2001年7月6日〜13日
後醍醐天皇  NF


(1)はじめに
 鎌倉幕府の衰亡以来、日本を混乱に落とし入れた南北朝時代。その中で数多くの個性的な人物が活躍してきたことはこれまでのレジュメで紹介してきた通りであるが、今回はその元凶とも言うべき後醍醐天皇を取り上げる事にしたい。その深さ・影響・インパクトにおいて彼を凌げる者は南朝にも北朝にも他にいない。後醍醐こそがこの時代の主役と呼ぶに相応しい唯一人の人物であろう。彼が何を目指しどのような構想を練っていたかも考えて見たい。
(2)青少年時代
 尊治(後の後醍醐)は正応元年(1288)11月2日に後宇多天皇の第二皇子として、五辻忠継の娘忠子を母として生まれた。母の実家五辻家の家格が高くなく、後宇多と忠子の関係も深くなかったこともあって幼年期は殆ど父に顧られる事がなく親王宣下すらなかなかなされなかったのである。この不遇時代が後醍醐の粘着性・支配欲の強さを育んだのであろうか。忠子は後宇多との間に四人の子を儲けたが不遇に耐えかねて夫の父亀山法皇に身を寄せ寵愛を受けるようになる。その効果は絶大で、彼女は永仁六年(1298)に従三位となり尊治も正安四年(1302)に15歳でようやく親王宣下を受けている。この頃亀山院は尊治を寵愛し立太子させたいと考えたらしい。しかし祖父亀山の寵愛が母から昭訓門院瑛子に移り瑛子が恒明親王を産むと、自然とその愛情も恒明に向いたようだ。亀山は、今度は恒明を皇太子にするよう望んだ。それが容れられたなら将来尊治に皇位が回ってくる事はなかったであろう。歴史は異なる展開を見せた思われる。しかし後宇多はそれに対し不快を示した。恒明に皇位が行くと後宇多が院政を行う機会がなくなるからである。また長男後二条天皇(正安元年に即位)が病弱であったこともありその系統に不安を抱いてもいたようだ。そうしたこともあって後宇多はこの頃から尊治の有用性を意識するようになる。その為か嘉元元年(1303)に元服し三品に叙せられ翌年には大宰帥に任じられた(そのため帥宮と呼ばれる)。徳治二年(1307)には中務卿となる。この頃、尊治は正月の節会、十種供養、蹴鞠御会に参加。また父の皇后遊義門院死去の前後には病気平癒祈願のため父の代理として石清水に参詣したり父と共に服喪したりしている。後宇多は後二条の系統を補佐させる目的で尊治を引立てようとこうした行事に参加させていたようだ。この時点でも尊治にとって玉座は手が届かない所にあった。しかし翌年に後二条が崩御、持明院統の富仁が即位した。花園天皇である。その皇太子として考えられるのは前述の恒明か後二条の子邦良であるが、邦良は「鶴膝ノ御病」(小児麻痺?)があったため後宇多は恒明に対する競争手としての危惧を抱きここで尊治を擁立した。結局後宇多の主張が通り尊治は立太子。この時21歳、花園天皇より約10の年長であった。こうして思いがけなくも皇位が約束されたわけであるが、あくまで「一代の主」つまり邦良への繋ぎであった。この頃、尊治は西園寺実兼の娘禧子を略奪して娶るという大胆な行動に出ている。尊治の禧子への想いは深かったようで即位して間もなく彼女は女御となり、翌元応元年に中宮に叙せられた。二人の間には皇女が生まれている。この関係で尊治は朝幕を取持つ有力公家西園寺家と姻戚関係となった。十年後、後宇多は幕府と交渉して花園の譲位と尊治即位、邦良立太子を要求。後宇多の老獪な政治力によってその主張は通った。世に言う「文保御和談」である。これを受けて尊治は文保二年(1318)2月26日に践祚。後醍醐天皇である。しかし父後宇多が院政を行っており、後醍醐自身が政治を行うのは三年後の事である。
(3)時代情勢
 鎌倉幕府の成立以降、西を朝廷が、東を幕府が支配する形が出来上がった。そうした中でも承久の乱の後は幕府の優位が確立される。そして元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼす必要を持つようになった。更にこの頃、朝廷は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰がざるを得なくなる。そして幕府の統制強化の中、国司の権限であった田文作成が守護の手に移り土地把握力が低下。一方幕府は朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち非農業民の台頭に悩まされる。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領・得宗の下で専制傾向を強化する。しかしこれは将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。一方非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、乱世到来の近さを思わせる状態であった。
(4)初期親政
 大覚寺統の総領であった後宇多は好学かつ政治熱心で、聴断を行ったり室町院領などの所領獲得・米穀商人に大炊寮へ税を納めさせるなどの業績を残したが後醍醐時代には気力が衰え賄賂政治に流れた。やがて体力も衰え政治の実権を手放し、ここに後醍醐による親政が始まった。後醍醐は積極的に政務に精励。まず万里小路宣房・吉田定房・北畠親房、即ち「後三房」という優秀な廷臣を重用した外、吉田冬方・日野俊基・日野資朝といった家格が低くとも才ある者を登用した。元享元年(1321)、これまでにも裁判機関として整備されてきた記録所の権限を拡大し、洛中の商業・流通の統制・裁判を受持つようにした。翌年には、代々検非違使別当を務めてきた中御門経宣を特に過失がないに関わらず罷免、側近の北畠親房に交替させた。洛中の治安警察・民事裁判を受持つ検非違使庁も直接把握し洛中支配を強める事が狙いである(但し間もなく日野資朝に再び交替している。後醍醐の政治志向が明らかになるにつれ親房との距離が開いた為と言われる)。こうした事に基づき同年に神人公事停止令や洛中酒鑢役賦課令、東寺領八条院町への口別(地口銭)賦課を行い商業を直接支配しようとした。元徳二年(1330)には宣旨を発して米一斗当り銭百文と定めたり、大津・葛葉以外の関所を停止させている。こうした施策は明らかに商業の保護・直接支配を志向している。これ等の経済政策の外に、正中二年(1325)に続後拾遺集を勅撰。ここに武家歌人として足利高氏が一首入集しているのは何か因縁を感じる。二条派の強い影響の下、後醍醐らは和歌に熱心であった。当時、和歌は単なる文芸でなく「世を治める」手段と考えられていた(その為持明院統の方も京極派を修めている)。こうした傾向は後に宗良親王の新葉集として実を結ぶ。時代を反映してか単なる花鳥風月への詠嘆でなく動詞が数多く用いられた積極的な生命感溢れる歌が多い。また、この頃源氏物語の講釈も行わせている。理想とする「延喜天暦の世」に物語世界を見たてた為と言われる(こちらの成果は長慶天皇「仙源抄」に結実)。こうした和歌・物語・音楽といった文化活動により文芸をも支配しようとしたのではないか。更に、摂津万願寺を始めとする祈願所を各地に設置。宗派は臨済・律・真言・天台・日蓮と広範で、「聖運之長久」「天下安全」を祈願させた。これは倒幕目的の寺社勢力の引入れにも関連するであろうが、より長期的には宗教勢力の直接支配を目的としたのではないか。こうしてみると、後醍醐の政治志向は単なる「朝廷復古」などではなく、商業を基盤とした専制体制を目標としていると思われる。西国での貨幣経済発達に対応した近世的性格を持つと言えるのではなかろうか。ともあれ初期の親政はかなりの成果を収め、持明院統の花園院すら日記に「近日の政道淳素に帰す。君已に聖王為り、臣又人多きか。」と述懐する程であった。後醍醐に大きな自信を与えたと想像される。
(5)天皇御謀叛
 前述の様に「一代の主」であることを定められた後醍醐は、自己の子孫に皇位を伝え自分が「治天の君」となる為には皇位継承の仲介者である幕府が最大の障害と感じる。また、長らく皇室分裂で勢力が分散した上幕府の介入を許すという危機的状況に朝廷が陥っている事も後醍醐には見逃せぬ問題となっていた。同じ「一代の主」であった持明院統の花園院も共通の認識を抱いていた様である(後に皇太子となった甥量仁親王に来るべき天下の乱れに対応する為徳を磨けと勧めている)が、乱世到来を恐れ秩序維持を志向した花園とは異なり、後醍醐は寧ろ天下の乱れを誘発し一発逆転を目論んだ節すら見られる。前述の花園の日記にも次第に後醍醐への批判が増える。実政策の点で両者の考えは相容れなかったのだ。後醍醐は元来好学で皇太子時代からしばしば儒学の勉強会を催した。論語の「紫の朱うばふことを悪む」、即ち正統が邪道にとって変わられるのを嘆く段で論議が盛上がった事もあったという。早くから幕府政治否定の考えが芽生えていたと言える。後醍醐の儒学は単なる学問と言うより倒幕・専制支配の正統化に用いられた節がある。ともあれ親政が開始された頃からこれ等の勉強会に事寄せ倒幕計画を練りその後の「無礼講」で人目を紛らわせた(あと、血気溢れる彼等のエネルギー発散でもあったろう)。また、わざと叡山の訴状を読み誤り蔵人を引責辞任した日野俊基が山伏に扮し近国を回り反幕勢力の糾合に尽力したと「増鏡」は伝える。それに応えてか、北条専制体制の下で追落とされ不遇であった土岐頼貞・多治見国長・舟木頼春、近江錦織氏・三河足助氏が加わった。醍醐寺の文観もまた後醍醐の為に味方を集め六波羅の頭人伊賀兼光を引入れたのである(彼等は成功を祈り般若寺本尊の文殊菩薩像を造立)。一味は日野資朝を中心として計画を練り正中元年(1324)9月23日を決行と決めた。この日は北野天満宮の祭礼で、祭りにつきものの喧嘩を鎮めに幕府兵が出払った所へ六波羅を襲撃、叡山に命を下して挙兵させ宇治・勢田を固めようと図ったのである。しかし実行直前に計画は漏れ、頼貞・国長らは幕兵の攻撃を受け討死した。「太平記」によれば舟木頼春が妻に漏らしてしまいその妻が密告したと言う。六波羅では資朝・俊基を首謀者として鎌倉に護送。後醍醐は釈明の為に万里小路宣房を勅使として告文を鎌倉に送り、幕府の方でも親朝廷派の二階堂道蘊の取成もあって天皇は関連なしとし、資朝を佐渡に流罪とし俊基は赦免した。幕府は得宗高時が指導力を欠き政治が混乱していた上、奥州安東氏の反乱に忙殺され余裕がなかったのである(朝廷の動向を幕府は奥州情勢程は重要視していなかった事も分かる。同時に幕府が断固たる決断を欠いていた事も推察される)。これを正中の変と言い、当時の人々は「当今御謀叛」と呼んだ。これは後醍醐にとって大きな政治的失点であった事は言うまでもなく、敵対する持明院統や皇太子邦良親王はこれを好機として早く譲位が実現する様祈祷したり幕府に働きかけている。しかし二年後の正中三年(1326)、邦良は病死し改めて皇太子を選ぶ必要が生じた。倒幕計画が頓挫した今、後醍醐が自己の子孫に位を継がせるにはここで我が子を太子にするよりなかった。後醍醐は第二皇子尊良親王(第一皇子尊雲法親王は後醍醐が践祚した日に出家)を幕府に推薦。こうして様々な思いが交錯し太子の位は恒明・尊良・邦省(邦良の弟)・量仁(持明院統後伏見院の子)で争われ、結局量仁が立太子した。幕府としては前回の「文保御和談」で天皇東宮とも大覚寺統となったので公平を期すための決定であった。一方後醍醐としては平和的に自分が「治天の君」になれる可能性が失われ、再び討幕運動に全てを賭ける事になる。
(6)笠置山
 再び倒幕工作を始めた天皇であるが、以前の失敗があるので今度の計画は慎重であった。この頃、中宮禧子の安産祈願と称して各地で祈祷を依頼している。前述の文観の他、浄土寺の忠円、法勝寺の円観らが中心と為り延暦寺・園城寺・山科寺・仁和寺などで祈祷が行われた。それが16ヶ月に及んだので、幕府は疑惑を抱き後醍醐は弁明の書状を送っている。実際、行われていた祈祷は関東調伏を祈願する物であった。更に宮中でも青蓮院の慈道法親王を中心とし七仏薬師法・冥道法などの祈祷を行い(安産祈願・調伏共に利用される)、天皇自ら悪人退散の効能のある大聖歓喜天浴室油供を行った。後醍醐の倒幕への執念が知られる。因みに、文観は後に高野山の宥快に立川流の指導者として指弾されていることで有名だ。ここで立川流について少し述べておこう。立川流は、平安末期に醍醐寺の仁寛が陰謀の咎で伊豆に流された際、現地で広めたのが始まりとされる真言宗の一派である。その教えによると、智者・行者・国王・父母の何れかの髑髏を本尊としてその魂を呼び戻すことで、全世界の知識が得られるというのである。そのために取られる手段が男女交合であった。髑髏に漆を塗り歯を付け、予め打合せた美女と交わる。そしてその際の「和合水」を髑髏に120回塗付け、午前一時頃に反魂香を焚き、真言を千回唱える。更に「和合水」で髑髏に曼荼羅を描き、7年間祭りと行事を行うというのである。また一説では狐の精でタントラにおける性の女神である荼吉尼天を崇拝し呪術を行ったともいう。真言宗の「理趣経」で男女交合の悦楽を菩薩の位、即ち即身成仏の境地とされていることからそうした一派が生まれてきたのであろうか。さて、話を戻すが後醍醐の布石はこれに留まらず、嘉暦三年(1327)に尊雲法親王を天台座主に任じる。尊雲は仏道を重視せず武芸修行に専念、周囲から奇異の目で見られたのは著名だ。後醍醐の求めるものをこの皇子は良く理解していたのである。元徳二年(1330)には奈良に行幸し、また大講堂落成祝いに叡山に行幸している。こうした動きが寺社勢力を倒幕のため味方に引入れること、長期的に寺社を直接支配に入れる事を目的としているのは言うまでもない。この年12月には天台座主が尊澄法親王に交替、尊雲は叡山の大塔に移った。山門への支配を強めるためである。こうした動きの結果、高野山・播磨大山寺・大山・平泉寺でも朝廷に同調する機運が盛上がった。一方で北畠具行らが畿内を中心として武士を味方に誘っていた。楠木正成や赤松円心らが最初に誘いを受けたのはこの頃ではなかったか。元弘元年(1331)、吉田定房が幕府に倒幕の企てを密告。定房は前述の様に後醍醐の信任厚い臣であったが、その過激な行動には批判的で諫言を上奏した事もあった。計画が失敗した時に天皇に累が及ぶ事を恐れ今度の動きに出たのであろう。後醍醐には直前又は事後に通告して因果を含めたのであろうか。これを受けて祈祷の中心となった文観・忠円・円観・知教・祐雅らが捕らえられた。中でも結果的に後醍醐に見捨てられる形で、宮中に踏みこんだ六波羅兵に捕えられた俊基は哀れであった(因みに「太平記」での俊基の鎌倉護送の場面は「落花の雪に踏み迷ふ」で始まる名文として名高い)。8月末には鎌倉から二階堂道蘊が東使として軍勢を率い上洛。後醍醐はその夜に宮中を脱出、初め叡山に向かおうとしたが洛中警備の関係で叶わず奈良に逃れた。奈良では東大寺の聖寿が天皇方であったが南都の僧兵達は決して天皇方一色ではなく、立篭もるのは危険と判断し鷲峯山を経て笠置寺へ移った。足助重範らが参陣したが兵力不足は補えない。この頃に楠木正成が挙兵し、河内赤坂に篭った。一方、叡山の方には花山院師賢が天皇に成済まして赴き六波羅はまずそちらに兵を向けた。しかし六波羅軍は山門の僧兵達に東坂本で敗れる。しかし「天皇」が偽者と分かり叡山は分裂、尊雲・尊澄は山を逃れそれぞれ赤坂・笠置へ逃れた。この情勢に六波羅は鎌倉へ援軍を要請する。六波羅は元来、承久の乱以降に朝廷を監視すると共に西日本の幕府勢力圏を管轄していたが、幕府の支配が全国化し皇位継承の仲介をするようになるに至って朝廷と鎌倉の直接交渉が増え六波羅の比重は低下していた。そもそも後醍醐が倒幕を計画したのも六波羅の弱体化を見越したものであったのだ。こうした六波羅であったから、こうした事態には単独では対応し切れなくなっていた。幕府の専制化がこうした形で六波羅探題にも影を落していた訳である。ともあれこれを受けて東から大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏が上洛し笠置を攻撃。9月3日に始まった笠置攻防戦は28日にその落城をもって終わる。山を脱出した天皇は捕えられて神器を光厳天皇(9月20日に践祚)に譲渡せざるを得なかった(この時の神器の真偽については特に問題になっておらず本物と見てほぼ間違いない)。こうして光厳が即位し、加えて後伏見院政・康仁(邦良の子)皇太子という体制が成立。赤坂も幕府軍によりやがて落城、正成は行方不明となった。同じ頃、備後で桜山慈俊が挙兵したがやはり敗れている。後醍醐は後鳥羽院の先例に習い隠岐に流されることが持明院統と幕府の協議で決まった。この時、後醍醐は意気衰えず、出家を勧められたが拒絶している。他、尊良は土佐へ、尊澄は讃岐へ、円観は陸奥、文観は硫黄島、忠円は越後に流罪となる。更に日野資朝は配流地の佐渡で、俊基は鎌倉で、北畠具行は近江で処刑された。こうして倒幕勢力は一掃されたかに見えたが…。
(7)「新島守」、船上山へ
 後醍醐は3月7日に京を出発し、隠岐へ向かった。途中の院庄で反幕の志を抱く児島高徳が後醍醐奪取を図ったが果たせず、桜の幹に「天莫空勾踐、時非無范蠡」と記して去ったという有名な話を「太平記」は伝える。児島周辺は海運の要地で貨幣経済が及んでおり、また児島氏は源平以来不遇な位置に置かれてきた。彼等がこの機に旗揚を考えた事は多いに有得る。さて隠岐に着いた後醍醐は「黒木御所」に身を置いた。供をしたのは千種忠顕・世尊寺行房、そして阿野廉子ら三人の寵妃であった。黒木御所の所在については島後の西御町下西と島前の黒木村の二説がある。さてこの頃尊雲は大和を周辺に土豪を味方に付ける工作を進めていた。般若寺で危機を脱して後、還俗して「護良」と名乗り、十津川で竹原八郎の下に入り、それから吉野へ向った。更に全国へ令旨を発し倒幕の為挙兵する事を呼びかけた。また赤坂落城以来行方不明であった正成が赤坂城を奪回し各地で幕府方の軍勢を破り、天王寺で六波羅の軍勢を敗走させた。京ではこれにより兵力が不足し手薄になったので光厳朝廷は動揺し鎌倉へ逃亡する決議すらなされる。この事態に驚いた幕府は再び大軍を正成の篭る金剛山・護良の吉野山に送った。吉野は間もなく落城したが金剛山千早城は陥落せず、更に逃れた護良が再び令旨を発していた。この頃の護良はいわば天皇の代理のような形で反幕軍の総司令官を務めていたのである。千早城攻めをしていた新田義貞が幕府を見限り護良から令旨を受けようとした時、護良が渡したのは綸旨であったと「太平記」は伝えるが、この頃の護良の位置を考えると現実に「天皇」として活動していた可能性も否定できない(但し仮にそうだとしても後醍醐がそれを認める筈は無い。実際、後述するが護良が多発した令旨が建武期に問題になった)。後醍醐も隠岐で手を拱いていたわけはなく、「増鏡」によると水軍を利用して護良と連絡を取合っていたらしい。後醍醐が水軍の助けで各地に文書を発していたのは確かで出雲鰐淵寺・鎌倉極楽寺などにこの頃の願文が残されている(すると前述の「護良天皇」説は無理が出てくる)。こうした活動が実ってきたのか、播磨で赤松円心が、伊予で土居・得能らが挙兵。こうした動向の下、幕府は倒幕の旗印である後醍醐の命を奪おうと考えたらしい。身の危険を感じた後醍醐は元弘三年(1333)閏2月24日に隠岐を脱出、伯耆名和湊で現地の土豪名和長年を頼り船上山に移った。後醍醐はこの時の感激が大きかったらしく次の様な歌を詠んでいる。
忘れめやよるべも浪のあら磯をみ舟のうへにとめし心は(新葉集)
(よるべもなく波の粗い磯に舟を着けた時懇ろに尽してくれた忠義の心は、どうして忘れることがあろうか)
長年は一説では「鰯売」と言われ海上交通を利用し海産物を売捌く商人と推定されている。ここで佐々木清高らの幕軍を破り、全国に綸旨を発した。又、出雲大社にある杵築社に対し京回復を祈らせ、神器の代用として宝剣を所望している(つまりこの時点で後醍醐の下に神器は無かった事になる)。やがて伯耆から千種忠顕を大将にして軍勢を東上させた。幕府はこの事態に対し名越高家・足利高氏を援軍として上洛させる。しかしかねてから北条氏に反感を抱き取って代る機会を窺っていた高氏は途中で後醍醐と通じその綸旨を手に入れた。入京後、高家の戦死を切掛けに寝返った足利軍は千種軍・赤松軍と共に六波羅を攻撃、陥落させた。前後して関東では新田義貞が挙兵し、小手指原・分倍河原などで幕軍を破り鎌倉を陥落させた。高時を始め北条一門・長崎氏は自害。ここに鎌倉幕府は140年の歴史を閉じた。
(8)「公武水火の陣」
後醍醐は京に到着する前に綸旨を発し、公卿の官爵を元弘元年八月当時に戻し「正慶」年号も廃止した。これにより光厳天皇の朝廷の存在は否定されたのである。その後、高氏の勢力圏丹波を通過するのを避け、播磨を通過して京へ戻った。その後に取掛からねばならぬのが恩賞である。武士・寺社をはじめ功績を主張する者は数多い。中でも目立った功を上げたのが護良・正成・円心・長年・高氏・義貞であった。恩賞業務の為まず元弘三年六月に護良の令旨の効力を破棄。恩賞の約束が乱発されていたであろうからそれを打消さねばならなかったのと、最終決定者が護良でなく後醍醐である事を示す必要があったのである。そして天皇による土地処分として、朝敵以外の領地はそのまま安堵する方針が取られた。恩賞問題を扱う為、恩賞方が設置された。恩賞綸旨の発給準備が任務で、申状を審理して上奏するのである。長官は洞院実世から万里小路藤房、九条光経と交替したが業務は難航。翌年には四番制17名で組織化された。さて恩賞の内容であるが、足利兄弟には武蔵・常陸・下総・相模、新田に上野・播磨・越後・駿河、楠木に摂津・河内、名和に因幡・伯耆の権限が与えられた。その他、隠岐まで天皇に同行した千種忠顕、祈祷や寺院間の連絡に功を挙げた文観も多くの恩賞を受け時めく。しかし、大半の武士は不満を抱いた。土地が有限である以上、多数の武士全てに満足いく行賞は困難である。そしてこうした中で不公平が生まれるのは世の常であった。例えば京攻撃に功績の大きい赤松円心が殆ど何の恩賞も与えられなかったのは有名だ。護良の令旨のみで立ったため護良を押える動きの中で敬遠されたと言われるが、ともあれこれが武士達の政権への信頼を著しく損ない円心自身も敵方に押しやる事になった。加えて、後醍醐が政権の基盤を固めるため旧北条氏領を自身や側近達のものとしたことが不公正な感を人々に抱かせた。「公武水火の陣にて、元弘三年も暮れにけり」と「梅松論」が記す様に、武士が新政権に抱く不満は相当なものであった。これが政権の不安定さ・崩壊に繋がっていくのである。
(9)「朕が新儀は未来の先例たるべし」
後醍醐は精力的に新政府の機構作りに取組んだ。従来の太政官を有名無実化し、「公家一統」をスローガン(この「公家」は貴族でなく天皇を意味する)に各分野を自分に直属させようと図った。各役職にはこれまで相当する位や担当する家が定まっていたが、天皇はこれを否定して自分が直接任命することにした。「今の先例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」と後醍醐はその自信を覗かせている(しかし貴族の反発は激しく、後に「後醍醐院のされた事は正気の沙汰でなく先例にならぬ」と言われた)。こうした自信は改元においても顕著で、乱を治め正に戻したということから、後漢光武帝の例に倣い「建武」と決定。貴族達は「武」の文字が使用されるのが異例であり不吉だと反発、中には、必ず兵乱が起こると断言する者すらいた。こうした声を他所に改革は進められた。政務の中心となるのは記録所。これは後醍醐の独創でなく後三条天皇により設立されて以来天皇が自ら政治をとる際に重視されており、建武政権でもこの点は例外でなかった訳である。この時には、越訴(判決過誤救済)が主な役割であった。建武政権により権限が全国化し、全国を区域化して受理日を定めるようになる。中でも寺社権門関係の訴訟を受持った。これまでの王朝吏僚に加えて伊賀兼光・小田時知・長年・正成ら功臣が名を連ねている。一方、地頭層の訴訟を受持ったのが雑訴決断所である。当初は濫妨停止・知行地安堵を行っていたが、建武元年(1334)前半は綸旨確認、一応事態が安定化した後半からは相論裁決・所領安堵・綸旨施行(乱発された綸旨の整理)を任務とした。始め四番制であったが拡充され八番制となり上流廷臣から吏僚・武官まで幅広く登用された(兼光・長年・正成もこの中にいる)。中でも上流廷臣は伝奏として、天皇と決断所をつなぐ役割も果たした。他、窪所が置かれ伊賀兼光・結城親光・高師直らが任命された。京の要所警備役とも「問注所」を崩して名付けられた訴訟受付所とも言われる。また商業直接支配強化の為、洛中生業保護・営業税徴収を司る東市正を検非違使庁から独立させ、腹心の名和長年を使庁別当に任じたのである。他、洛中警備には篝屋番役・国毎に守護の監督で出される内裏大番役が当たった。全体的に、鎌倉幕府の制度をそのまま受継ぎ朝廷の制度と共に自分の下に集中させたと言って良い。政権の軍事力として武者所を置洛中護衛・近国の反乱鎮定に当たらせた。新田一族が中心にいたと言われるが、足利一族である一色頼行も名を連ねているので少なくとも当初は幅広く採用されたようだ。政策面で最も重視されたのは無論商業関係である。建武元年五月には徳政令が出された。売払った土地は無償で返還され返済が元金の半分を越えているなら質入地・質入物を取戻せると言うもので鎌倉末期の永仁徳政令と室町期徳政を繋ぐものといえる。無論、前期親政期の商業重視政策は継続しているとしてよいであろう。事実、商業発達や関渡津泊支配を狙った関所廃止令は建武元年7月に全国化されている。総合的に見れば、後醍醐の政策は「復古」ではなく少々度の過ぎた「革新」であったようである。しかし各勢力を押え付けるだけの実力が政権になかったため、社会不安が惹起されたのである。ともあれ後醍醐の専制志向はこれに止まらない。一部皇族の本家・領家職を認めず、その領地の直属を命じている。これは北条氏領の没収と同じく政権の経済裏付を目指した物であろう。一方で密教・禅宗に保護を与え、「僧中礼」を改めて僧官のレベルを上昇させた。これは従来通りの仏教保護とも見られるが寧ろ宗教勢力の直接支配を目指す一環の政策であろう。密教・禅宗は都市の非農業民と関係が深い為、これ等を通じて彼等の支配強化を図ったものとも思われる。官社解放令を出し諸国の一宮・二宮を貴族・大寺社から独立させ天皇直属にしたのも各地の宗教勢力支配の一環であろう。そして、新政府の威信を示す為に大内裏再建計画を推進。周防・安芸の国衙領からの年貢をあてた外、地頭層から年貢の二十分の一、更に荘園段別に役夫工米を課して費用を捻出しようとした。しかし、狙いは兎も角、余りに時期尚早だったのは否めない。本格的工事が進まぬ内に政権その物が瓦解するのである。同じ頃の政策として貨幣鋳造計画があった。3月28日、貨幣「乾坤通宝」や紙幣の発行を行うという綸旨が出された。貨幣を政府が独占的に発行する事で政府の威信を誇示すると同時に経済の支配も狙った政策であったが、鋳銭使職員が任命される所まではいったもののこれも実現には至らなかった。商業を背景にした専制政策としては、他に海外交易への強い関心がある。初期親政の頃から既に中国からの文物に強い興味を示し多く手に入れていた形跡がある。恐らく当時から交易の掌握に熱心だったのではないか。幕府滅亡間もない元弘三年7月、帰国した貿易船を住吉社修復のためと称し接収を図っている。少なくとも貿易によって得られる利益に強い関心があった事は知られよう。鎌倉幕府の建長寺船や室町幕府の天竜寺船との間の連続性は明らかである。こうした後醍醐の専制傾向は地方政策においても国司と守護の併置と言う形で見られる。守護の権限として御成敗式目に定められた犯罪人の追捕・所領没収や得宗専制期からの闕所地処分に加え、苅田狼藉(所領係争地への実力行使)の取締が加わった(こうした守護権力の強化も室町幕府に繋がっていく)。朝廷機構と幕府機構の双方を支配下に置き、更に双方を牽制させる事で地方を中央に比べ弱める狙いであろう。しかし一方で、現実には独立区の存在も認めざるを得なくなった。関東に勢力を張る足利氏の勢力に対抗する為、そして政情不安定だった奥州支配を強める為、奥州の物産・交易品・精鋭を押える為に奥州将軍府を設置したのだ。義良親王を将軍とし北畠顕家を補佐役として、式評定衆・引付(訴訟審議)・政所執事・寺社奉行・評定奉行・安堵奉行・侍所から成っていた。成員として冷泉家房ら貴族、結城宗広・伊達行朝ら現地豪族、二階堂行朝ら北条一族と幅広く取入れていた。足利氏もこれに応じ、北条残党で不安定な関東を治める為との名目で鎌倉将軍府設立を要請した。この名目や足利の既得権益を否定する事は難しく、後醍醐はこれも認可せざるを得なかった。成良親王を将軍とし足利直義が補佐する体制の下、関東廂番を置き将軍護衛・反乱鎮定に当らせた。関東の訴訟も将軍府が請負ったが、重要な件は京の決断所で決済された。中央の専制政権と地方の幕府的小型政権の並立は、過渡期における革新と守旧の並立を象徴すると同時に室町期の幕府と鎌倉公方という形の原型にもなった。特に鎌倉将軍府は足利政権に発展。建武政権は全体的結果として、次の室町幕府への地均しを果たした訳である。
(10)「コノゴロ都ニハヤルモノ」
後醍醐は王権の支配力が低下しつつある中、朝廷の権威の回復・自己の系統の正当化を目指し、台頭してきた商業勢力を利用して専制政権を築き上げようとした。しかし混乱を乗越えてそれを遂行するには余りに実力基盤がなさ過ぎた。と言うより、基盤であった朝廷自体が中世的体制(「王朝体制」と呼ばれる)の代表で一旦破壊する必要すらあったのである。また王権の危機ではあったが、日本の危機と言う訳ではなかったので急激な変化に堪忍んで新政権に協力する必要を人々は認めなかった。そして政権内部が保守的公家・商業勢力・武士勢力と分かれ一枚岩どころか「同床異夢」の状態であった。楠木正成・名和長年(伯耆)・結城親光・千種忠顕の「三木一草」や文観・伊賀兼光を始めとする重用された人々(主に商業勢力)を別として不満が高まって、得宗専制末期の幕府の様に不満を集中的に浴びる存在となりつつあった。伝統的貴族の不満は大きく、万里小路藤房が後醍醐に「痛ましきかな、今の政道」と諫言して失踪したのは有名であるし、北畠親房・顕家親子も政権に批判的であった。建武元年8月には二条河原に政治を批判する落書が掲示された。「コノゴロ都ニハヤルモノ」で始まるこの有名な落書は、急激な改革で政情が安定しない様子を皮肉っている。こうした政治を批判する落書が見られるようになったのもこの頃からである。一方で他の不平分子は足利尊氏・護良親王と二極分化して結集し始めていた。護良を十分利用して尊氏と対抗させるべきであったとの意見が多いが、護良自身の思いとは別に後醍醐にとっては護良も尊氏と同様に危険分子だったのである。討幕運動中の活躍で天皇の権威に対抗できる存在である分、尊氏より危険視されていたかも知れぬ。尊氏討滅を訴える護良に征夷大将軍を与えたのも、「夷を以って夷を制する」赴きがあったのではないか。実際、天皇は護良に対抗させるかのように尊氏にも鎮守府将軍を授けている。また、護良と繋がりの深い赤松・北畠は中枢から遠ざけられ自身もまた政権から外れた存在だった。「梅松論」によれば護良はこうした味方の少ない中、政権中枢内にいる唯一の護良派である正成の他に尊氏に対抗心を燃やす新田義貞らを引入れ尊氏襲撃を企てる。天皇も足利の没落は望む所であったので暗黙の了解を与えていた様である。しかし戦力不足と、尊氏側の備えが厚く中々実行に移せなかった。護良の擁する武者達は洛内で辻斬をしばしば行ったと「太平記」は伝える。圧倒的劣勢において護良側が出来る事はテロリズムしかなくその為にあぶれ者を抱込んでいた為その様な事が起こったのであろう。一方尊氏はこうした護良の動きに危機感を抱き後醍醐の寵妃阿野廉子と結び護良失脚を狙う。建武二年10月、護良は結城親光・名和長年に捕えられ武者所に監禁された。護良が尊氏討伐の為に各地から兵を集めようとした事が政権への反逆の証と尊氏が天皇に訴えた為である。後醍醐としても自己の立場を守る為には護良を切捨てる他無いと考えた。護良は足利氏の勢力内である鎌倉に送られた。尊氏との対立を私闘として処理したのである。こうして不平勢力の結集先は尊氏に絞られた。
(11)尊氏の反逆
 政権成立当初から、北条氏の残党が各地で抵抗していた。奥州・武蔵・筑前・筑後・日向・越後・紀伊など北条勢力が強かった所で特に盛んであった。中でも都に近い紀伊飯盛山に篭った佐佐目憲法の反乱は、楠木正成や斯波高経の活躍によりようやく鎮圧される始末であった。こうした建武二年6月、最大の北条氏反乱が信濃で起こった。北条高時の子時行が信濃で挙兵し、鎌倉へ攻入った。足利直義が防戦したが連戦連敗で渋川義季・細川頼貞・岩松経家・小山秀朝らが討死した。7月22日、直義は鎌倉を退去したがその際、護良を淵辺義博に殺害させた。北条氏は一時鎌倉を奪還した訳だ。中先代の乱である。一方、尊氏は直義を助けるため後醍醐の勅許を待たず関東に出陣。反乱は忽ち鎮圧されたが、尊氏は直義の勧めもあって鎌倉に止まり論功行賞を無断で行い始めた。朝廷ではこれを当然尊氏反逆と捉える。これを容認しては建武政権は関東(そして奥州の一部)を手放す事になり、何の為に倒幕を実行したのか分からない。それどころか政権の土台固まらぬ今、各地で反政府活動が起こり政権が瓦解する。建武二年11月、天皇は新田義貞に命じて尊氏を討たせることにした。後醍醐としては護良に代わり義貞を尊氏の対抗馬にしたてて両者の均衡を利用しようとした時期もあったようだが、義貞は尊氏と同族とは言え一土豪に過ぎず、その名望は尊氏とは比較にならなかった。その為義貞としては天皇の権威を最大限利用せざるを得ず、新田軍は後醍醐直属の武力と言う性格を強く帯びるのである。これは彼等が後醍醐にとって動かしやすい武力であると同時に敗れた時には運命を共にせねばならぬ相手であることも意味した。義貞に尊氏討伐を命じた時点で賽は投げられたと言えよう。ともあれ、義貞は直義等を相手に連戦連勝し、箱根に迫った。しかし尊氏が直義の危機を知って自ら出陣、竹ノ下で奇襲し新田軍を撃破した。新田軍を追って足利軍が上洛を開始、翌年一月に入京。後醍醐は叡山に逃れた。しかし尊氏を追って奥州から上洛してきた北畠顕家の軍勢が到着、新田・楠木軍と共同で足利軍を破る。再び京に戻った天皇は、元号を「建武」から「延元」に改めた。尊氏の反逆を切掛けに、貴族達の反対を押える事が遂に出来なくなったのであろう。天皇専制実現の実際的な限界が見え始めていた。建武政権は内部からも綻び始めていたのだ。
(12)後醍醐政権の破綻
 その後、義良親王を急遽元服させ再び顕家を奥州に戻す。この頃朝廷は、西国中心に味方を作る足利に対抗して東国を中心に誘引工作を行っていた。楠木正家を常陸に、広橋経泰を陸奥に派遣し関東・奥州の中心戦力としたのはその一例である。また、北条時興を朝敵赦免し信濃で活動させたとも言う。これ等の支援の為に親王や鎮守府大将軍の下向、北畠の軍勢が必要だったのである。またこの頃に新田義貞を尊氏討伐の為西国に発向させる。しかし畿内で兵糧が確保できず、また軍勢再編成に手間取り出陣が遅れた。こうした中、後醍醐方の軍の士気は振わなかった。それを見かねた正成が義貞を切ってでも尊氏と和睦する事を進言する有様である。また播磨で赤松円心の篭る白旗城の攻撃に時間を食った。山陽の入口に当る地であったのと、義貞の知行国であった為そこで兵糧を確保する必要があったので播磨に執着したのだ。以上の様に朝廷側にも事情があったわけだがこれ等のロスが結果的には致命的であった。その間に尊氏は持明院統の光厳院から院宣を手に入れて朝敵の汚名を逃れた後、九州多々良浜で朝廷方である菊池武敏の大軍を破って九州を掌握し大軍を率いて西上していた。義貞はこれを迎え撃つ為兵庫にまで撤収。正成はこれに当り、京を明渡した上で叡山・河内から包囲して兵糧攻めにする策を進言したが、後醍醐はこれを受入れず兵庫で敵を迎え撃つ様に命令。年に二度までも帝都を明渡すことは専制君主の威信にとって致命的であったからである。しかしこれが決定的失策であった。後醍醐は足利軍を撃破する最後の機会をここに失ったのである。勝目のない戦いを強いられた義貞と正成は死を覚悟し、5月25日に兵庫湊川で足利軍を迎え撃った。新田軍が細川の水軍の動きに対応する間に足利軍が楠木軍と新田軍とに出来た間隙に上陸、楠木軍は完全包囲された。新田軍も細川軍の攻撃に直面しており、楠木軍救出など思いも拠らぬ状況になる。正成は終日の激闘の末に自刃、義貞は敗走した。朝廷ではその日、敗戦を予期せず除目が行われていた。そうした中の敗報は朝廷を恐怖に落入れる。後醍醐は新田氏と共に叡山に逃れ尊氏軍を京で兵糧攻めにしようと図る。正成の作戦を遅まきながら実行に移そうとしたのだ。しかし兵力が不足、特に河内方面の楠木勢が主を失い弱体化しており果たせず、逆に近江を確保した足利軍によって後醍醐方の補給路が封鎖された。後醍醐の敗北がこれで決定した訳である。こうした時、尊氏の方から和睦の申入れがあった。尊氏は光厳院の弟である豊仁親王を天皇として擁立(光明天皇)したが、正式に即位する為には後醍醐からの譲位という形式を踏む必要があったのである。和睦条件は後醍醐の譲位・両統迭立・後醍醐方貴族の保証などであったと思われる。後醍醐は密かにこれを受諾。完全敗北するよりも、この和睦を受入れた方が自らの影響力を残せると考えたのであろう。納まらないのは見捨てられる新田一族である。堀口貞満が後醍醐に詰問し、後醍醐は皇太子恒良に譲位した上で義貞に託し廷臣洞院実世や得能ら河野一族と共に北国へ下向させることで話を収めた。他にも、尊澄法親王・北畠親房を伊勢、懐良親王を吉野、四条隆資・中院定平を紀伊・河内に派遣。万一和睦が破綻した時の為の再挙準備であると同時に、和睦条件実行を強いる為の圧力にする目的とも考えられる。すると義貞に皇子を添えて北国に向かわせたのも義貞との妥協のみではなかったのであろう。さて下山した後醍醐一行を見た足利方は、後醍醐朝廷の主要人員が殆どいないのを見て後醍醐が自分達を欺いていると捉えた(決して間違ってはいないのだが)。11月2日、神器が後醍醐から光明天皇に引渡された後、後醍醐は花山院に幽閉される。
それでも後醍醐には太上天皇の称号が与えられ、12日には皇子成良親王が光明天皇の皇太子として立てられた。建武式目を発布し新しく自らの幕府を作っていた足利氏は、一方で後醍醐の顔が立つ様計らうと共に両統迭立の約束を果たそうとしたのである。
(13)「一天両主南北両京」
 この頃、畿内周辺で後醍醐方が挽回を開始していた。例えば延元元年冬の異例の大寒気に多くの犠牲を払いながらも越前に辿り着いた義貞が金崎に拠り、楠木一族も河内周辺で再び勢力を糾合し始めていた。また伊勢では親房が外宮の度会家行らの援助で、吉野・熊野と大湊(東国に繋がる港湾)を結ぶ玉丸に城を築き勢力を扶植。自らの政治的権力を失った事で不満を蓄積させていた後醍醐は親房等と連絡し12月21日、闇に紛れて花山院を脱出、楠木氏の手引で河内を経て吉野に到着。皇居から南都への出奔・隠岐脱走に続く三度目の脱出劇である。しかもどれも成功させている辺り、後醍醐の大胆さは尋常でない。後醍醐はここで光明へ譲渡した神器は偽物であると表明し(恒良への譲位については言及せず)尚自分が正当な天子であると主張した。そして各地の味方を糾合して京都回復を目論んだ。早くも25日には奥州の北畠顕家に上洛を促し、翌年延元二年(1337)2月には陸奥白河の結城宗広に同様の命を発している。いわば京と吉野に二つの朝廷がある状態となった。「大乗院日記目録」では「一天両主南北両京」と記している。この後、京に持明院統の朝廷(北朝)、吉野に大覚寺統の朝廷(南朝)という形式が続く。後醍醐は西国にも手を伸ばし阿蘇惟時にも出兵を促している。また、皇子を各地に派遣し味方の拠点を建設しようとの計画が行われた。すでに懐良親王が叡山から大和を経て九州へ向かっており、当時は讃岐に達していた。続いて五辻宮を日向に派遣。前述の様に親房と共に伊勢に向かった尊澄法親王は還俗して宗良と名乗り、その皇子が越後に下向していた。尊良親王は恒良と共に義貞につく。これ等に蜂起を促した結果、各地で南軍が立上がった。建武政権が崩壊したとはいえ、まだまだ商業・運輸業など貨幣経済従事者の支持は根強かったのである。奈良で開住西阿、紀伊で小山氏・安満了願、河内で楠木一族、淡路で佐々木信胤、伊予で忽那氏、石見で三隅氏、肥後で菊池武重がそれぞれ蜂起した。こうした中で北畠顕家が義良親王を奉じて8月に上洛を開始、鎌倉を落し連戦連勝で美濃青野原に至ったがそこで大きな被害を受け、父の勢力圏である伊勢を経て奈良で高師直に敗れた。軍勢を立て直して天王寺で幕府軍を破り弟顕信が八幡に陣して京を窺うまでに至ったが、石津で再び師直に敗れ討死。この頃北陸の義貞も金崎城を兵糧不足で落され恒良・尊良親王を失ったが越中の兵力で越前の大半を制圧し越後新田党と共に北陸に勢力を誇るまでになったが、上洛にかかる前の黒丸城攻めで流れ矢に当り討死した。こうして最初の南軍大攻勢は主力が相継いで倒れた為頓挫のやむなきに至る。元来、弱体な畿内周辺の味方で揺さぶった上で攻撃を掛けるしかなく、遠国で味方の勢力を定着するまで時間を掛ける事が出来なかった。また全国的な発動となると連絡が取りにくく一斉行動が取れなかった。特に北畠・新田の両主力が連絡して動けなかったのが惜しまれる。大戦略は決して悪くはなかったのだが、こうした点が敗因となった。
(14)南朝軍の再建策
 三木一草去り、義貞・顕家も討死した今となっては南軍の総司令を務める者は北畠親房の他いなかった。親房は次男顕信を顕家に替えて鎮守府将軍とし、結城宗広と共に奥州に下向させる。また顕家と共に西上し吉野にいた義良・宗良両親王もそれぞれ陸奥・信濃に向かう事となった。親房自身は常陸に向かう事に決定した。こうして陸奥・東国に勢力を再建すると共に花園宮(懐良?)を伊予に進ませ日野邦光を石見に下向させた。しかし道中で嵐に遭い、親房父子と宗良は何とか目的地に辿り着いたものの宗広・義良は尾張に吹戻され、宗広は間もなく病死し義良は吉野に戻った。しかし主力が壊滅し勢力が著しく弱体化した南朝方が再び力を盛返せるか、難しい所であった。
(15)「魂魄は常に北闕の天を望まん」
各地の南軍が勢力挽回に必死になっていた延元四年(1339)秋、後醍醐は病に倒れた。「秋霧にをかされさせ給て」と「神皇正統記」にあることから初めは風邪程度であったろう。しかし相継ぐ挫折で失意にあり、長年の活動は体力的な負担も小さくなかった。またこの年には吉田定房・坊院清忠と近臣が次々に世を去り、寂寥の感が後醍醐の気を更に弱めたと思われる。 こととはむ人さへまれになりにけりわが世の末のほどぞ知らるる(新葉集・哀傷)
   (色々相談相手になってくれる重臣達を次々亡くしてしまった。我が世も末に近づいた事がしみじみ知られる)
この歌にも後醍醐らしからぬ弱音が感じられよう。こうした中での病であったから、次第に病状は悪化、8月16日には遂に崩御。最期の言葉は次のようであったと「太平記」は伝える。「妻子・宝・王位などは来世には伴う事の出来ぬ物だとの如来の言葉は、朕が常々感じていたことであり、昔の中国君主の様に近臣や宝を伴おうとは思わない。ただ死後までも無念なのは朝敵を滅ぼして天下泰平を現出できなかったことだ。…(中略)…我が遺骨がたとえ吉野山の苔に埋もれるとも、我が魂は常に北の天を睨んでいようと思う。もし朕の命に背く者があれば、君も正しき君でなく、臣も忠義の臣でない。」そして左手に法華経五の巻、右手に神器の剣を握って事切れたという。52歳であった。その遺言に基づき、天子は通常南向に葬られる(「南面」、即ち天下を統治する事から)に拘らず、後醍醐の陵は北向に作られたという。巨星落つの知らせは各地を駆巡る。遠く常陸でこれを聞いた親房は、「かずかずめのまへなる心ちして老泪もかきあえねば、筆の跡さへとどこほりぬ。」(「神皇正統記」)と述懐。北朝廷臣の一人すら、「諸道の再興ひとへに彼の御世にあり。賢才往昔に卓爍せらる」とその死を哀悼した。また、尊氏直義兄弟の受けた衝撃も大きく、後醍醐院百ヶ日法要を行いまた京都嵯峨に天竜寺を建立。その後も後醍醐の命日である8月16日を「後醍醐院聖忌」として毎年追善が行われるようになり、将軍家にとってそれが「尤も肝要」な行事となっていく。追善は永正十四年(1517)、幕府の実力が無に等しくなり朝廷費用の捻出すら叶わなくなった時期にまで確認されている。後醍醐の怨霊は後々まで足利将軍家に付きまとい続けたのである。
(16)南朝その後
 後醍醐の死後、廉子との皇子義良親王が皇位を継いだ。後村上天皇である。北畠親房を中心として足利方への抵抗は尚続けられたが、興国四年(1343)に常陸関・大宝城が陥落し関東の拠点を失った外、正平三年(1348)には四条畷合戦で近畿南軍の主力楠木正行が高師直に敗れ戦死、吉野行宮は焼払われた。この様に南朝方の勢力は著しく弱体化していたが、直義と師直が対立した観応の擾乱に代表される幕府方の内紛に乗じ何度か京を奪還している。また懐良親王が菊池氏の助けを借りて九州制圧に成功し、畿内でも河内・和泉・紀伊の山間部を中心に抵抗を続けた。しかし幕府が相対的ながら安定するにつれ南朝は弱まり、これを受けて北朝明徳三年(1392)に両朝合体が話合われた。その条件として、後亀山天皇(南朝)から後小松天皇(北朝)に「譲国の儀式」で神器を譲渡すること、両統迭立、旧南朝方が国衙領を保持することが決められ、後亀山は吉野を出て嵯峨に入る。しかし幕府としては条件通り「譲国の儀式」を執り行うことはそれまでの北朝の否定を意味し、北朝との関わり上現実には出来ない相談であった。加えて、両統迭立による混乱がいかなる結果を招き得るかはそれまでの60余年が雄弁に示していた。そのため幕府は実際には旧南朝との約束を守る事はできなかったのである。それでも後亀山に太上法皇の称号は与えられたが、それとても特例としてに過ぎなかった。(余談ながら、皇位簒奪を考えていた義満が不即位の者に対する法皇号の先例を作る事を目的としたという一面も考えられる。)また、幕府の実力基盤は充分な物とは言えず、鎌倉公方との対立・有力守護対策など不安定要因が多く存在。そうした中でも後村上の皇子である護聖院宮や長慶の皇子である承朝(相国寺・南禅寺長老、五山僧録)に代表される様に、多くの南朝方皇族は幕府体制に順応していたが不安定な情勢に乗じて幕府に抵抗を続けるものも現れた。こうしていわゆる「後南朝」の歴史が幕を開ける。
(17)後南朝
 応永十七年(1410) 、長らく皇太子を立てていなかった後小松が子の躬仁親王(後の称光天皇)を東宮とした。両統迭立の実行に希望をかけていた後亀山はこれに失望し、抗議の意を込めて吉野に出奔。この年、飛騨国司姉小路尹綱が挙兵したのはこれを受けたものといわれる。また五年後には河内の楠木某や伊勢国司の北畠満雅が挙兵し、特に満雅の下に伊勢・伊賀・志摩・大和から兵が集まった。この時には幕府は関東や将軍義持の弟義嗣との対立のため是等に対応する余裕が無く、満雅と和睦。翌年には後亀山も嵯峨に帰った。その後、応永30年(1423)には満雅が鎌倉公方足利持氏と連絡し、南朝皇族を擁立して再び挙兵したが、間もなく幕府と持氏が和睦したのを受け自然に立消えになった。正長元年(1328)、称光天皇が重病となり崇光院の曾孫彦仁王(後の後花園天皇)を擁立する動きが出たのを切掛けに満雅が小倉宮を擁し持氏と通じて三度蜂起し討死。天皇が長らく病で、しかも義量病死以来数年間将軍が空位、足利家の総領義持が病死という政治的空白もこの事件の背景にあったであろう。このように、政治的に安定しているとは言えない幕府にとって、反体制派の名分となりやすい南朝皇族は存在事態が危険なものになっていた。そのため六代将軍義教は、南朝皇族を温存する(皇位継承権も残る)義満・義持と異なり、「南方一流は断絶さるべし」という方針を打出した。この結果は却って南朝皇族の行動を激化させる事になる。永享九年(1237)、将軍の弟大覚寺義昭が出奔し、大和越智氏と結んだ。「看聞日記」によると義昭に続いて玉川宮・護聖院宮ら南朝皇族も脱出、楠木氏が森口城を落したという。翌年、持氏と関東管領上杉憲実が対立し、幕府はそれに乗じて持氏を討伐、懸案であった関東との対立の決着を図った。持氏は幕府と敵対するに当り旧南朝方と結んだ様子はないが、義教は南軍と結んだ越智氏の乱と結付けて討伐の綸旨を受けている。義教は有力守護に対してもこうした強引な方法で抑えようとしたが、嘉吉元年(1441)に赤松満祐により殺害された。嘉吉の乱である。播磨に引揚げた満祐は小倉宮擁立に失敗したが直冬の孫義尊を担いだ。一方幕府は後花園天皇から綸旨を受け、時期将軍に義教の子義勝を擁立してこれを鎮圧。しばらく小康状態が続いたが、嘉吉三年、源尊秀が内裏を襲撃し神器を奪って叡山に逃れた。しかし叡山がこれに組しなかったので尊秀が擁立する通蔵主・金蔵主は殺され乱は鎮圧されたが、神璽は奪還されなかった。この企てには日野有光・資親や冷泉・高倉家といった公家が荷担し、他に当時幕政を握る畠山氏に対抗する細川・山名が後盾になったとも言われる。ともあれその後十数年、神璽が行方不明であった。この間、南朝方が紀伊北山で挙兵したともいう。さて長禄元年(1457)、赤松旧臣の上月満吉・小寺弘光と越智家栄が北山・川上に侵入して南朝一宮・二宮を殺害、翌年に神璽を奪回した(川上村では現在でも古くからの住民が南朝の宮「なんておさま」を偲び朝拝を行っている)。朝廷・幕府の威信が低下する中、朝廷に神璽がない事の影響は小さくなかった。そこで赤松の旧臣達は神璽を奪還するという手柄と引換えに赤松政則を取立てての主家再興を幕府・朝廷と約束した訳である。その後、将軍家・畠山氏・斯波氏で家督争いが起こりそれに細川・山名の主導権争いが絡んで応仁の乱が勃発。こうした中の文明元年、乱に乗じて旧南朝が北山・熊野で蜂起し、「明応」との年号を称した。一方京では東軍(細川)に天皇・将軍を取られた西軍(山名)が南方のこの動きを見て、これと組んで名分を手に入れようとした。その結果、小倉宮が西軍に迎入れられたが間もなく山名宗全が病没、その後は宮を顧る者は無くなった。長らく反体制派と結んで抵抗を続けてきた旧南朝であったが、以後の活動は見られない。時代が又転換を迎える中、旧南朝勢力は静かに歴史の闇に消えていったのである。
(18)南北朝正閏論争
 南北朝時代を論ずる際、しばしば話題になるのが何れが正統であるか、という問題であろう。同時代では親房の「神皇正統記」に代表される様に自己の陣営の正統性を主張するものの他の一般感覚は「一天両帝、南北両京」という言葉に象徴される両者並立という物であった。南北合一後は北朝の正統が自然に受止められていたが、江戸期に水戸学が勃興し、大義名分論を振りかざし南朝正統を唱えた。当初は徳川氏の「先祖」新田氏を称揚する目的があったと思われるがやがて頼山陽に代表される様に、武家(徳川氏)のアンチテーゼとして天皇が捉えられ明治維新の思想背景の一つとなる。そうした風潮は明治期にも続くものの久米邦武らに代表される実証主義も力を持っていた。問題が起こったのは明治44年のこと。国定教科書「尋常小学日本歴史」が南北両朝並列を取っていた事に対し読売新聞が非難。これを受けて代議士藤沢元造が早稲田大学の松平康国・牧野謙次郎と国会で問題にし、「国民をして順逆・正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根底を破壊する」恐れがあると政府を詰問する事とした。桂首相・小松原文相はそれを知り撤回させた。しかしそれをきっかけに論争が起こる。結局首相・枢密院が上奏し天皇勅裁により南朝が正統とされ、教科書の「南北朝」の見出しは「吉野の朝廷」と変えられ責任者喜田貞吉は休職とされた。しかしながら、前述の様に皇室は直接の先祖である北朝を正統としてきたのである。その為、この問題で宮内大臣から北朝の各天皇の尊号・御陵・祭祀はこれまで通りとする様要請があった。さもないと宮中では支障が起こるのである。こうした論争が起こった背景には、大逆事件の影が大きい。幸徳秋水は法廷で「今の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の末裔」と指摘し裁判長を黙らせた。また被告の中には久米邦武「大日本古代史」で日本紀的史観に疑問を持ったのがきっかけの者もいたのだ。こうしたことから、政敵の政府攻撃を利用し「大義名分を明らかに」するため首相・枢密院が南朝正統を強要した。考えてみればこの出来事は何とも不自然であり、また皇位の順や正統性を臣下が云々するのであるから「不敬」の極みである。第一、親房の説が論拠ならば現天皇の直系の先祖のみを正統としているのだから、亀山以降の大覚寺統は正統でなくなるはずである。もし南朝が正統なら後深草の子孫である明治から今上までもが正統でなくなる。おかしな話である。神器の有無のみで判断するのかも知れぬが光厳から崇光までは「神器」を手にしており真器か否かは分からない。更に神器があれば正統との説の不自然さは神器なしで即位した後鳥羽が正統とされている事、英国名誉革命でジェームズ2世が国璽を持去ったに関わらず何の問題にもならなかった事でも分かろう。戦後間もなく、南朝末裔と称する「熊沢天皇」が皇位の正統性を主張し世間を賑わせたが直にこの問題は鎮静化した。本質的には何でもない、どうでも良い問題である事を人々が一番良く知っていたと言う事になる。明治末年、欧米を追い掛ければ済んだこれまでとは違い世界分割の波の中で一勢力の主として自力で列強と対峙する必要に直面した日本。そのために国民を一つに纏める必要がありそれに天皇が不可欠であった(大正期は比較的余裕があったので学界では実証的研究が主流であったが、昭和初期になると斎藤内閣の中島商工相が尊氏を称揚したとして辞任に追い込まれた事に象徴される様に皇国史観が完全に世を覆った)。そうした状況下では天皇が複数並立する南北朝は何とも扱いにくい時代であった。それを皇国史観の中の目玉商品に変えてしまう事には成功した。しかし日本人の典型とも言うべき尊氏を「究極の逆賊」とする如き歪んだ観点を植付ける事になった。南北朝正閏問題は、日本が列強と対峙する中次第に平静を失い自己の姿を見失って破滅に突進んでいく近代後期の始まりを象徴する事件であったと言えるかもしれない。
(19)おわりに
 後醍醐死後のおまけが長くなりすぎた。時間とスペースの都合で今まで語りたくて語れなかった部分も詰め込んだからねェ。表題と内容が厳密には一致してませんが、勘弁してください。それにしても、この人、後「醍醐天皇」と全然違うやん…(醍醐天皇が特に何もせず晩年怨霊に悩まされたのに対し、暴れまわった上に自分が怨霊になってる)。ま、細かい事は気にしない事にして食事に行きましょう。


参考文献
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社 
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫 
楠木正成 植村清二 中公文庫
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書 
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書 
太平記の群像 森茂暁 角川選書
後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書 
異形の王権 網野善彦 平凡社 
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫 
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫 
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫 
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫 
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
日本史小百科8天皇 児玉幸太編 近藤出版社 
日本外史(上)(中) 頼山陽著 頼成一・頼惟勤訳 岩波文庫
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社 
週刊朝日百科日本の歴史6海民と遍歴する人びと 朝日新聞社
日本中世の社会と国家 永原慶二 新NHK市民大学叢書 
中世の社会と思想上 松本新八郎著 校倉書房
ジュニア日本の歴史3 武士の実力 永原慶二編 小学館 
新講日本史三訂版 家永三郎・黒羽清隆共著 三省堂
頼山陽日本政記 安藤英男編 近藤出版社 
「大川周明全集第一巻 岩崎書店」より「日本二千六百年史」
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書 
「校註国歌大系第九巻 講談社」より「新葉和歌集」
足利時代史 田中義成 講談社学術文庫 
戦国大名と天皇 今谷明 講談社学術文庫
後南朝史論集 後南朝史編纂会編 瀧川政次郎監修 原書房 
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
「日本中世の国家と宗教 黒田俊雄編 岩波書店」より「中世の国家と天皇」
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局 
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研 
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版

後嵯峨―後深草―伏見―後伏見―光厳―崇光
           -花園  -光明 -後光厳―後円融―後小松
    -亀山――後宇多―後二条―邦良
       ―恒明      -邦省
            -後醍醐―護良
                -宗良
                -尊良
                -世良
                -恒良
                -成良  
                -後村上―長慶――海門承朝
                -懐良  -後亀山―恒敦(小倉宮)
                    -護聖院宮


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