2001年5月11日〜18日
足利尊氏  NF


(1)はじめに
 足利尊氏の名は、頼朝・信長・秀吉・家康らと共に武家政権の創設者・覇者として語られる。しかし尊氏は残りのメンバーと比べ何処か異質な感じがする。それは何故なのか考えて見たい。思えば南北朝のレジュメを幾つか作ってきたが、南朝方が宗良・親房・正成とあるのに対し北朝方は師直一人であった。その不均衡を補うのにも役立つであろう。
(2)足利氏
 足利氏は源義家の孫義康に始まる。義康は源義朝と共に昇殿を許された武士であったがその子義兼が頼朝の挙兵時に早くから馳参じたため優遇される。新田義重が領国に留まり平家にその挙兵を通報したのとは対照的であった。この差は両家のその後の運命を象徴する。さて子の義兼は北条時政の娘を娶った。以降代々の足利家当主は北条氏と縁戚関係を保ち北条一族に準じる扱いを受ける。陸奥・上野・下野・上総・安房・相模・三河・山城・丹波・美作・筑前に35箇所の所領を持ち上総・三河の守護を勤めていた。そうした中で嘉元三年(1305)に貞氏・上杉清子の間に生まれた又太郎(尊氏)は元服の際に得宗北条高時から一字を貰い「高氏」、一つ下の弟(直義)は「高国」と名乗った。また高氏はそれまでの例に倣い最後の執権となる赤橋守時の妹登子を娶る。北条氏との緊密な関係が見て取れる。しかし、北条氏にとっては御家人の秩序を保つためにも、そして後には自分達の独裁体制を築くためにも自分達に次いで強力な足利氏を抑える必要があった。それにつれて足利氏は圧迫、更に有力御家人で次に潰されるのは自分達という不安を感じるようになる。その中で祖父家時は三代の後に天下を取る事を悲願とし自刃。次第に北条氏への不満、家門の誇り、それが高じての天下への野望が足利氏の内部で募っていた。そうした空気の中で高氏は育ったのである。
(3)当時の情勢
 当時、武士たちはその領地を分割により相続していた。その結果、領地の細分化、本家・庶子の分裂傾向が生まれ始め、一族争いの火種になりかねない状況であった。また、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能といった非農耕民が実力を貯えつつあり、その力は侮れないものとなっていた。農業中心の政権である幕府の支配を十分には受けない彼らは貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、「悪党」・「海賊」として幕府の武力をも脅かす存在となっていたのである。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇位と広大な皇室領をめぐって皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて公家達も出世をかけて争い幕府の調停が不可欠な有様であった。鎌倉幕府を除いては絶対的に強力な者がなく、日本は幕府が消滅しようものなら際限なく争いが起こりそうな、さながら火薬庫の様な状況であった。
(4)高氏の反逆
当時、北条氏の専制により武士の不満は高まり、得宗高時の無能とそれに伴う内管領長崎高資の専横がそれをより強めた。一方、両統分裂の中で「一世限りの主」として即位した後醍醐天皇は天皇親政を進め自己の子孫による皇位継承と全国一元支配を目論み倒幕を志向。北条氏に不満を抱く御家人達に声を掛けると共に、朝廷と繋がり幕府の支配から外れた前述の非農業民らの力を組織して対抗しようと図った。元弘元年(1331)に御所を脱出し笠置山に篭り挙兵。天皇に呼応して楠木正成も河内赤坂城で挙兵する。その知らせを受けた幕府は十万の軍勢を上洛させる。高氏も父の喪中ながら幕命を受け上洛。間もなく笠置は幕軍の夜襲により陥落、天皇らは捕らえられた。神器は持明院統の光厳天皇に譲られ、後醍醐は隠岐に遷幸。この際、引上げるに当たって北条一族は御所で御伏見院から馬を賜ったのに高氏は真っ直ぐ鎌倉へ帰っている。北条一族に混じっての高氏の微妙な立場を表していよう。さて、後醍醐の流謫により鎮まるかと見えた反幕運動は、楠木正成が赤坂城を奪還し天王寺で六波羅軍を破って千早城に篭り、護良親王が吉野を拠点に討幕の令旨を全国に発したのを切掛けに再燃した。幕軍が千早を落せない間に後醍醐も名和長年の助けで伯耆船上山に脱出、千種忠顕を大将として播磨の赤松円心と共に京に攻撃をかけていた。こうした中、病中の高氏に再び上京命令が下る。高氏はこの時、直義に討幕の決意を打明けたと言う。直義は無論賛成で、伯父の上杉憲房とともに反幕府の急先鋒であった。幕府の方でもそんな空気を察したのか高氏出陣に際し、妻子を人質とし誓書を提出するよう求めた。高氏がそれに応じた所、得宗高時は上機嫌で源氏の白旗を授け激励。3月23日に鎌倉を出発した高氏は領地のある三河に入り一族の吉良貞義に決心を述べ、貞義は遅すぎたぐらいであると賛意を表した。細川和氏・上杉重能を船上山の後醍醐の元へ密使として派遣し、討幕の綸旨を得る。元来高氏の本領・足利荘は大覚寺統が支配する八条院領の一部であり、その関係で高氏は後醍醐とも当時主従関係にあったとも言える。そうした縁もあり有力御家人である足利氏に対しては後醍醐の方からもこれまでに誘いがあったであろう。高氏の申し出を受けた後醍醐は大層喜んだと伝えられる。さて高氏が綸旨を見たのは近江の鏡駅であった。しかしそれを隠し4月16日に入京。苦戦を続けていた六波羅は高氏ら援軍を見て狂喜した。しかしその喜びも束の間であった。高氏は尚幕府軍であるかのように装い27日に名越高家と二手に分かれ船上山への道を行く。しかし名越軍が赤松勢と久我畷で合戦する間、高氏は酒宴を口実に動かない。高家が敗死し名越軍が壊走したのを知り領地の丹波篠山へ向かいそこの八幡宮で宮方につくと宣言。それを聞き近辺から多くの武者が味方に加わる。高氏は更に全国の武士に手紙を出し挙兵を呼掛けた。これに応じ蜂起する者も少なくなかったであろう。
(5)幕府滅亡
高氏は山陰から丹波・丹後を経由して嵯峨に入り、5月7日6時ごろに内野に着く。先陣は神祇官の所で東を向き、六波羅軍は白河・二条大宮で西向きに対峙。六波羅軍は数万の兵を擁していたが赤松・千種にも備える為軍を3つに分けねばならなかった。8時に鏑矢を放ち、矢を射掛け合いながら戦い、午後2時には大勢が定まり六波羅方は潰走、足利軍は竹田・九条を通じて洛中に進入した。東寺方面でも赤松勢が六波羅軍を破った。高氏らは六波羅を包囲するが、防備を固めた屋敷を力攻めするよりも追い詰めない様に一方の囲みを開けるべきだとの細川和氏の進言を容れた所、敵の多くは降伏した。こうして六波羅探題は陥落し、二人の探題は鎌倉へ落去する途中近江番場で野伏に囲まれ自刃。光厳天皇らは京へ護送された。京の幕府勢力はこうして壊滅し、後醍醐は還幸を決定。一方尊氏は京の行政権を手中にし独自に奉行所を設立、洛中の治安を回復した。後の政権作りへの布石であったが、前述の理由で六波羅陥落の際にその実務官僚がほぼ無傷で手に入ったのが大きかったであろう。さて、六波羅滅亡が知渡って、正成の千早城を包囲していた幕軍も奈良に撤退して降伏した。後醍醐も船上山から京へ還幸する。その頃、関東では新田義貞が蜂起。既に千早攻撃軍に加わっている時点で護良親王の令旨を受けていたと言われる。更に高氏からの督促を受けたかどうかは不明である。しかし時期を考えると高氏の行動に刺激されての事であることは間違い無かろう。間もなく高氏の嫡男千寿王(後の義詮)が合流したことや、高氏の命で岩松経家が義貞と同格の指揮官として活動したらしいことから高氏の手がこの鎌倉攻撃軍に強く及んでいたことは確からしい。「増鏡」「神皇正統記」からは高氏の嫡男を大将にして一族である義貞が代官を務め鎌倉攻めをしたと一般に受取られたことがわかる。越後・上野の新田一族のみならず北は陸奥の石川氏、西は河内の三木氏と広くから多くの武者が参加した。護良親王や高氏の督促に応じたものであることがここからも察せられる。小手指原・分倍河原で幕軍を破り5月18日に鎌倉へ侵入。この時、義貞は稲村ヶ崎の干潮を利用してそこから突入したが、「太平記」によればその際に剣を海に投じることで神への祈りが通じたとパフォーマンスを行い味方の士気を高めている。鎌倉市街での激戦の後、22日に高時ら北条一門は東勝寺で自刃。頼朝の開府以来130年余の歴史を持つ鎌倉幕府はここに滅んだ。さてこの時義貞は新田家の長年にわたる不遇を一掃しようという望みを抱き奮戦した。事実その戦い振りは果敢であったらしく経家とほぼ同格の指揮であったにもかかわらず義貞一人の武勲が目立ったのである。しかし鎌倉に入ってみると、千寿王の下に馳参じる者の方が多かった。多くの武士が高氏の督促により蜂起したらしいことを考えれば当然ではある。寧ろ代官に過ぎぬと考えられた義貞に馳参じた者が決して少なくなかった事にこそ注目すべきなのかも知れぬ。義貞が卓越した武将であった事がここからも知られよう。しかしこれをきっかけに関東の支配権をめぐって足利と新田の対立が始まった。高氏は細川和氏・頼春・師氏を千寿王の補佐役として派遣。義貞は足利と対決するだけの力はなく、千寿王に対し異心はない事を誓う誓書を出した。両氏の実力差だけでなくこの戦いでの関係をも示唆しているように思われる。義貞は恩賞と実力基盤となる地位を求めて上洛した。
(6)「尊氏なし」
 親政を再開し全国の支配権を手に入れた後醍醐天皇の最初にすべき事は倒幕に協力した人々への恩賞であった。終盤になると高氏の帰順をきっかけに多くの武士が後醍醐に寝返り九州・長門や奥州など北条氏の有力拠点を落としたのだ。功績の大きな者は形勢逆転を決定付けた高氏、幕府の本拠を倒した義貞、倒幕への流れを作った正成、反幕運動を煽動した護良、京の幕府軍を揺さぶった円心、後醍醐を守護した長年といった所である。しかし他にも無数の武士・寺社が功績を具申し恩賞を求めた。限られた領地で充分それに応え切れるか疑問な状態であった。しかも天皇は己の実力基盤を確立する為に自身や近臣らに多くの旧北条氏領を付帯させていたのだ。恩賞地不足、分配の公平性への不満は益々大きくなる。さて高氏は頼朝の先例に倣い武蔵・相模・伊豆の知行権(知行国制が廃止されたとの説もあるが足利氏がこれ等の国に権限を得たのは確か)、更に武蔵守護職、日向国国富荘・遠江国池田荘・尾張国玉江荘・三河国小山辺荘・武蔵国麻生郷・常陸国北郷などの地頭職を恩賞として受けた。天皇はその上、鎮守府将軍に任じ天皇の名「尊治」から一字をとり名を「高氏」から「尊氏」と改めさせた。尊氏の行動や誘いにより多くの武士が後醍醐方に身を投じ形勢が決定した。その効果・名声から考えれば勲功第一とせねばならぬがその野心・立場を考えると危険な人物ではある。そこで功績・武家最大の名門の面目を保ちつつ力を付け過ぎない様にせねばならぬという天皇の苦心の行賞であった。ところで天皇は律令的太政官制・王朝的官職一家相伝・幕府政治のいずれでもない、新しい政治を構想していた。武士勢力の伸長・朝廷内の抗争で弱体化した王朝の危機的状況を脱出する為、自己の子孫に皇位を伝える為、そして自己の支配欲を満たす為に。中央では経済・警察など主要官職は近臣が就き天皇に全権力が直結する様図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。こうして天皇による中央集権、農業と非農業の均衡を取る近世的な専制政治を目論んでいた。勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとする。しかし激しい改革は常に混乱と不満を呼ぶ。国家存亡の危機が迫った場合などはそれでも人々はついて来るが、この時は王権の危機ではあっても日本の危機では別になかったのである。しかも商業の成熟がまだ不充分でこの政権は不満を抑えるだけの実力を付ける事が出来なかった。そして元寇以来得宗支配に入った非御家人と旧来の御家人の対立も解消されず、寧ろ御家人制度の廃止により誇りを傷つけられた御家人達の不満は深まる。おまけに強力な反対派の核が存在した。尊氏である。武家最大の名門であるのみならず京を占拠して以来前述の様に奉行所を開き軍功を受付け、武士の信望を集めていた。更に新政権の役職に全く付かず距離を置いている。しかし建武元年8月以降は雑訴決断所に上杉憲房・師直・導誉を、窪所に師直を参画させるなど、政権維持上決して無視できない発言力を有していた。そのため公家達は「尊氏なし」と口にして不気味がった。この情勢を危険視したのは護良親王である。天皇も尊氏が武士に担がれる事を警戒していた。義良親王を将軍とし北畠顕家に補佐させる陸奥将軍府を作り関東に勢力を持つ足利氏を牽制した位である(尤もその一方で成良親王を擁し直義に補佐させる鎌倉将軍府も作り足利氏の既得権を追認せざるを得なかったが)。そのため天皇も護良の尊氏打倒計画を密かに支援したと言われる。護良と結付の強い正成・尊氏に対抗心を持つ義貞もこれに参加。これに脅威を感じた尊氏は護良と対立する天皇の寵妃阿野廉子と結び天皇に迫って護良を流罪にさせた。護良は直義のいる鎌倉に送られ、尊氏よりも寧ろ父が恨めしいと述懐。無理もない話である。
(7)政権離反
 建武政権の苦難は基盤の弱さや政策への不満のみに止まらない。北条氏の勢力が完全に駆逐されたわけではなかったのである。元弘三年(1333)の冬、早くも出羽・秋田で北条残党の蜂起が勃発。続いて豊前・筑後、薩摩、伊予、越後、紀伊など各地で北条氏が蜂起した。それぞれの鎮圧に追われる中、建武二年(1335)6月、京で西園寺公宗が持明院統を奉じて高時の弟時興と組み、天皇を暗殺し一方信濃にいる高時の子時行の挙兵で関東を制圧して共同でクーデターをする計画が明らかになった。公宗は捕えられたが、それは時行の蜂起を誘発。諏訪氏に擁された北条軍は各地で勝利し鎌倉に迫る。鎌倉を治めていた直義は自身も敗れ、また渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら有力武将を失った。直義は7月22日、鎌倉を脱出し、この際監禁中の護良親王が敵の旗印となる事を恐れ部下の淵辺義博に命じ殺害。25日に北条軍が鎌倉に入る。直義は三河に兵を留め京に報告。その報告を受け尊氏は時行追討のため全国の荘園公領の治安維持を受持つ総追捕使・全国的軍事指揮権を持つ征夷大将軍への任命を天皇に願出る。しかし尊氏の力を以前から警戒していた後醍醐は当然これを拒んだ。尊氏は結局、頼朝の奥州藤原氏討滅・義家の後三年役の前例に倣い勅命を待たず出陣。そもそも危機にあるのが弟であり武蔵・相模は彼の知行国なのだから尊氏には鎮定する責任があるといって良い。それを聞いた後醍醐は彼を征東将軍に任じてそれを追認した。8月2日に京を出発して、途中矢作で直義と合流、各地で北条軍を破った。この際、勇戦した家臣には領地をその場で与えた。この戦いで手柄にはすぐに褒美を出し降伏する敵は寛大に許す、という尊氏の特徴が如実に出ている。幕府という権威が消えそれに替りうる強力な力を持つものがいない当時、皆己の利益を求めて反覆常ない状況であった。そうした中で尊氏のそうした性質は多くの味方を呼寄せる事になる。尤も離反もしやすい事になるが、尊氏なればこそ相対的であっても優位を築き得たのであろう。尊氏が無ければ日本は無政府状態に陥っていたかも知れぬ。さて19日には京から414km離れた鎌倉に入る。一日23kmという速攻ぶりである。中国大返しの際の秀吉でさえ、備中高松から摂津富田までの165kmを10日、即ち一日16.5kmなのであるから恐らくこの時の尊氏は日本史上最大の速攻と考えてほぼ間違いない。因みに、少し後の義貞の尊氏追討は京から手越河原までの285kmを27日、一日14.2kmの速さであり、これが当時の標準の速さであったろう。さて、尊氏にこれほどの速さで迫られた北条軍は体勢を整える暇すら与えられず潰走。朝廷ではこれを賞し尊氏を従二位に昇進させ、その上で上洛を命じる。尊氏は応じようとするが直義・師直らの反対で鎌倉に止まる事になった。京は義貞ら反尊氏派が依然多くその上天皇・公家も警戒しており危険で、一方足利氏が単独で占拠する関東に尊氏・直義兄弟共に滞在する今は武家政権を再興し先祖代々の悲願を実現する好機である。直義らの主張はいわば当然で尊氏はこれに関する限り好人物に過ぎる様である。尊氏は旧幕府跡に屋敷を設けて独自に論功行賞を行った。更に、独自政権を作る事を決意し護良も亡い今最大の対抗馬である義貞を追討しようと兵を集める。武家政権を認められるには朝廷の了解の下「朝敵」を討つ「武功」を挙げる必要がありその相手として義貞が選ばれたわけだ。そうなると固有武力を持たぬ朝廷は要求を飲まざるを得ない、これが尊氏の読みであった。確かにそれまではそうであった。しかし商業勢力を組入れて曲りなりの武力を朝廷は当時有し、加えて後醍醐は圧力に屈するのを嫌う人柄であった。そこに尊氏の最大の誤算があったといえる。さて一方朝廷では事態を尊氏の反逆と捉える。そこへ義貞追討の上表が京に届き護良暗殺の様子も報告されたので天皇は遂に義貞を大将として尊氏を討つ事に踏切る。尊良親王を名目上の総大将とし新田軍は11月19日に京を出発。三河に着く頃には二万余になっていた。尊氏は、天皇その人に刃向かう意志は当初持たなかったらしい。義貞の進軍に対しても矢作川より西に進むことを味方に厳禁し、指揮を直義に委ねて自身は寺に篭り出家しようと図った。大将がこの有様で足利軍の士気が奮う筈もなく、矢作で新田方の堀口貞満に敗れ、12月2日、手越河原でも多くの兵が寝返って壊走。義貞は箱根で進軍を止める。親王や公家を大将に奉じているため戦陣生活に慣れぬ彼らに配慮する必要があったのと、奥州の北畠顕家と連絡して挟撃しようとしたためである。さて尊氏は一族の危機が迫っていることを知り出陣を決意。自身の恭順を足利家や直義の存亡と引換える気は流石に無かったのであろう。8日に尊氏は二千騎で鎌倉を出立。この時、尊氏は既に髻を切っていたので、家臣達はそれが敵の目印とならぬよう皆尊氏と同じように「一束切」の髪型にしたと言う。直義とただ合流しても守勢に追遣られるばかりであるからと兵力逐次投入を避け11日朝、箱根山を越えて足柄明神の南に出、尊良親王を奉じる脇屋義助の軍勢に奇襲を掛けた。驚いた新田勢は敗走。尊氏はこの時にも常に手柄を立てた味方に下文を出し功に報いている。一方で箱根で直義と対峙していた義貞もこれを受け撤退。翌日、足利軍は佐野山で陣を立て直した新田軍と激戦を演じ、大友貞載の寝返りで勝利を得た。その勢いを見て多くの兵が尊氏の下に集まる。それに乗じて翌日伊豆国府を落とし、義貞を落去させた。この時、交流のあった二条為冬が新田方として討死、尊氏はその死を悼んだ。東で足元を固めるか勢いに乗じて上洛するか議論があったが、勢いあって初めて大軍が指揮下に入るものであったので京へ向かうこととなる。天竜川に差掛かると、橋が架かったままになっていた。渡守の言うには義貞が敗走する際に軍を渡すため架けさせたのであるが、足利軍が渡れぬよう橋を落とそうとしたところ義貞が「敗軍の我等でさえ掛けられた橋を勢いに乗った敵がまた架けるのに造作はない。橋を落とした所で我等が慌てて逃げたと笑い者になるだけで意味が無い。」とそのままにさせたとのこと。足利軍はこれを聞いて涙を流し義貞を疑無き名将と称えたと「梅松論」は伝える。勝てば味方に集まる者が増え負ければ兵は減る、これは古来戦における真理であったが当時は特に露骨であった。新田が勝つと多くの兵が新田に寝返り、足利が勝つと今度は足利に流れる。こうしたことを思い知らされていた義貞は、橋を残して敵に利便を与えることより寧ろこれ以上自分の惨めなところを見せて軍が崩壊するのをより恐れたのである。足利軍は勢いに乗り、叡山の僧兵らの篭る伊岐山城を師直の手で落し京に迫った。
(8)京攻防戦
 京を守る宮方の配置は、瀬田方面で千種忠顕・結城親光・名和長年の二千、宇治方面で楠木正成の五千、山崎で脇屋義助・文観ら七千、八幡付近の大渡で義貞の一万。堀・塀・櫓を設け川には乱杭・逆茂木を築き橋板を外して防備を固めた。それに対し八万に達した足利軍は瀬田に直義と高師泰、淀に畠山高国、芋洗に吉見三河守、宇治には尊氏自らが向かった。翌年正月3日から瀬田で矢による攻防が始まる。10日に山崎で大軍に物を言わせ攻撃。結局四国から駆付けた細川定禅・播磨の赤松円心が敵陣を突破し久我に攻入り洛中に火をつけた。義貞らも慌てて引返し応戦するがこうなっては如何ともし難い。夜、天皇は叡山へ避難した。この時結城親光が尊氏に投降するとみせて尊氏暗殺を図ったが大友貞載に見破られ殺害されるという事件が起こり、重傷を負った大友も翌日死亡。13日に北畠顕家が奥州の兵を引連れ坂本で義貞・正成らと合流。16日、細川定禅率いる足利軍は叡山と対立する三井寺に進出。しかし顕家の到着が予想より早く備えが出来ておらず宮方に敗れる。尊氏らが糺の森から七条にかけて鴨川西岸に布陣したのに対し義貞らは東岸で対峙、華頂山将軍塚、真如堂にも兵を展開。新田軍は兵力不足に悩み、足利軍は大軍故の統制難に悩みつつ終日激戦を展開する間、義貞が前もって尊氏本陣近くに埋伏させていた新田兵が動き、それにより足利軍は同士討ちを起こし京から敗走。一時は尊氏も追撃を受け危うく、三度自害を計った程であったが幸運にも日が暮れて見通しが悪くなり新田軍は撤収、尊氏は命拾いした。新田軍は京から足利軍を追払ったものの京を守れるだけの力は無く坂本へ引揚げ、足利軍は再入京。27日にも激戦があり上杉憲房らが討死。正成が楯を繋ぎ動く城壁を作って足利軍を悩ませたのもこの時の事である。兵力で劣る新田軍が勝利するには敵の総帥をし止める外無いと考え義貞は尊氏を求めて自ら敵中に攻入る。しかし尊氏の運が強かったのか姿を見付ける事は無かった。数日後、義貞・顕家・正成らが乱戦の中討死したとの噂が流れた。そして30日には宮方の兵が叡山から下りて行く。連日の狭い京での合戦で多過ぎる軍勢を自由に動かせず苦戦が続き、更に補給に苦しみ焦りが出たのか、それを見た尊氏は噂を信じこの機に敵を殲滅しようと軍勢を各地へ差向け、洛中は手薄に。その夜、八瀬方面から二条へ宮方が攻撃、尊氏は敗れ2月3日に兵庫に退いた。この噂が正成によるものと分かったのは後の事だった。この際多くの兵が新田軍に降伏、足利の家紋「二引両」の真中を塗潰して新田の旗印「大中黒」に変えたのは有名だ。赤松円心が摩耶に篭城するよう勧めたが、味方の士気が削がれ軍が崩壊しかねないと反対があり円心も結局それに同意。この頃、尊氏は鎌倉幕府滅亡以降に没収された領地はこれを味方に返却するとの布令を出している。鎌倉幕府の系譜に沿った政権を構想している事を全国に宣言したわけである。所領について不満を持つ武士は全国に数多くおり、そうした武士がこれを受けて次々に尊氏の下に馳参じる事になるがこれはもう少し後の話。尊氏は10日に周防の大内長弘、長門の厚東武実の派遣した船で出立。この日、豊島河原で北畠・新田軍と再び激戦、正成が後方の神崎に廻ったので退路を絶たれるのを恐れ足利軍は退却。正成は更に西宮まで来襲して終日戦ったが、日が暮れて敵の所在が不明なのと味方の兵力不足から撤収した。翌日足利軍は再敗北。足利軍と宮方とではこの時士気・勢いが違った。その日円心が朝敵であることが味方の弱みと指摘、持明院統の光厳院から院宣を受け官軍を名乗るよう進言した。尊氏は京での合戦の際既にその不利を痛感し院宣入手のため密使を派遣していたが改めて錦旗の必要を感じたであろう。更に尊氏は九州へ退いて軍を立直すことにしたが、途中室津で要地に味方を配置し新田軍の追撃に備えることに決めた。丹波高山寺城に仁木頼章、四国に和氏・頼春・師氏をはじめ顕氏・定禅ら細川一族、播磨に円心。備前三石城に石橋和義・松田盛朝、備中鞆・尾道に今川俊氏・政氏、安芸に桃井義盛・小早川氏。石見に上杉憲顕、周防に新田大島義政・大内長弘、長門に斯波高経・厚東武実。一族と現地領主の巧みな組合わせである。備後鞆に到着した時、三宝院賢俊が勅使として光厳院の院宣と錦旗を下す。これで足利軍は意気を揚げて西下した。
(9)多々良浜の合戦
 領地である長門赤間に着いたのは20日。25日に少弐頼尚が彼等を迎え29日に筑前芦屋に到着。この時、頼尚は太宰府が菊池武敏に落とされ父妙恵が討死したことを知ったが味方の士気が落ちるのを恐れそれを伏せた。菊池勢が博多に迫っているとの知らせがあったので尊氏は宗像社に陣を置く。3月2日、菊池勢が大宰府から出撃するとの知らせを受け尊氏らは出陣。途中、香椎社の神官の勧めで、敵が笹の葉を目印に付けているのに対抗して宗像社にある神木の杉の枝を目印とした。少し先の多々良浜という干潟の南の外れにある小川の南岸で箱崎八幡の松原を背に菊池勢は布陣していた。その数は七千と「北肥戦誌」は伝える。一方尊氏軍は正面に三百騎余、東側に少弐頼尚の五百騎余、歩兵も合わせるとそれぞれ千余・千五百余であったろうか。尊氏は余りの兵力差に落胆し、切腹を口にするが、直義らに止められて気を取直し、全滅を避けるためまず直義・少弐勢を先陣として出撃させた。菊池勢は正面から攻掛かるが足利軍は歩兵が矢を射掛け敵が怯むのを見て決死の勢いで突撃。折り良く北風が吹き砂や塵を巻上げ、それが菊池軍の兵達の目に入ったため菊池軍は動揺、直義らは追風に乗って打向かう。ただでさえ菊池軍は制圧された豪族達の寄集まりで、内心は後醍醐政権に不満を抱き尊氏に好意を抱く者が多かった。それに対し菊池直属の兵は千人に満たなかったのであるから、大軍といえども戦意は低い烏合の衆で実際に戦闘に加わる者は多くなかった。そこへの風や足利軍の猛撃であるから菊池勢は浮足立つ。勢いに乗った直義は追撃し松原を過ぎる。そこで武敏は大軍に物を言わせて松原の方面と東の2方向に軍勢を分け直義を挟討とうとした。直義は討死を覚悟し、直垂の片袖を形見として尊氏に届けさせ、兵達はこれを見て感嘆した。その時千ほどの敵が小川を渡ろうとし、千葉大隈守が一騎でそれを防ごうとした。それに敵が気を取られた一瞬、尊氏は自ら手勢を率いて突撃し打ち破った。こうして足利軍が有利に戦いを進めるうち、元来烏合の衆であった菊池勢の中で松浦党らが寝返り。更に直義・少弐勢が息を吹返したので菊池本隊の奮戦も空しく勝敗は決し、武敏は辛うじて逃れた。尊氏は味方の団結と的確な指揮に加え、敵のまとまりの悪さと幸運に助けられ、劣勢を跳除けて勝利したのである。この時に限らず指揮における大局観と果敢さに加え、不思議な強運が尊氏には常に備わっていた。将兵に最終的勝利への信仰を抱かせるに足るものである。尊氏を名将と呼んで差支えあるまい。さて戦勝した尊氏は八幡宮に剣を奉納。翌日、降伏した者達を引見の後、初めて妙恵の討死を知り尊氏は喪に服す。兵達はこれを知り尊氏の為なら命も要らぬと思う者が多かったという。しかし頼尚その人が喪を止め菊池追撃に移るべきとの進言をし、尊氏はこれに従った。菊池に勝利した尊氏は後顧の憂いに備え一色・仁木らを止めて、播磨で新田の大軍相手に篭城する赤松円心の救援の為にも上洛を急ぐことにした。
(10)湊川の合戦
 この頃、宮方の行動は極めて鈍かった。まず兵力不足を補う為にも先頃の合戦での大量の降伏者の軍勢組入・処遇決定の必要があり、動くに動けなかった。次に朝廷が勝利に酔って油断し義貞らに出陣の命令を出さなかった。更に政権方の武力を欠き足利の息も強くかかっていた奥州の治安が不安定となり反政府方の手に落ちる危険すら出てきたので3月10日に顕家が帰還しそのため一層の兵力不足を来した。当時義貞が天皇から賜った勾当内侍との愛に溺れたと「太平記」は記すが、事実なら無為に時を過ごさねばならぬ焦りを紛らわせる一面があったのではなかろうか。また尊氏と比べての義貞の不人気(即ち朝廷の不人気)に危機感を抱いた正成が義貞を捨て尊氏と結ぶ様上奏したという。京の将達には苛立・危機感が高まっていたのだ。もし奥州よりも尊氏追討を優先していたなら事態は変わってきたのではと指摘し公家達の戦略眼の無さを非難する声がある。それを完全に否定することは難しいが、瀬戸内での尊氏方の備えは前述の様にかなり堅い。案外時間がかかる危険がありその間に奥州が反政府軍(敢えて足利方とは限定しない)に奪われその勢力基盤となったなら、奪還が難しくなる。そうすると「日本半国」と呼ばれる広大な領域と精強な奥州兵、更に津軽十三湊を中心とした蝦夷との交易で手に入る鮭・小袖などの富を手放す事になるのだ。顕家を奥州に帰したのは当時としてはやむを得ないといえよう。そもそも朝廷は尊氏が西国を押えようとしているのに対抗し敵の本拠である東国の調略に熱心で、その実力的裏付としての必要性もあった。さてこの頃になり義貞はようやく出陣できた。しかし播磨白旗城の赤松円心を攻撃している間に時間を取られた。義貞としては播磨は自身の知行国・守護国であり制圧しておかねば威信低下を来す。それに不足しがちな兵糧を確保する必要もあった、何しろ窮乏した家臣小山田高家が青麦を無断徴収して問題になった位である(畿内では現地住民が連合した「国人衆」の抵抗により兵糧徴発が難しかった)。それでも義助らを派遣して備前攻撃をさせて挽回を図っている。しかしこうした遅れが尊氏再挙を助ける結果になった。さて足利軍は尊氏が海路を直義が陸路を進む事に決め5月10日に博多を出発。途中、味方の旗を掲げた船が接近したので正成の計略と皆身構えたが四国の兵を率いた細川軍であった。足利軍の兵の隅々にまで正成の智略は轟いていたのである。児島に到着した時、満月に二筋の黒雲が掛った様子が「二引両」に見えたので一同は吉瑞と喜んだ。17日には足利軍接近を知り福山に篭る江田行義、三石を攻める義助を破り前進。赤松軍と合流し円心から、寄手から分捕った嘗ての味方だった者の旗を見せられ尊氏は彼等の無節操を咎めず生延びる為に主を替えねばならぬ彼等は不憫だと述べ、家臣達はその寛大さに打たれた。24日には兵庫に近づき明日に備え作戦を練る。一方大軍を迎撃つに不利な兵庫での決戦を命じられた義貞・正成は死を覚悟しその夜歓談した。翌日、両軍は激突。経島に義助の千六百余、灯炉堂に大館氏明の千余、和田岬に義貞の八千余、そして会下山に正成の二千が守っていた。直義は二万の陸軍を三つに分け自身が大手を率い、山手を斯波氏、浜手を少弐頼尚に任せ会下山の正成を攻撃。尊氏・細川定禅率いる三万の水軍は和田岬より先に進み義貞の背後に回る構えを見せる。挟撃を恐れて義貞は細川勢を追う。しかしこれで正成との距離が開き、直義らは楠木軍を包囲、更に吉良氏らの援軍が上陸。正成は驚異的激闘を見せるが力尽き自害。尊氏を始め足利軍は多くの将兵がその死を惜しんだと言う。一方義貞も必死で防戦するが衆寡敵せず敗退、京へ逃れた。

(11)「この世ハ夢のごとくに候」
 敗戦の知らせを受けた後醍醐は再び叡山へ避難。足利軍は仁木頼章・今川頼貞を先陣に入京し、6月5日から直義を中心として叡山攻撃に入る。尊氏は東寺に、直義は三条坊門に本陣を置き今路方面は三井寺、大手の雲母坂は細川勢、横川は少弐勢が受持つ。この日、雲母坂で千草忠顕が討死。連日戦いは激しく足利軍の犠牲も決して小さくはなかった。6月30日、義貞と名和長年が洛中の各所に放火して敵を混乱させ、大宮から義貞が猪熊から長年が尊氏の本陣東寺に突撃。苦しい戦況の中で打開を図る宮方の博打であったが仁木・上杉重能の奮戦で叶わず、長年は討死。結城・楠木・伯耆・千種の宮方「三木一草」皆失われたと囁かれる。それ以後も長く激戦が続く。こうした中8月15日に光厳院政の下でその弟豊仁親王が天皇に擁立された。光明天皇である。翌日、尊氏は清水寺に願文を納めている。そこには、この世は大層儚い物なので隠遁して来世の幸福・魂の安楽を求めたい、現世の幸せは自分の分も直義に与えて欲しいとあったのは余りに知られている。これまで後醍醐・正成ら敬愛すらしていた面々とも血腥い争いをしてきた事に嫌気がさし、更に自身の勢力基盤の心許無さに気付き将来が不安だったのであろう。しかし気紛れな一面のある尊氏はこうした思いにも徹し切れなかった。彼を頼る多くの一族・武士達を捨てる事も出来ず、また彼自身武家の棟梁への望みを遂に捨てられなかったのである。さてこの月28日、導誉が遂に丹波・若狭経由で近江を制圧、叡山の糧道を絶った。これで足利軍の優位が確立、後醍醐の元へ尊氏は和睦を打診した。敬愛する天皇とこれ以上戦いたくなかったのと、円滑に神器を譲受けて光明即位を名実共に整える為であった。後醍醐の譲位・両統迭立・後醍醐方の公家を処罰しない事が条件だったと推測されている。これで和睦は成立したが、捨てられる事になる新田軍が抗議した結果、恒良親王に譲位した上で桐院実世・義貞を北陸に下す事にしてから後醍醐は下山。一方義貞は敵の手の回らない木芽峠を異例の大寒気で大きな犠牲を払いながらも越え、越前金崎に辿着いた。11月2日、後醍醐から光明へ神器は手渡された。この時皇太子として成良親王が立てられた。両統迭立の約束を尊氏は果たす気だったのである。余談であるが元来尊氏は当時としてはかなり皇室への崇敬が強い方だった。彼の作った歌を見ると、
あきらけく岩戸を出し朝より天てる神の国ぞさかゆる 更に 君は百世宝は三の護りにて異国よりも国ぞ久しき
幕末勤皇志士や南朝強硬派の歌と言っても通用しそうである。こんな尊氏が後世に究極の逆賊と指弾されるのであるから歴史は分からない。さて後醍醐は直義により花山院に入れられたが21日に脱出、楠木氏の案内で吉野に入り正統の帝位を宣言した。南朝である(光明天皇の朝廷は北朝と言われる)。尊氏はそれを聞き「実は先帝をこの先警護するのが大変な事だと思っていた。北条氏の様に遠国に流すわけにもいかぬし困っていたのだ。この度御自身の意志で京を出られたのは喜ばしい。天の計らいで結局落着く所に落付くだろう。」と述懐。諦観と言うか投遣りと言うべきか。しかしこれで家臣達は心に余裕を持ったと言う。一方後醍醐は越前金崎に拠る義貞、吉野を中心に畿内の味方を糾合する楠木氏、伊勢玉丸を拠点に海上交通の要地大湊を押える北畠親房、奥州で勢力を再建する顕家を頼りに捲土重来を帰す。
(12)室町幕府
 この頃から足利氏主導の武家連合政権の形が整い始めた。但し鎌倉以来尊氏は政務に関しては全て直義に委ねている。従ってこの機構整備も直義主導で行われたのである。11月7日、是円らに諮問した上での答申を公布。これが建武式目である。まずその中で政権の拠点としては鎌倉が望ましいが異なる意見が多ければそれに固執しないと述べ、以下17条で庶民の生計が成立つよう計らい土倉を復興させ商人・旅人を悩ませないようにと定めている。明らかに洛中施政を意識した取決である。京周辺の情勢が油断できない事、同様に地盤が不充分で商業からの収入も必要としている事から拠点を京に置かざるを得ない現実と鎌倉への未練とを如実に表している。これは足利氏による朝廷公認の下での幕府成立宣言と言える。私は慣例に倣いこの政権を室町幕府と呼ぶ。この幕府は初期において尊氏が武士動員・恩賞給付という主従権を、直義が訴訟処理・行政・一般賞罰という政務権を受持つ二頭体制を取った。鎌倉幕府でも主従権を将軍、政務権を執権という体制になっておりそれが争いの元にもなった。しかし反幕府勢力はなく主従権が強く発動されて大乱に至る事はなかった。一方、室町幕府の方は宮方という大敵が存在した。その為主従権が重要な意味を持ち政務権と激突する事になる。さて鎌倉幕府はまだ充分な実力を持ちながら非主流勢力から総スカンを食う形で滅んだ。特に畿内は既に鎌倉幕府の様な地方領主連合だけでは押えられなくなっていた。室町幕府はそうならぬよう彼らをも可能な限り取込み味方にする必要があった。その結果として同床異夢・その場凌ぎの性格を持つ、その点では建武政権と異ならないが未だ強い力を持つ農業社会を主力としてこれに寛大な政策を取りその欲望を叶えた為割合広く支持される事となった。しかしそれ故に幕府基盤の脆弱さを宿命的に有する事になる。直義の厳格さ・公平さはこれに枠を与え秩序を作る上で不可欠の物であったのだ。さて南朝との戦いも幕府軍優勢に進んでいた。建武四年(1337)8月、北畠顕家は陸奥霊山を出立して再び京へ向かう。その勢いは激しく忽ち鎌倉を落して足利方の斯波家長を滅ぼし、20日余で美濃に入った。青野原で高師冬・土岐頼遠らを破るが自軍の被害も大きく軍再編のため一族の領域である伊勢に入り奈良に向かうがそこで師直に敗れ、河内で再度体制を立直すが結局石津で再び師直と戦い敗死した。この頃北陸の義貞は金崎城を兵糧不足から落され、帝として仰いだ恒良や尊良親王、子の義顕ら挙兵以来の味方を失い瓜生氏の辿山城に逃れる。そこで再び加賀の豪族を中心に兵を集め越前の大部分を制圧し幕府の守護斯波高経を黒丸城に追詰めた。越後の新田一族も呼応し一時北陸をかなり制圧したのだ。戦力の殆どを失ってから練度・忠誠に不安のある新規の軍勢を率いてここまで巻返したのだから義貞はやはり凡庸ではない。しかし暦応元年(1338)閏7月、少数の兵で黒丸城を奇襲しようとした際、流れ矢にあたり戦死。義貞の死の影響は決して小さくはない。全国ではこの戦いを足利と新田の覇権争いと見るのが一般であった。義貞も途中からは御教書を発布し武士の棟梁として振舞っていたし南朝も義貞を武士を誘う際の看板としていた。これで武士の棟梁となるべき人物は尊氏に絞られたのだ。翌月に尊氏が征夷大将軍に任官したのはその現れであろう。「朝敵」を討つと言う「武功」を挙げた事にもなる。さて、この様に全国規模で戦乱が続くと各地を転戦する必要が生じ、兵糧の輸送が難しくなり現地調達をする事になる。前述の顕家の西上で激しい略奪が繰広げられたのはその一例だ。そこで幕府は守護に荘園・公領から年貢の半分を兵糧として徴収する権限を与えた。これが半済である。承久以来荘園の20分の1が地頭領となり更に後に半分が地頭の取分に拡大したが、これで少なくとも徴税権の4分の3が武士方の手に移ったことになる。これにより守護が在地武士を養うことが出来るようになり守護が一層強力になった。この頃の武士達は、「一揆」を盛んに組織した。庶子の独立・同族争いにより従来の血縁結合が機能しなくなった事・支配地で農民達が名主を中心に連合し政治的実力を見せるようになった事に対処するため、平等な成員により規範を定め共同行動を取る集団である。「今日花一揆の大将」という「太平記」の記述からも平等性が読取れよう。例えば尊氏近習の一揆構成員は西国出身者や東国武士など多様であった。この多様性により平等な契約を行う必要性が生まれたのであろう。軍事編成もこの一揆を基本としてなされたのである。将軍や守護はそれぞれこの一揆に糧食を給付する事で配下に収めた。守護がこれで実力を持った結果、各国の権限の代表が国司から移る。他、兵糧料所・要害地の指定、関所・港湾管理の権限も与えられたのである。こうした中、南朝方も親房・顕信・宗良親王らを海路で東国・奥州・信濃に派遣し地方の拠点建設を図った。翌延元四年(1339)8月16日、後醍醐は吉野で崩御。その知らせは28日に幕府の知るところとなり、尊氏直義ともに衝撃動揺した。恩義ある後醍醐に背いた罪悪感があったのかこの後二人はその怨霊に慄き、禅僧夢窓疎石の勧めで天龍寺を建立してその霊を慰めることとした。この際その費用捻出のためとの名目で元へ貿易船が出されたのは知られる。海外貿易により収入を補うという幕府の基本方針が既にここで見られる。因みにこの頃戦乱での使者の菩提を弔うとの名目で各国に安国寺が指定され利生塔が建てられ始めた。各地の寺院を支配下に収めるための宗教政策と見て良いであろう。それまで独立政権であった宗教勢力を再び中央の支配下に置く試みが建武政権に引続き為されたといえる。こうした政策面での動きは前述のように直義が取仕切っており尊氏は専ら動員や守護・地頭の任免などを行っていた。政治に関する限り尊氏は「真空」であった。直木三十五は尊氏を「成功した西郷隆盛」と評しているがその通りかも知れぬ。
(13)直義と師直
この頃政策を担当した直義は、「政道私わたらせ」ず、誠実・厳格をもって通り恐れられた。一例を挙げると前述の青野原合戦で勇戦した功臣土岐頼遠が光厳院の一向と諍いしその車に矢を射掛けた際、断固とした態度で頼遠を処刑。そして田楽など遊興を割合好んだ尊氏と違い一切そうした物を近づけなかった。また八朔の行事で慣例の贈物を賄賂として一切受取らなかった。因みに尊氏は快く全て受取り快く家臣達に全て与えた。そのため夕方に何も無かったのは兄弟共同じであるがその過程に其々の人柄が出ている。名門足利の世継として育ち総領甚六の尊氏とは異なり、代々の婚姻政策により深く入込んだ北条氏の質素を好むそして実利的な血がこの弟には強く流れていた様だ。一方、未だに南朝方の抵抗は根強く、それに対処するため軍事的動員が度々成された。それに当たったのは主従権を有する将軍尊氏であったので、直義の担う平時の政務と次第に摩擦を生じるようになった。この頃、尊氏の命の実行を補佐したのが高師直である。師直は鎌倉時代以来の足利氏の家宰であったが足利氏の当主が政権を掌握するに伴い中央に進出、将軍の親衛隊長として中央軍を指揮するようになった。指揮官としても傑出しており前述の北畠顕家を討つなど度々武功を立てる。特に四条畷合戦で楠木正行率いる南朝主力を壊滅させ吉野を焼討して以来、功を誇り実力のみを信じる傾向が強くなった。直義はその師直と対立を深めるようになったのである。これは主従権と政務権の対立であると同時に実力第一主義と秩序第一主義の対立でもあった。そこへ建武政権以来中央内部に存在した複数の分子が分裂、更に非主流派と主流派の対立が重なっていく。貞和四年(1348)、直義の長男直冬(養子。実父は尊氏)を中国探題として備後・備中・安芸・周防・長門・出雲・因幡・伯耆を管轄させたのも、直義による師直牽制と見る事が可能である。さて専制攻撃に出たのは直義であった。翌五年閏6月、師直を執事から罷免、甥の師世に交替させた。更に光厳院の院宣で師直を討とうとした。一方師直も黙ってはいず、8月に挙兵して直義を襲撃した。直義は尊氏邸に逃れたが師直はそれを包囲し直義側近の上杉重能・畠山直宗・妙佶の引渡しを求めた。尊氏は両者を調停する立場に立ち、和談を進めさせた。重能・直宗の流罪、直義は政務権を尊氏の長男義詮に譲り補佐に回ること、師直は執事に返咲く事で話はまとまる。この過程で、師直は尊氏の内諾を受けて行動していたとも言う。多くの武士が師直の下に馳参じた事からも頷ける。恐らく義詮の将来を案じ政務を直義から義詮に譲って欲しいと思っていた尊氏と師直で利害が一致したのだろう。とここまでは分かるのだが、どうやら尊氏は直義にも色よい返事をしていたらしい。老獪な計算というよりも、寧ろ結局は双方とも自分を立ててくれるだろうとの尊氏の甘えや八方美人・優柔不断さが尊氏をこうした立場に置いたのであろう。それまで義詮がいた関東には、その弟基氏が直義の養子として赴いた。双方顔が立つ裁定になった様であるが、直義の敗北という現実は容赦なく押寄せる。流罪にされるはずの側近二人は殺され、中国探題の直冬は師直の強硬な主張により討伐を受け九州に逃れた。更に直義自身も圧力に耐えかね出家。さて九州へ逃れた直冬は急速に味方を増やす。中央からの自立を求める島津・大友らの有力守護もこれを幕府から自立する機として直冬に服属。これ以後、九州は懐良親王の南朝勢力も含め長い混迷に陥る。こうした情勢を見た尊氏は観応元年(1350)6月に師泰を送るが、石見で苦戦に陥る。尊氏は7月に呼応して背いた土岐周斎を討ってから10月、師直と共に直冬討伐に自ら出陣した。一方その直前、直義は京を逃れて河内に入る。畠山国清・桃井直常ら直義派もこの時に挙兵。そして11月23日に賀名生の南朝へ和睦の使者を送った。南朝は一旦これを拒んだが結局受諾する。この頃南朝を仕切ったのは北畠親房であった。親房は著書「神皇正統記」で知られる様にかなりの復古主義・観念主義者であったが、東国や吉野で苦い経験を重ね現実的駆引に長じてきた様だ。内部にはその思想でアジテーターとして戦意を高揚させる一方、敵には陰謀を用い分裂に付入りキャスティングボートを握って有利に運ぼうと図る。最初に断ったのも高く売付けようとの魂胆に過ぎぬ。さて南朝と和睦した直義は楠木正儀を中心とした南軍や畠山国清と共同し京へ向かい、七千の軍で八幡山に陣取る。越中から北陸の兵を率いて桃井直常が七千で東坂本へ。京を守る義詮は日毎に兵が脱走するので京を捨てた。知らせを受け引返した尊氏・師直は義詮と合流して入京、桃井軍と戦う。この時、東山に陣取る桃井軍に対し師直が五千の兵で西正面から攻撃。激しく戦う間に佐々木導誉の二千が東寺を経由し今日吉に出て桃井軍の背後を衝いた。更に尊氏自らが一万を率いて二条から北白川へ出て側面を撃つ。こうして直常は敗れて関山に逃れたが、にもかかわらず尊氏の兵が八幡の直義の下に流れるため、尊氏は播磨書写山に退いた。一方石見で直義方の上杉軍と戦っていた師泰が勝利し尊氏と合流。八幡から五千の兵で攻めて来た石塔頼房はその勢いを恐れ光明寺に篭る。尊氏らが攻撃し攻倦む間に石塔義基・畠山国清が七千を率い直義軍として後詰。尊氏軍二万は挟撃を恐れ兵庫に逃れた。尊氏らは味方を2つに分け挟撃する作戦を立てたが、国清は衝突を避け兵を松や藪に伏せて矢を射掛ける。苛立った師直らは突撃するが犠牲を増やすばかり。そこへ畠山軍の攻撃を受け敗走。一方南に控える別働隊も石塔軍の攻撃を受け劣勢であった。結局、師直・師泰兄弟が負傷し戦いに敗れる。更に関東で師冬が上杉憲顕に滅ぼされたと知らせが入り士気は低下。2月20日に尊氏は直義に使者を送り和睦を打診した。実はこの頃尊氏は旗印を欲する師直兄弟により人質同然の状態になっており、命の危険さえ感じて直義と連絡し師直らを除こうと考えたとも言われる。かくして和議が成立し26日、尊氏一行が兵庫を出たところ上杉能憲の手勢が混り込み師直一族を殺害。権勢を誇った執事としては実に無残な最期であった。

(14)「正平一統」
 尊氏・直義兄弟は入京し、この度の合戦の賞罰について話合う。その席で尊氏は自分に従った将兵への恩賞を優先させるよう主張し直義を困らせた。直義は味方を集めるに当り恩賞の約束をしていたので、これを容れると味方への約束が不可能になる。しかし尊氏が将軍である以上恩賞の権限を行使できるのは尊氏だけなのであった。結局将軍に最後まで付従った武士の恩賞をまず行い他の賞罰はそれから行う事となった。更に尊氏は師直を殺した能憲を処刑する様求めたが、直義の取成しで流罪と決まった。尊氏は身の危険から師直を除こうと考えた事はあったが、実際の暗殺にはどうやら了解してなかったらしい。この日、直義の勝利に貢献した細川顕氏が尊氏を訪れた際、尊氏は降参人の分際で将軍に面会を求めるとは何事かと一喝し顕氏は引下ったという。どうやら尊氏は、争ったのは直義と師直であり自分は積極的には関わっておらず従って負けてもいないと考えていた様だ。何とも夢想的・御都合主義的である。尤も面白い事に周囲もそれをある程度認めていた様である。しかし実際の幕府政治運営となると話は別であった。執政には義詮が引続き就き直義が補佐という形になったが引付は直義派で固められ直冬は鎮西探題となった。完全な直義の勝利である。一方、直義は今回の事を機に南朝との和平交渉を始めたが、直義が時代は武家支配を求めている事を説き幕府存続を前提として持明院・大覚寺両統の迭立を条件としたのに対し、南朝はとにかく南朝方による皇位継承・天下一統が大前提としたため議論が噛合わない。更に所領問題も絡んで紛糾化し、結局決裂。この際双方を取持った楠木正儀は固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走っている。さて直義は対南朝だけでなく尊氏との関係も破綻を迎えつつあった。先の武力衝突で尊氏直義間の感情・利害の対立が顕在化つつあったのだ。中でも義詮の処遇問題がそれに拍車をかける。権力の相続問題において兄弟は最大の競争相手であり争いは苛烈を極める物になるのが常ではあるが、この仲の良かった兄弟ですら例外では有得なかったのかとの感がある。そして何より非主流派・畿内武士を中心とする反直義派が尊氏を旗印に結集しつつあった。観応二年7月、佐々木導誉・赤松則祐が幕府に背き、尊氏は導誉を討つため近江へ、義詮は則祐と戦うため播磨に出陣。しかしこれは尊氏父子が両者と示合わせ京の直義を挟撃するための偽装であった。それを覚った直義は8月1日に自己の党派を率いて味方の勢力が強い北陸へ向かう。尊氏は和平を打診するが事態は動き出しており最早そんな事では止まらない。9月、近江八相山で尊氏は導誉ら一万の兵を率い直義軍二万と睨合い。小競合で佐々木勢に直義方が敗れ、直義軍は意気阻喪した。この機を捉えて再び和平交渉が持たれたが尊氏派と直義派は其々の頭領二人の意志を離れ最早妥協の余地を見出せなかった。止む無く直義は鎌倉へと引揚げる。一方尊氏はこの頃南朝に使者を送っている。この時も親房は軽々しく話に飛付かず焦らして有利な条件を引出そうとした。その結果、政権を全面的に南朝方に返す事で話がまとまり11月2日に南朝の勅使が入京、尊氏は後村上天皇から直義討伐の綸旨を受け鎌倉へ出陣。それにしても直義の条件と比べると何とも無節操なのは否めぬ。これでは何の為に長年戦ってきたのか分からない。この交渉には義詮が主導的役割を果たし尊氏自身は息子に委任していたらしい。尊氏も相変わらずであるが、義詮もこの父にしてこの子と言わざるを得ない。さて尊氏方はこの結果、9日から北朝方の年号「観応」を廃し南朝方の「正平」を用いる。この和平を「正平一統」と呼ぶのはそのためである。南朝方は洞院公賢を北朝方の代表役に指名し折衝に当らせ20日には北朝方の神器を偽物として接収、公家・寺社の官位や領地も建武政権の時点に戻す事とした。一方11月30日、薩多山に尊氏は到着。今まで三千程しか集まらぬためこの地で宇都宮ら関東豪族の来援を待つ。直義は一万を率いて伊豆国府に本陣を置き、山を包囲。一方で宇都宮を討つため桃井直常に一万を与え上野に向かわせた。直義の攻撃に対し尊氏は高地の優位を生かし山に立篭もり石を落とし矢を射掛ける事で凌ぐ。この頃、宇都宮氏綱と桃井が合戦していた。12月15日、数千程しか兵の無い氏綱は北・東・南の三方から不意打ちして桃井軍を破る。尊氏救援のため進軍するうち軍勢は数万に達し27日に竹の下に到着。挟撃される形となった直義軍は日毎に兵が脱走、伊豆国府に篭る直義は数日後降伏し尊氏と共に鎌倉に入った。やがて師直兄弟の命日2月26日に直義は急死。尊氏により毒殺されたとも言う。真偽の程は不明だがこれがその後の尊氏に暗い陰を落したのは疑い得ない。直義派はこの後直冬を奉じて戦う事になり天下三分の形勢は変わらなかった。
(15)北朝の崩壊と再建
 この時、新田義宗・義興、脇屋義治が蜂起。鎌倉へ向かい進軍するうち九千に達した。この時鎌倉の尊氏の下には千余の兵しかおらず、安房・上総に逃れる様進言する者もいたが、それでは関東各地の味方と合流できないとして、武蔵へ出撃しながら兵を増やす事にした。案の定進むうち兵が集まり、数日で八千に。石塔義房が、本陣に入込み乱戦に紛れて尊氏を暗殺しようと目論み、息子頼房に打明けるが、頼房は同意せず尊氏に通告。義房は断念して立去った。閏2月20日に新田勢と衝突する際には尊氏軍は一万余になっていた。双方軍を五つに分けて合戦したが、3番目の花一揆の戦いぶりが無謀で打破られ、意気阻喪した尊氏軍は敗走。尊氏は追撃を受け切腹を覚悟し鎧を脱ぎかけるが、またも日没のため敵が退返した。尊氏は相変わらず決定的敗戦はしない。「太平記」も義宗らが「将軍の御運」に妨げられたと記す位である。尊氏は石渡で落付き充分な兵力が溜まるのを待ち、義宗は笛吹峠へ向かい軍を集める。深追いした義興・義治は居合せた仁木義長の兵に打破られた。これで多くの兵を失った義興・義治は討死を覚悟、同じならいっそ鎌倉を狙おうと決意。鶴岡から駆下りた所、三浦に出撃し帰ったばかりの基氏軍は疲れた所に不意を打たれ、奮戦及ばず撤退。新田軍が鎌倉を手に入れた。一方義宗は笛吹峠で上杉憲顕と合流し、信濃から来た宗良親王を大将に奉じて二万の兵を擁した。石渡の尊氏の下にも千葉氏・小山氏政・宇都宮氏・佐竹氏・常陸大掾氏など関東の大族が駆付け八万に達した。2月28日に両軍が激突し南朝方は山を背、両脇を川にして挟撃されない様にし勇戦するが、尊氏が兵力に物を言わせ勝利。宗良親王や憲顕は信濃へ、義宗は越後へ逃れた。鎌倉の義興らも兵力が少なかったため撤退し足柄に隠れた。この時上杉軍の長尾弾正らが大将首を討取った味方を装い尊氏本陣に紛れ尊氏を暗殺しようと図ったが、彼らの顔を知る者がおり失敗、長尾らは脱出し「あはれ運強き足利殿や」と言うより無かった。この頃、義詮の守る京に南朝方の兵馬が殺到。それまでも南朝方の要求は厳しく、ともすればこれまでの武士の権限も否定されかねないので遅まきながら事の深刻さに気付いた義詮は抗議していたのだが遂に決定的な事態となったのである。正平七年(1352)2月26日に後村上は賀名生を発し閏2月19日に八幡に進駐。翌日に京に攻撃をかける。義詮も以前から必死で軍勢を集めてはいたが充分な兵力を得る事は出来なかった。更に守り難い京が戦場となり大敗して近江の佐々木導誉の下に逃れた。しかしこの時、何と北朝の光厳・光明の両上皇と崇光天皇の身柄を確保するのを忘れたのである。尊氏・義詮とも意識的に北朝を軽んじたと言うより目の前の事態に追われてそこまで気が回らなかったのであろう。直義が北陸に移る時でさえ北朝皇室の安全を案じたのと対照的であり不注意の謗りは免れない。三人は南朝方の手に落ち河内に連行された。義詮は正平の年号を放棄し再び観応に戻し、各地に動員を発した。佐々木・土岐・赤松や旧直義派の山名もこれに応じて京を包囲。南朝は幕府の分裂に乗じて成功を収める事が出来たが、自身の戦力が余りにも弱すぎ更にその政策が現実離れし過ぎて人々を味方に留める事が出来なかったのだ。更に南朝方を悩ませたのは兵糧の欠乏であった。現地調達もままならぬ状況で次々に寝返る者が増え、5月11日に幕府軍の攻撃で八幡は陥落。四条隆資の討死など大きな犠牲を払いながら後村上はようやく賀名生に逃れた。この京都攻撃は新田氏の鎌倉攻略戦と打合せで行われ、東西の両拠点を手に入れると共に尊氏義詮の両首領も片付ける計画であった。更に九州・奥州・信州でも一斉蜂起させ南朝の逆転を図った壮大な戦略である。親房は機を活かし考えられる限りの最良の計画を立てたと言って良いが前述の様な構造的弱点故に戦火を維持する事には無理があった。さてこれで危機に陥ったのは南朝のみではない。幕府方も奉ずべき朝廷を失い困惑していた。結局崇光天皇の弟弥仁親王を天皇にすることにしたが神器もなく皇位を保証する「治天の君」(天皇家の惣領)もいない。そこで止む無く唐櫃(神鏡の容器)を神器の代用とし、親王の祖母広義門院を「治天の君」に見立てることにした。広義門院は当初、義詮を光厳・光明・崇光の仇として責任を追及し弥仁の擁立に反対したが、結局折れざるを得なかった。継体天皇を先例として弥仁擁立は強行された。後光厳天皇である。この経緯のためこれ以後の北朝はその正統性に問題が残る。幕府が南朝に対し一種の引目を感じる所以であり義満時代の「両朝御合体」までこの問題を引摺る事になる。
(16)晩年
 直義と師直との対立以来、幕府内での利益争いが露になり多くの武士達が尊氏から簡単に離反するようになっていた(その代り尊氏の寛大さや状況変化から簡単に帰参する)。文和二年、佐々木導誉と対立した山名時氏が南朝に降り、義詮を破って入京。義詮は後光厳天皇を擁して近江に逃れる。前回で懲りたのかこれ以後、幕府は後光厳の身柄確保に気を配る事になる。一方時氏は京都支配が四条隆俊ら南朝方に握られ不快なのと兵の脱落とからやがて京を明渡した。翌年には関東を平定しようやく尊氏が帰京。一方時氏は直冬と手を組み、南朝の綸旨を受け上洛。伯耆から直冬・山名軍は兵を吸収し七千に達する。越中からは桃井軍が三千の兵で上洛、斯波高経も合流。12月24日、尊氏は後光厳を連れ近江に逃れ、義詮は三島郡に入った。やがて尊氏の下に土岐・佐々木・仁木らが参じて三千。翌年1月22日には東坂本に進出、叡山・三井寺とも尊氏に味方した。義詮の下には中国・四国の兵が集まり七千に達した。一方南朝方を見ると直冬は東寺を本陣に斯波・桃井ら六千。時氏ら五千は淀・鳥羽・大渡で防衛線を張る。南では四条隆俊を大将に石塔頼房・楠木正儀ら三千が八幡に陣取った。2月6日、山名軍は楠木らと共同して三島の義詮軍を攻撃。義詮の陣取る高地は見晴らしは良いが麓は却って見え難い。そこを衝いて時氏の子師氏が二千で奇襲を掛けた。義詮の西の陣二千は不意を衝かれ潰走。南の陣細川頼之の三千であったが彼らも地形の険阻さを頼み油断する所を時氏や山に慣れた正儀軍の奇襲で敗れた。勢いに乗り義詮の本陣に迫るが、赤松則祐の手勢が矢を注ぎ、南朝方の怯んだ所へ騎兵が突進したので狭い道で進めず、更に気勢を殺がれ敗走。そこへ先に敗れた残兵が駆付け南朝方は大敗、時氏らは辛うじて逃れた。味方の勝利を知った尊氏は翌日東山へ前進、一月半に渡り激戦を繰広げる。3月13日、糧道を絶たれた事から直冬らは八幡・住吉・天王寺・堺へと落去した。「太平記」によると直冬は八幡宮で神託を聞くが「タラチネノ親ヲ守リノ神ナレバ此手向ヲバ受ル物カハ」とのことであったので、神意が尊氏にある事を知った兵達が逃去ったと言う。直冬に実父と戦う後ろめたさがあったのは確かで、これが直冬軍の士気を振わせ無かったという事であろう。この後は暫く小康状態が続く。降伏すれば本領を安堵する尊氏の寛大さから、背いた武士達も大概は帰参したりするので不安定ながら幕府の優位は一貫して保たれていた。南朝との和解工作も行われたらしい。そのためか南朝に捕われていた光厳・光明・崇光の三上皇も解放された。この頃、義詮を直義の後釜に据え尊氏がそれを後見する体制に変化している。そして訴訟を審議する引付が五局から三局になり、義詮自らの判断で採決する部分が多くなった。幕府内乱を経て嘗ての二頭政治から将軍専制体制へと変化を遂げたのである。そしてそれは農業と商業両勢力を取持つのに適した近世的体制ともいえる。さて九州の方では尊氏・直冬・南朝の三つ巴の結果、懐良親王を擁する菊池武光が力を強めておりこれを討つ必要があった。しかしその準備に入った延文三年、尊氏は背中に癰ができて病床につく。2月13日、幕府は急に直義に従二位を追贈するよう朝廷に求めている。こうした中、後醍醐のみならず直義の怨霊も恐れられたのであろう。結局、4月30日に尊氏は癰で没した。54歳であった。等持院殿仁山妙義居士と戒名が贈られ、従一位左大臣を追贈された。長禄年間には太政大臣を贈られている。
(17)その後
尊氏の没後、後を継いだ義詮は苦しみながらも父の築いた相対的優位を保ち有力大名を帰順させることでそれを拡大するのに成功。その子義満の代に至り、有力者の相次ぐ死・「よはきものは罪少けれども御不審をかうぶり可失面目。つよきものは雖背上意、さしおかれ申べき」と評される卑屈さと傲岸さを併持つ悪辣なまでの義満自身の手腕により相対的優位は相対的安定へと発展を遂げる。しかし所領が少なく、収入の多くを商工業者からの税・貿易収入といったまだ国家を支える程には成長していなかった貨幣経済に依存せざるを得ない将軍家の実力基盤は不安定なままであった。義満の死後、再び有力武士達の間で領地・権力争いが起こり、それをまとめきれない将軍家は応仁の乱で形骸化。もはや相対的優位すら失い戦国の世を迎える。結局日本に安定した権力が回復するのは織豊時代を待たねばならなかった。
(18)「逆賊」?「代表的日本人」?
恒例の蛇足である。まず以上から読取れ、また広く伝えられる尊氏の人柄をまとめてみよう。夢窓疎石の「戦場で勇猛、慈悲深く人を憎まず、気前が良く物に執着しない」との評からも分かるように寛大さ・気前の良さ・気配りの良さ・大らかさ・といった美点が挙げられる。他にも禅を修め地蔵菩薩を尊崇などの信心深さ、和歌・連歌を好む教養深さが認められる。しかしこれは恵まれた環境で育ったため生まれた性質であることを考えると、甘さ・夢想性・小心さ・迷信深さ・投遣り・内弁慶といった弱点も同時に現れるのである(尤も、これが気遣いの必要の無い戦場での勇猛さにつながるのであろう。しかし一方で意外な時に冷酷さを現す基にもなった)。ところで、こうした長所短所を列挙してみると、尊氏個人にとどまらず、大陸の超大国の圧力を朝鮮半島に引き受けてもらい、更に大海に隔てられた恵まれた環境で歴史を育んできた日本人一般にも当てはまる気がするのである(誤解され不人気な所まで似ている)。もしかすると尊氏こそが日本人の特質を良く備えた「日本人の中の日本人」かもしれぬ。次に、皇室を苦しめた人物は多いのになぜ尊氏だけが「逆賊」なのであろうか?この問は「なぜ正成は人気があるのか」という問と対である様に思われる。菊池寛はその答えを「楠公父子を向うに廻したから」と考え、それが「彼の最大の不幸」であったとしている。同感である。これをもう少し詳しく考えて見よう。「新田の末裔」徳川氏の一部は「先祖」顕彰のため南朝を正統化した。その結果として正成が浮かび上ってくる。やがて国家の自我を体現する者として天皇が擁立されるようになるとそのモデルとして建武新政が求められ、正成はそこでもその守護神として祭上げられ教育で「最も正しき日本人の典型」として植付けられた。その対比として尊氏は「憎むべき逆賊」としてスケープゴートを担う事となる。尤も具体的「悪行」は希薄で、尊氏の人物像を具体的に見るとそこに悪人の姿を見出すのは困難であろう。と言うより後醍醐天皇の立場を絶対視しない限り悪人呼ばわりが不可能なのだ。そのため尊氏を非難する者はその具体的行動には殆ど触れていない。大仏次郎などは正成を皇国史観下で称える小説中、尊氏を詳しく描く際にその人物・言分を認めざるを得なかった。正成を高く評価し、個人の野望よりも先祖の遺言に従い源氏の棟梁として天下を取ろうとする尊氏の姿が描かれているのだ。昭和九年に中島商工相が尊氏の人間性を誉めたため弾劾を受け地位を追われたが、これは所詮政敵による言掛かりに過ぎぬ。戦中の右翼の巨頭として知られる大川周明でさえ、「勤皇論を離れて、其の人物に於てのみ見れば」と断った上で尊氏・直義を「武士の上に立ち得る主将の器」とし尊氏の大胆・宏量・温情・無欲・天皇への追慕、直義の正直・細心・才幹を称えているのである。さて、「逆賊」尊氏像を受入れた日本人は心理の底で、尊氏は人間的弱点を多く持つ己と同じ現実存在として、そして正成は見るからに輝かしい伝説の住人として捉えた。二人はいわば後醍醐という鏡を挟んだ日本人の実像と虚像なのである。人間は概して己に不満を抱くもの。日本人は己の現実像を撃つ事で理想像を希求したのかもしれない。しかし、同時代の人々の多くが曲りなりにも主と仰いだ尊氏の姿を、更にそれを通じて日本人自身の姿を、冷静に見て非難するでもなく過大評価するでもなく有りのままに受入れるべきである。どうあがいて見た所で日本人は「尊氏」なのであるから。さて、国際競争の波に放り出された日本は、「尊氏」克服の努力をすべきなのか、それともいっそ開直って「尊氏」を前面に押出し流されながらも生抜いていくべきなのか。興味ある問題である。尤も、もし世界が誰にも押さえ切れないような混乱に陥ったなら、案外日本の存在が重きを成すかもしれない(救世主にまではなれぬだろうが)。尊氏が混乱の極みにおいて曲りなりにも政権を作ったように。
(19)おわりに
尊氏の伝記と銘打ちながら、直義・義貞を併せた3人分の物になってしまった。おまけに親房・師直論の補足までしている。分量多いわけだ。尊氏が「真空」人間の上、残り二人が尊氏と切離して語れない存在だからねえ…。


参考文献
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫 
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店   http://homepage1.nifty.com/sira/より「梅松論」
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫  
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社 以上を主に頼りにした。
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫 
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
太平記の群像 森茂暁 角川選書 
楠木正成 植村清二 中公文庫 
日本合戦譚 菊池寛 文春文庫
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社 
週刊朝日百科日本の歴史6海民と遍歴する人びと 朝日新聞社
「群書類従 第二十一号 合戦部」より「難太平記」「吉野御事業書案」 続群書類従完成会 
日本中世の社会と国家 永原慶二 新NHK市民大学叢書 
中世の社会と思想上 松本新八郎著 校倉書房
ジュニア日本の歴史3 武士の実力 永原慶二編 小学館 
新講日本史三訂版 家永三郎・黒羽清隆共著 三省堂
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書(皇国史観教育の過程について参照)
新詳高等社会科地図 五訂版 帝国書院
学習まんが日本の歴史11天下の統一 小学館
この2つは距離測定に用いた。
下2冊は、特定思想に染まっているのは否めないが案外良く流れを捉えている。
頼山陽日本外史 安藤英男編 近藤出版社 
「大川周明全集第一巻 岩崎書店」より「日本二千六百年史」
以下は「逆賊論」のため参照。
大楠公楠木正成 大仏次郎 徳間文庫 
錦に燃ゆる楠木正成 古川寅二郎 たちばな出版
物語日本史(中) 平泉澄 講談社学術文庫 

※おことわり
このレジュメでは、合戦描写は主に「太平記」・「梅松論」によっています。軍勢の数についてはゼロの数の増減、騎兵だけの人数として歩兵も計算など納得行くように勝手に調整しました。だから、兵力に関して根拠が弱いことをおことわりします。また、中先代の乱の記述部分での距離計測は少々いい加減な面があるので誤っている可能性があります。御了承下さい。

足利氏と北条氏の関係
義兼室:時政女 義氏室:泰時女 泰氏室:時氏女 家時室:時茂女 高氏室:久時女


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