2001年10月19日
遊牧国家の軍隊  My


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はじめに
 今回は、世界史上で長い間強大な軍事力を誇った、遊牧国家の戦争術について見る。


遊牧国家の歴史
 前8000年頃から人類は、農耕牧畜を発達させていくが、中央ユーラシアの乾燥地帯では農耕はできず、牧畜のみが発達し、遊牧という生活様式が出現する。原始の遊牧民は、有力な武器を持たずその生活は極めて平和であった。
 やがて、農耕民が、金属器を身につけて文明を発達させ、政治的な団結力を高めて、遊牧民の居住地に侵入、家畜を略奪し、牧地を奪って耕作を行うようになる。遊牧民は最初農耕民への従属を余儀なくされるが、しだいに金属器や戦車の使用といった、農耕民の技術を学び取り、逆に農耕民の居住地に侵攻をかけるようになった。だがこの段階において、遊牧民は狭い領域を牧畜する小集団にすぎず、農耕民にとって脅威と言えるほどのものではなかった。
 その後、前800年頃、遊牧民が騎乗技術を習得して、遊牧騎馬民族が成立する。遊牧騎馬民族は、その高い移動力によって広範囲に牧畜を行い、集団間の連携が発達、しだいに大集団へと発達していく。また、経験を蓄積して、騎馬の集団による戦法を発達させていく。そして、これらの結果、遊牧民は、軍事力を飛躍的に高めていった。
 やがて、西洋では、前6世紀にスキタイが強大な国家を形成、東洋でも前4世紀後半に匈奴が騎馬民族化する。そして、これ以降、東のモンゴル高原と西のカザフ高原を舞台に多くの遊牧国家が興亡し、強大な軍事力によって、農耕地帯を脅かし続けることになった。
 その後16世紀になると、火器を活用した戦法が広まりだし、この頃から遊牧国家の力の優位が少しずつ揺らぎ始める。そして18世紀半ばまでに、遊牧国家は、完全にその力を失うのである。


遊牧国家の戦法
 遊牧国家の軍隊は、全軍騎馬で行動するため、農耕地帯の軍隊に比べて、圧倒的な移動能力を誇った。そのため遊牧国家は、農耕地帯の国家との戦争において、攻勢に出る場合、敵の防備の手薄な地点を選んで、長駆急襲することができた。また、守勢に立つ場合にも、その移動能力は存分に発揮される。守勢において遊牧国家は、退却を続けて敵軍を深く誘い込む、という作戦を頻繁に採用した。これにより敵軍を、長距離の行軍で疲弊させ、有利な態勢で戦闘に臨むことができたのである。
 ところで、遊牧国家の軍隊は、重騎兵が含まれることもあったが、通常、軽騎兵が中心である。そのため戦闘においては、軽快な動きと騎射に、その特色があった。軽快な動きで敵を取り囲み、敵が反撃しようとすると後退でそれを避け、射撃によって一方的に殲滅していくのである。


戦例
カルラエの戦い(前53年)
前53年、地中海の覇者ローマは、東方の脅威であった、イラン高原の遊牧国家パルティアに対し、クラッススを司令官として大規模な遠征を行う。この遠征は、パルティア北方のアルメニアと結んで行われたため、パルティアでは、国王が軍主力を率いてアルメニアに侵攻、ローマ軍とアルメニア軍の合流を防いだ。そしてシリアから侵入してくるローマ軍に対しては、名門貴族でパルティア随一の名将スレーンが迎撃する。
 パルティア軍は、ユーフラテス川を越えたローマ軍をカルラエに迎えた。ローマ軍は重歩兵3万、軽歩兵4千、騎兵が4千、これに対しパルティア軍は重騎兵1千に軽騎兵9千、矢を山積みにしたラクダが1千頭であった。
 パルティア軍は、外套で被って武器の輝きを消し、重騎兵を前衛に立てた蔭に軽騎兵を隠し、兵力を悟られぬようにして、ローマ軍の前に姿を現す。パルティア重騎兵の突撃で戦闘は始まったが、この突撃はローマ軍の堅固な隊列を崩すことができず、やがて後退していった。だが重騎兵がローマ軍の注意を引きつけている間に、パルティア軽騎兵は、気づかれることなく迂回、ローマ軍を完全に包囲することに成功していたのである。それと知らぬローマ軍は、軽歩兵に突撃を命じ、後退したパルティア重騎兵を追わせるが、軽歩兵が矢を浴びて逃げ戻ったことで、混乱に陥る。そして、そこへパルティア軍は四方八方から一斉に矢を撃ち込み始めた。ローマ軍が白兵戦に持ち込もうと進めば、パルティア軍はそれだけ後退、ラクダ隊から矢の補給を受けつつ、一方的にローマ軍を痛めつけていく。ローマ軍はこの危機から脱するため、騎兵1千3百に軽歩兵5百と重歩兵約4千をつけ突撃、パルティア軍は後退を始めた。ローマ軍突撃部隊はこれを追ったが、そうするうちに本隊から引き離され、包囲され壊滅。このあとパルティア軍は再びローマ軍本隊を包囲して、日暮れまでローマ軍を一方的に攻撃し続けた。
 戦闘の翌日から、パルティア軍は、落伍者を掃討しつつローマ軍を追跡、司令官のクラッススも捕捉され、死亡した。遠征に従った約4万のローマ軍のうち、逃げ延びることができたのは四分の一に過ぎず、2万人が死亡、1万人が捕虜になった。
 この戦勝で大いに威信を高めたパルティアは、翌年から西方への勢力拡大に乗り出すことになる。


おわりに
 これで、いくつか穴はあるものの、一応、世界の軍事史の概要を示せたと思います。


参考資料
遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて;杉山正明著 日本経済新聞社
騎馬民族国家 改版;江上波夫 中公新書
アジア史概説;宮崎市定著 中公文庫
世界の歴史 4オリエント世界の発展、7宋と中央ユーラシア;中央公論社
プルタルコス英雄伝;村川堅太郎編 ちくま学芸文庫
ローマ人の物語W ユリウス・カエサル ルビコン以前;塩野七生著 新潮社
パルティアの歴史;ニールソン・C・デベボイス著 小玉新次郎、伊吹寛子訳 山川出版社


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