えば確実に優位に立てたであろうし他に手段はなかったとの指摘がある。大坂で新田軍と合流、足利軍を京へ誘導し京を義貞が包囲、正成は淀川の水上補給路を至る所で攻撃し輸送船を焼払う。ならば足利軍を兵糧攻に出来、足利軍が補給路確保に兵力を割けば今度は手薄になった京の本陣の奇襲が可能だ。失敗しても金剛山で山岳戦に持込めば奥州から再び駆付ける北畠軍と連絡して挟撃作戦を取れ、楠木勢の少なさを逆に利用し持久戦を有利に展開できる。もし尊氏が撤退すればそれは敗軍と地方の武士達には映り尊氏の威信は低下する。その為尊氏は退くに退けず落命したかも知れない。この作戦が否定された時点で宮方の勝利は不可能となった。もし千早へ帰り捲土重来を図れば朝廷も正成の進言を容れざるを得なくなったであろうか。しかし武士達にはこの戦いを尊氏と義貞の対立と見る者も多かった。義貞を見捨てるような行動を取ると彼等は正成が尊氏方に付いたと考えよう。宮方の打撃は決定的となる。考えれば元弘以来正成が後醍醐から受けてきた待遇は異例であった。それに応えず天皇を見捨てることは正成には出来なかったであろう。ならば命令に従う他はない。「太平記」によると正成は兵庫に赴く途中、摂津桜井駅で嫡子正行に遺言を与えた。その全文を採録する。正成是を最期の合戦と思ければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思う様有とて桜井の宿より河内へ帰し遣すとて、庭訓を残したりけるは、「獅子子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁よりこれを投ぐ。其の子獅子の機分あれば、教えざるに宙より跳ね返りて、死する事を得ずといへり。況や汝既に十歳に余りぬ。一言耳に留まらば、我が教誡に違うことなかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見む事、これを限りと思うなり。正成已に討ち死にすと聞きなば、天下は必ず将軍の代になりぬと心得べし。然りと雖も、一旦の身命を助からむために、多年の忠烈を失いて、降人に出る事あるべからず。一族若党の一人も死に残ってあらん程は、金剛山の辺に引き籠って、敵来たらば命を養由が矢さきに掛けて、義を紀信が忠に比すべし。これぞ汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣々申含めて各々東西に別にけり。これが史実かどうか、古来論争があった。このエピソードは「太平記」にしかない。更にこの四年後の延元五年に正行は左衛門尉と為っている事が建水分神社扁額から判明、延元元年で既に正行は成人していたのでないかと見られる。その為この話は後世の作為であろうと言う説が有力である。但し15歳で一族の長として父の官職を継ぐのは別に不思議でなく、11歳と言う年齢は不自然とは言えない。この話は作為であるにしても当時の正成の心境を遺憾なく伝え、後の楠木氏の行動を良く示しているので国民的伝承としての価値を失う物でないとの意見がある。同感である。この話が作為か否かは大して問題でない。無論そのまま史実と受取る事は出来ぬが殊更に虚偽とする必要はあるまい。この件は古来名場面として伝えられ、「青葉繁れる桜井の」という唱歌が戦前には歌われる程であった。その終章に「空に聞こゆる時鳥誰か哀れと聞かざらん」という一説があり、また正行の戦死を悼んだ唱歌「四条畷」にも「今も雲居に声するは四条畷のほととぎす」とある。不如帰は現世と来世を行来する鳥と伝えられる。時を超えこの父子の悲運を哀悼しているのであろうか。また「梅松論」によるとこの頃京に「今度は君の御軍必破るべし。人の心を以其事を計るに、去元弘の初潜に勅命を受て、俄に金剛山の城に篭りし時、私の計ひにもてなして、国中を憑みて其功をなしたりき。爰に知りぬ、皆心さしを君に通じ奉りしゆへなりと。今度は正成和泉・河内両国の守護として、勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族猶以難渋の色有。如何に况や国人士民に於てをや。是則天下君に背き奉ること明らけし。然間正成存命無益なり。最前に命を落すべきよし申切たり。」と申送っている。「太平記」「梅松論」共に正成がこの時討死の覚悟を固めたと主張しているのは重要である。朝廷に既に絶望し己の人生に整理を付けようとしそれでも人生を賭けた夢、そして後醍醐との絆を捨てきれず息子に一縷の希望を託さずにいられなかったのか。ともあれ正行を帰郷させた正成は兵庫に到着し義貞と合流。「太平記」によれば合戦前夜、正成は義貞と会見した。義貞はこれ迄の失敗を恥じ明日は勝敗に関らず忠義の為命を賭けると述懐。正成は尊氏を追落とした功績を称え、周囲の声に気を取られず戦うべき時は戦い退くべき時は退いて身を大切にするのが良将であると述べた。事実とすれば互いに忌憚なく腹の内を見せたと言える。決戦の時は迫っていた。
(10)「七生マデ只同ジ人間ニ」
 5月25日の朝6時、細川定禅の四国水軍五百艘が湊川と兵庫島を左に見て神戸方面へ進撃。錦の旗・天照大神八幡大菩薩の旗を掲げた尊氏の御座船・数千艘の軍船が続く。水軍で二,三万に及んだと言う。陸上では中央から直義・高師泰が率いる播磨・美作・備前の兵、山手から斯波高経の安芸・周防・長門の兵、浜手から少弐頼尚率いる筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の兵が進軍。陸軍は二万ほどと考えられる(「太平記」は例によって50万騎と誇張)。一方、朝廷側は経ヶ島に脇屋義助五千騎、灯篭堂南の浜に大館氏明三千騎、和田岬に新田義貞二万五千騎と「太平記」は記す。尤も「梅松論」によると新田軍は総勢一万前後であったという。さて正成は弟正季と共に700騎(歩兵も考えると二千程か)で会下山一帯から夢野付近に布陣し直義軍に当たる。この辺りは狭く川の多い所で大軍の移動に適さなかった為、そこに最後の望みを見出そうとしたのであろう。足利の水軍・陸軍が接近、山手軍は古道越を取り鹿松峠から大日峠を超え、正成の右側面をつこうとした。大手軍・山手軍が一の谷を越えたのは九時頃。大手軍は上野山から会下山に通じる道を進み正成の正面に対峙。一方浜手軍は水軍と連絡しながら海岸沿いに進み駒ヶ林の北から新田軍の側面へ。新田軍の本間重氏が鶚を足利の船に射落とし、更に射手を知ろうとした足利軍に自分の名を刻んだ矢を射た。足利方の返し矢が陸に届かず敵味方の嘲笑を浴びた為、憤慨した細川勢200人が経ヶ島から強行上陸して殲滅された。こうして戦端が開かれた。十時に尊氏の御座船から戦鼓が鳴り響き、水軍・陸軍もそれに合わせ鬨を上げる。細川の水軍は紺辺から上陸、新田の後方撹乱を図った。既に少弐勢との戦いで浮足立つ新田勢は退路を絶たれるのを恐れ陣を引払った。そして細川勢と戦闘を開始したが、退路を切開くのに精一杯となり結果的にその行動は戦線離脱となる。新田軍と楠木軍との連絡が取れず、正成は湊川に孤立。一説には義貞は正成を見下してこの際も見捨てて退いたと言われるが元弘以来正成が廷臣の信任を一身に受けてきた事を考えるとこれは穿ち過ぎであろう。正成は正季と共に正面の直義軍に700騎で攻込む。直義軍は菊水旗を見て勇躍し取囲もうとしたが正成らは東西南北と駆巡り、正成と正季が七回出合って無事を確かめ合い七回別れて敵陣に突入するという奮戦を見せたので、直義軍は押されて上野のほうへ引返した。この時直義の馬が足を引きずり今にも楠木勢に討取られる所だったが薬師寺十郎次郎が防ぐ間にやっと逃延びたとさえ言われる。これを見た尊氏が吉良・石堂・高・上杉の軍勢六千騎に正成らの背後を囲ませたので、正成・正季はこの軍勢に今度は攻掛かり六時間に16度も戦った。その為正成の手勢も73騎にまで討減らされる。この時点でも逃れる事は不可能でなかったというが正成は既に生延びる気はなく、湊川の北の民家に入る。正成はこの時切傷を11ヶ所受けており、他の者も無傷の者はなかった。楠木一族13人・家来50余人は客殿に二列に並び、念仏十遍を唱えて腹を切った。この時正成が正季に向かい「最期の一念によって来世の転生の善悪が決まると聞く。この世にあってのお前の願いは何か。」と問うた所、正季は「七度生まれ変わっても同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼしたいと思います。」と答えた。そこで正成は「罪深い悪い思いであるが、自分も同じ思いだ。では同じ様に生まれ変わりこの本望を達しよう。」と約束して兄弟で刺違え、同様に枕を並べて果てた。この逸話が忠義云々より寧ろ一度は天下を動かした人生に悔いなしと言う叫びに思えるのは私のみであろうか。菊池武朝は兄武重の命で合戦の様子を見に来て、偶々正成の自害に行会いこれを見ておめおめ帰れないと自刃。日の傾きかけた午後五時頃であった。正成の首は高師業(高師泰とも)の配下が取り尊氏が魚御堂で実験。尊氏は五十町の田を正成の供養の為に魚御堂に寄進した。また彼の首は六条河原に晒されるが(以前偽首が晒された関係で疑ひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚という落首が立つ)、やがて尊氏の計らいで河内の妻子の許に帰された。尊氏の正成への思いが読取れる。足利方史料「梅松論」も正成を「まことに賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべしとて、敵も御方もおしまぬ人ぞなかりける」と称揚する。「公論は敵讐より出づるに如かず」という語があるが、正成にとり真の知己は後醍醐や義貞より寧ろ敵の尊氏であった。
(11)その後
 その日、京では臨時の除目が行われ洞院実世が尾張守、堀河光継が権中納言に任官された。真に呑気な話と言うべきで、朝廷が敗戦など思っても見なかった証拠である。その中での正成討死・義貞潰走という知らせであったので京は混乱。後醍醐はすぐ叡山に逃れ義貞を大将にし入京した足利軍と対抗。正成が出陣前に具申した作戦そのままであるが、彼亡き今となっては後の祭で肝心の敵の補給路を脅かす者がおらず絶望的な戦いであった。後醍醐は結局尊氏の和睦の申出を受入れ下山、光明天皇に神器を渡し花山院に入る。しかしすぐ脱出し吉野で自らの皇位の正統性を再び宣したのは周知の通り。後醍醐は京から河内を経て吉野へ入り再び楠木氏によって守られる形となって後、観心寺を勅願寺とし金剛寺に御祈祷料を与え建水分神社に正一位を贈るなど正成に縁深い寺社を手厚く遇している。かつて正成に守られた事が再び思出され今もその一族に守られている事が身に染みて、改めて彼の先見・忠誠を慕う心が募ったのか。正成が正三位近衛中将を追贈されたという説があるが事実ならこの頃ではなかろうか。建水分神社にある後醍醐が手ずから彫ったと伝えられる正成木像は、同じく宸作という後醍醐像と類似する。後醍醐は正成と自分との一体感を感じそれを表したのかもしれない。さて「太平記」は正成が足利方の武士に怨霊として現れたと述べる。伊予国の大森彦七盛長は湊川で細川勢に従い正成を取囲み自刃に追込んだ者であるが、北朝暦応五年に猿楽に行こうと細道を通ると17,8程の美しい女房が道に迷ったと言うので案内し背負いながら進むが俄かにその女が八尺程の鬼となり熊の様な手で彦七の髪を掴み投出そうとした。彦七はむんずと取組んで大声を上げた為供の者が駆付け、鬼は消える。後に日を改め猿楽を催した所、演じる半ばで奇怪なものが現れた。美しい輿が連なり、恐ろしい形相の鬼・百騎程の兵がそれを固める。「大森彦七殿に申上げる事があり楠木正成参上。」という声が響くので彦七は「人は死んで再び生返るという事はない。怨霊となったのだろうが楠木殿は何用でこの彦七を呼ばれたか。」と尋ねた所、「私は天下を覆そうと思ったがそれには貪欲・憤怒・愚痴を表す三剣が必要だ。一つは日吉山王大宮社にあったが妙法と引き換えに手に入れ、もう一つは尊氏の手元に有ったが寵童に化けて頂戴した。残り一つを貴殿が今持っている。それを手に入れれば尊氏の世を奪う事も出来る。至急献上せよとの先帝の命により罷越した。」との答えがあり雷鳴が轟く。彦七は動じず、自分は将軍の忠臣として知られ今栄えているのも将軍の恩恵でありその様な企てに刀を献上する訳にいかぬと答えたので怨霊は姿を消した。数日後再び怨霊が現れたので彦七が問答した所、正成は後醍醐・護良・義貞・忠正・義経・教経と共に現れ、自身は最期の一念の罪深さ故に鬼と為って千頭を持つ七頭の牛に乗り後醍醐は大自在天の化身で今は欲界第六天におり他の者達は修羅王の部下となっているという。姿を現した彼等は合戦と同じ姿で、更に保元平治以来討死した有名な者が皆群がっていた。しかし彦七は動揺せず「たとえ掌を返す様な綸旨を頂いても無意味だ。刀は将軍に進上する。」と答えた所、正成らは嘲笑い飛去る。以来彦七は休む間なく山を走り水中に潜り太刀を抜き矢を放つ様になったので、一族の者が彼を押込め警護した。すると巨大な腕・大きな蜘蛛・巨大な女の首が現れる怪奇が相継ぎ、魔除を行っても効果はない。禅僧の入智恵で大般若経を六回唱えさせた所正成の怨霊は現れなくなり例の刀は直義の宝刀となった。この話が作られたのは道理で説明できぬ世の乱れを怨霊で説明しようとしたとも大般若経で「悪念」を抱いて死んだ正成を貪欲・憤怒・愚痴から救うためとも考えられる。また正成の生涯を貫く凄まじいエネルギーを感じた為でもあろう。ところでその後、正成の子正行は幕府軍としばしば戦いこれを破り四条畷で高師直と戦い討死。その弟正儀も南朝の為に長年戦い何度か京にも攻入る。北朝方との和睦に力を注ぐが強硬派の反対で白紙とされ絶望し一時幕府方に移った。現状認識のない公家に父や兄を死に追遣られた彼は遂に我慢ならなかったのか。しかしその子孫達も南朝・後南朝の為に戦い命を落とし歴史から姿を消す。正成の桜井での言葉通り後醍醐の子孫に全て捧切った一族であった。
(12)ちょっと考えた事
 では正成は日本人にとって何なのか考えたい。元禄には徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑を建て明治には湊川神社が建てられ正成が神として祭られる。それら尊王派・国家の崇敬は容易に理解できる。しかし戦後に皇国史観から解放され南北朝時代がマイナーとなった今日も歴史人物の人気では正成は上位の常連だ。その根底にあるのは何であろう。勿論「太平記」が正成を最初に英雄と称えたからである。しかし他にも或る人物の活躍が異様に強調されている。児島高徳である。この実際には大局に何ら影響を与えぬ人物の幾度もの登場は重要であろう。この二人の共通点は社会の下層に近い出自で活躍した事である。「太平記」の作者小島法師は「卑賤の器」と言うがその芸能性から考え散所出身であろう。二人は彼等にとり身近な英雄であった。ところで日本民衆の英雄の三条件として超人性・謎の多さ・悲劇的最期が挙げられる。正成は全て満たしており、江戸時代に寡兵で大軍を翻弄した不世出の軍師・悲劇の智将と民衆に持囃されるのは自然の成行である。また江戸の武士達の目には「あらゆる手段を尽くし君の非を正」し「容れられざる時は主君をして欲するがままに我を処置」する忠義の権化と(実際どうだったかは兎も角)映ったであろう。「英雄」正成は民衆・武士それぞれの夢・理想の所産であった。いずれにせよ強きに屈せず変節しなかったことが魅力の最大の源泉であろう。近代においては理想的忠臣の雛型として遇せられたが、彼の凄まじいエネルギーはイデオロギーでは説明できまい。「見事に死んだ」というより「最期まで生き切った」という観もある。戦後、歴史学者の手によりその実像解明が進展。しかし義経・幸村らとその扱いを比べた時、正成の本来帰するべき所は学者以外に有ったのではないか、とも思う。。


参考文献
楠木正成 植村清二 中公文庫  新潮日本古典集成太平記 新潮社  南北朝 林屋辰三郎 朝日文庫
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社 太平記の群像 森茂暁 角川選書 日本架空伝承人名事典 平凡社
太平記 山崎正和訳 河出書房新社      南北朝の虚像と実像 岡部周三 雄山閣
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店    漫画人物日本の歴史9源義経 小学館
古文書の語る日本史3鎌倉 安田元久編 筑摩書房   図説太平記の時代 佐藤和彦 河出書房新社  
「太平記」の世界 佐藤和彦 新人物往来社       日本の歴史南北朝動乱 伊藤喜良 集英社
史料大系日本の歴史第三巻中世U 大阪書籍          鎌倉・室町人名事典 新人物往来社
史談の広場4決戦の時来たる 遠藤周作・尾崎香樹 富士見書房    日本史大事典2 吉川弘文館
日本史小百科(24城郭 西ヶ谷恭弘、27武将 小和田哲夫、18戦乱 安田亮) 近藤出版社
日本の歴史11南北朝動乱 佐藤和彦 小学館   大阪府の歴史 藤本篤 山川出版社
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社     日本の合戦こうすれば勝てた 柘植久慶 中公文庫
武士道 新渡戸稲造著 矢内原忠雄訳 岩波文庫  史談太平記の超人たち 上田滋 中央公論社
(他にも色々あったのだが政治思想的に余りに偏っている事が多く史料として用いるに至らなかった。)

(14)附録
楠木氏先祖系図その1
橘諸兄 奈良麿 島田麿 真材 峯範 広相 公材 好古 為政 行資 成経 兼遠 盛仲 正遠 正成
楠木氏先祖系図その2
橘諸兄 諸方 正方 正桓 経基 清支 清康 成行 経氏 遠保 氏方 諸高 安基 兼行 義範 
 満影 親延 成綱 成康 成氏 正俊 正康 正成


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