2001年4月27日
インド前近代軍事史  My


下記の文章は管理・修正を凍結した旧版です。
誤り等が発見されましても修正はいたしません。
こちらに新版が掲載されていますので、なるべく新版の方をご覧ください。
また文章に関するご指摘・ご質問等ございましたら、新版掲載サイトの方へ、くださいますよう、お願いいたします。




はじめに
 おそらく軍事史は、歴史の学習において、あまり興味の持たれることのない分野であろう。だが高校の世界史で西洋古代の民主主義を論じる時ですら、そこに重装歩兵や軍船の漕ぎ手、すなわち軍事についての言及が欠けることは許されない。このことからも分かるように、軍事は国家のあり方や政治と密接に関わっており、軍事を全く無視して歴史を論じることなど不可能なはずである。それどころか、例えば、近世ヨーロッパ諸国が国家支出の七割、八割、場合によっては九割以上を軍事に当てていることを見れば、人類の歴史の大半において、軍事こそが政治であったと言えよう。とすれば、世界を制覇した西洋の戦争術の歴史を知るのはもちろんのこと、それに加えて非西洋世界の戦争術の歴史について知っておくことも、世界史を学ぶ者にとって重要であろう。しかも16世紀以降のヨーロッパの膨張が、何より軍事技術の優越によって可能になったとされている以上、ヨーロッパ史を学ぶ上でも他地域の歴史を学ぶ上でも、その重要性は限りなく大きい。以上のような理由から今回も非西洋世界の軍事史を扱う。今回はインドの軍事史を概観する。



陸軍編
<先史時代>
 旧石器時代のインドでは、木や石片で作った未熟な道具が武器として用いられたが、戦いは未だ個人間の決闘に過ぎず、戦争と言える段階にはない。
 前8000年頃からの新石器時代には農耕や牧畜が始まり、農地や家畜の獲得のために戦争が起こったが、この時期のインドにおいて、戦争が組織的に遂行されることはなかった。


<古代前期;都市と部族の軍隊>
1.インダス文明の軍隊
 インドでは、前2300〜1800年頃にかけて、インダス川流域で都市文明が繁栄する。そして都市では貴族の支配下に軍事活動の組織化が進んだが、強力な王は存在せず、その組織化の程度はあまり高度なものではない。武器は銅器が主で青銅器も用いられた。最も好まれた武器は弓であるが、弓の愛好はこれ以後も歴史を通じてインドの武技の特徴を為す。戦闘は徒歩で行われ、馬や象、車の戦争における使用はまだ見られない。

2.アーリア人の軍隊 
インダスの都市文明が衰退し、都市のわずかな名残を留めるのみとなった前1500年ごろ、北インドにアーリア人が侵入する。アーリア人は先住民を攻撃し、あるいはアーリア人同士衝突しつつ、次第に勢力を拡大、やがて先住民と融合、インドに定着していった。
 この頃の軍隊は部族を基礎に編成されていたが、絶え間ない戦争状態の中で、部族の指揮を執る首長の権力が強大化、軍隊の組織も強化されていくことになった。
 アーリア人は戦車、騎兵、象の戦争での利用を開始した。とくに貴族の乗る戦車は戦闘の中心となって活躍し、徒歩で戦うインド先住民はこれに対抗することがほとんどできなかった。ところでアーリア人の軍隊でも、大衆から成る歩兵が数の上ではその大半を占めたが、これも戦車の前では蹴散らされるのみであった。ところでインドの歩兵が、数の多さにもかかわらず、非常に弱体なのは、以後歴史を通じて変わらない現象である。騎兵は、この頃は、富貴の証である戦車ほどには尊重されておらず、戦場ではあまり重要な役割を与えられていない。なお、騎兵は他の兵科と異なり、弓を用いることがほとんどない。象については、利用が未だ小規模で、戦闘の行方を左右するほどのものではなかった。


<古代中期;古代国家の軍隊> 
1.群雄割拠の時代
北インドに広がったアーリア人は戦乱の中で部族の連合体を成長させていたが、前600年頃にはそれらの連合体が強力な国家へと発展する。こうして成立した諸国家は、割拠の時代を生き抜くため、開墾や交易を推進し、財政基盤を整備して、効率的な軍隊を作り上げていった。そして前5世紀以降はマガダ国が覇権を握り、インドはしだいに割拠状態を抜け出して行く。
 この時代以降、軍隊は、世襲の戦士団を中核とする、常備軍となった。戦闘においては、戦車の重要性が低下を始める一方で、騎兵が確固たる地位を築きつつあった。また象も、未だその有効性に対する疑いが完全には消え去っていないものの、防御において味方の戦列を強化し、攻撃において敵戦列を踏み破るなど、軍隊の不可欠の要素としての地位を確立している。なお武器はこの頃までに鉄器が広く普及している。

2.統一帝国
 前4世紀の半ばにはマガダ国は広大な領域を統一、マガダ国を倒したマウリヤ朝はさらに巨大な帝国を築く。これらの統一帝国では以前からの軍事的発展が頂点に達した。
 戦車は使用は続いているが、もはや戦闘で重要な役割を果たすことはなく、かわって戦場では騎兵と象が活躍することになった。とくに象は軍隊の主力となり、戦闘の勝利は専ら象部隊に依存するようになった。


<古代後期;国家の衰退>
1.異民族の流入
 マウリヤ帝国は前3世紀の後半には広大な領域を維持できなくなって分裂、急速に衰退してゆく。そのため、前2世紀以降、北インドは様々な異民族の侵入を受けることになるが、それら異民族のなかでもクシャーナ朝は強力で、1世紀半ばから3世紀半ばにかけて、北インドのほぼ全域を支配下においた。これら異民族はたいていはインドの文明を取り入れ、定着、同化していったため、インドもその影響を大きく受けることになった。そして、4世紀はじめから6世紀半ばにかけて北インドを支配したグプタ朝も、これら異民族から多くのことを吸収したため、この時期にはそれまでのインドの伝統と著しく異なる軍事技術が花開くことになった。
 これまでのインドの軍隊は、堅固に防御を固め、象部隊の威力を活かして戦っていたが、この時代の軍隊は、騎兵を中心に、機動力を活かした戦いをするようになったのである。またこの時代の騎兵は弓を使い、突撃だけでなく、射撃をも行った。なお、戦車はもうほとんど戦争には使用されていない。
 ところで、この時代のインドは分裂傾向を深めており、地方には豪族が台頭し始め、国家の支配力は弱まりつつあった。その結果として軍事力の構成にも変化が生じている。グプタ朝では、国家が常備軍を保有する一方で、軍事力を豪族の兵力にも頼るようになったのである。
 
2.豪族の成長
 グプタ朝は、5世紀の末より中央アジアのエフタルの侵入に苦しみ、6世紀半ば、遂に崩壊する。そしてエフタルの侵入がインドの都市と交通網に大きな打撃を与えたため、以後は商業が衰退、マウリヤ朝末期以来の分裂傾向が一段と加速して、インドはますます統一を弱めていった。そして軍事の面でも進歩、発展を維持する力が失われていった。だがこのような情勢下にもかかわらず、7世紀前半、ヴァルダナ朝は一時的にではあるが北インドに覇権を打ち立て、強力な軍隊を維持することに成功していた。
 この時代のインドでは、前代に開花した軍事技術を継承することはなく、それ以前の伝統的な軍隊への回帰が見られた。再び、象部隊を中心とした戦闘が行われるようになったし、騎兵の弓の使用もほとんど見られなくなった。ただし、戦車の戦争での使用が復活することはなかった。
 なお軍事力を豪族に依存する傾向はさらに増しており、常備軍の時代は急速に終わりを迎えつつあった。


<中世;豪族の時代>
 ヴァルダナ朝の支配が崩れた7世紀の半ば以降、インドは、豪族勢力に支配された群小国家が絶え間なく衝突する、長い分裂と抗争の時代に突入、12世紀末までそのような状況が続くことになった。この時代の軍隊は、豪族の兵力を雑然と寄せ集めたもので、効率的な組織も部隊間の連携も欠き、戦闘においては、豪族たちの個人的武勇と、象の破壊力に、過度に依存していた。
 なお、8世紀には、完全に戦車隊の使用が消滅している。


<近世前期;騎兵の時代>
 インドでは、11世紀にイスラム勢力との衝突と交流が活発になって以降、イスラム商人の影響で商業が復活していく。また12世紀の末にはトルコ系イスラム王朝であるゴール朝が、強力な常備軍で、北インドの広大な領域を征服し、インドに定着をする。そして、ゴール朝を継いだデリー・スルタン朝では、商業、交通を促進して財政基盤を整備、軍事力の強大化を推し進めて、さらに支配を拡大していくことになった。
 これらトルコ系イスラム王朝の軍隊では、弓騎兵が中心となって活躍、これ以降インドの軍隊は騎兵が主力となった。弓騎兵は、機動力と射撃による攪乱や、敵側背への素早い突撃を駆使して戦っている。なお象部隊も、地位が低下したといっても、いまだ大きな信頼を寄せられており、前衛として戦闘に投入されている。


<近世中期;火器の導入>
 デリー・スルタン朝は、14世紀の半ばに拡大しすぎた領土を支えきれなくなり、以後は弱体化が進行、15世紀以降のインドは地方政権が割拠する状況に陥ってしまった。そして16世紀はじめムガル帝国が、分裂するインドに侵入、火器を活用して諸勢力の軍勢を撃破し、インドでの足場を確保、しだいに支配を拡大して巨大帝国を築き上げていった。
 インドでは15世紀の後半までには既に火器が使用されていたが、火器が恒常的に使用されるようになったのは、16世紀はじめのムガル帝国侵入以後である。
 ムガル帝国の軍隊では、大砲と銃手は前衛に配置され、荷車や土塁で構築した陣地に拠って射撃を行う。そして騎兵は、翼から、敵側背へと迂回攻撃をかけた。象は、背が高くて射撃の的になりやすく、轟音や負傷によって容易に混乱、暴走するという性質があるため、火器の使用以後はその重要性を著しく低下させた。もはや象部隊は、敵に打撃を与えることはほとんど期待されておらず、戦闘では後方に留め置かれた。この時代の象部隊に与えられた主な役割は、外見によって敵を威圧することであり、苦戦に陥った味方を救援する場合にのみ、戦闘に参加させられた。
 ところで、ムガル帝国軍は火器を活用したといっても、歩兵は、それ以前の時代と同様、数は多いが極めて弱体で、しかも火器の操作をトルコ人やヨーロッパ人など外国人に頼ることが多った。あくまで主力は騎兵のままであり、ムガル帝国軍が、火器の威力を最大限に引き出せる強力な歩兵軍へと、成長していくことはなかったのである。


<近世後期;イギリスの侵略>
 ムガル帝国は、支配を拡大していく中、南インドで激しい抵抗に会うようになり、泥沼の闘争に引き込まれて国力を消耗、18世紀にはいって急速に衰え、インドは地方政権の割拠する無政府状態に陥る。このような情勢下、フランスとイギリスが、盛んにインド進出を図るようになっていったが、火器の威力を最大限に活用するヨーロッパ式の歩兵軍はインドの軍隊を圧倒、イギリスはインド内に強固な足場を築くことに成功した。
 その後インドは、ヨーロッパ式の軍事技術を十分に学び取ることができぬまま、19世紀をむかえる。そして、近代の幕を開けたイギリスによって、一挙に全土を征服されることになった。



水軍編
 インドでは古くより水運を用いて活発な交易や植民が行われていたが、水軍の活動については前5世紀頃の海賊の出現にまでその起源を遡ることができる。この頃は各地で軍事力の開発が急速に推進された時代であり、その海賊を前身として、前4世紀の終わりまでに正規の水軍が成立することになった。そして、それ以降もガンジス下流やインダス下流、半島南部の沿岸部を中心に、水軍活動がみられる。なかでも、10世紀末から11世紀にかけて最盛期を迎えた半島南部のチョーラ朝は、セイロン島やマレー半島、スマトラ島にまで勢力を伸ばし、ベンガル湾を内水とするほどの強勢を誇った。だが全体的に見ると、インドの水軍活動は歴史を通じて低調であり、インドの国家が、水戦の経験を蓄積して、強力な水軍を発展させて行くことはなかった。例えば、インドでは、15世紀後半までに軍船上でも大砲が使用されているが、これは恒常的なものへと発展してはいない。そして、16世紀にインド洋に入り込んだヨーロッパの海軍力は、大砲を搭載した軍艦の威力によって、ただちにインドの海域の覇権を握ることになった。その後、インドの水軍も、多数の大砲で武装した軍艦を中心に行動するようになったが、インド人には十分な海戦経験の蓄積がなく、その海戦技術は全く未熟であった。そのためインドの水軍は、沿岸で商船を護送する以上の力を持つことはなく、ヨーロッパの軍艦の前では常に無力であった。



戦例
陸軍編近世前期;タラーインの戦い(1192年)
 12世紀のおわり、アフガニスタンを支配するゴール朝の王ムハンマドは、インド征服を狙って、活発な侵略を行っていた。だが彼は1191年、北インドの東西をつなぐ回廊上の要衝、タラーインで、インド各地の小王国の連合した大軍と戦い、大敗を喫する。そして翌年ムハンマドは、再びタラーインでインド連合軍と激突する。ゴール朝軍は12万、これを迎えるインド軍は30万であった。
 ムハンマドは1万2千の騎兵を四隊に分け、これらにインド軍の前後左右全方向から攻撃をかけさせた。ゴール朝軍の騎兵隊は互いに支援して、インド軍が部隊を結集して反撃するのを防ぎ、矢を浴びせかけて攻撃する。そしてインド軍を混乱に陥れると、全速力で突撃をかけた。インド軍は、激しい突撃に耐えられずに潰走していった。
 この戦勝によってインドは実質的に侵略に抵抗する力を失った。ゴール朝はここから北東インドに進出し、次々に勝利を重ねて、支配を広げていくことになった。

陸軍編近世中期;パーニーパットの戦い(1526年)
 16世紀のはじめ、中央アジアでの抗争から逃れて、アフガニスタンに拠るバーブルは、そこからしばしばインドに侵入を繰り返し、1526年にデリーを支配するロディー朝の軍と、北インドの東西をつなぐ回廊地帯の要衝、パーニーパットで激突した。バーブル軍は2万5千、ロディー朝軍は10万人、象1千頭である。
 バーブルは、右翼をパーニーパットの町の民家の背後に置き、左翼の前方には木の枝の障害物と壕を構築、中央部隊の前方には荷車と楯で防御を固めて大砲と銃手を配置した。ロディー朝軍は、バーブル軍に接近すると、堅固な防御の前に攻撃をためらい、前進速度をゆるめる。そこでバーブルは両翼端の騎兵に敵背後への迂回攻撃を命じるとともに、両翼の部隊にも前進を命じ、ロディー朝軍を中央の一ヶ所へと押し込んでいった。ロディー朝軍は、側背から矢を、前面から砲撃と銃撃を浴びせられ、逃走することもままならず、壊滅的な打撃を受けて敗北した。ロディー朝軍の出した死者は1万6千人にのぼった。
 この勝利の結果、バーブルはデリーの支配者となって、ムガル帝国を創始した。そしてこれ以後ムガル帝国は、北インドの有力国として、インドの覇権争いに加わっていくことになる。



おわりに
 なんだかかなり短いレジュメになってしまいました。実質5ページ弱しかないとは…。けっこうたくさん本は読んだつもりなのに、なんでこれだけしか文章が書けないのだろう。でもまあ、それなりに充実した内容になっていると思うので、勘弁して下さい。


参考資料
世界の歴史3、14;中央公論社
インドの歴史 新書東洋史E;近藤治著  講談社現代新書
中世インドの歴史;サティーシュ・チャンドラ著 小名康之、長島弘訳  山川出版社
ムガル帝国とアクバル大帝;石田保昭著  清水新書
インドの伝統技術と西欧文明;A・J・カイサル著 多田博一、篠田隆、片岡弘次訳  平凡社
大砲と帆船 ヨーロッパの世界制覇と技術革新;C・M・チポラ著 大谷隆昶訳  平凡社
長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500〜1800年;ジェフリ・パーカー著 大久保桂子訳  同文舘
Military System in Ancient India;B・K・Majumdar  Calcutta
Ancient Indian Warfare with Special Reference to the Vedic Period;S・D・Singh  Leiden The Art of War in Medieval India;J・N・Sarkar  New Delhi
リグ・ヴェーダ讃歌;辻直四郎訳  岩波文庫
アレクサンドロス東征記およびインド誌 本文篇・注釈篇;フラウィオス・アッリアノス著 大牟田章訳  東海大学出版会
マヌの法典;田辺繁子訳  岩波文庫
カウティリヤ 実利論;上村勝彦訳  岩波文庫
大唐西域記;玄奘著 水谷真成訳  平凡社東洋文庫
三大陸周遊記;イブン・バットゥータ著 前嶋信次訳 角川文庫
バーブル・ナーマの研究 V 訳注;間野英二著  松香堂
ムガル帝国誌ヴィジャヤナガル王国誌;モンセラーテ、パイス、ヌーネス著 清水廣一郎訳解説、池上岑夫訳、小谷汪之注解、浜口二雄訳、重松伸司注解説  岩波書店
ベルニエ ムガル帝国誌;関美奈子、倉田信子訳、小名康之注、赤木昭三解説  岩波書店


2001年度発表一覧へ

inserted by FC2 system