2001年10月12日
現代日中外交史・下  J.W.


I東アジアにおける冷戦体制の形成
II中ソ対立およぴ文化大革命期の日中関係
III米中接近への道
IV日中国交正常化
V日中平和友好条約


II中ソ対立およぴ文化大革命期の日中関係
[池田内閣の対中政策とLT貿易]
 1960年代の東アジアは激動の時代であった。とりわけ中国にとって、危機的な状況の連続であった。大躍進政策の失敗の結果、経済の破局が訪れ、農業生産の低下により、1500〜2000万人と推定される人口が栄養失調のため死亡した。工業生産も崩壊し、中ソ対立に伴って、ソ連が中国に対する経済・科学技術援助を停止したことが事態を深刻にした。次いで60年代半ばからベトナム戦争が激化し、中国はアメリカとの戦争に備えて大規模な準備体制をとり始めた。同時に、ソ連との戦争にも備えなければならなかった。そして66年から文化大革命の激動が10年問の長期にわたって中国を支配したのである。
 この間日本では、岸内閣に代わり、安保問題で混乱した政局を収拾するために、池田内閣が登場し経済政策を掲げた。池田内閣は発足当初、アメリカとともに1961年の第16回国連総会で、中国の国連加盟を総会の3分の2以上の賛成を必要とする重要事項に指定する「中国代表権問題重要事項指定方式」の共同提案国となって、中国の激しい非難を浴びた。その一方で、池田内閣は中国との経済関係の修復を慎重に試みた。1962年松村謙三が訪中、周恩来総理、陳毅副総理と会談し、「双方は漸進的かつ積み重ねの方式をとり、政治関係と経済関係を含む両国の関係の正常化をはかるべきである」との合意に達した。この合意のもとに日本政府は63年倉敷レイヨンのビニロンプラントの延べ払い輸出を許可した。64年には廖承志・高碕達之助のLTラインで、日中両国の連絡事務所の設置と新聞記者交換協定が結ばれ、長期総合覚書貿易「LT貿易」は順調に発展するかにみえた。
 台湾はこの動きに警戒を示し、63年に起きた中国人通訳・周鴻慶台湾亡命未遂事件を契機に、日本政府に対中プラントヘの日本輸出入銀行の延べ払い使用をやめるよう圧力をかけた。64年池田首相は収拾を図るため、吉田元首相を台湾に派遣した。吉田元首相は蒋介石総統と会談し、以下のような「中共対策要綱案」が成立した。「@中国大陸六億の民衆が自由主義諸国と平和的に共存しつつ、これら諸国との貿易を拡大して、世界の平和と繁栄に寄与できるようにするためには、中国大陸民衆を共産主義勢カの支配より解放し、自由主義陣営内に引き入れることが肝要である。A日本、中華民国両国は具体的に提携協カして、両国の平和と繁栄を実現し、自由主義体制の具体的模範を中国大陸民衆に示すことにより、大陸民衆が共産主義政権より離反し、共産主義を大陸から追放するよう誘導すること。B日本は“二つの中国"の構想に反対すること。C日本と中国大陸との貿易は民間貿易に限り、日本政府の政策として、中国大陸に対する経済的援助に支持をあたえることは厳に慎むこと」
 この要綱は当時秘密にされた。吉田は帰国後、中国向けプラントに輸出入銀行の融資を承認しない旨を述べた書簡を台湾に送り、これが「吉田書簡」として流布した。このため予定されていた大日本紡績(ユニチカ)のビニロンプラントは破棄され、これ以後プラント輸出はすべて破棄されることになった。これ以後、国民政府と外交関係を継続し、中国大陸と貿易を行う「政経分離」が日本政府の基本方針として再確認され、問もなく池田首相は辞職し、佐藤政権に代わった。

[「中間地帯論」と核実験の影響]
 中ソ対立の激化に伴って、中国の対外政策や戦略は、これまでのソ連を中心とする杜会主義圏との連帯よりは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの第三世界およぴヨーロッパ諾国・日本との連帯を強調する「中問地帯論」を基調とするようになった。中国も日中関係の改善を真剣に考えるようになり、1963年には郭沫若を名誉会長、廖承志を会長とする中日友好協会が設立された。毛沢東は中国との国交を64年に樹立したフランス(ドゴール)を賞賛し、アメリカ・ソ連に反対する、これら中間地帯諸国の独占資本と保守派を含めた統一戦線を提唱するようになった。貿易も次第にソ連・東欧諸国から日本・西欧諸国との貿易に比重が移っていき、65年中国の対外貿易はソ連に代わって日本が一位となった。
 中国は経済困難にもかかわらず、核開発に懸命の努力を傾け、64年10月核実験に成功し、67年には水爆実験に成功した。これは米ソはもとより、日本の各界に複雑な影響を与えた。とりわけ核実験禁止、核拡散防止、核兵器廃止を主張していた社会党、総評(日本労働組合総評議会)に大きな衝撃を与えた。これまで中国との友好関係を維持していた総評は、「我々は人類最初の原水爆被災国として、いかなる国の核実験にも反対する」と表明した。そして原水協(原水爆禁止日本協議会)・社会党・総評などを中心に原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が結成された。

[佐藤内閣と日台関係の強化]
 日本では佐藤内閣が64年11月から72年7月までの長期にわたって政権を担当したが、この時期日中関係は悪化した。佐藤内閣は沖縄返還を最大の政治目標にし、対米関係を一層強化したこと、ベトナム戦争が激化しアメリカがアジアの同盟諸国との協力関係を強化し中国と対立したこと、この時期中国では文化大革命の時期にあたり、中国との外交関係そのものが成立しなかったことがその要因である。
 佐藤内閣の時期に、日本と台湾の関係は強化された、日本は毎年アメリカとともに、国連総会で中国代表権問題を重要事項に指定する提案国の一員となり、さらにアメリカの台湾への援助打ち切りを受けて、65年台湾に1億5000万ドルの借款を供与した。佐藤首相は69年に台湾を訪問し、ジョンソン大統領との共同コミュニケにおいて、「両者は中共が核兵器の開発を進めている事実に注目し、アジア諸国が中共からの脅威に影響されないような状況をつくることが重要であることに意見が一致した」と述べた。
 佐藤内閣は65年6月、日韓基本条約を締結した。中国政府は「佐藤内閣と朴正煕一味は、朝鮮、日本両国人民の強い反対と世界人民の非難を無視して日韓基本条約を調印した。これは米帝国主義が永久に朝鮮を分裂させ、南朝鮮を力で占領し、しかも日本と朴正煕一味を米国の侵略政策と戦争政策に奉仕させようとする企図する一つの重大な段取りである。中国政府は日本政府と朴正煕一味が調印したいわゆる日韓基本条約を決して認めない」との声明を癸表した。これらによって佐藤内閣は、中ソ対立とともにアメリカのベトナム戦争が中国に拡大する危険性を考えていた中国の激しい非難を浴ぴることになった。
 69年11月、佐藤首相とニクソン大統領は、「朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努カを高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である。中共がその対外関係において、より協調的かつ建設的な態度をとるよう期待する。米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを順守するものである。台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとって極めて重要な要素である」との共同声明を発表し、中国の警戒心を極度に高めた。これに対抗して、周恩来首相が70年に北朝鮮と北ベトナムを訪問し、「世界中のすべての革命的人民は、一致した行動をとって、日本軍国主義の侵路的野望を制止し、粉砕しなければならない。当面の日本軍国主義反対の闘争は反米闘争の一部であり、またアジアと世界の平和を守る闘争でもある、反米闘争を推し進めると同時に、日本軍国主義反対の共同闘争を一段と強化する決意を表明する」との共同声明を発表し、中国、北朝鮮、インドシナによる抗米日の国際統一戦線の結成を呼びかけた。

[文化大革命と日中関係の混乱]
 文化大革命は、イデオロギー対立、路線対立に伴って、これまで日中関係を支えてきた組織に対立、分裂、混乱をもたらした。とりわけ日中両国共産党の対立は大きな影響を与えた。1966年、宮本顕治書記長の率いる日本共産党代表団は、反米国際統一戦線の結成をめざして、北ベトナム、北朝鮮を訪問し、中国共産党と会談したが、毛沢東のソ連を現代修正主義と批判する反米反ソ国際統一戦線の主張と対立した。さらに毛沢東思想を受け入れるか否かをめぐっての対立は、組織の対立にまで発展した。67年『人民日報』が日本共産党を宮本修正主義集団と誹謗するに至って、67年10月10日付『赤旗』は、
「中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、彼らが国際共産主義運動と社会主義、共産主義の事業を撹乱する反マルクス・レーニン主義集団であることを、彼ら自身の内外政策と行動のすべてによって、最近ますます明自に実証しつつある。(中略)すべての事態は、今日日本の革命運動、民主運動の自主的発展を守り抜くためにも、国際共産主義運動のマルクス・レーニン主義的強化を勝ち取るためにも、我が党が毛沢東を中心とする中国共産党の極左日和見主義、大国主義集団の理論と実践の反マルクス・レーニン主義的な実態と本質を日本人民の前に明らかにし、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の原則を踏みにじった、彼らの極左日和見主義、大国主義、分裂主義の路線と行動に対して、一層全面的で系統的な、公然とした批判を強化することが必要になったことを示している」と述べ、毛沢東思想と文化大革命を全面的に批判するまでに至った。
 日本共産党と中国共産党との対立によって、これまで友好団体、友好商杜に強い影響カを持っていた日本共産党系の勢カは排除され、分裂した。その具体例としては、日中友好協会の分裂、日中貿易促進会の解散がある。1950年以来、日中友好運動の中心となっていた日中友好協会は、66年10月に分裂して、中国支持派は日中友好協会正統本部を結成して、「中国のプロレタリア文化大革命の勝利は、中国人民が社会主義革命を最後までやり遂げる根本的な保証であり、また全世界人民の帝国主義に反対し、現代修正主義に反対する闘いにとって極めて大きな貢献である」と述べ、文化大革命支持の態度を表明した。
 文革の混迷が深まる中、日本人記者に対する取材規制が厳しくなり、67年9月には毎日、産経、東京三紙の記者に退去命令が出され、1O月には読売の記者の駐在資格が取り消された。そして68年6月には、日本経済新聞社北京特派員鮫島記者が公安局に逮捕される事件が起きた、こうした事態によって、両国の連絡事務所は機能しなくなった。
 LT貿易も、廖承志が文革のなかで批判されたこともあり、協定を結ぶことができなくなった。名称をLTからMT(MemorandamTrade)貿易と改称すると同時に、その性格も中国が日本政府に政策の変更を迫る機関に変わった。


III米中接近への道
 1972年9月の日中国交正常化には、日中両国首脳の決断が重要な役割を果たしたことは言うまでもないが、米中接近を可能にした国際情勢の巨大な変化がその条件をつくりだしたといえる。これまでの冷戦構造を成立させていた政治的、軍事的、経済的力の変化である。それはサンフランシスコ体制下の米中対立を成り立たせていたアメリカの圧倒的な力の衰退であり、中国とソ連の対立であり、西欧・日本の台頭である。

[中ソ対立]
 1968年8月20日、チェコスロバキアにソ連軍を主カとし、東ドイツ・ボーランド・ハンガリー・ブルガリアも加わるワルシャワ条約軍が侵攻し、ドプチェク第一書記らを拘束・連行して「プラハの春」を夭折させた。周恩来はこれにすばやく反応し、
「ソ修(ソ連修正主義)指導集団は、彼らのマルクス・レーニン主義、国際主義といったべ一ルをすべてかなぐり捨てて、公然と直接武カに訴えて侵略と干渉に乗り出し、鉄砲と大砲で傀儡をでっち上げしようとしている。これはかつてヒトラーがチェコスロバキアを侵略し、また今日アメリカ帝国主義がベトナムを侵略しているのと全く同じである。ソ連裏切り者集団は、社会帝国主義と社会ファシズムになりさがっている。中国政府と中国人民は、チェコスロバキアを武力で占領したソ修指導集団とその追随者の侵略的犯罪行為を厳しく糾弾するとともに、ソ連軍の占領に抵抗するチェコスロバキア人民の勇敢な闘争を断固として支持する」と、ソ連を「社会帝国主義」と規定する言葉を初めて使用した。
 翌69年3月2日、東北地方の中ソ国境であるウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)で両国国境守備隊の武カ衝突が生じた。中国側の報道によれば、ソ連国境守備隊が70余名の兵士、装甲車2台、トラック、指揮車を出動させて、中国国境守備隊員多数を殺傷した。さらに3月15日、ソ連は戦車20台、装甲車30余台、歩兵200余人で航空機の援護のもとに侵入し、その後8月まで銃撃戦などの武カ紛争が継続した。3月11日付『人民日報』社説は、「これはソ修の引き起こした極めて重大な国境での武カ挑発であり、ソ修がつくりだした狂暴な反中国事件であり、またソ修社会帝国主義の残忍な本性の新たな大暴露である。中国人民と中国人民解放軍は、ソ修裏切り者集団のこの凶悪極まる犯罪行為に極度の憤激を表し、最も激しい抗議を行う。ソ修裏切り者集団のこのような強盗行為は、縦に他国の領土を占領し、他国の主権を侵犯し、至る所我が物顔にのし歩いているアメリカ帝国主義とどこが違うだろうか。新しいツアーを打倒しよう!ソ修社会帝国主義を打倒しよう!」と述べている。
 この事件の直後に開催された中共九全大会で林彪は、「ブレジネフが政権の座についてから、ソ修裏切り者集団の指揮棒はますます効き目を失い、内外の困難はますます深刻なものとなっている。対外的にはアメリカ帝国主義との結託を強め、各国人民の革命闘争への弾圧に拍車をかけ、東欧諸国とモンゴル人民共和国に対する支配と搾取を強化し、アメリカ帝国主義との間で中東やその他の地域を争奪することに血道をあげ、我が国に対する侵略の脅威を強めている」と報告し、プレジネフ・ドクトリンを非難した。
 林彪の報告にも見られるように、珍宝島(ダマンスキー島)事件を契機に、中国はソ連の軍事的脅威を現実に悟るようになった。8月、毛沢東の「戦争に備えよ」という指示のもとに、防空体制の整備と全国的な地下壕堀りが展開された。9月、中国は地下核実験に初めて成功するとともに、水爆実験も行った。10月、建国二十周年のスローガンとして「全世界人民は団結して、いかなる帝国主義、社会帝国主義の引き起こす侵略戦争にも反対し、とりわけ原子爆弾を武器として使用する侵略戦争に反対しよう!」が唱えられた。
 9月3日、ベトナムのホーチミン大統領が亡くなると、周恩来・コスイギン両首相はただぢにハノイに弔問に訪れたが、両者が顔を合わせることはなかった。9月11日、コスイギンは訪中したが、中国は北京市内には迎え入れず、周恩来が北京空港で会談した。周恩来はその談話でソ連の奇襲攻撃、核攻撃に警告するとともに、国境地帯の武カ衝突の回避を提案した。しかし中国のソ連に対する評価は厳しさを増すばかりで、70年4月のレーニン生誕百周年に際して『人民日報』『紅旗』『解放軍報』編集部は、
「ソ修裏切り者集団がソ連の党と国家の大権を乗っ取った後、ソ連のプルジョワ特権階層は国家機構の全部を握り社会の富全体を支配する官僚独占ブルジョワ階級を形成した。彼らは国家権カを利用して、杜会主義所有制を走資派所有制に変え、社会主義経済を資本主義経済と国家独占資本主義経済に変えた。(中略)アメリカ帝国主義と同じように、ソ修社会帝国主義の一握りの寡頭は、すでに世界戦争を起こそうとしている一つの元凶となっているのである」と糾弾した、

(以上「上」と重複。)

[米中接近]
 1969年、ニクソンがアメリカ大統領に就任したが、大統領特別補佐官に任命されたのがキッシンジャーであった。ニクソンは対ソ関係を有利なものとするために、中ソ対立を利用し、中国への接近を図り、キッシンジャーに対中接近秘密工作を指示した。他方・中国はソ連の脅威にいかに対拠すべきかが最大の課題となっていた。周恩来はアメリカが中国との関係を調整する兆しをみて、アメリカの政策動向を研究し、アメリカの戦略意図を探り、アメリカと接触するよう指示した。四元帥(陳毅・葉剣英・徐向前・聶栄臻)が周恩来に提出した報告「戦争情勢についての初歩的評価」は、米中関係の改善を提唱していて注目される。
 こうした双方の思惑の上で、69年7月、ニクソンはアジアでのオーバーコミットメントをやめるという「グアムドクトリン」を発表し、対中貿易・渡航制限を一部緩和し、12月には第七艦隊の台湾海峡でのパトロールを縮小する措置をとった。そして70年1月、米中大使級会談がワルシャワで再開され、台湾間題は根本問題であるとしながらも、より広範な戦略問題をより高級なレベルでの会談で行う方向性が示された。3月にはニクソンは中国への旅行制限を緩和、10月にはそれまでの「中共(Communist China)」から「中華人民共和国(People's Republic of China)」の呼称を用いた。中国も新聞記者エドガー・スノーを天安門に迎えてアメリカとの友好を演出した。
 ところが、米中接近の過程は一直線ではなかった。69年11月の佐藤・ニクソン共同声明(前述)は中国から見ると非常な脅威であった。周恩来は朝鮮民主主義人民共和国を訪間し、中朝共同声明(前述)を発表、さらにインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)最高級会談を中国で開催し、抗米戦争での連帯を激励した。さらに70年5月、毛沢東は「全世界の人民は団結して、アメリカ侵略者とそのすべての手先を打ち破ろう」という「五・二○声明」を発表した。

【ニクソン・ショック】
一見米中は厳しい対立に向かったかに見えた。しかしパキスタン・ルーマニアを通じて、水面下での接触は続けられていた。1971年4月、アメリカ卓球団は突如中国に招待され、周恩来と親しく歓談した。ニクソンはこれに応え、対中貿易制限緩和、人事交流拡大など五項目の政策を発表し、中国政府の承認と米中国交樹立が米政府の長期目標であるとして、訪中の意欲を示した。同月エドガー・スノーは、ニクソンの訪中を歓迎するとの毛沢東の談話を発表した。そして7月、キッシンジャーが密かに訪中、周恩来と会談し、「ニクソン大統領招請に関する公告」を米中双方で同時に発表した。世界は驚愕震撼したが、日本が特にそうであり、正に青天の霹靂であった。
 アメリカ以外の西側諸国も対中打開の努カが続けられていたが、問題は台湾間題であった。最初に「留意」方式で外交関係を樹立したのはカナダであった。70年10月、カナダと中国は「中国政府は台湾が中華人民共和国領土の不可分の一部分であることを重ねて表明する。カナダ政府は中国政府のこの立場に留意するものである」との共同コミュニケを発表し、外交関係を樹立した。中国は続いて同月イタリア、12月チリと国交を樹立した。
 さらに70年11月、第25回国連総会で中国招致・台湾追放のアルバニア案が初めて過半数を獲得した(日本の提案した「重要事項指定案」が可決していたので、中国の国連加盟は達成されなかった)。翌71年11月、第26回国連総会で日本提案の「重要事項指定案」が否決、アルバニア案が可決され、中国は国連代表権を獲得し、台湾は国連から脱退した。中国政府は「中華人民共和国は、平和と正義を愛するすべての国々および人民の側に立って、各国の民族独立と国家主権を守るため、国際平和を守り人類の進歩を促す事業のため奮闘する」との声明を発表した。
 同じ頃、キッシンジヤーは訪中し、ニクソン訪中を成功させる準備を行っていた。『キッシンジャー秘録』には以下のような記述がある。
「私はドゴールを除いて、これほど世界情勢を把握している他の指導者に会ったことがない。細かい点に関する彼の知識は驚くべきものがあった。それでいて多くの指導者が細部にかまけて、複雑な話を避けようとする場合でも、彼は出来事の関連性を並外れてよく掌握していることをみせた。(中略)予期した通り、台湾が一番厄介な間題であった。私は最後に台湾に関するアメリカの立場を次のように明らかにした。台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであると主張していることを、アメリカは認める。アメリカ政府はこの見解に異議を唱えない。この暖妹な表現ほど彼に感銘を与えたことは他になかったと思う。米中双方はその後十年近くこの表現で共存できた。彼と私は数時間かかってテキストの仕上げをした。ほとんど休みなしに二十四時間続けられた会談を終わるにあたり、我々は上海コミュニケと呼ぱれる文章の大筋について合意した」
 このような背景と準備の上で、72年2月、歴史的なニクソン訪中は実現され、上海コミュニケを米中共同で発表した。その中には「@米中両国の関係が正常化に向かうことはすべての国々の利益に合致するものである。A双方は国際的軍事衝突の危険が少なくなることを望んでいる。B双方ともアジア太平洋地域で覇権を求めるべきではない。C双方とも、大国が世界で利益範囲を分割することは、世界各国人民の利益に背くものであると考える」との合意に達したとある。米中接近は戦後国際政治史における歴史的な転換であった。


IV日中国交正常化
「日中国交回復促進」
 日中国交正常化において重要な役割を果たしたのは、これまで一貫して日中関係の改善に務めてきた社会党ではなく、公明党であった。1971年7月、公明党代表団は竹入委員長を団長、浅井副委員長を副団長として、訪中した。竹入団長は中日友好協会代表団との会談後、次のような共同声明を発表した。
「(1)中国はただ一つであり、中華人民共和国政府は中国人民を代表する唯一の合法攻府である。“二つの中国”“一つの中国、一つの台湾”をつくる陰謀に断固反対する。(2)台湾は中国の一つの省であり、中国領土の不可分の一部であって、台湾問題は中国問題であり、台湾帰属未定論に断固反対する。(3)日台条約は不法であり、破棄されなければならない。(4)アメリカが台湾と台湾海峡地域を占領していることは侵略行為であり、アメリカは台湾と台湾海峡地域からそのすべての武装力を撤退しなけれぱならない。(5)国連のすべての機構、ならびに安全保障常任理事国として中華人民共和国の合法的権利を回復し、蒋介石グループの代表を国連から迫い出さなければならない」
 これらは日中国交回復五条件と呼ぱれる。(4)はニクソンの訪中により、(5)は中国の国連伽加盟実現によりそれぞれ実現されたので、残りの二条件を復交二原則と呼ぶ。
 翌72年7月、公明党代表団は再び訪中し、周恩来首相と会談した。周恩来は次のような八項目の日中共同声明草案を提示した。
「(1)中華人民共和国と日本国との間の戦争状態は、この声明が公表される日に終了する。(2)日本政府は中華人民共和国政府が中国を代表する唯一』の合法政府であることを承認する。(3)双方は中日両国の国交樹立が、両国人民の長期にわたる願望に合致し、世界各国人民の利益にも合致することを声明する。(4)双方は主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政の相互不干渉、平等互恵、平和共存の五原則にもとづいて、中日両国の関係を処理することに同意する。(5)中日両国ともアジア太平洋地域で覇権を求めず、また他のいかなる国が覇権を打ち立てようとすることにも反対する。(6)双方は雨国の外交関係が樹立された後、平和友好条約を締結することに同意する。(7)中日両国人民の友誼のため、中華人民共和国政府は日本国に対する戦争賭償の請求権を放棄する。(8)中華人民共和国攻府と日本国政府は、両国間の経済と文化関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、通商・航海・航空・気象・漁業・科学技術などの協定をそれぞれ締結する」
 竹入委員長は帰国後、直ちに田中首相、大平外相と会談し、この八項目のメモを伝えた。田中首相はこのメモにより、国交正常化を決意したとしたといわれる。大平外相は次のような日本側の日中共同声明草案を作成し、中国に伝えた。
「(1)両国政府は戦争状態が終統したことを確認する。(2)日本側は中華人民共和国政府を中国を代表する唯一の合法政府として承認する。(3)中国側は台湾が中国の領土の一部であることを再確認する。日本側は中国の主張を理解し尊重する。(4)中国側は対日賠償請求権を放棄する。(5)両国政府は外交関係を開設し、なるべく速やかに大使を交換する」
 これを中国側の草案と比較するなら、戦争状態の終結について、すでに日華平和条約によって終結したとする日本側と、共同声明の公表日をもって終結するとする中国側との見解に相違があることが分かる。台湾の地位と日華平和条約の取り扱いについては、問題を残したまま、田中首相は訪中することになった。

[日中共同声明]
 1972年9月25日から30日にかけて、田中首相、大平外相が訪中し、周恩来首相、姫鵬外相との会談に臨んだ。しかし北京での日中国交正常化交渉は難航した。25日の歓迎宴会で周恩来首相は、「我々両国の歴史には二千年の友好往来と文化交流があり、両国人民は深い誼を結んできました。しかし一八九四年から半世紀にわたって、日本軍国主義者の中国侵略により、中国人民は極めて深い災難を被り、日本人民も大きな損害を受けました。(中略)中日友好を促進し、中日の国交を回復することは、中日両国人民の共通の願いであります。今こそ我々がこの歴史的使命を果たす時機であります」と挨拶した。これを受けて田中首相は、過去数十年にわたって、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過を辿ってまいりました。この間我が国が中国国民に多大の迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するつもりであります。(中略〉我々は偉大な中国とその国民との間によき隣人としての関係を樹立し、両国がそれぞれのもつ友好諸国との関係を尊重しつつ、アジアひいては世界の平和と繁栄に寄与するよう念願するものであります」と挨拶した。この「迷惑をおかけしたjという表現を日本側通訳は「添了麻煩」と訳したが、これに対し毛沢東は女性のスカートに水をかけたときに使う言葉」だと強く反発した。田中首相は「迷惑をおかけした」という表現は「万感の思いをこめてお詫ぴするときに使う」と説明して、毛沢東の了解を得たとされる。
 こうしたやりとりを経て、29日にようやく日中共同声明(日本語の正式名称ぱ「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明/中国語の正式名称は「中华人民共和国政府日本国政府连合声明」が調印された。

 復交三原則の第一点は、第二項において、中国側の主張を全面的に認めた。第二点は第三項に言及されている。ポツダム宣言第八項は「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」と明記し、カイロ宣言は台湾を中華民国に返還する」と明記している。日本政府は台湾がカイロ、ポツダム宣言の意図したところに従い、中国に返還されるべきものであるというのが、日本政府の政治的立場であり、この立場は今後とも堅持される」との見解を示した。第三点は共同声明では触れられていないが、9月29日、大平外相は記者会見で「日華平和条約は存在の意義を失い、終了したものと認められる」と述ぺた。
 また第七項「覇権条項」は中国側の草案にあったものだが、「覇権を確立しようとする他のいかなる国」はソ連を意味している。米中接近と日中国交正常化は、中国の立場からはソ連に対抗する重要な戦略として位置付けられたのであるが、日本はソ連の中国に対する圧カをそれぽど重大なものとは認識せず、日中国交正常化を二国間のことと考えていた。いずれにしても、日中国交正常化はアジアの国際関係に大きな影響を与えた。
 一方台湾は、日中国交正常化に対し、次のような対日断交声明を発表した。
 「現在田中政府が事もあろうに一方的に中日平和条約を破棄し、中共偽政権を承認して中華民国政府と断交したことは、単にその忘恩背義行為が日本民族の恥であるにとどまらず、また実に日本の絶対多数国民の願望に違反し、さらにば中日両国と全アジアの遠大な利益を侵害するものである。中華民国政府は、日本政府のこれらの条約義務を無規した背信忘義の行為に鑑み、ここに日本政府との外交関係の断絶を宣布するとともに、この事態に対しては日本政府が完全に責任を負うべきものであることを指摘する」


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