2001年4月20日
トロツキーと赤軍  S.Y.


     はじめに
このレポートではロシア赤軍の1917年から25年にかけての部隊編成上の問題を、トロツキーの主張を中心に検討していく。この時期とは赤軍誕生から内戦期を経て、動員の解除に至る動きであった。このレポートでは赤軍の軍事戦略については検討をしない。

     赤軍建設まで
1918年1月28日(新暦)に「労働者・農民赤軍(RKKA)の組織に関する布告」をレーニンは出した。この軍隊は(1)ロシア革命で樹立されたソヴィエト権力を守り、(2)「常備軍を全人民の武装に変える」第一段階となり、(3)将来のヨーロッパ革命を支援する、ことを目的に組織された。志願制をとり、志願資格はソヴィエトへの忠誠と勤労者・非抑圧階級出身者であることだった(*1)。
10月革命の段階で決定的な役割を果たした兵士には2種類あった。それは革命側についた水兵・守備隊と赤衛隊であった。常備軍・警察を廃して、人民が武装するというマルクスの考えを継承したレーニンにとっては、2月革命以後に労働者や市民が武装した軍隊である赤衛隊こそ理想の軍隊であった。彼らは士気も高く優秀であったが(*2)、数が足りない上に地区単位で編成されていたため、独立心が強く中央への抗命が多かった(*3)。
もう一つの兵士、動員され800万人に拡大していた常備軍はこの頃解体のペースをあげていた。そもそも革命を兵士が支持した理由の一つが厭戦気分であり、2月革命以降は兵士の脱走や士官を兵士が解任したりする現象が頻発していた。10月革命に出されたレーニンの『土地に関する布告』『平和に関する布告』がこの流れを決定付けた(*4)。当初レーニン等はすぐに交戦国と「民族自決に基づく無併合・無賠償」の講和条約が締結できると考えたため、こうした事態を重くとらなかった。12月からドイツとだけの休戦交渉しか入れず、ドイツの欲求は到底飲めないものであった。レーニン等は交渉を伸ばすことでドイツや他の交戦諸国の革命を待つ戦術を取ったため、ロシア軍の解体は放置されたままであった(*5)。中央の軍事人民委員部は旧軍隊の兵士をとどめることは無理と判断、志願制の新しい軍隊でドイツとの講和まで前線を維持することを決め、冒頭のレーニンの布告発布となった。
しかしこの志願制の軍隊の規模は微々たるもので(*6)、休戦交渉決裂の結果ドイツ軍が2月18日から進撃すると、ソヴィエト側の戦線は瞬く間に崩壊し、ウクライナ・白ロシアの地域を占領された。レーニンが主張する「革命の息継ぎ」のための講和が中央でまとまった頃、ドイツ軍に占領された地域では自然発生的なパルチザンが誕生し、新しい赤軍への志願者が急増していた(*7)。

     内戦期の赤軍の問題
多くの領土を手放して得たドイツとの平和は、国内におけるソヴィエト権力を弱体化する結果を招く。帝政派、臨時政府派にとっては愛国的な理由でボリシェビキを批判できる理由ができたからである。講和したとはいえドイツへの警戒も消えず、ソヴィエト政権は赤軍をもっと巨大なものにする必要があった。講和締結後の3月以降、赤軍の建設が本格化する中で重要な問題が生じた(*8)。それはかつての将校(軍事専門家)を採用するかという問題であった。
3月以降赤軍は将校の選挙制を廃止し、各部隊に軍事司令官を軍当局から1名、党からコミッサールを2名派遣することを決めた。また中央で新軍建設の主導権を握る最高軍事会議には2名ずつの軍事専門家とコミッサールに任された。トロツキーが進めた赤軍の正規軍化は、大量の旧将校の採用をもたらし中央で猛反発を受けた(*9)。反対の理由は(1)旧将校のソヴィエトへの忠誠が疑わしい(ボナパルティズム台頭への危機感)(2)現場の兵隊が反対するといったものであった(*10)。そこでトロツキーが考えたのがコミッサール制度であった。コミッサールは現場の将校を監視するだけなく、罷免権も持っていた。但し、トロツキーが彼らに期待した役割は指揮官と兵士の仲介役と、指揮官への党からの保証人としての役割であった(*11)。トロツキー自身も「赤色将校(兵士、労働者出身の将校)が一番望ましいが、まだ経験が不足している」と指摘した。さらに当時の赤軍はパルチザン的性格が強く、中央からの指令を無視する事が多かったと述べている(*12)。イデオロギーよりも、戦える軍隊であることを重視した彼の現実性は本格化する内戦と干渉戦で証明される(*13)。
1918年5月25日にシベリアのチェリャビンスクで反乱を起したチェコ軍団四万人は、シベリア鉄道沿線の各都市を次々占領していき、6月までにロシア東部の都市を制圧する。これに合わせて各地で帝政派、民族主義諸派、社会主義者の反ソヴィエト勢力が反乱を始める。さらに8月からは連合軍が極東、ザカフカス、中央アジア、ムルマンスクに上陸しはじめ、反ソヴィエト勢力を支援し出した。さらに7月に従来からドイツとの講和に反対であった左翼エスエルが遂にボリシェビキに対して反旗を翻した。11月に第一次世界大戦が終わった事でドイツ軍は占領地域から引き上げた。赤軍派パルチザンと連携してウクライナを解放したが、連合軍の干渉は本格化してきた。翌年3月からシベリアを支配するコルチャック提督の最大の反ソヴィエト政権が中央部への反攻を開始し、ソヴィエト政権は最大の危機を迎えた。
一連の動きは赤軍の拡大と正規軍化の必要性を促した(*14)。6月には軍事専門家とコミッサールとで構成される赤軍への補給を管理する機関が成立し、7月には18〜40歳までのロシア共和国市民男性を対象とした徴兵制がしかれ(*15)、9月には参謀本部が復活し、最高軍事会議が廃止され、11月に労農国民会議が発足し戦時体制がしかれた。
この時期トロツキーの主張は1919年3月のロシア共産党第8回大会で述べられている。前述の様にウクライナでのパルチザンとの共闘が赤軍幹部を魅了していた。トロツキーは赤軍は敵の白衛軍と違って、必要とされる瞬間に大規模兵力で敵を殲滅しなくてはならないと主張した。そのため広大な戦線の全てに部隊を配置することをやめ、地域によっては敵に占領されるに任してもよいと述べた(*16)。小部隊の分散・精鋭主義(中央で管理された軍隊を持つのは現時点で物理的に無理と考えられていた)は「敵を悩ます事しか出来ない弱い闘争方法」だといって退けた。彼はパルチザンが独立心にとみ、軍司令官の命令に従わないという軍部の意見を反映していた。だが、彼の言う殲滅を実現するための機動力と衝力のある部隊(この時代では騎兵)は赤軍に少なく、反対意見にも一理があった(*17)。
一方で赤軍への補給問題については過度の中央集権化は不都合であると述べている。この当時ロシア全体の生産力はひどい落ち込みで、内戦と徴兵制による動員もあったため、工場の稼働率は低く、鉄道などの交通手段は限界にきていた。当初赤軍への補給状況が悪いことの原因は中央の組織が不安定であるからとされ、組織が一本化された(*18)。そこで各方面軍の補給機関に物資ストックを集中管理し、各部隊の必要に応じて分配するシステムができた。しかし事態は改善されていなかった。トロツキーはこれに対し、経験から各部隊に長期間の必要ストックを適時分配している方が効率が良いと主張し、それが採用される。またこの時期に軍の各部隊が、足りない物資を闇や現地調達で賄い様々な機関の倉庫からの財産の借用も目立ったことでは、中央で全てを正確に規則化できないが、マニュアルが必要であると述べた(*19)。赤軍への食糧は農民からの強制徴発に頼っていた。そのため農民の反ソヴィエト感情は強く、19年3月からはドン地方、ウクライナで大規模な農民反乱が起こり、反革命軍を支援していた。

     内戦終了期の赤軍の問題
19年最大の東方からの革命の危機は6月に赤軍がコルチャック軍を撃破して次第に去ったが、今度は南部からデキーニン将軍の軍隊が北進してきた。トロツキーと軍部は東部のコルチャック軍を殲滅すべきだと主張したが、党中央は東部と南部の同時戦線を決定した。トロツキーの非難にもかかわらず、パルチザン軍はシベリア・ウクライナで活躍し、白衛軍を悩ましていた(*20)。赤軍のブジョンヌイ騎兵軍団の活躍もあり、デキーニン軍を10月に撃破し逆に追い詰めていった(*21)。10月にイギリス軍が撤退したのを契機に、干渉軍も日本を除くと撤退していく。20年の初めには東部と北部の戦線はほぼ赤軍の勝利で終わろうとしていた(*22)。また20年1月には連合国のロシアへの経済封鎖が解かれ、内戦は終結に向かっていた。
トロツキーのこの時期の主張は2つあった。1つはコミッサールを廃止することである(単独管理制)(*23)。実は以前の第8回党大会にコミッサールと軍指揮官の対立が問題になっていた。軍隊の指揮権のないコミッサールがたびたび越権行為を行っていた。トロツキーはもはや指揮官は兵士から信頼されている以上コミッサールは役目を終えたので、段階的に廃止していくべきだと主張した(*24)。2つ目はパルチザンを正規軍へ入れることへの反対であった。当時東部と南部の戦線でこの事が問題化していた。彼はパルチザンの無規律性が他の部隊に伝播するとし、予備大隊に入れて教育を施してから編入すべきであると主張した(*25)。彼自身は「赤色将校」養成のための施設を1919年12月の段階で数十個設けて、少しでも早く専門家登用の事態を改善しようと心がけていた(*26)。また赤軍の傷痍軍人への扱いが白衛軍以下だと批判し、各地方のソヴィエト機関に改善を求めていた(*27)。後年トロツキーは赤軍と白衛軍の変化についてこう述べている。白衛軍は当初、騎兵中心でソヴィエト権力弱体化を狙ったパルチザン戦法を取っていたが、干渉軍が引き上げたことで自らがソヴィエトを粉砕する必要となり、赤軍と同じ戦法を取らざるを得なくなった。その結果、数と士気と火力で勝る赤軍が勝利を収めたのだと。ただ赤軍にも私的制裁や将校の酒乱といった問題が絶えなかったと述べている(*28)。また彼は軍人の功名心をかきたてるために勲章等の顕彰をすることの必要性を述べている(*29)。

     動員の解除における赤軍の問題
南部で最後まで抵抗していたウランゲリ軍を20年10月にクリミアで撃破したことで、内戦は終結した(*30)。20年にワルシャワで敗北したとはいえ、ポーランド軍が再び攻めてくる危険はなくなっていた。この時赤軍の動員兵力は500万人であった。だが国内の経済状況は完全に麻痺しかけていた。そこで問題になったのが、今後赤軍をどういう形で残すかという問題であった。
トロツキーは早急に兵士を工場や農村に復員させ、従来とは逆に民兵制を主張した。現実に20年の3月から一部地域では復員と民兵制の導入が開始していた(*31)。民兵に反対したのは軍事専門家と「赤色将校」たちであった。軍事専門家のスヴェーチンは(1)民兵は「赤くない」(全ての階級から選抜されるので)(2)民兵は無秩序が支配している、として反対した(*32)。「赤色将校」のフルンゼやグセフは(1)内戦は全面戦争の第一段階で、帝国主義者は必ず反撃してくる(2)赤軍の士気の高さと内戦を勝利に導いた戦術の優越性は常備軍でしか確保できない、と主張した(*33)。
トロツキーは財政的な理由と経済分野での人手不足を理由に、現在の規模では常備軍を維持できないと主張した。さらに兵士たちの復員願望が強いことも指摘している。彼の「ソヴィエト的民兵制度」は即席で集められた民兵でなく、労働者と農民からなり、必要な軍事訓練を受けるにあたり生産的労働への支障を最小限とする目的のものであった。民兵軍の指揮官には現在の赤軍将校があたることで訓練と士気の面では秩序が保てると考えた。これからの戦争は総力戦であることを指摘し、工業分布に沿って軍管区さらに行政管区を決め、何より工業地帯を確保することを主張している(*34)。民兵制度が安上がりだから採用するのでなく、「人的資源の正しい組織と計算であり、出来る限り詳細に人民大衆から労働を掘出す」ためと反駁した(*35)。彼の計画は工場という畑で働く屯田兵を考えていたようだ。また西部国境の安全確保のため、ここだけは志願制による常備軍を配置し、またこれらの地域の軍務以外の負担を軽減することを主張した。
トロツキー自身はソヴィエトの防衛力を減らす意図はなかったが、彼の主張した民兵制度は非現実的で、どの程度採用されたかは不明である。しかし、逼迫する経済状況のため彼の反対者も動員解除の必要性は認めざるをえなかった。1923年に赤軍は56.2万人に縮小した。しかも歩兵に関しては民兵が50%で戦闘訓練は不明であった(*36)。トロツキーは他の問題でも主流派ともめたため、軍の最高ポストにいながら、実行力を失っていた。25年に軍の最高ポストに彼の反対者のフルンゼが就くまで、この復員と新軍隊建設は混乱をきたしていた(*37)。




*1 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p62−63。
*2 ペテルブルクの赤衛隊は7月のコルニーロフ将軍の反乱軍や10月革命直後の臨時政府軍の攻撃を撃退していた。モスクワの赤衛隊も正規軍相手に勇敢な戦いを繰り広げていた。
*3 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p63−4。10月革命時に首都の赤衛隊は2万人いたが、一部はもとの職場に戻り始めていた上に、革命の援助のため地方にも多くが派遣されていた。
*4 ドイツとの平和が近い以上前線に留まる必要がなく、さらに兵士の大部分は農村出身であり、村で行われている土地の分配にいち早く参加する必要があった。
*5 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p65−6。1917年12月にソヴィエト軍が取った軍隊の民主化(軍隊での勲章と階級の廃止、将校選挙制)は現状承認であった。北部と西部の方面軍は12月末までに10月時の約30%が逃亡していた。18年1月には最高司令官のクルレインコはルーマニア方面軍の解体を大本営に報告した。
*6 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p66。布告発布時の西部方面軍の志願兵は7500人であった。
*7 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p67。彼等は「革命」でなく「祖国」の防衛ために志願したものが多かったのだろう。3月中旬には赤軍は20万人を超えた。
*8 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p68。3月の初めに軍隊の組織化と軍事作戦を指揮するための中央機関として最高軍事会議が設けられ、トロツキーが議長に就任。
*9 論客にはフルンゼやスターリンがいた。最高司令官のクルレインコは怒って辞任した。
*10 将校出身のボリシェビキは少なく、また旧軍隊で将校による兵士への懲罰は残酷で、私的制裁も古い主従関係のためにしばしばうやむやになることがあった。
*11 トロツキー著;藤本和貴夫訳、『革命はいかに武装されたか:赤軍建設の記録』、現代思潮社、1970−1973、p88、p254。ハリコフのある1個連隊の指揮官の1/4がメンシェビキ出身で連隊に不平・不満がでた。そこで指揮官が党のアジテータを派遣してもらって事態を収拾したという例が紹介されている。
*12 トロツキー選集前掲書、p34−7。
*13 トロツキー選集前掲書、p84−5。当初の赤軍は陣地戦を取り、何千キロに渡る前線を築いていた。これは騎馬の不足、兵士の訓練不足のためであった。  
*14 ピーター・パレット編、『現代戦略思想の系譜』、ダイヤモンド社、1989年、p565。1918年末までに採用された軍事専門家は22315名、19年1月までに65113名に達した。
*15 ロシア共和国市民とは階級的性格の強いもので、抑圧階級(地主、貴族、資本家、僧侶)は除外されていた。
*16 トロツキー選集前掲書、p34−7。中心に軍隊を集中させ、そこから描いた円の半径に沿って鉄道を使う方法を述べている。これはビューローの軍事理論に近く、効力があったかは不明。
*17 『ソヴィエト赤軍興亡史T』、学研、2001年、p146.当初トロツキーは「騎兵は貴族の軍隊」として必要性を認めなかった。
*18 トロツキー選集前掲書、p71。軍の中央補給管理局は分配機関で調達権限がなく、中央軍需調達部は軍当局に属していないという具合だった。
*19 トロツキー選集前掲書、p74−5。トロツキーは赤軍の必要が最優先と考え、赤軍撤退の際、中央の徴発命令を待っている間に敵に馬を入手された事を例に挙げている。
*20 特にウクライナのパルチザンのマノフ軍は2万の歩兵と8千の騎兵を持つ大部隊であった。彼等は農民が主体で、白衛軍を地主の味方とみて赤軍に協力していた。
*21 この時期は騎兵の重要性が認識され、トロツキーは「労働者よ馬に乗れ」と主張した。
*22 20年の初めにコルチャックは殺害され、3月に赤軍派イルクーツクに入った。
*23 トロツキー選集前掲書、p88。『我々の当面の諸問題』(1919年12月)で主張した。
*24 トロツキー選集前掲書、p90。「指揮官が党員でなくても、指揮官として道義的・政治的に権威を持っていれば兵士は従っている」と述べていた。
*25 トロツキー選集前掲書、p91−7。彼によればパルチザンの3/4が略奪目的で入隊したという。
*26 トロツキー選集前掲書、p258。
*27 トロツキー選集前掲書、p264。これは出征家族への配慮もあった。
*28 トロツキー選集前掲書、p96。
*29 これでできたのは、赤旗勲章(1918年6月)であり、9月にブリュッヘルに授与された。
*30 極東では日本軍を刺激しないように、赤軍はイルクーツク以東には行かなかった。22年10月に日本軍撤兵後、同地に樹立していた極東共和国はロシア共和国に合併された。
*31 ピーター・パレット編、前掲書、p569。
*32 トロツキー選集前掲書、p100。彼の主張は雑誌『軍事』40−1号に掲載という。
*33 ピーター・パレット編、前掲書、 p567−8。
*34 トロツキー選集前掲書、p126−8。『民兵制度への移行に関するテーゼ』(1920.2.28)
*35 トロツキー選集前掲書、p123、131、134。全住民を対象とした膨大な武器と装備のストック、訓練施設を地方に分散する必要性があるため、安上がりではないと主張している。
*36 ピーター・パレット編、前掲書、p572。トゥハチェフスキーは民兵制は第2インターナショナルを誤って分析した結果と批判していた。
*37 ピーター・パレット編、前掲書、p571−2。24年段階で中下級将校の1/3は戦闘経験がなく、装備の改善はなかった。同時期にドイツ軍最高司令部は赤軍は劣悪な状態にあると見ていた。


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