2001年10月5日
イスラム教歴史  矢野武志


1)ジャーヒリーヤ時代
 イスラム教成立以前の時代はジャーヒリーヤと呼ばれ、無明・無知・愚かさを意味し、イスラムでは肯定的にはとらえられていません。
 アラビア半島は、西の紅海沿いに2000メートル級の山脈が走り、東に向かってなだらかに低くなっていきます。また、南部にも東西に高い山脈が走り、イエメンで3000メートルに達します。したがって、南アラビアでは夏には海から湿った季節風が山脈に当たり、年間1000ミリほどの雨を降らせます。一方、内陸部は年間降雨量がわずか100ミリという高温の乾燥地帯で、ステップと砂漠から成り、夏では日中で摂氏50度以上にもなります。
 こうして南アラビアでは農業が営まれ、内陸部では人々はラクダや山羊・羊を飼育する遊牧を行なうが、点在するオアシスに定住する人々はナツメヤシや小麦を栽培したり小家畜の飼育や商業に従事することになります。
 この時代の人々の精神生活は、精霊・天体信仰や偶像崇拝が中心で、一部には単性論派やネストリウス派キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教などの影響も及んでいました。西暦523年には南アラビアのヒムヤル王国の王ズー=ヌワースがユダヤ教に改宗し、当地のキリスト教徒を迫害する事件が起こりました(ナジュラーンの迫害事件)。これを原因に、東ローマ皇帝ユステイニアヌス?は、エチオピアのアクスム王国にヒムヤル王国の討伐を命じました。ムハンマドが誕生したのはこのような事件が一段落した570年頃のことと考えられています。
2)ムハンマド誕生と宣教
 ムハンマドは、クライシュ族のハーシム家の一員としてメッカに生まれます。父は、アブドッラーフで、誕生前に死亡し、母も6歳の時に死亡し、孤児同然に育ちます。その後、祖父のアブドゥル=ムッタリブに引き取られるが、この祖父も2年足らずで他界し、おじのアブー=ターリブに養育されます。25歳の時に、富裕な未亡人ハディージャの代理として商隊に加わり、務めを立派に果たしました。その人柄を見込んだハディージャはムハンマドと結婚することになりました。ハディージャ40歳と言われています。4人の娘と2人から4人の息子をもうけたと言われています。
 結婚によって生活の安定をえたムハンマドは、やがてメッカ郊外のヒラ一山の洞窟に毎年一定期間籠もるようになります。そして、610年頃にそこで神の啓示を受けて、神の使徒(ラスール・アッラーフ)、預言者(ナビー)である自覚を持ち、メッカでの布教を開始します。偶像崇拝をとりわけ厳しく非難し、メッカで青年男女を中心とする信徒を獲得するにつれて迫害も強まります。そこで615年には、メッカに5,60名を残して、対岸のエチオピアに信者83名を避難させます。
 619年には、よき理解者であり心の支えであった妻ハディージャに先立たれ、続いて族長として彼を庇護してきたアブー=ターリブが死亡します。さらに悪いことに、新たに族長となったアブー=ターリプの弟、アブー=ラハブはムハンマドの庇護よりもハーシム家の経済的利害の方を優先させました。これらを契機に迫害が激化しました。
3)ヒジュラ
 新たな布教の拠点を求めて、メッカ東方約60キロの高地の町ターイフで布教を試みるが失敗に終わりました。しかし、思わぬところからの巡礼者によって新しい道が開けることになります。
 メッカの北方約350キロの所にヤスリブ(のちのメディナ)というオアシスの町がありました。主な生業はナツメヤシや小麦を栽培する農業で、かつて有力であった3つのユダヤ教徒氏族のほか8つの大きいアラブ氏族と多くの小さいアラブ氏族から成っていました。7世紀の初めには8つのアラブ氏族が支配的となっていたが、土地をめぐってこれらの間で争いが絶えず、それがアウスとハズラジュ両部族の対立となって現れていました。
 620年にメディナからの巡礼者6名がムハンマドの教えに感服して、彼こそメディナの混乱を鎮めることができると確信し、翌年621年にこれらのうち5名が別の7名を連れて再びやってきてムハンマドに会い、彼を預言者と認め、彼に服従し、罪を犯さないことを誓います(第一のアカバの誓い)。622年には、75名がメッカへ巡礼し、第一のアカバの誓いに加えて、神と預言者のために命を賭けて戦うことを誓いました(第二のアカバの誓い)。こうしてまず70名の信徒が出発し、最後にムハンマドがメディナに移住し、これをヒジュラと言います。後にこの年がヒジュラ暦の紀元(622.7.16.に始まる)と定められました。
 メディナのアラブ人のほとんどがムハンマドを預言者として受け入れましたが、中には受け入れない者や受け入れたふりをする者もいて、なにより約20の氏族から成るユダヤ教徒もいました。さらにメッカ側との対立状態はそのまま続いていました。このような複雑な状況の中で、メディナに移住した信徒(ムハージルーン)と共に作ったイスラム共同体(ウンマ)を維持し拡大していくのは至難の業でした。
4)メディナ憲章
 ヒジュラ後間もない頃にメディナ憲章が作成されました。これは、神の名において、預言者ムハンマドと、ムハージルーンとメディナのムスリム、および「彼らに従う者たち」との間に綻ばれた盟約です。これによると外部からの攻撃に対して共同防衛にあたり、内部の裏切りや不正に対しても一致して対抗すべきことが定められています。しかし、実際の報復は、メディナの8氏族内、ムハージルーン内、各々が責任を持っていて、全共同体的な権力を持った強制機関は存在しませんでした。ムハンマド自身もせいぜい他の族長と同じ地位にすぎず、ムハージルーンを統率するのみでした。
 しかし、重要な点は、共同体内に意見の相違が生じた場合には神とムハンマドの裁決に従うべきこと、宣戦や休戦はムハンマドの承認が必要であること、などで、共同体内の最終権威と、軍事・外交上の特権がムハンマドにあるということです。その後、ムハンマドはこの特権を使い、軍事・外交的成功を足がかりに共同体内での権威を高めていきます。
5)メッカとの対決
 ムハージルーンたちはメディナのアンサール(援助者)からの支援を受けながらも自活の道を模索します。そこで、ムハンマドが始めたのが、メディナ西方の海岸沿いのルートを通るメッカの隊商を襲撃することでした。これはメッカとの全面的対決へとつながっていきます。メッカ側にとって、商業活動の妨害は死活問題で、クライシュ族の面目に関わることでした。他方ムスリム側からすれば、略奪は経済的自立への道であり、何よりもかつてムスリムたちを迫害した不信仰に対するジハード(聖戦)でもありました。
 幾つかの小競り合いの後、最初の大きな戦闘は624年のバドルの戦いでした。86名のムハージルーンと23名のアンサールに対して、メッカ側は約1000名と3倍近い数でしたが、ムスリム側の勝利に終わりました。翌年625年のウフドの戦いでは、ムハンマド自身が負傷し、惜しくも勝利を逸しました。627年のハンダクの戦いでは、メディナの町の周囲に空堀を掘って籠城し、メッカ軍の攻略を完全に失敗に終わらせました。翌年628年には逆にムハンマドが、約1500名の兵を率いてメッカに向かいます。メッカ側はこれに対し戦いをさけてフダイビヤの和約を結び、10年間の休戦と翌年のメッカ巡礼を約束させました。
 このメッカとの戦いの間に、ムハンマドは周辺アラブの制圧、友好関係の樹立に努め、彼の活動を妨害してきたユダヤ教徒を追放・処刑して、メディナにおける宗教的権威と政治的権力を不動のものにしていきました。630年には、条約違反を口実に、メッカの無血征服に成功し、カーバ神殿内の偶像を破壊して浄めました。
 クライシュ族がムハンマドの権威に服することになって、名声が一挙に高まり、半島内の多くの部族がメディナに使節を送って盟約を結び、イスラムの教えを受け入れました。メッカ征服後の1年は特に使節の往来が多く、「遣使の年」と呼ばれています。
 ムハンマドは、632年にメッカ巡礼を行なうが、それから数ヶ月後、高熱と激
しい頭痛に悩まされた後死亡して、最後の巡礼と成りました。
6)正統カリフ時代
 一般にムスリムの間では、預言者の時代(622〜632)や正統カリフ時代(632〜661)はイスラム史における理想の時代とみなされています。
イ)アブー=バクルの時代
 ムハンマドは632年、後継者について何の指示も与えることなく死亡します。アリーを含めてムハンマド家の人々が埋葬の準備に忙殺されている頃、他方ではその後継者をめぐるあわただしい動きがありました。アンサールたちがサーイダ族の集会場に集まり、彼らの有力者サード・イブン=ウバーダを後継者にしようとする独自の動きがありました。この危機に際して、アブー=バクルやウマルらは現場に急行し、彼らを説得し、教団分裂の危機を回避します。そしてその場でアブー=バクルがカリフ(神の使徒の後継者を意味するハリーファの訛ったもの)に選出されます。危機はこれだけではありませんでした。ムハンマドの死と共に盟約を結んでいた多くのアラブ諸部族が離反したことです。特に半島中部のヤマーマを中心とするハニーファ族は、ムサイリマという預言者を立てて公然とイスラム教団に挑戦しました。大部分のアラブ部族は、ムハンマドの死去にともない彼との盟約は消滅したとしてザカート(喜捨税)やウシュル(十分の一税)の支払いをやめたが、ムスリム側はこれをリッダ(背教)として討伐しようとしたのです(リッダ戦争)。こうしてアブー=バクルはアラビア半島をイスラム教のもとに再統一しました。アブー=バクルはリッダ戦争に勝利した後に病に倒れ634年8月23日に死亡しました。
ロ)ウマルの時代
 アブー=バクルは死亡する前に、有力者を説得して後継者にウマルを指名します。ウマルは、ヒジュラの4年前にイスラムに改宗したアディー家出身で、このウマルの時にアラブ・ムスリム軍は半島を出て、破竹の勢いで東西に大征服を開始します。イラク方面ではカーディスィーヤの戦い(636年)でササン朝を撃破し、シリア方面ではヤルムーク河畔の戦い(636年8月20日)でビザンツ帝国を破りました。イラクやシリアに進出したイスラム教徒は各地に軍事基地を建設し、これらの基地が後にイスラム都市(イラクのクーファとバスラ、ディジラ河上流のマウスィルなど)へと発展します。また、ウマルはヒジュラ紀元を定めたり、640年には中央政府にディーワーンを置きこれにもとづいてアラブ戦士たちに現金と現物で俸給を支給し、この制度が古典期イスラムの行政の基本原則となりました。642年にはニハーウァンドの戦いでササン朝を事実上崩壊させました。しかしウマルは644年、キリスト教徒によって暗殺されます。ウマルは6名の実力者の名前を挙げ、彼らに後継者の選出を委ね、息を引き取ります。そして協議の結果、3代目カリフに選出されたのがウスマーンです。
ハ)ウスマーンの時代
 ウスマーンは、ウマイヤ家出身で、最長老の一人で預言者の娘二人を妻とする幸運に恵まれながら、優柔不断の性格で、かつてメッカの大商人を代表したウマイヤ家の人々を、同族のよしみから、優遇したため種々の不満を呼び656年6月17日にメディナにやってきたアラブの反乱兵士によって暗殺されてしまいます。
二)アリーの時代
 この事件後、預言者ムハンマドの従兄弟であり、娘婿のアリーがカリフとなりました。しかし、アリーの時代もけっして安泰ではありませんでした。まず、預言者の未亡人アーイシャをリーダーとする反対派グループとの戦い(駱駝の戦い)が起こりました。そこで、アリーは政権の中心を預言者の町メディナからイラクのクーファへと移しました。続いてウスマーン殺害事件にアリーが加担していたとして、その責任を問うウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤが挙兵し、アリー党(シーア・アリー)に対抗しました。両者はフラート河中流のスィッフィーンの野に戦ったが、勝敗は決せず、アリーはムアーウィヤ側から提案された調停を受け入れました。そのため調停に反対する者が出て、アリーの陣営から離脱しました。これがイスラム教の最初の分派となるハワーリジュ派です。アリーはこれらの分離した過激な反対分子とも戦わなければならず、休まるときがありませんでした。ついには、661年1月24日にハワーリジュ派によって暗殺されてしまいます。この死をもって正統カリフ時代は終わります。このようにしてムアーウィヤは権力を手に入れることができました。
7)ウマイヤ朝時代
 ムアーウィヤはシリアのディマシュクを首都とする政権(ウマイヤ朝)を立て、アリーの長子ハサンにカリフの位の要求を買収によって放棄させ、自分が死んだときには息子のヤズィードを後継者とするようウンマの有力者を説得し、以後の世襲王朝を確立しました。
 680年にムアーウィヤが死ぬとウンマに動揺がおこりました。アリーの次男フサインがカリフの地位を要求し、ヤズィードへカリフ位を譲ることを拒否しました。フサインはメッカからシーア派の拠点であるイラクのクーファへ出発するが、フラート河畔でヤズィードの派遣したウマイヤ朝軍に包囲され、一行の多数が虐殺されました(カルバラー事件、680.10.10.)。
 682年になるとメッカの有力者アブドゥッラーフ・ブン・アッズバイルがヤズィードに対抗して挙兵しました。683、684年にスフヤーン家のヤズィードとその息子のムアーウィヤ2世が相次いで死亡するとウマイヤ朝側では、3代目カリフ、ウスマーンの従兄弟に当たるマルワーン(マルワーン家)が立ち、アブドゥッラーフ・ブン・アッズバイルに対抗しました。マルワーンの死後は、その息子アブゥドルマリク(在位685−705)が後継者となり、メッカのアブドゥッラーフ・ブン・アッズバイル及びクーファのシーア派勢力と抗争しました。シーア派は685年にイラクのクーファでムフタールという人物の指揮下に反乱を起こし、マワーリーと呼ばれる非アラブのイスラム教徒が多数参加しました。シーア派はこの反乱の際に「イマーム・マフデイー」という呼称をアリーの息子の一人に対して用い、後にこの呼称はシーア派にとって重要なものとなります。ムフタールの反乱はアブドゥッラーフ・ブン・アッズバイルの軍に敗北して687年には消滅します。ウマイヤ朝とアブドゥッラーフ・ブン・アッズバイルの対立は、692年にメッカ包囲戦でアブドゥッラーフ・ブン・アッズバイルが戦死するまで続くことになります。そしてこの年にイスラムの共同体は再び統一を回復します。
8)大征服の再開
 国内の混乱が落ち着いたワリードの時代(在位705-715)にイスラム教徒の大征服が再開されました。東方ではクタイバの指揮下にホラーサーンから中央アジアのソグド地方へ、また西北インドのシンド、パンジャーブ地方へもイスアム勢力が進出しました。西方では711年にターリク・ブン・ズィヤード率いるベルベル軍がイベリア半島に渡り、グアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国軍を撃破してコルドバ、トレドを占領しました。イスラム教徒軍の北上はトゥール・ポワティエ間の戦いに敗北するまで続きます。
 東西の征服地には総督が置かれイスラム教徒は駐屯軍として軍事基地に定住しました。8世紀になると遠隔の地方でもマワーリーの数が増え始め、彼らとアラブのムスリムとの経済的特権にまつわる格差が大きな社会問題となり始めました。
9)ウマイヤ朝の衰退とアッバース家運動
 ワリードを継いだスレイマンの時代(在位715‐717)には、東西の征服に活躍したクタイバ、ムハンマド、ムーサーはいずれも解任、召還され、姿を消します。スレイマンは、コンスタンティノープルを攻撃するが、失敗します。スレイマンを継いだウマル2世はマワーリー問題を解決すべく税制改革に取り組んだが、結果的には社会内の矛盾を解決するには至りませんでした。ウマイヤ朝の失政に対する不満が高まり、各地でハワーリジュ派による反乱が起こりました。
 このような状況の中、ムフタールの反乱に参加したシーア派のうちに、預言者ムハンマドの叔父アッバースの一族にイマーム位が委譲されたという意見に従う者たちがあらわれ彼らはイラクのクーファを本部に,ヒジュラ暦100年(718.9.)を期して、反体制地下運動を開始し、各地に運動員を派遣しました。特にこの運動の中心をになったのは、イラン東部のホラーサーン地方であり、この地域に駐屯するアラブ・ムスリム軍の間で運動が展開されます。746年にはクーファの本部からアッバース家のイブラーヒームのマワーリーであったアブー・ムスリムが派遣され、運動が本格化しました。
 747年6月にホラーサーンのマルヴ近郊で挙兵したアブー・ムスリムは黒旗を掲げアッバース家の正統性を主張し、ウマイヤ朝体制に挑戦しました。反乱軍は748年2月にマルヴを占領、続いて西進し、749年9月にはアッバース家運動の本拠であったクーファを征服しました。同年11月末にはアブル・アッバースがカリフに即位しました。750年2月にはイラクの大ザーブ河畔でウマイヤ朝側との決戦が行われ,アッバース朝が勝利しました。ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は逃亡し、上エジプトで殺害されます。ウマイヤ家の一族は殆どが殺されたが、わずかに第10代カリフ、ヒシャーム(在位724‐743)の孫アブドゥッラフマーンは殺害を逃れてアンダルスへ避難し、アンダルスにウマイヤ朝政権(後ウマイヤ朝)を立てました。


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