2000年12月15日
梁朝春秋〜南朝の極盛、そして破滅〜  下田


<武帝の治世前半〜南朝の極盛〜>
 鐘離の戦いで北魏軍を撃破し、建国当初の未曾有の大危機を乗り切った後、武帝蕭衍の治世は平和と繁栄、文化的発展のうちに過ぎてゆく。門閥を背景としない二流貴族出身の沈約、范雲らの文人、知識人をブレーンとし、大貴族にも配慮しつつ寒門出身者にも官僚となるチャンスを与えるなどの官制改革を行った。また、国立大学を整備し、官吏登用のための国家試験を行うなどの教育制度の整備は後の科挙の先駆として歴史的にも重要な意義を持つ。こうした政治方針の根底にあるものは門閥主義を打破して、文化的、教養的な能力を第一とする賢才主義といってもよいであろう。武帝の時代はいままでの南朝における政権内での血で血を洗う抗争は影をひそめ、武帝自身の文化人としての高い教養と穏やかな性格とあいまって、南朝史上最大の繁栄をもたらしたといえよう。もちろん、官制、教育の整備だけではない。海外貿易を盛んにする一方で物価を安定させ、過酷な刑罰を廃止し、文化、芸術を積極的に保護し、昭明太子蕭統による『文選』など輝かしい成果を生んだことは有名であろう。天監十一(512)年には梁の首都である建康は南北四十里、二十八万戸を擁する大都市となっている。
<対北魏戦線>
 文治主義をとった武帝であったが、決して武力を軽視していたわけではなかった。即位間もない武帝の念願はあくまでも「華北を回復すること」にあった。鐘離の戦いよりも前に、武帝は弟の臨川王蕭宏を総大将とし、韋叡が戦略上の拠点である合肥を攻撃している間に洛陽を長躯、強睾するという作戦を立案し、実行に移している。果たして北魏の武の中枢である中山王元英、楊大眼などは梁軍の陽動で東部戦線に出払っていた。しかし、臨川王の惰弱さが災いし、洛陽を強襲せずに徒に時間を浪費している間に危機を察知した中山王が戻ってくると臨川王はあろうことか軍を見捨てて撤退、残された梁軍は中山王の軍勢に攻撃されなすすべもなく大敗した。この大敗北が鐘離の戦いの引き金となった。鐘離の戦いに関しては前回のレジュメを参考にしていただきたい。鐘離の戦いは逆に梁の圧勝で幕を閉じた。北魏では鐘離の戦いの後、中山王は敗戦の責任から王位を返上、楊大眼は一兵士に降格、また斉の第六代皇帝の東昏侯蕭宝巻の弟で軍事的才能にめぐまれ、亡命者ながら北魏の将軍として活躍した開国公蕭宝寅も爵位をとりあげられた。北魂にとって彼らの名声と実力はやはり必要であったのだ。皇族の一人、京兆王が叛いたとき元英は復帰し、見事に撃破、その後は対梁戦線にも復帰し武陽城などを陥落させるといった武功をあらわすものの、鐘離の戦いからわずか三年後の永平三(510)年死去。楊大眼は一兵士におとされ北方の辺境守備隊にまわされたのだが、柔然の軍勢相手に大暴れし、すぐに将軍に復帰している。その後は梁や北方民族との戦いに明け暮れた。神亀元(518)年に死去している。このように相次いで武の中枢を失ったことと、宣武帝の死後の政局の混乱から北魏はその支配力を急速に弱めていく。
<陳慶之〜将略有り、戦えば勝ち、攻めれば取る〜>
 先に述べた亡命の貴公子、蕭宝寅は罪を赦され魏の皇女南陽公主と結婚し、地位を回復。その後も武功を重ねついには斉王に封じられ、魏の皇族となっていた。梁に対する軍事的功績だけでなく徐州刺史となったときには公明正大な政を行い、部下からも民衆からも慕われていた。もしも兄の宝巻でなく、彼が斉の皇帝として江南に君臨していたら斉は滅亡を免れえたかもしれない。やがて北魏では、皇族間での帝位をめぐっての内訌が始まりその支配力を低下させると、各地で叛乱が生じ、賊軍が横行することとなった。長安が賊軍に占拠されると、蕭宝寅は軍を率いて長安を奪回する。ここで、蕭宝寅は北魏に反旗を翻す。帝を称し斉を建国したのである。もはや北魏には南征を行う力がないことをみてとり、自分で華北を平定し、兄の仇を討とうとしたのかもしれない。結局は北魏の大軍に攻め立てられ、永安三(530)年に処刑されてしまうのだが。
 このような混乱の中、北魏の皇族の一人北海王・元が梁へと亡命してきたのである。すでに帝都である洛陽には重臣の爾朱栄が侵入し、権勢を握っていた胡太后と彼女に擁立された幼帝を殺したあと廷臣千三百人を虐殺するなど混乱が生じたため、北海王は難を逃れてきたのである。大通年間(527〜529)のことであり、鐘離の戦いでともに戦った韋叡、曹景宗、昌義之などの名将、勇将はこの世にない。それでも武帝には、まだ、陳慶之がいた。武帝は北海王を援助することを決める。陳慶之に七千の兵を与え、北海王を洛陽まで護衝せよ、との命令を与えた。つまり、たった七千で洛陽を陥落させろ、ということなのである。これは無謀としかいいようがないであろう。建国当初は洛陽を攻める際、弟の臨川王に与えた兵士は一説に三十万。もはや、武帝には、本気で華北を攻め取る気はさらさらなかったのではないか。しかし、陳慶之はこの命令に従い、北海王を奉じ洛陽へと進撃する。この一連の進撃は陳慶之の名をとどろかせることになる。魏軍ではまず七万をもって睢陽で陳慶之を迎え撃った。ただ一日で10倍の兵力差をもっていたはずの魏軍は敗北、続いて四方を川と濠に囲まれた考城を二万の兵士で守っていたが、これもただ一日で落城した。榮陽では十五万の兵をもってあたるが、ここでは二十日間耐えるも、二万の死体を残して敗走し直後に到着した二万の援軍も、ただの一戦で潰滅した。洛陽への最後の要害、虎牢閑はただの三日間で陥落した。ここに至って洛陽の魏の朝廷は完全に戦意を失い、皇帝も、爾朱栄も洛陽を捨て、遁走するありさまであった。
 こうして陳慶之はわずか七千の兵力で洛陽を陥落せしめたのである。進撃を開始して百四十日、激戦すること四十七回、抜いた城は三十二。『梁書』は記す。「将略有り、戦えば勝ち、攻めれば取る」と。しかし、洛陽を占拠したとはいってもわずかに兵力は七千。魏軍と激戦を繰り返しながらも、陳慶之軍はほとんど無傷であったと言われる。このままではやがて態勢を立て直した魏軍が洛陽になだれ込むのは時間の問題であった。しかし、即位した北海王は無能な人物であり、建康に援軍を求めるよう陳慶之が進言しても無視するありさまであった。この王朝の基盤は陳慶之の七千の軍勢のみといった状態を北海王はまったく理解せず酒色にふけるありさまであった。結果、爾朱栄の大軍が洛陽にせまった。北海王は慌てて軍勢をかき集めたが、もともと遊牧民族の首長であった爾朱栄とその精鋭に、寄せ集めの軍勢では勝てるはずがない。北海王は行方不明となった。おそらく殺されたのであろう。陳慶之は北海王に殉じる気などさらさらなかった。建康への撤退を開始する。結局洛陽を占拠したのはわずか二ヶ月であった。一般的に撤退は進撃よりも難しい。しかも今回の追撃者は爾朱栄の三十万。陳慶之の軍勢が建康に戻るのはもはや絶望的であったといえよう。しかし、その追撃軍を陳慶之は十一度にわたって撃破し、建康へと帰還を果たしたのだった。
 その後も陳慶之は対魏最前線で戦いつづける。後に天下を大混乱に陥れる猛将、侯景率いる七万の軍勢が梁に侵入したときも、陳慶之は一万の兵士で完膚なきまでに叩きのめした。そして大同五(539)年、鐘離の戦いから三十二年の後、死去した。
<武帝治世後半〜皇帝大菩薩〜>
 さて、その治世は約50年に及んだ武帝であったが、その後半は明らかに均衡を崩していた。年をとって政治に倦んでしまったのだろうか、昭明太子が若くして死んだことも原因だったのか。彼は仏教に深い関心を示していたのだが、それは関心から惑溺へとかわっていった。自らを「三宝の奴」と称し、捨身も四度に及んだ。捨身をするたびに廷臣はその都度巨額の銭を寺院に支払わなければならなかった。
 武帝はますます慈悲の政治を行ったが、それは先に述べた「刑罰を軽くする」といったこととは全くの別物で、甘やかすという域に達していたといってもよい。臨川王蕭宏は洛陽強襲の総司令官となったが、いざ洛陽に迫ると兵を動かさず、挙句の果てに中山王が迫ると自分だけ逃げ帰ったことは先に述べた。この男は、あろうことか兄を殺して帝位につこうともたくらんだし、貪欲を極め賄賂や高利貸しで多くの富を独占した。それでも武帝は赦したのである。
 また、治世前期こそ沈約、范雲といった有能な配下に恵まれたが、後半において武帝の信を得たのは奸臣、朱异であった。平家物語の冒頭近くにその名をとどめる。「遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諌をも思ひ入れず、天下の乱れん事をも悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者どもなり」朱异を過大評価しているような気がしないでもないが、結果論からするとどれも同じことになった。とにかく、武帝の治世にほころびが出始めていた。
<建康陥落>
 北魏で権勢を握っていた爾朱栄も暗殺され、度重なる内訌の末、ついに東西分裂に至った。高歓が擁立した孝静帝の「東魏」と宇文泰の擁立した孝武帝の「西魏」である。侯景は東魏の将であった。陳慶之に敗れたとはいえ、軍事的才能に恵まれており各地で勇戦し、その功で河南大行台となり、十万の兵力を有し河南十三州を治める司令官となった。高歓の死後、その息子の高澄と侯景の対立が表面化する。このままでは河南十三州を失うことにもなりかねない。太清元(547)年、侯景は梁に寝返ることを画策した。梁では彼の帰順を認めるかどうかでもめた。北魏からの亡命者でありながらその武威が認められ梁軍の重鎮となっていた羊侃は北朝の権力闘争を見てきただけに好んで巻き込まれるのもどうか、と反対意見を述べたが武帝の信厚い朱异が武帝を熱っぽく説得し、結局侯景の帰順が受け入れられることとなったのである。これが南朝史上最高の名君とされる武帝の致命的な失敗となった。武帝は侯景を河南王に封じ、更に甥の蕭淵明を救援に差し向けた。侯景は高澄を若輩のものと軽視していたようだが、見事に惨敗。河南十三州、十万の兵力をことごとく失い、蕭淵明は捕虜になるというありさまであった。侯景が命からがら寿春にたどり着いたころにはわずかに八百騎というありさまであった。
 この大敗で朱异は態度を百八十度転換した。侯景は河南十三州をもたらす金の卵であったのだが、もはや、東魏に侵略の口実をあたえる何の価値もない亡命者であった。おりしも、東魏から国交正常化を求める使者が建康へとやってきた。その中には捕虜となっている蕭淵明の帰還も認めるという条件も入っていた。それを聞いた侯景は心中穏やかではなかったろう。蕭淵明の帰還を認めるということは自分が交換条件として東魏へと行かなければならないであろう。それは死を意味する。高澄は文武ともに優れていたが、致命的な欠航があった。酒乱である。酒を飲むと残虐となり、人前で皇帝を殴り倒すなど常軌を逸した行動をとる。侯景の妻子を捕らえたとき巨大な鉄の鍋に油を満たしてそれを熱し煮殺した。(『南史』)侯景がいま交換条件として東魏に送り返されてしまえば、どのような最期が待っているかわかったものではない。侯景の参謀である王偉は「このままではあなたは死ぬ。どうせなら梁を奪ってしまっては?」と進言した。しかしながら侯景の手勢はせいぜい千人ほどであった。それでも侯景は自分の軍事的才能に自信をもっていたし、先の蕭淵明との共闘で梁軍が弱体化していることを見抜いていた。そしてついに太清二(548)年寿春において叛旗を翻す。この時羊侃はすかさず撃破することを進言するも「敵はまだ都城に迫っているわけではない」という意味不明の理由で朱?に却下されてしまう。この間に侯景は貴族、寺院領に攻撃を加え奴隷を解放し軍に加え、また略奪も許したことから食っていくのに困った流民をも加え、その軍勢は十万を数えるほどになったという。また一時武帝の養子となっていた臨賀王蕭正徳(悪名高い臨川王の息子)も侯景に唆され反乱軍に同調し、帝都、建康は包囲をうけた。羊侃を主将とし建康軍はよく耐えたが、この年の十二月、羊侃が戦死すると士気は低下、翌年三月、五ヶ月にわたって侯景の攻勢を跳ね返してきた建康はついに落城した。この事態を招いたともいえる朱异は落城に先立ち病死している。
 この間各地の梁の皇族、武将は何をしていたのか?建康軍が最も待ち望んだのは彼らが援軍として馳せ参じることであった。援軍は来たのだが、きちんとした統率が取れていたわけではなく、そこを百戦練磨の侯景につかれ、あえなく敗退している。この当時、大きな勢力を持っていたのは武帝の第七子で荊州刺史で江陵にいた湘東王蕭繹と第八子で益州刺史で成都にいた武陵王蕭紀である。蕭繹は苛烈な人物としてしられた隻眼の皇子であった。侯景によって建康が包囲された際、準備も整わないうちに出陣しようとした。これを諌めた王僧弁の喉元に剣を突きつけ、あわや斬り殺す寸前までいった。結局このときは思いとどまっているのだが。彼は蕭紀に父を救うために共闘を呼びかけたのだが、彼ら兄弟は仲が悪かったこともあり、蕭紀はこれを黙殺。それですめばよかったのだが、蕭紀はこの混乱に乗じて蕭繹をうつべく挙兵したのである。皇族同士の内訌が再び起こったのである。侯景はこのような梁の軍勢の足並みが揃わないのを尻目に建康の陥落に成功する。
<宇宙大将軍>
 建康を掌握した侯景は武帝と対面した。時に武帝は八十六歳。病床にあったとはいえ、その威厳は侯景を圧倒したといわれる。しかし、彼らの談話は梁朝の滅亡を象徴するものであった。
武帝「卿が初めて長江をわたったとき、人数はいかほどであった?」
侯景「千人ほどでござる」
武帝「ではわが都城を囲みしときは?」
侯景「十万でござる」
武帝「では、いまは?」
侯景「ただいま天下はことごとく臣のものでござる」
 武帝もこれには絶句せざるを得なかった。こののち、武帝は食事もろくに与えない劣悪な環境下での幽閉を強いられ、まもなく死した。侯景は臨賀王を皇帝にするつもりはなかった。皇族でありながら簡単に寝返ったり、以前にも武帝の御世に一度北朝へと亡命し、わずか一年で帰国するという信用できぬ男であった。武帝の三男である皇太子蕭綱が簡文帝として即位し、異を唱えた臨賀王は侯景に殺された。簡文帝は父や兄の昭明太子に劣らず優れた文人であったが、もはや侯景の傀儡でしかなかのた。侯景はなんと「宇宙大将軍」を名乗った。わかっているとは思うが、彼の支配領域は建康周辺にとどまる。たいそうな名前である。
 その二年後、その名称すら物足りなかったのか、ついに彼は簡文帝をも弑したのである。自ら即位し、国号を「漢」とした。侯景は政治家としての資質はゼロ、いや、それどころかマイナスであったというべきか。とにかく良い政治をしようとする気がないから人心を得ようとも思わない。自分が将軍であったころとおなじように兵士には略奪を奨励した。『梁書』によれば、「侯景の軍は民衆を毒害することやまなかった」そうである。
 至るところで勤皇の軍が起こった。誰の目にも、侯景の衰亡は明らかであった。侯景はその都度軍を動かし、彼らを破っては残虐な方法で殺していったが、それでも反乱はおさまらない。その中で、湘東王蕭繹のもとに反侯景勢力が結集していった。その中でも王僧弁と陳覇先の活躍はめざましく各地で侯景軍をやぶった。この時点で侯景の心身は荒廃していたであろう。侯景は怒り狂い、王僧弁の父、王神念の基を暴き棺を叩き壊し遺体を焼いたのだ。憤激した王僧弁は侯景の居る石頭城を攻め立てた。侯景は自らの蛮行を自らの血肉を持って償うこととなった。主将の怒気そのままに、王僧弁の軍は士気も絶頂にあった。侯景軍は大敗した。侯景は城中の兵を見限り遁走した。参謀の王偉は必死で主君を引きとめたがそれもかなわず、かれもまた兵を見捨て「鼠逸」(『梁書』に見られる表現。ねずみのようにこそこそ逃げ出す、の意)した。この後侯景は逃亡中に羊侃の子である羊鯤に殺害された。「ただいま天下はことごとく臣のものでござる」と豪語してわずか三年後であった。
<元帝即位>
 南朝では、このような混乱が起こっていたのに、北朝は動かなかったのか?少なくとも東魏はうごけなかった。高澄が暗殺されたのである。弟の高洋が後を継いだが各地で内紛が生じ、梁に侵入する余裕などはなかったのだ。高洋はこんななか確実に勢力を伸ばしついに東魏の孝静帝に禅譲を迫り北斉を建国した。
 さて、侯景の乱を平定した湘東王のもとに侯景の参謀であった王偉が捕らえられて来た。王偉は自分の文才に絶対の自信をもち、父や兄と同じく当代第一級の文人である湘東王ならば私が必要なはずだと思っていたし、湘東王も王偉の文才を惜しみ、助けようとしたが、配下のものからある事を聞かされた。侯景のために書いた檄文に次の一節が含まれていた。
項羽重瞳尚有烏江之敗 湘東一目寧為赤縣所帰
湘東王は激怒し、王偉は舌を抜かれ首を刎ねられた。もともと武帝と簡文帝を死に至らしめた男。当然の帰結といえる。そして蕭繹は江陵にて即位し、元帝とよばれることになった。承聖元(552)年のことであった。しかし、侯景の乱を鎮めたとはいえ弟の武陵王蕭紀、また甥の蕭譽も叛旗を翻しており、予断を許さぬ状況であった。
<亡国の策>
 元帝は蕭紀を討つため、あろうことか西魏に益州攻めを依頼したのである。もはや壮大な兄弟喧嘩としかいいようがない。こうして、蕭紀を滅ぼすことに成功するのだが、西魏はもちろんこのまま江南へと侵攻を開殆する。元帝はこれに対する備えを欠き、王僧弁、陳覇先らの援軍も間に合わず、ついに承聖三(564)年、江陵は炎上、陥落した。
 <梁朝その後>
 王僧弁、陳覇先の間に内訌が生じ、陳覇先が王僧弁を撃破し、敬帝に禅譲を迫り、陳を建国した。が、その版図は南朝では最も狭かった。梁はまだ滅んでいなかった。元帝の甥である蕭詧が即位し梁を再興する(宣帝)。これは歴史的には後梁と呼ばれるが、事実上西魏そして北周、隋の属国であった。もはや中国の統一はすぐそこにまで迫っていた。
<感想>
 遅れてスミマセン…。しょぼくてスミマセン…。実験終わったのが遅くて、その時点でまだ完成してませんでして…。


<参考書籍>
中国の歴史(三)(陳舜臣著 講談社)
中国武将列伝(上)(田中芳樹著 中公新書)
侯景の乱始末記(吉川忠夫著 中公新書)
東洋史概説(愛宕元著 学術図書出版社)


2000年度発表一覧へ

inserted by FC2 system