2001年5月25日
現代日中外交史・上  J.W.



現代日中外交史・上 01/5/25 
I東アジアにおける冷戦体制の形成
II中ソ対立およぴ文化大革命期の日中関係
III米中接近への道
IV日中国交正常化
V日中平和友好条約


T東アジアにおける冷戦体制の形成
[サンフランシスコ平和条約]
 1949年10月1日、毛沢東によって中華人民共和国の成立が北京で正式に宣言された。これによって、米ソの冷戦体制は、東アジアでも形成されることになった。毛沢東はすでに「人民民主主義独裁論」を発表し、新中国はアメリカに対抗し、ソ連をはじめとする社会主義陣営に属することを明らかにしていた。さらに中国はソ連と50年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を締結して、アメリカおよびアメリカ占領下の日本の再軍備に備えた。同条約の第1条には「締約国のいずれか一方が日本または日本の同盟国から攻撃を受けて戦争状態に入った場合は、他方の締約国は全カをあげて軍事上およびその他の援助を与える」と規定されている。6月に起こった朝鮮戦争で、中国軍とアメリカ軍は直接戦火を交え、その後20年にわたる米中対立は決定的になった。
 サンフランシスコ平和条約は、こうした冷戦体制のさなかに締結され、冷戦体制を象徴するものとなった。サンフランシスコ講和会議に中国を招請するかどうかという問題について、中華人民共和国を承認しているイギリスと、承認しないアメリカとの間で意見が対立した。その結果、北京の中華人民共和国も台北の中華民国も参加の機会を与えられなかった。出席を拒否されたことに抗議して周恩来外相は、
「対日平和条約の米英草案は、アメリカ政府とその衛星国の対日単独平和条約を目指した産物であるので、この平和条約草案は対日平和条約の主要目標に関して、声明のなかで中ソ両国政府がしばしば表明してきた意見を無視しているぱかりでなく、このうえもなく不条理なことに、対日戦争に加わった連合国の系譜から公然と中華人民共和国をはずしているのである。日本帝国主義に抵抗しこれを打破する戦争で、最も長期間悪戦苦闘を続けるうちに、中国人民は最大の犠牲を払い、また最大の貢献をしてきた。したがって中国人民と彼らが打ち立てた中華人民共和国中央人民政府は、対日平和条約の間題において最も合法的権利を持つ発言者であり、また参加者である。中華人民共和国を除外し中国人民を敵視するアメリカ・イギリス両国政府における傲慢な不法措置は、中国人民の決して許さないところであり、断乎反対するところである」と声明を発表した。
 サンフランシスコ平和条約はその後の日本と中国との関係を規定した。中国に関わる問題点としては、(1)中国が会議に参加できず、中国との重要問題が議題とならなかったこと。(2)第2条で「日本国は、台湾および澎湖諸島に対するすべての権利、権限および請求権を放棄する。日本国は、新南群島および西沙群島に対するすべての権利、権限および請求権を放棄する」と明記されたが、その帰属が述べられていないこと。現在新南群島(南沙群島)および西沙群島は中国、ベトナム、マレーシア、フィリビン、インドネシア、台湾が領有権を主張している。(3)第18条で「日本国は、戦争中に生じさせた損害および苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される」が、「日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害および苦痛に対して完全な賠償を行いかつ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認され」、「連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国およびその国民がとった行動から生じた連合国およびその国民の他の請求権をならびに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」と規定したことが指摘される。中華人民共和国はこの平和条約を中ソとアジア諸国に対する侵略戦争を準備するものだとし、周恩来外相は、
「アメリカ政府がサンフランシスコ会議において調印を強制した、中華人民共祁国の参加しない対日単独平和条約は、全面講和条約でないばかりか、まったく真の平和条約でもない。これは日本の軍国主義を復活させ、中ソを敵視し、アジアを威嚇し、新しい侵略戦争を準備する条約に他ならない。中華人民共和国中央人民政府はここに再び声明する。サンフランシスコ対日平和条約は、中華人民共和国の参加なくして準備され、起草され、調印されたものであるゆえに、中央人民政府はこれを不法・無効と考える。したがって絶対に承認することはできない」との態度を表明した。

[日華平和条約]
 中国は中華人民共和国政府、中華民国政府ともに、サンフランシスコ講和会議に招請されず、条約に調印する機会を与えられなかったが、日本が中国との二国間講和条約を北京の中華人民共和国政府と締結するのか、台北の中華民国政府と締結するのかは重大な国際問題であつた。吉田首相はこの問題で苦慮していたが、ダレス国務省顧問の圧力によつて、日本政府には国民政府との間に条約を締結する用意があり、中国の共産党政権との間には二国間条約を結ぶ意図のないことを明言したr吉田書簡」が作成された。この書簡は公表され、中華人民共和国側の激しい抗議を招いた。章漢夫副外相は、この書簡はアメリカ政府と敗戦後の日本政府が、サンフランシスコ平和条約締結の後に、再ぴ中華人民共和国へ加えようとする最も重大で、最も露骨な挑戦行為であり、アジアで新しい侵略戦争を準備するものである、と非難した。
 日華平和条約をめぐる日本と台湾の国民政府との交渉は難航した。国民政府側は、国民政府こそが全中国を代表する唯一の合法政府であると主張し、この交渉によって完全な平和条約を締結することを要求した。日本側は条約の適用範囲をあくまでも国民政府が現に支配している台湾・澎湖諸島に限定されることを要求した。国民政府側の賠償要求に対しても、日本側は適用範囲が大陸を含まないことを理由に、議論の対象とならないと拒否した。このように双方の目的が異なっていたので、出来上がった条約は妥協の産物となった。重要な事項が議定書、交換公文、議事録で規定されており、形式的に整わない条約となった。
 日華平和条約はサンフランシスコ平和条約と吉田書簡に依拠し、(1)「日本国と中華民国との問の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する」(第1条)、(2)「中華民国は、日本国民に対する寛容と善意の表徴として、サンフランシスコ条約に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する」(議定書)、(3)条約の適用地域について「中華民国政府の支配下に現にあり、または今後入るすべての領域に適用がある」(交換公文)ことを確認した。賠償問題に関しては、サンフランシスコ平和条約で連合国が放棄したことでもあるし、日本に対する多額の暗償請求は、日本の共産化を招く危険があるとする蒋介石の言明にもあるように、冷戦的思考のもとに処理された。この条約によって、その後20年間にわたる日本の中国政策が規定されたが、中国大陸全体を現に支配している中華人民共和国政府を無視して、台湾の中華民国政府が全中国を代表するとみなすことは、やはり大きな虚構があった。

[日中関係の中断へ]
 日華平和条約締結以来、日中関係は対立し、全面的な交流の中断にいたった。1950年代後半、日本は戦後の復興期を脱し、国際的にも国連の非常任理事国に当選し、岸内閣の登場とともに、自由世界の団結をめざして、積極的な対米政策を推進した。一方、中国は反右派闘争を経て、対ソ自立化をめざす野心的な大躍進政策を展開した。
 1958年5月、長崎のデパートの中国切手展に掲げられていた中華人民共和国の国旗を暴漢が引き下ろすという事件が起きた。長崎地検は、日本が中華人民共和国を承認していないので、「外国の国章に対する罪」にあたらないとして、器物毀棄罪という軽微な罪名で処分した。陳毅副総理兼外相は、
「中国の国旗を侮辱した長崎事件は、岸内閣が直接容認し、その保護のもとにつくりだされたものである。これらの言動は中華人民共和国に対する侮辱であり、六億中国人民に対する故意の挑発であり、岸信介はこれによって生ずる一切の結果に対し完全に責任を負わなければならない。岸信介のこうした態度は、日本人民の願いを代表するものでないことをわれわれは知っている。日本社会党は岸信介と違い、“二つの中国"を認めない立場に立ち、中華人民共和国と国交を回復することを主張している。日本人民と一緒になって、中国敵視の政策を放棄するか、それとも一途に米国に追随し、あくまで中国敵視の政策を続けるのか、岸信介は自ら選択しなければならない。岸信介があくまで中国を敵視する決意であるならば、必ず自業自得の憂き目を見るだろう。中日両国人民の友情は打ち破られない。両国人民の友情は、どのような妨害破壊にあっても、ついにあらゆる障害を排除し、絶えず発展しているものとわれわれは信ずる」との談話を発表した。
 さらに戦時に日本に強制連行され、その後山中に潜み、14年ぶりに発見された劉連仁事件(1958年2月)とそれに対する日本政府の措置は、日本の中国侵略に対する中国人の怒りを爆発させた。こうした状況の中で、中国は日本との交流をほぼ全面的に中止した。
 他方、中国は日本国内の安保改定反対闘争と日中関係の正常化を主張している政党・団体を招請して、支援と連帯を表明した。1959年3月、日本共産党代表団(宮本顕治団長)と中国共産党との会談には、毛沢東主席、劉少奇副主席、ケ小平総書記が出席した。会談後、「両党代表団は、日本反動派の欺瞞的なやり口を糾弾し、また日中両国人民の一致した努力によって、アメリカ帝国主義と日本反動勢力のあらゆる妨害を排除して、日中両国の外交関係を回復し、両国人民間の経済と文化の交流ならびに友好的な往来を発展させることが必ずできるものと確信するものである」との共同声明に調印した。日本社会党との共同声明では、「(1)中国敵視政策をやめること、(2)“二つの中国"をつくる陰謀に加わらないこと、(3)日中の国交正常化を妨げないこと」の三原則が表明されている。


U中ソ対立およぴ文化大革命期の日中関係
II[池田内閣の対中政策とLT貿易]
 1960年代の東アジアは激動の時代であった。とりわけ中国にとって、危機的な状況の連続であった。大躍進政策の失敗の結果、経済の破局が訪れ、農業生産の低下により、1500〜2000万人と推定される人口が栄養失調のため死亡した。工業生産も崩壊し、中ソ対立に伴って、ソ連が中国に対する経済・科学技術援助を停止したことが事態を深刻にした。次いで60年代半ばからベトナム戦争が激化し、中国はアメリカとの戦争に備えて大規模な準備体制をとり始めた。同時に、ソ連との戦争にも備えなければならなかった。そして66年から文化大革命の激動が10年問の長期にわたって中国を支配したのである。
 この間日本では、岸内閣に代わり、安保問題で混乱した政局を収拾するために、池田内閣が登場し経済政策を掲げた。池田内閣は発足当初、アメリカとともに1961年の第16回国連総会で、中国の国連加盟を総会の3分の2以上の賛成を必要とする重要事項に指定する「中国代表権問題重要事項指定方式」の共同提案国となって、中国の激しい非難を浴びた。その一方で、池田内閣は中国との経済関係の修復を慎重に試みた。1962年松村謙三が訪中、周恩来総理、陳毅副総理と会談し、「双方は漸進的かつ積み重ねの方式をとり、政治関係と経済関係を含む両国の関係の正常化をはかるべきである」との合意に達した。この合意のもとに日本政府は63年倉敷レイヨンのビニロンプラントの延べ払い輸出を許可した。64年には廖承志・高碕達之助のLTラインで、日中両国の連絡事務所の設置と新聞記者交換協定が結ばれ、長期総合覚書貿易「LT貿易」は順調に発展するかにみえた。
 台湾はこの動きに警戒を示し、63年に起きた中国人通訳・周鴻慶台湾亡命未遂事件を契機に、日本政府に対中プラントヘの日本輸出入銀行の延べ払い使用をやめるよう圧力をかけた。64年池田首相は収拾を図るため、吉田元首相を台湾に派遣した。吉田元首相は蒋介石総統と会談し、以下のような「中共対策要綱案」が成立した。「(1)中国大陸六億の民衆が自由主義諸国と平和的に共存しつつ、これら諸国との貿易を拡大して、世界の平和と繁栄に寄与できるようにするためには、中国大陸民衆を共産主義勢カの支配より解放し、自由主義陣営内に引き入れることが肝要である。(2)日本、中華民国両国は具体的に提携協カして、両国の平和と繁栄を実現し、自由主義体制の具体的模範を中国大陸民衆に示すことにより、大陸民衆が共産主義政権より離反し、共産主義を大陸から追放するよう誘導すること。(3)日本は“二つの中国"の構想に反対すること。(4)日本と中国大陸との貿易は民間貿易に限り、日本政府の政策として、中国大陸に対する経済的援助に支持をあたえることは厳に慎むこと」
 この要綱は当時秘密にされた。吉田は帰国後、中国向けプラントに輸出入銀行の融資を承認しない旨を述べた書簡を台湾に送り、これが「吉田書簡」として流布した。このため予定されていた大日本紡績(ユニチカ)のビニロンプラントは破棄され、これ以後プラント輸出はすべて破棄されることになった。これ以後、国民政府と外交関係を継続し、中国大陸と貿易を行う「政経分離」が日本政府の基本方針として再確認され、問もなく池田首相は辞職し、佐藤政権に代わった。

[「中間地帯論」と核実験の影響]
 中ソ対立の激化に伴って、中国の対外政策や戦略は、これまでのソ連を中心とする杜会主義圏との連帯よりは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの第三世界およぴヨーロッパ諾国・日本との連帯を強調する「中間地帯論」を基調とするようになった。中国も日中関係の改善を真剣に考えるようになり、1963年には郭沫若を名誉会長、廖承志を会長とする中日友好協会が設立された。毛沢東は中国との国交を64年に樹立したフランス(ドゴール)を賞賛し、アメリカ・ソ連に反対する、これら中間地帯諸国の独占資本と保守派を含めた統一戦線を提唱するようになった。貿易も次第にソ連・東欧諸国から日本・西欧諸国との貿易に比重が移っていき、65年中国の対外貿易はソ連に代わって日本が一位となった。
 中国は経済困難にもかかわらず、核開発に懸命の努力を傾け、64年10月核実験に成功し、67年には水爆実験に成功した。これは米ソはもとより、日本の各界に複雑な影響を与えた。とりわけ核実験禁止、核拡散防止、核兵器廃止を主張していた社会党、総評(日本労働組合総評議会)に大きな衝撃を与えた。これまで中国との友好関係を維持していた総評は、「我々は人類最初の原水爆被災国として、いかなる国の核実験にも反対する」と表明した。そして原水協(原水爆禁止日本協議会)・社会党・総評などを中心に原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が結成された。

[佐藤内閣と日台関係の強化]
 日本では佐藤内閣が64年11月から72年7月までの長期にわたって政権を担当したが、この時期日中関係は悪化した。佐藤内閣は沖縄返還を最大の政治目標にし、対米関係を一層強化したこと、ベトナム戦争が激化しアメリカがアジアの同盟諸国との協力関係を強化し中国と対立したこと、この時期中国では文化大革命の時期にあたり、中国との外交関係そのものが成立しなかったことがその要因である。
 佐藤内閣の時期に、日本と台湾の関係は強化された、日本は毎年アメリカとともに、国連総会で中国代表権問題を重要事項に指定する提案国の一員となり、さらにアメリカの台湾への援助打ち切りを受けて、65年台湾に1億5000万ドルの借款を供与した。佐藤首相は69年に台湾を訪問し、ジョンソン大統領との共同コミュニケにおいて、「両者は中共が核兵器の開発を進めている事実に注目し、アジア諸国が中共からの脅威に影響されないような状況をつくることが重要であることに意見が一致した」と述べた。
 佐藤内閣は65年6月、日韓基本条約を締結した。中国政府は「佐藤内閣と朴正煕一味は、朝鮮、日本両国人民の強い反対と世界人民の非難を無視して日韓基本条約を調印した。これは米帝国主義が永久に朝鮮を分裂させ、南朝鮮を力で占領し、しかも日本と朴正煕一味を米国の侵略政策と戦争政策に奉仕させようとする企図する一つの重大な段取りである。中国政府は日本政府と朴正煕一味が調印したいわゆる日韓基本条約を決して認めない」との声明を癸表した。これらによって佐藤内閣は、中ソ対立とともにアメリカのベトナム戦争が中国に拡大する危険性を考えていた中国の激しい非難を浴ぴることになった。
 69年11月、佐藤首相とニクソン大統領は、「朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努カを高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である。中共がその対外関係において、より協調的かつ建設的な態度をとるよう期待する。米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを順守するものである。台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」との共同声明を発表し、中国の警戒心を極度に高めた。これに対抗して、周恩来首相が70年に北朝鮮と北ベトナムを訪問し、「世界中のすべての革命的人民は、一致した行動をとって、日本軍国主義の侵路的野望を制止し、粉砕しなければならない。当面の日本軍国主義反対の闘争は反米闘争の一部であり、またアジアと世界の平和を守る闘争でもある、反米闘争を推し進めると同時に、日本軍国主義反対の共同闘争を一段と強化する決意を表明する」との共同声明を発表し、中国、北朝鮮、インドシナによる抗米日の国際統一戦線の結成を呼びかけた。

[文化大革命と日中関係の混乱]
 文化大革命は、イデオロギー対立、路線対立に伴って、これまで日中関係を支えてきた組織に対立、分裂、混乱をもたらした。とりわけ日中両国共産党の対立は大きな影響を与えた。1966年、宮本顕治書記長の率いる日本共産党代表団は、反米国際統一戦線の結成をめざして、北ベトナム、北朝鮮を訪問し、中国共産党と会談したが、毛沢東のソ連を現代修正主義と批判する反米反ソ国際統一戦線の主張と対立した。さらに毛沢東思想を受け入れるか否かをめぐっての対立は、組織の対立にまで発展した。67年『人民日報』が日本共産党を宮本修正主義集団と誹謗するに至って、67年10月10日付『赤旗』は、
「中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、彼らが国際共産主義運動と社会主義、共産主義の事業を撹乱する反マルクス・レーニン主義集団であることを、彼ら自身の内外政策と行動のすべてによって、最近ますます明自に実証しつつある。(中略)すべての事態は、今日日本の革命運動、民主運動の自主的発展を守り抜くためにも、国際共産主義運動のマルクス・レーニン主義的強化を勝ち取るためにも、我が党が毛沢東を中心とする中国共産党の極左日和見主義、大国主義集団の理論と実践の反マルクス・レーニン主義的な実態と本質を日本人民の前に明らかにし、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の原則を踏みにじった、彼らの極左日和見主義、大国主義、分裂主義の路線と行動に対して、一層全面的で系統的な、公然とした批判を強化することが必要になったことを示している」と述べ、毛沢東思想と文化大革命を全面的に批判するまでに至った。
 日本共産党と中国共産党との対立によって、これまで友好団体、友好商杜に強い影響カを持っていた日本共産党系の勢カは排除され、分裂した。その具体例としては、日中友好協会の分裂、日中貿易促進会の解散がある。1950年以来、日中友好運動の中心となっていた日中友好協会は、66年10月に分裂して、中国支持派は日中友好協会正統本部を結成して、「中国のプロレタリア文化大革命の勝利は、中国人民が社会主義革命を最後までやり遂げる根本的な保証であり、また全世界人民の帝国主義に反対し、現代修正主義に反対する闘いにとって極めて大きな貢献である」と述べ、文化大革命支持の態度を表明した。
 文革の混迷が深まる中、日本人記者に対する取材規制が厳しくなり、67年9月には毎日、産経、東京三紙の記者に退去命令が出され、1O月には読売の記者の駐在資格が取り消された。そして68年6月には、日本経済新聞社北京特派員鮫島記者が公安局に逮捕される事件が起きた、こうした事態によって、両国の連絡事務所は機能しなくなった。
 LT貿易も、廖承志が文革のなかで批判されたこともあり、協定を結ぶことができなくなった。名称をLTからMT(MemorandamTrade)貿易と改称すると同時に、その性格も中国が日本政府に政策の変更を迫る機関に変わった。


III米中接近への道
 1972年9月の日中国交正常化には、日中両国首脳の決断が重要な役割を果たしたことは言うまでもないが、米中接近を可能にした国際情勢の巨大な変化がその条件をつくりだしたといえる。これまでの冷戦構造を成立させていた政治的、軍事的、経済的力の変化である。それはサンフランシスコ体制下の米中対立を成り立たせていたアメリカの圧倒的な力の衰退であり、中国とソ連の対立であり、西欧・日本の台頭である。

[中ソ対立]
 1968年8月20日、チェコスロバキアにソ連軍を主カとし、東ドイツ・ボーランド・ハンガリー・ブルガリアも加わるワルシャワ条約軍が侵攻し、ドプチェク第一書記らを拘束・連行して「プラハの春」を夭折させた。周恩来はこれにすばやく反応し、
「ソ修(ソ連修正主義)指導集団は、彼らのマルクス・レーニン主義、国際主義といったべ一ルをすべてかなぐり捨てて、公然と直接武カに訴えて侵略と干渉に乗り出し、鉄砲と大砲で傀儡をでっち上げしようとしている。これはかつてヒトラーがチェコスロバキアを侵略し、また今日アメリカ帝国主義がベトナムを侵略しているのと全く同じである。ソ連裏切り者集団は、社会帝国主義と社会ファシズムになりさがっている。中国政府と中国人民は、チェコスロバキアを武力で占領したソ修指導集団とその追随者の侵略的犯罪行為を厳しく糾弾するとともに、ソ連軍の占領に抵抗するチェコスロバキア人民の勇敢な闘争を断固として支持する」と、ソ連を「社会帝国主義」と規定する言葉を初めて使用した。
 翌69年3月2日、東北地方の中ソ国境であるウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)で両国国境守備隊の武カ衝突が生じた。中国側の報道によれば、ソ連国境守備隊が70余名の兵士、装甲車2台、トラック、指揮車を出動させて、中国国境守備隊員多数を殺傷した。さらに3月15日、ソ連は戦車20台、装甲車30余台、歩兵200余人で航空機の援護のもとに侵入し、その後8月まで銃撃戦などの武カ紛争が継続した。3月11日付『人民日報』社説は、「これはソ修の引き起こした極めて重大な国境での武カ挑発であり、ソ修がつくりだした狂暴な反中国事件であり、またソ修社会帝国主義の残忍な本性の新たな大暴露である。中国人民と中国人民解放軍は、ソ修裏切り者集団のこの凶悪極まる犯罪行為に極度の憤激を表し、最も激しい抗議を行う。ソ修裏切り者集団のこのような強盗行為は、縦に他国の領土を占領し、他国の主権を侵犯し、至る所我が物顔にのし歩いているアメリカ帝国主義とどこが違うだろうか。新しいツアーを打倒しよう!ソ修社会帝国主義を打倒しよう!」と述べている。
 この事件の直後に開催された中共九全大会で林彪は、「ブレジネフが政権の座についてから、ソ修裏切り者集団の指揮棒はますます効き目を失い、内外の困難はますます深刻なものとなっている。対外的にはアメリカ帝国主義との結託を強め、各国人民の革命闘争への弾圧に拍車をかけ、東欧諸国とモンゴル人民共和国に対する支配と搾取を強化し、アメリカ帝国主義との間で中東やその他の地域を争奪することに血道をあげ、我が国に対する侵略の脅威を強めている」と報告し、プレジネフ・ドクトリンを非難した。
 林彪の報告にも見られるように、珍宝島(ダマンスキー島)事件を契機に、中国はソ連の軍事的脅威を現実に悟るようになった。8月、毛沢東の「戦争に備えよ」という指示のもとに、防空体制の整備と全国的な地下壕堀りが展開された。9月、中国は地下核実験に初めて成功するとともに、水爆実験も行った。10月、建国二十周年のスローガンとして「全世界人民は団結して、いかなる帝国主義、社会帝国主義の引き起こす侵略戦争にも反対し、とりわけ原子爆弾を武器として使用する侵略戦争に反対しよう!」が唱えられた。
 9月3日、ベトナムのホーチミン大統領が亡くなると、周恩来・コスイギン両首相はただぢにハノイに弔問に訪れたが、両者が顔を合わせることはなかった。9月11日、コスイギンは訪中したが、中国は北京市内には迎え入れず、周恩来が北京空港で会談した。周恩来はその談話でソ連の奇襲攻撃、核攻撃に警告するとともに、国境地帯の武カ衝突の回避を提案した。しかし中国のソ連に対する評価は厳しさを増すばかりで、70年4月のレーニン生誕百周年に際して『人民日報』『紅旗』『解放軍報』編集部は、
「ソ修裏切り者集団がソ連の党と国家の大権を乗つ取った後、ソ連のプルジョワ特権階層は国家機構の全部を握り社会の富全体を支配する官僚独占ブルジョワ階級を形成した。彼らは国家権カを利用して、杜会主義所有制を走資派所有制に変え、社会主義経済を資本主義経済と国家独占資本主義経済に変えた。(中略)アメリカ帝国主義と同じように、ソ修社会帝国主義の一握りの寡頭は、すでに世界戦争を起こそうとしている一つの元凶となっているのである」と糾弾した。


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