2001年10月19日
中国前近代軍事史  My


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はじめに
 以前のレジュメで、前近代においては軍事こそが政治であったとしたが、これは中国においても同じである。たとえば、文治で名高い宋が国家支出の6〜7割を軍事に当てていたことを見ても、それは明らかである。つまり中国史を学ぶに際しても戦争術を学ぶ重要性は非常に大きい。そこで今回は中国前近代の軍事史を概観する。
 ところで、このレジュメでも例によって特殊な用語は極力排除しています。例えば、戟だの矛だのといった長柄武器については全てを一括りに槍として扱っていますし、制度等についても具体的な名称は出さないようにしています。特殊な名称や形式に、細々とこだわることは、軍事史の全体的な流れの理解に少しも貢献しませんし、他の文明圏との比較検討を困難にしますからね。というわけでその辺につき、ご注意下さい。



陸軍編
<先史時代>
 中国の旧石器時代においては戦争は行われていない。前8000年以降の新石器時代には、しだいに農耕が発達していくが、それとともに部族間に土地をめぐって戦争が起こるようになり、武器の対人使用や、壕や柵さらには城壁といった防御施設が見られるようになった。


<古代前期;部族の軍隊>
 前2000年頃からは各部族が巨大な城壁を持つ都市を築いて、都市文明が繁栄する。このころには部族間の連合が非常に発達しており、殷や周、あるいは春秋の覇者のように、巨大な連合をまとめ上げ、中国全土に渡って秩序を維持する勢力が、出現することになった。
 この時代には青銅器がしだいに普及していった。また前1100年ごろ戦車が姿を現した。
 戦闘は、戦車に乗った貴族が、互いにすれ違って武勇を競う形で行われた。貴族に隷従する大衆は、歩兵として参戦したものの、輸送やおとりのほかは、戦車から転落した敵にとどめをさす際に使われる程度であり、戦闘ではあまり重要な役割を担っていない。


<古代中期;古代国家の軍隊>
1.群雄割拠の時代
 前5世紀には、各地に広大な領域を支配する強力な国家が成立、積極的な開発によって国力を増強し、大衆を徴兵することで巨大な常備軍を組織、激しい戦争を戦うようになった。戦乱は長く続いたが、経済発展によって商業が活発化し、各地域が交易によって結ばれていくにつれ、中国は統一へ向けて動き出した。そして、そのような流れの中で秦が力を伸ばし、前3世紀のおわりに、中国全土を一時的にではあるが、統一することになった。
 この時代には鉄器の使用が始まった。鉄器は最初は質が悪かったため、武器ではなく農具として用いられ、大軍を養うための国力向上に貢献した。やがて、質の向上とともに、鉄製武器の使用が広まり、鉄器は大軍の武装にも貢献するようになった。騎兵の使用が開始されたのもこの時代である。前4世紀後半に、遊牧民が騎乗を身につけ脅威となったため、中国でも北辺の趙が騎射を学んで軽騎兵を導入、ここから騎兵の使用が全土に広まっていった。
 戦闘では、戦車にかわって、歩兵の大軍が主力となった。歩兵は、弩兵のうしろに槍兵が並び、弩兵が敵の勢いを削いだ後、槍兵が入れ替わって接近戦を行う、という形で戦った。戦車は主力の座を奪われたものの、まだそれなりの重要性を保っている。騎兵は、機動力や地形への適応能力で戦車にはるかに優っており、しだいにその重要性を高めていくが、まだこの時代の軍隊に占める割合は小さなものであった。

2.統一と対外防衛
性急な中央集権化政策が各地の反発を招いて、秦の統一は一時的なものに終わり、その後の混乱の中から前3世紀末、前漢が覇権を確立する。この間、北方では遊牧国家の匈奴が急速に強大化しており、前漢は統一帝国の完成を見ない弱体のうちに、侵入を受け、匈奴への従属を強いられることになった。前漢はこれ以後、統一帝国の完成を目指すとともに、遊牧国家に対抗できる騎兵戦力の育成に力を注ぎ、前2世紀の終わりにはついに攻勢に出て、匈奴との力関係を逆転させることに成功した。
 この間に前漢の軍隊においては騎兵の比率が非常に高まり、戦車は完全に駆逐された。騎兵には軽騎兵と重騎兵があったが、匈奴の騎兵に対抗する必要上、機動力に優れた軽騎兵がその主体であった。また歩兵の主たる武器は槍から弩へと移り、接近戦が減少している。弩の一斉射撃によって匈奴の軽騎兵に対抗したのである。弩はこれ以降の時代でも、対騎兵戦で大いに活用されることになる。


<古代後期;豪族の成長と異民族の流入>
 前漢では経済の発展によってしだい貧富の差が拡大し、豪族が台頭する一方で、小農民が没落していった。こうした社会不安の中で1世紀初頭、新が前漢にとって替わったが、新も社会の混乱に有効な手を打つことができず、たちまち後漢に倒されることになった。後漢は、地方に割拠する豪族勢力に支えられた政権で、国家の力は余り強くなく、豪族は政府の統制を受けることなく、貧民を隷属させて着実に勢力を蓄えていった。なお、後漢は対外的に攻勢をとるだけの力はなく、分裂につけ込んで異民族を臣従させ、これにより辺境の防衛力を確保した。
 豪族の地方支配と異民族の利用は、2世紀の終わりからの分裂と動乱の中で、より一層進展する。豪族は動乱から身を守るため自給自足して私兵を養い、軍閥化していったが、こうして成立した軍閥が、抗争を勝ち抜くため、精強な異民族兵を大いに活用した。そしてその結果、軍事力は、一般民衆からの徴兵ではなく、豪族の私兵と異民族の結合から成立した、特殊な軍人集団によって、担われるようになっていった。そして3世紀の終わりに動乱を収めた晋は、豪族の地方支配を追認することで、中央政府の下に豪族を貴族として組織、これによって政府の支配力を確保したが、それにともない軍事面においても、豪族の私兵と異民族への依存が、そのまま続いていくことになった。
 この時代には、武器技術の高度化と貴族的な嗜好の拡大によって、騎兵の装備がだんだんと重厚なものになっていった。その結果、突撃力に秀でた重騎兵が、しだいに存在感を高めていくことになる。


<中世;異民族支配の時代>
1.重騎兵の時代
晋による統一は、中央政府の弱さのため、簡単に崩壊、軍閥が激しい抗争を繰り広げようになる。そこに大量の異民族が戦力として招き入れられ、さらに動乱は激しくなっていった。これらの異民族はそのまま中国に定着して軍閥を形成していたが、そのなかで、しだいに鮮卑が力を伸ばして華北を制し、やがては隋を建てて6世紀末に統一を果たすことになる。
 大量に流入した異民族騎兵は、中国の騎兵に倣って、重装備化していったが、その結果として重装騎兵が軍隊の中心となった。これに対し、歩兵はあまり重視されず、軽装備であった。しかも、狩猟民族であった鮮卑が弓を重視したため、これまで対騎兵戦で威力を発揮した弩が、この時代にはあまり使われていない。歩兵は散開して戦い、騎兵の突撃には、機敏な動きで大勢が群がって、対抗することになった。

2.軽騎兵の時代
 隋は、7世紀にはいると、国内には積極的な土木開発、国外には大規模な出兵を行ったが、これは社会への負担も大きく、各地で大反乱が起こった。そして隋と同じく鮮卑の流れを汲む唐が、動乱を制して、統一を取り戻すことになった。唐はその後中央アジアにまで広がる世界帝国に成長し、8世紀半ばまで強盛を誇った。
 唐においては、それまで存在していた軍人と一般民の区別が形式的には消滅したが、現実に軍事力を構成したのは、かつての軍人集団であり、この点に関しては実質的に前の時代と変わってはいない。
 だが、隋末の動乱で、隋の重騎兵中心の軍隊が、機動力と柔軟性に優れた反乱軍に破られたため、長らく栄えた重騎兵が廃れ、軽騎兵が唐の軍隊の中心となる。また騎兵の突撃力が低下したことで、歩兵が重要性を回復した。唐の歩兵は、弓兵、弩兵が展開した後ろに、白兵戦用の密集部隊を並べ、敵正面で強靱な防御力を発揮した。そして歩兵の蔭に控える軽騎兵が、機を見て戦闘に投入され、機動力を活かした迂回等を行って敵軍を崩したのである。


<近世前期;歩兵の時代> 
唐の強盛を支えた軍人集団は、広大な世界帝国の防衛で疲弊、8世紀はじめには帝国を支える力を失った。そこで唐は、流民を傭兵として集め、各地に駐屯させて防衛に用いたが、これらの駐屯部隊は、しだいに軍閥化し地方を支配するようになっていった。唐は、これらの軍閥の起こした安史の乱によって、大打撃を受け、これ以後も存続はしたものの、各地の軍閥を統制する力はなく、中国は統一を失ってしまった。軍閥は、新興の商業勢力と結んで、領国経営に力を注ぎ、抗争を続けたが、そのなかで宋が10世紀半ばに建国、中国の統一を回復した。
 この間北方にはウイグル、その少し後の遼と強力な異民族国家が存在し、分裂状態の中国は、これらの異民族に対し従属的な立場に置かれることになった。このような状態は宋の統一後も続く。それどころか、12世紀のはじめには、遼を倒した金に華北を制圧され、13世紀の終わりには、金を倒したモンゴルの世界帝国に、中国全土が一地方として飲み込まれてしまうのである。
 ところで、統一を回復した後も、中国が異民族に対する劣勢を挽回できなかったのは、その軍隊に原因がある。宋の軍隊は、歩兵主体で騎兵戦力に劣り、鈍重で、異民族の騎兵部隊の機動力に、対抗できなかったのである。そして、宋が精強な騎兵をもてなかった理由は、馬を養う土地がなかったことである。中国が分裂している間に、異民族は強固な国家建設を成し遂げており、宋が外に勢力を伸ばす余地はなかった。しかし中国本土では、土地が開墾し尽くされていて、馬を養うのが困難だったのである。
 宋の軍隊は歩兵で、異民族の騎兵に対抗するために、物量に頼り、大兵力でもって防御重視の戦いを行った。武器については、弩の一斉射撃が重視されているが、発射に時間がかかるという弩の欠点を補うため、数列交替で射撃するという戦法が、開発されている。


<近世中期;火器の導入>
 モンゴルは、内紛と天災で疲弊して、14世紀半ば中国を放棄、替わって明が中国全土を支配下に置いた。
 中国では13世紀の末には銃が開発され、銃や大砲といった火器が発達していくが、明は建国の頃より火器を使用、さらに16世紀からは性能に優れた西洋式の火器も導入する。だが、明の軍隊は火器の導入はしたのものの、当初は十分に活用したとは言えず、16世紀の半ばになって、ようやく、火器を活かした戦い方が、追求されるようになった。
 歩兵の部隊も騎兵の部隊も、銃を含む形で編成が行われるようになったし、大砲は銃以上によく活用された。そして、楯や柵、壕によって固めた陣地で敵襲を防ぎ、その蔭から火力を発揮する戦法が、採用されていった。ただし中国の軍隊は非常に巨大であるため、火器の数は不足しがちであった。


<近世後期;騎兵の勝利>
 16世紀から、中国では商工業が大いに発展、国際交易も非常に活発になるが、これは都市の繁栄と農村の没落を伴い、しだいに社会不安が高まって、明は支配力を失って行く。一方、辺境では、交易から利益を吸い上げることで、異民族を巻き込んだ軍閥形成の動きが、強力に巻き起こることになった。そしてこれらの軍閥は、しだいに明からの自立の傾向を強めていった。こうして内外から支配力を切り崩された明は、17世紀中頃に崩壊し、辺境の軍閥の一つであった女真族の清が、中国全土を制圧することになる。
 清の軍隊の主力は、突撃のみならず騎射にも長けた、重騎兵であり、その数は歩兵よりも多く、これは中国に定着した後も変わらない。火器に関しては、清は、17世紀はじめに明と戦い始めた頃は、未だ火器を持たず、騎兵の巧みな運用のみによって、火器を備えた明軍を大いに破ったのである。だが、それにもかかわらず、ただちに火器の価値を認め、その積極的な導入に努めている。そして17世紀末のロシアとの紛争や、中央アジアへの進出において、清軍はおおいに火器を活用することになった。ただ、清の主力はあくまで重騎兵であるため、中国の火器の戦法はそこからさらなる発展を見せることはなく、その後、西洋に後れをとることになったのである。



水軍編
 中国の船は河川で多く見られる竹筏を起源として、しだいに板張りの船へと発展していった。中国における水軍の歴史は、前6世紀、長江下流に呉、その南の沿海部に越が、興ったあたりに始まり、それ以降主に長江流域を舞台に水軍の活躍が見られるようになった。その後12世紀には、長江に防衛を依存する南宋が、常備艦隊を設置する。そして、この中国の水軍力は、13世紀おわりからのモンゴル支配下において、海洋での使用に向けられることになった。明もその初期において、海洋に水軍力を大いに誇示し、15世紀はじめに明水軍は全盛期を迎える。だが、この時期を例外として、中国水軍は積極的に海上で使用されることはなく、沿海部の防衛も水軍より陸軍力に依存、以後、中国の水軍は急速に衰退していった。
 水軍は、多数の兵士の乗る巨船や、突撃用の快速船、小型の伝令船など様々な機能を持った大小の艦艇で構成された。戦法としては、斬り込みや衝角攻撃も使われたが、それよりも射撃が重視されていた。弩による一斉射撃が重んじられたほか、8世紀には船上に投石機を設置するようになったし、12世紀初頭には、鉄板を装甲に利用するようになった。そして14世紀半ばには水軍で火器が使用されるようになった。だがその後の中国は水軍をあまり重視せず、水上戦での火器の使用も、十分に発達して行くことはなかったのである



おわりに
 まことに申し訳ないが今回は戦例はなし。私には、中国軍事史の適切な戦例を探し出して、並べてみせる能力はないのです。そもそも去年の冬までは、中国史について、高校の世界史で得た知識と三国志以外、なんにも知らなかったんですから。というわけで、いろいろ間違がった記述なんかもあったかもしれませんねえ。とりあえずこれについてもごめんなさい。あまりに短いんで、つづいて遊牧民の戦争術について、行きます。


参考資料
グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典 @中国古代編、F中国中世・近代編;学
 研
軍事思想史入門 近代西洋と中国;浅野裕吾著 原書房
中国史 上、下;宮崎市定著 岩波書店
世界の歴史 2中華文明の誕生、6隋唐帝国と古代朝鮮、7宋と中央ユーラシア、9大
 モンゴルの時代、12明清と李朝の時代;中央公論社
中国の歴史 上、中、下;貝塚茂樹著 岩波新書
中国の古代国家(貝塚茂樹著作集第一巻);中央公論社
世界の戦争4中国の戦争;駒田信二編 講談社
六朝貴族制社会の研究;川勝義雄著 岩波書店
中国中世史研究続編;中国中世史研究会編 京都大学学術出版会
五代史上の軍閥資本家 特に晋陽李氏の場合;宮崎市定著 (全集9五代宋初)
府兵制の研究 府兵兵士とその社会;氣賀澤保規著 同朋舎
遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて;杉山正明著  日本経済新聞社
モンゴル帝国の興亡 上、下;杉山正明著 講談社現代新書
日本の戦史 朝鮮の役;旧参謀本部編纂 徳間文庫
長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500年〜1800年;ジェフリ・パーカー著 大久保桂子訳 同文舘
明と清の決戦 サルフの戦い;陸戦史研究普及会編 原書房
清初軍事史論考;阿南惟敬著  甲陽書房
図説中国の科学と文明;ロバート・K・G・テンプル著 牛山輝代監訳 河出書房新社
中国科学の流れ;J・ニーダム著 牛山輝代訳 思索社  
中国の科学と文明 第11巻 航海技術;J・ニーダム著 坂本賢三、橋本敬造、安達裕之、松本哲訳  思索社


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