2001年6月1日
解体から再編へ一ソ連形成期における外カフカスと中央アジア  S.Y.


1)初めに
帝政ロシアが崩壌し、ソ連が成立するまでに西の国境は大幅に後退する一方で、アジアに接する南の国境は旧版図を維持することができた。外カフカスと西トルキスタンにおけるその過程をこのレポートで扱う。
これらの地域に多いのがムスリムであり、彼らの存在が革命の様相を多様化した(*1)。1917年以前のロシア帝国において、「ムスリム民族問題」に関心をおいた政党はムスリム自身を除くと皆無であり、ムスリムはユダヤ人と並んで民族として認知される資格さえ疑われていた(*2)。この時期の諸民族の動きに共通するものはヨーロッパ勢カ(ロシア)からの解放の欲求である。結論を言えば外カフカスでは「諸民族の牢獄」の再建、中央アジアの非ウズベク人にとっては新たな民族共存・民族再興の形となった。

2)外カフカス
外カフカスとは現在のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3共和国の領域を指す。これらの地域は激しい抵抗の末に1859年にロシア帝国が征服した。アルメニア人、グルジア人がキリスト教徒であるのに対し、トルコ系のアゼルバイジャン人の多数はシーア派のイスラム教徒であった。19世紀末に石油産業が盛んになり、中心地のバクーは当時イスラム世界で唯一の近代工業都市であった。ロシア人に対する反発は各民族で共通であったが、アルメニア人とトルコ系ムスリムとは対立していた。さらに同地域の国際性として汎トルコ主義に共鳴する知識人の運動や、イラン人季節労働者がバクーと故郷を出入りすることで、物と思想がイランとの間で行き来していた(*3)。
1905年の革命はこの地域に民族主義を貝覚めさせた。社会主義政党は全ての民族に門戸を開いていたが、民族別の社会主義政党も多く誕生した(*4)。ムスリム社会民主党(ヒメント)、やチフリス(現在のトビリシ)のアルメニア人民族政党ダシナクツチェンがある(*5)。
この地域の戦闘は10月革命以後停止した。2月革命の時点で既にバクーとチフリス(現在のトビリシ)はソヴィエトが権力を握っていた。10月革命以後もボリシェヴィキは少数であった。そのため新設の地域全体の組織にあたるザカフカス委員部ではムスリムが半分を占め、ボリシェビキは代表をおけなかった。それでもボリシェビキはこの組織に協力的で、英米仏も承認していた(*6)。
18年3月のプレスト・リトフスク条約がこの地域を混乱させる。バクー・ソヴィエトがアゼルバイジャン人の民族主義政党に襲われる一方で、ソヴィエトのアルメニア兵がアゼルバイジャン人を虐殺していた。バトゥムなどの黒海沿岸都市がトルコに占領された。そこで4月に外カフカスは独立の連邦共和国を結成することとなる。しかし1ヶ月で解体し、グルジアはドイツの支配下でメンシェヴィキ政権が、トルコ占領下でアルメニアではダシナクツチェン政府が、アゼルバイジャンではバクーソヴィエトとソヴィエト・ロシアに対抗する形でアゼノレバイジャン人の民族主義政権が成立した(*7)。
大戦が終了するとトルコ軍と交代でイギリスの干渉軍がこの地域に入り、それぞれの民族政権の後押しをしていた。この間に地域では経済状況が極めて悪化し、民族混住地では民族紛争が発生し、アルメニアとアゼルバイジャンとでは領土紛争が起きていた。
1919年8月イギリス軍が撤退すると、ボリシェビキの活動は3共和国で盛んになり、国内戦の終結にともない赤軍の援助もあって、まずアゼルバイジャンで1920年4月末にソヴィエト政権の支配が確立した。レーニンは5月にグルジアのメンシェビキ政権を承認したが、地方は勿論中央でもスターリンが反対し赤軍の武力でソヴィエト政権化させることを主張した。アルメニアの過剰な欲求はトルコとソ連を結びつけ、9月にアルメニアがトルコ侵攻し失敗すると、アゼルバイジャン経由で赤軍がトルコと同時期に侵攻し、トルコ軍も追い出し、12月にエレバンにソヴィエト政権を樹立させた(*8)。危機に立たされたグルジアのメンシェヴィキ政権は国際的支援をえようと努力するが、スターリンの配下のオルジョニキーゼが密かに赤軍を21年2月にグルジアに侵攻させ、トビリシにソヴィエト政権が確立することとなった。

3)中央アジア
中央アジアとは現在のカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの5共和国の領域を指し、原住民のほとんどがムスリムで、民族的にはイラン系のタジク人もいるが大多数はトルコ系である。
ロシア人、ウクライナ人の移民は鉄道が開通してからであり、移民の大部分はカザフスタンでは農業移民、トルケスタンでは都市部で生活していた(*9)。全体では少数派であったが、革命期とその後を通じて政治権力内では多数派であった。
この地域は1880年代までにロシア支配が確立していた。ブハラ・エミール国とヒヴァ・ハン国の2保護領を除いて直接支配され、20世紀初頭までに開通した鉄道を通じて中央部の綿工業地帯の原綿供給地となった。第1次大戦開戦後、物価の上昇・役畜の徴発に次いで、1916年からムスリムを戦時後方作業に徴集しようとしたことを契機に7月に全地域的な暴動が発生した。残忍な弾圧にもかかわらず、反乱は4ヶ月ほど続き、一部は2月革命と結ぴついた。
2月革命勃発後、中央アジアには権カが鼎立した。臨時政府の機関であるトルケスタン委員会、ロシア人兵士とロシア人鉄道労働者1万8千人を中心としたタシケント・ソヴィエト、それにジャデイド(*10)のムスリム会議とウレマ(イスラム法学者・指導者)のウレマ会議である。10月革命が起こるとまず、トルケスタン委員会が倒れ、「コカンド自治体」を発足さした原住民勢力も兵力を持たなかったため、1918年2月にソヴィエトに屈服した。5月にトルケスタン自治共和国としてソヴィエト政権が成立し、10月の第6回ソヴィエト大会でロシア共和国の一部ではあるが広範な自治権を決めた憲法を採択した(*11)。
トルケスタンでは自治を望む現地のエスエル・メンシェビキが臨時政府のトルケスタン委員会を倒し、現地のボリシェビキとメンシェビキの組織的分離は10月革命以後で、前者は18年6月にトノレケスタン共産党を組織した(*12)。
中央から孤立していた時期(1918-19.9)に独カでソヴィェト権力は勝ちぬいた。戦争は主に都市と鉄道線路が中心で、農村の原住民はほとんど関わらなかった(*13)。一方でコーカンド自治体を残虐に鎮圧するなど原住民の反感を買っていた(*14)。
原住民側の欲求はジャディドのムスリム会議、コカンド自治体、さらにムスリム共産主義者と共通したものがあった。それはヨーロッパ系住民と原住民とを平等に扱うことだけでなく、原住民主体の自治政府の確立、領内のロシア人の軍を原住民主体の軍に代えることであった。これはいずれの派も汎イスラム・トルコといった民族主義的影響にある同じ層からでていることを示している。
中央のソヴィエト・ロシア政府も民族問題を刺激しない様に様々な対策を取っていた、1918年11月に第1回ムスリム共産主義者大会で選出されたロシア共産党ムスリム組織中央が19年3月にトルケスタンに設けた原住民を主とした組織ができ、10月にはトルケスタン問題委員会を作り、現地共産党の原住民政策を批判し、ロシア人活動家を粛清した。1920年1月にはトルケスタンの党組織を再度一本化することを決定した。
1920年は民族主義傾向がソヴィエト・ムスリム地域で急進化していた(*15)。トルケスタンのムスリム共産主義者たちは新しい党を土着トルコ系諸民族の勤労大衆の党とし、名称もトルケスタン・トルコ系諸民族共産党とすべきだと主張し始めた。トルケスタン問題委員会だけでは解決が出来ず、6月にレーニンは暫時的に権カを原住民ソヴィエトに移行する事を確認し、新しいトルケスタン問題委員にムスリムでもロシア人でもない人物を選んだ(*16)。
これは現地のロシア人、ムスリムの両者から歓迎されなかったが、中央からの援助もあって7月には党の臨時中央委員を全員原住民から選び、1920年9月に三万四千人の党員を抱えるトルケスタン地方の党組織が統一された。同じ頃ソヴィエト第9回大会が開かれた。原住民を代議員に大幅に入れる一方で、採択された新憲法は外交・外国貿易・軍事の権限が除かれ自治部分は縮小した(*17)。
ヒヴァ・ブハラの2保護領は10月革命以後、封建層による支配のもとにロシアからの独立性が強まり、反ソヴィエト運動の基地になる。一方でトルケスタンでの一連の動きに刺激されたジャディドの動きも盛んであった。
ヒヴァではトルクメン人のハンが独裁制をしき、革命に刺激された青年ウズベク人を弾圧していた。1919年末に他のトルクメン人反乱軍と赤軍の挟撃でハンが逃亡し、20年2月に臨時革命政府、4月に青年ヒヴァ人党首パルバン・ハジ・ユスポフを長としたホレズム人民共和国が成立した。21年3月にロシア全権代表サフォーノフによる粛清が始まり、ユスボフが逃亡し赤軍が増派された。23年10月に社会主義共和国が成立した。
ブハラ・エミール国では1918年3月に青年ブハラ人のファイズラ・ホジャエフがトルケスタン共和国に蜂起の援助を依頼するが、エミールがムスリムに聖戦を呼びかけ赤軍の入城を阻止していた。20年8月にブハラ共産党が蜂起し、フルンゼの赤軍が入城、10月にホジャエフを首班とするブハラ人民ソヴィエト共和国が成立した。この頃ブハラ東部では反ソヴィエト農民運動のバスマチ運動が展開していた、それを鎮圧する過程で人民ソヴィエト政府と赤軍の協力が強化され、国内の旧支配層の一掃が進展した。1924年9月に杜会主義共和国が成立した。
中央アジアのソヴィエト支配が一段落してから、中央政府がとったのが民族別に自治体の境界をひき直すことである。帝政時代の行政区は民族分布と一致しておらず、将来民族紛争が避けられないこと、土地改革を始めとした改革を住民の支持のもとに進めるには社会的、経済的に慣習の似た民族単位に区分する必要があった(*18)。早くは20年の6月にレーニンが必要性を指摘していた。民族問題の専門家のスターリンはロシア以外の諸民族の結集を好まず「中央アジア連邦」を認めなかったが、一方で1つの国となるとウズベク人が全体を支配する可能性もあり、それを他の民族は警戒していた。
調査の結果、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、トルクメン人、タジク人、カラカルパク人の6民族は区別化され、1924年にかけて中央の党・政府は新区分を承認し、それぞれの政府と憲法が準備された。民族混住地やウズベク人を警戒する民族への配慮をいれて区分は複雑である。まずウズベキスタンとトルクメンの2共和国はソ連構成共和国となった。タジキスタン自治共和国はウズベキスタン共和国に、ロシア共和国の下にカラ・キルギス(後のキルギス)自治州、キルギス(後のカザフ)自治共和国ができ、カラカルパク自治州はキルギス自治州の下に入った(*19)。
中央アジアのソヴィエト化は中央アジア諸民族の民族形成を完成し、ロシア人の指導は諸民族間の実質的平等をある程度まで実現できた。外カフカスとの違いは、ここでは封建的関係があまりにも強く反動的で、それを打破するという点で原住民知識人とソヴィエト政権との間で利害の一致が見られた点であろう。



*1 極端な排外主義を説くイスラム教神秘主義者から、ムスリムであることやトルコ系民族であることを軸としたアジア解放・世界革命を説く「共産主義者」までいた、
*2 山内昌之、『神軍 緑軍 赤軍 ソ連社会主義とイスラム』、筑摩書房、1988年、p7
*3 山内昌之、前掲書、p99、pl01。イラン立憲革命と1905年のロシア第一革命を経験したバクーのイラン人季節労働者との関係は有名である。
*4 山内昌之、前掲書、p97-98。例えぱ、バクーのボリシェビキがアノレメニア人主体であるためにムスリム労働者に不人気であった。そこでレーニンは例外的にヒメントの結成を認めた。
*5 木村英亮、『ロシア現代史と中央アジア』、有信堂、1999年、p203。この政党は1890年に結成され、1907年にマルクス主義綱領を採択した。
*6 木村英亮、前掲書、p204-5
*7 木村英亮、前掲書、p205-6。バクー・ソヴィエトもボリシェビキと他の派が対立し、9月には崩壌した。
*8 『中東現代史I』、山川出版、1985年、p137-8。トルコは反帝国主義運動を支援する国際的同盟者として、ソ連と1920年8月友好条約を仮調印していた。アルメニア国境の町をトノレコに割譲することで、トノレコはアルメニアヘの領土欲求を取り下げた。
*9 木村英亮、前掲書、p158-9.1926年のデータではカザフスタンのロシア人は28万人(全体の20%)で農村部に100万人、ウズベキスタンでは24.1万人(全体の5.4%)で都市部に20.5万人が生活していた。
*10 ジャディドとはムスリムの知識人で、実務的な口語教育の普及によってムスリムを改革し近代化を進めようとしていた人々で、この頃汎トルコ主義の傾向を強めていた。
*11 木村英亮、前掲書、p37。この大会の代議員439人の内、ロシア共産党党員288名、エスエル151名で、ロシア人が大部分であった。中央の政治の動きとはすぐに連動していなかった事に注目。
*12 木村英亮、前掲書、p55-56.1917年11月に開かれた地方ソヴィエト大会の人民委員会議はボリシェビキ7、左翼エスエル8の割合であった。
*13 木村英亮、前掲書、p9
*14 木村英亮、前掲書、p58。コーカンド自治体そのものは必ずしも住民に広く支持されてはいなかったが、崩壊の際の経緯は原住民の反ソヴィエト感を強めたという。
*15 カザフ自治を目指したアラシ・オルダの活動、タタール共産主義者による「自治タタール」の創設、1月からはバシキール人の反乱が始まっていた。
*16 木村英亮、前掲書、p60-61。レーニンがコミンテルン第2回大会の民族別植民地問題についてのテーゼ原案で、汎イスラム主義を批判はこの事態を顧慮したものである。
*17 木村英亮、前掲書、p37。この時の全代議員211名中、原住民代表が106名、党員は194名であった。
*18 木村英亮、前掲書、p11.
*19 この自治州は30年にロシアの下に、32年に自治共和国に、36年にはウズベク共和国の下に入った。


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