2001年11月9日
中国の人口間題  J.W.


[概論]
 中国は世界最大の人口を抱える多民族国家である。改革・開放政策に路線を転換した1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)以来、経済は高度成長を続けてきたが、杜会・経済の基徽はなお脆弱なため、急激な人口増はエネルギー資源の利用、環境の保全などとの間の矛盾を激化させ、それが近代化建設の足かせになっている。人口増加をどうコントロールするかは中国の国家的課題である。
 ではなぜ中国の人口増は止まらないのか。1949年の建国後、わずか38年間で人口が倍増したが、その要因は何か。生産カ発達の後進性、封建的制度・思想の影響、科学的知織の普及の遅れ、現代中国になってからの人口政策の誤りや偏向など多様な要因が指摘される。社会の安定、生活改善、医療衛生事業の発展により、中国は多産多死から多産少死という人口転換を迎えた。特に乳児死亡率の低下、平均寿命の伸長は著しい。また長い中国の歴史上、封建的な小農経済の基盤の上に形成された伝統的な結婚・出産観念の存在もある。つまり「早生貴子(早く子どもを産む)」「多子多福(子どもが多ければ福も多い)」「無児絶後(子どもがなけれぱ後が絶える)」などの観念は、容易に消え去るものでなかったのである。
 中国の人口学者、劉錚は長期にわたり出生率が下降しなかった最大の理由について、人口の八割が居住する農民では依然として手作業が農業作業の中心であり、労働カが多けれぱ収入も多く得られる構造になっていることを挙げる。例えば二人の子どもを満16歳まで育てるのは、大都市で6900元、中小都市では4800元かかるが、農村では1600元に過ぎない。中国の農村の多くは現代技術の応用がまだ少なく、簡単な手作業が中心であり、それほど高い知識水準を必要とせずに農業活動に参加できる。したがって労働力再生産の周期は短く、養育費も安上がりになるのである。
 第11期3中全会以前の中国社会は外の世界に門戸を閉じていただけでなく、内に向けても閉ざされた構造があった。その背景には国家が民衆を管理する手段としての「戸籍管理」と「食糧配給」という二つの社会主義制度があり、これによって一般民衆の社会的移動は極端に制限されてきた。農村人口は人民公社制度が崩れる80年代半ばまでは、全て公社によって管理されていた。公社員と呼ぱれた農民が旅行をするために汽車の切符を買う場合には、公社責任者の許可が必要だった。このため近隣の都市にすら出かけたことがなく、所属する公杜の範囲内だけで人生を終えるという農民も稀ではなかった。戸籍と食糧を縛る二つの制度によって、農業戸籍者の都市への移住の道は事実上閉ざされ、同時に超安定の農村杜会を生む結果となった。それが人口増を生む下地となったと同時に、農村の抱える膨大な人口の都市への無秩序な流入を抑止していたのである。
 人民公社制度の廃止と請負責任制の導入という農業改革から始まった経済体制改革の深まりに伴い、中国農村にも確実に変化が生じてきた。その中でも注目されるのは、80年代後半から活発化した、潜在的失業者であった農村の余剰労働力が沿海地域や南部の経済先進地帯に出稼ぎに出る動きである。当局は当初、彼らの移動は時期が集中し交通を麻痺させ、治安上も好ましくないなどと否定的に見ていた。しかし彼らは故郷へ稼いだ金を仕送りするだけでなく、新しい知識や技術、情報をもたらすパイプの役割を果たし、それが内陸農村の発展に貢献しているとの積極的な評価も出てきている。こうした社会的移動の活発化は計画出産の管理を困難にする側面があるなどと論議を呼んでいる。


[現代中国における人口理論(1)]
 劉少奇は1954年に「党は産児制限に賛成である」と発言するなど、党中央は50年代に早くも出産抑制の方針を打ち出してはいる。当時、中国人口はすでに6億人に達し、全国で毎年2000万人余りが誕生していた。北京大学学長の馬寅初は1957年、社会主義の条件下でも人口増は生産力の発展の妨げになるとし、人口抑制の必要性を理論化した「新人口論」を発表した。その中で馬寅初は「産児制限を実施して人口を管理するには、まず第一に幅広い宣伝によらねぱならない、それによって広範な農民大衆に産児制限の重要性を理解させ、産児制限の方法を実際に理解できるようにする必要がある。さらに早婚の害と晩婚の利と、男子は25歳、女子は23歳が適当であることを宣伝する必要がある。(中略)計画出産の実行は人口を管理するために最も好ましく、最も効果が大きい方法だが、最も重要なのは避妊を幅広く宣伝することで、人工的な妊娠中絶は絶対に避けなければならない。それは一つには殺生であり、母体内で形成された嬰児にはすでに生存権があり、一般にこのようなことはすべきではないからである」と述べている。だが馬寅初は本格化した反右派闘争で「新マルサス主義者」として批判されてしまった。
 毛沢東は「人の口に一つだが手は二本ある」と労働力重視の立場をとり、1958年の党中央理論誌『紅旗』の創刊号で「6億の人口は決定的な要素である」と説いた。中国が工業・農業の生産面で資本主養国に追いつくのに、党の指導以外に、人民大衆の精神・闘志が必要だと、毛沢東は考えていた。毛沢東のこの理論ぱ、人口増に拍車をかけ、後に「錯批一人、誤増三億(一人を批判した緒果、人□が3億人増えてしまった)」という緕果を招いた。60年代にも国務院が「計画出産弁公室」を設置するなど、計画出産活動への取り組みがあったが、文化大革命で立ち消えることになる。


[毛沢東の人口資本説と馬寅初の「新人口論」]
 毛沢東の人口についての発言は微妙である。1949年「中国の人口が多いのは極めて結構なことである。この上人口が何倍に増えようとも対策は完全にある。この対策とは生産に他ならない」(『毛沢東選集』)と述べた。1957年共産党第8期3中全会で「計画出産も10年の計画を立てるべきである、少数民族地区では拡大してはならない。たとえ人口の多い地方でも、まず試験的にやってみて。逐次拡大し、次第に全面的な計画出産にもっていくべきである。計画出産については公然と教育しなくてはならない」と計画出産政策に触れた。毛沢東はその後1958年『紅旗』で「6億の人口は決定的な要素である。人が多ければ議論は多く、熱気は高く、意気込みも大きい」と説いた。これが人口抑制を全面否定する立場をとる多数の論文の誕生を容認することになった。
 毛沢東の人口についての見解は理論というより、大衆的政治指導者の立場にたったもので、中国の膨大な人口を楽観的・肯定的にとらえてきたものであった。不幸なことは、これが真摯な人口理論研究を押しつぶす結果に結びついたことであり、また結果として人口調整という未解決の命題に対して解決を与えず、人口計画の長期にわたる欠如と、それに伴う現実の膨大な人口増加を導いたのである。
 中国の人口間題を語るとき、経済学者・馬寅初の名を忘れることはできない。彼の「新人口論」は57年に全人代に提出された書面であり、後に『人民日報』にも掲載された。前述のように、馬は(1)全国人口調査と人口動態統計を調査し、人口政策の確立と第三次五ヶ年計画への折り込みを行う、(2)家督相続の観念のあまりにも深い農民大衆に産児制限の重要性を知らせ、男25歳、女23歳程度の晩婚を妥当とする、(3)計画出産を実行することは、人口政策の最良・最有効な方法であるが、最も重要なことは避妊の普及宣伝で、人工流産は絶対に避けなければならない、の三点をあげた。馬が社会主義建設の段階にある現実としての実際から出発して、諸般の経済建設を進めるべきであるというのに対して、彼に対する批判者は何よりも社会主義制度の優越性、党の指導と解放された人民の革命的積極性を明らかにしなければならないとした。馬は国民経済発展の不均衡ということを念頭に置き、実証的にその欠陥を例証として取り出し、その調整の措置を講じなければならないと、批判に対決した。しかしこの理論は、大躍進の道を一路邁進しようという時期には不適当かつ有害とされたのである。1979年、馬は約20年ぶりに98歳の高齢で名誉回復した。人々は「あのとき人口問題の重要性に気づいていれば、今日このよう苦労をし、一人っ子政策というつけを払わなくて済んだのに」という馬への思いを募らせている。


[現代中国の人口理論(2)]
 人口政策の転換は、結局70年代後半になってからだ。1978年憲法で、「国家は計画出産(計划生育)を提唱する」とうたわれ、1979年馬寅初の名誉が回復される。1980年、党と政府は「今世紀末の人口を12億人以下に留め、四つの現代化実現のために」として・共産党員と共産主義青年員に「夫婦一組こ子ども一人」を提唱した。それによると、中国は建国以来衛生工作の進歩と人民の生活条件の改善により、人口死亡率、とりわけ嬰児死亡率が大幅低下した。しかし、中国は長期間人口出生率に対し、適当な抑制をしてこず、人口を急速に噌加させた。1840年から解放までの109年間で、全国の人口は僅かに1.3億人増加したに過ぎない。しかし解放以後の30年間に出生した人口は6億人余りに上り、死亡者を除いても。4.3億人余り増加した。人口の増加がかくのごとく速く・全国人民の衣食住・交通・教育・衛生・就業等の各面に、ますます大きな困難をもたらしている、と指摘している。
 中国の人口政策の柱は、(1)晩婚・(2)晩産・(3)少生・(4)稀・(5)優生である。つまり、(1)「晩婚」=法定婚姻年齢男22歳、女20歳より三年以上遅らせて結婚すること、(2)「晩産」=女子は24歳を過ぎてから出産すること、(3)「少生」=少なく生むこと、(4)「稀」=出産間隔を3〜4年開けること、(5)「優生」=遺伝的障害がなく、次世代が徳・知・体のどの面でも全面的成長を遂げて四つの現代化に役立つ人材となることである。以上の国策としての人口計画執行を裏付ける法令として、(1)1978年憲法・1982憲法・(2)国レベルでの「計画出産法」「婚姻法」・(3)各省市レベルでの「計画出産条例」がある。


[一人っ子政策]
 80年代に入ってから、一組の夫婦に子ども一人という、いわゆる「一人っ子政策(独生子女政策)」が本格化した。82年憲法は「夫婦双方とも計画出産を実行する義務を負う」と定め、一人っ子政策は国家の基本政策となった。子どもを一人しか産まないと宣言した家庭には「一人っ子証(独生子女証)」が発行され、保健費の支給や産休の延長、住宅手配などの面で優遇される一方、違反した場合には罰則が課されることになった。そうした具体的な施策は、各省・市・自治区の一般行政区ごとに定められる計画出産条例に基づき実施される。上海市計画出産条例では、一組の夫婦が子どもを一人産んだ後、再び出産せず、その子どもが満16歳以下のとき、「一人っ子証」の発給を申請でき、それにより以下の待遇を享受できるとしている。すなわち(1)毎月市人民政府が規定する一人っ子父母奨励費を受領できる。(2)子どもが託児所・幼稚園に入るとき、保育料と管理費の一部が規定により免除される。(3)保育・入学・医療・就職・学生募集・都市住宅・農村住宅用地分配などの「七優先」を受けることができる、と規定されている。一方、夫婦が批准を得ずに第二子を出産する無計画出産には以下の罰が与えられる。(1)分娩のための入院費・治療費・薬品費は自弁とする。(2)子どもが就職する以前の治療費・薬品費は父母が全額を自弁する。(3)子どもの保育料と管理費は父母が全額を自弁する。(4)すでに「一人っ子証」を受領した者は「一人っ子証」を回収され、以前に給付された一人っ子父母奨励費は回収される。(5)子どもの出生した前二年分の夫婦双方の平均年収入の三倍が罰金として科される。(6)職員・労働者は罰金のほか、単位が行政処分を行うことができる。個人商工業者は罰金のほか、商工行政管理部門が行政処分を行うことができる、(7)住宅・宅地を分配するとき、子どもはその数に入れられない、と規定されている。
 各地の条例には地域差があり、農村部を多く含む地或では実情に即して第二子の出産が認められたり、少数民族が多く居住する地域では民族的な配慮が含まれている。上海市計画出産条例では、次の条件のいずれかに該当する夫婦は、計画により第二子の出産が認められるとしている。すなわち(1)第一子が身体障害者で、成長しても正常な労働力になりえないとき。(2)夫婦双方が一人っ子のとき。(3)夫婦双方が共に帰国華僑で、帰国定住して満6年に満たないとき。(4)再婚した夫婦で、再婚前に双方を合計してただ一人しか子どもがいないとき。またこの規定のほか、農業人口の中で次の条件のいずれかに該当する夫婦は、計面により第二子の出産が認められるとしている。すなわち(1)夫婦の一方が身体障害者または二等乙級傷痍軍人であるとき。(2)夫掃の一方が一人っ子であるとき。(3)夫帰の一方が連続五年以上海洋漁労に従事している漁民で、現在も海洋漁労に従事しているとき。(4)男子が結婚して男子のいない女子の戸籍に入り、かつ女子の姉妹がみな子どもを一人しか出産していないとき、と規定されている。
 こうした第二子出産の許可を余儀なくされた要因には、農村における一人っ子政策が実質上実施困難であり、女児間引きなどの弊害を生んだこと、さらにアメリカの中国人口政策への批判がある。中国は国情に沿った人口政策の制定・実行は各国の主権であると反論したものの、一定の範囲内で第二子出産制限を緩和した。こうした農村での第二子出産緩和や、生産責任制の導入により労働力(とくに男子労働力)が欲しいことに結びついて、出生率は政府が願うほどには低下しなかった。しかしながら全体としては、多子率の低下(44.6%→16.8%)は明瞭で、また一人っ子証受領夫婦も2800万戸と増大している。ただ広大な中国国内にあって、都市・省市間で地域格差が大きいことが問題である。


[計画出産]
 1978年には国務院に計画出産指導小組が設置、1981年には国務院直属行政機関の国家計画出産委員会が設置され、計画出産工作が始まった。国家計画出産委員会の下に、省・市・自治区・県レベルまで地域の計画出産委員会と計画出産弁公室が設けられている。県以下の行政単位の郷には、計画出産担当者が2〜3人おり、郷を形成する村にも計画出産指導員がいる。省市白治区レベルには1200人のスタッフが、県レベルには約30000人のスタッフが、郷レベルには約62000人のスタッフがいる。
 国家計画出産委員会の活動内容は、(1)計画出産活動の方針、政策、法規、条例の起草。(2)人口計画の実施、督促、検査。(3)計画出産の宣伝の組織。(4)計画出産についての科学研究の細織。(5)計画産技術指導。(6)計画出産についての科学発展計画の起草。(7)人口科学研究。(8)避妊器具・薬品の管理方針、政策、計画の制定。(9)計画出産についての国際交流。(10)中国計画出産協会、中国人口学会など民間団体の指導。などである。
 1979年に上海で初めて計画出産条例が制定されたのを皮切りに、各地区の実情を受けつつ一人っ子政策は全国的に実施されていった。1990年には、江西省・雲南省・内蒙古自治区・北京市も条例を成立させ、これで新疆維吾尓自治区と西蔵自治区を除いた全国の省市白治区が条例を制定したことになった。新疆維吾尓自治区と西蔵自治区では、条例制定は困難な状況にある。新疆維吾尓自治区は1988年「新疆維吾尓自治区少数民族計画出産暫定規定」を実施し、「都市2.5人、農村3.2人」出産奨励政策の規定を宣伝し始めた。しかしこの実施は困難であった。西蔵自治区においても「一二三四政策(漢族1人、都市少数民族2人、農村少数民族3人、牧畜区4人)」という「計画出産暫定規定」が1986年定められたが、翌年には取りやめられた。
 全国的人口計画を末端まで進めようとすると、計画的に出産予定を把握していくことが重要となってくる。委員会は次第に妊娠前、さらに未婚者の今後の出産計画、婚約者の有無や結婚時期までも把握する出産予定管理ネットワークを組むようになった。北京市では、未婚者のカードを一人一人作成し、婚約者がいるかどうか、結婚予定時期はいつかまで記入して、地域の居民区計画出産委員会担当者が全て把握している。上海市では、それに加えて、以下の7種の女子に対して、特別要注意の管理体制をとっている、(1)長産=出産後一年以上も休暇をとっている者。(2)長病=病気で休んでいる者。(3)空挂=戸籍がありながらそこに居住していない者。(4)折遷=部屋がなく、ここに戸籍がありながら他に居住している者。(5)傾体=自営業。(6)待業=失業。(7)無業=無職。これに新婚、妊娠・出産、一人っ子証受領者についての名簿が加わり、居民委員会のもとにある保健站で保管・管理されている。
 さらに「中国計画出産協会」と称する民間組織が1980年に設立され、組織数85万、会員数3800万という幅広い支援、管理団体が地域末端までネットワークを取り囲んでいる。これは計画出産委員会委員や政府幹部が兼務しており、この網の目からくぐり抜けて計画外出産をするのは容易でなくなってきている。


[超過出産ゲリラ隊]
 しかし一人っ子政策の政策の進展とともに、その矛盾やひずみが顕在化している。1989年『人民日報』が報じた「超過出産ゲリラ隊」は、厳しい計画出産の管理の目を避け、外地を流動しながら子どもを産み落とす家族集団を指している。『人民日報』には、青海省省都西寧市では、浙江・江蘇・河南・甘粛などからやってきた数万人もの外来者が仮住まいしていて、彼らの中のかなり多くの者は、在住地における計画出産の管理地からやってきたもので、現地の人々は彼らのことを「超過出産ゲリラ隊」と呼んでいる、とある。西寧市公安局と計画出産局が外来世帯抽出出して調べたところ、既婚で育児の適齢に達している女性は536人で、子どもが一人いるのは141人、二人は131人、三人は64人、四人以上が76人であった。超過出産率は65.69%に達している。西寧市は1987年に「流動人口に対する計画出産管理の暫定規定」を試行しているが、執行状況は決して満足すべきではない。外来者を受け入れている多数の職場や団体、旅館、雇い主らは、彼らの超過出産の現象について全く無関心で、超過出産者に対する処罰も基本的に実現していない。この「超過出産ゲリラ隊」の行動に対して、中国政府はどんな対策をとったらいいのか、と述べている。
 大都市における流動人口は、人民公社解体後、急増し杜会問題化し始めた。88年の調査では上海市の流動人口は209万人、北京市は131万人まで増大している。89年以降をピークにして、中国沿海地帯(経済特区を抱える広東省・海南省・福建省・浙江省)で短期間に大量の人口が流動した。この荒れ狂った流動は「盲流」と呼ばれる。90年の国務院人口調査によると流動人口数はそれまで5000万人から8000万人へと修正された。問題なのは、これら急増しつつある流動人口が一人っ子政策を守らない点である。このようにして世間の風当たりを避け・移動しつつ計画外に妊娠・出産する「超過出産ゲリラ隊」が出現したいくつかの省では、流動人口が計画出産に違反して出産した者に罰金を課したり、「計画出産証明書」などの提出を試み出したが、一人っ子の政策の徹底には至ってはいない。


[黒孩子]
 計画外出産のために親が罰則を逃れようと戸籍に登録しない「黒孩子」の出現も問題の一つである。1990年実施された第4回人ロセンサスによると、戸籍に未登録であった人口が約1500万人いたことが明らかになった。戸籍漏れが生じた理由第一は、計画外出産で産児制限確反の処罰である社会扶養費を支払うのを嫌い、負担逃れによる未届けである。これには父母が処罰を恐れて逃げている場合と、末端の行政機関が地域ごとの出生児数の目標指数を越えて生まれた子どもを戸籍に入れさせず、出生届の受理を断り、目標を達成したかに見せかけている場合とがある。第二は人民公社解体後の流動人口の急増に戸籍管理がついていけないための戸籍漏れである。この無戸籍人口には、農村戸籍から都市戸籍に移転するのに時間を要することで一時的に宙に浮いている場合と、勝手に都市に移住した農民が盲点になっている場合とがある。後者が「超過出産ゲリラ隊」である。第三は中国特有の戸籍制度が経済改革下で従来のように重要性を持たなくなり、切符がなくても自由市場で食糧等が購入できるようになったことによる漏れである。
 こうして無戸籍になった子どもの多くは公教育の機会を奪われ、非識字者を生む背景にもなっている。国務院は計画外出産の子どもの調査登記と常住戸籍登録申告を許可した。すなわち(1)調査と計画出産の政策の違いを宣伝して罰金などを恐れる大衆の心配を打ち消す、(2)戸籍の整理を通じて超過出産人口の基礎となる数を把握する、(3)調査員が実情を把握する際、超過出産人口の状況を事前に理解しておく、という措置がとられた。


[小皇帝の誕生]
 中国では「多子多福」という言葉からも分かるように、家庭は大きいほど理想とされ、幼きを慈しみ、老いを敬いながら暮らしていくことが、伝統的な家庭像であった。しかし「一人っ子政策」以来、家庭の大きさは小さくなり、中国人の家庭像は大きな変化を遂げた。一人っ子たちが成長するにつれて、中国における家庭の役割は変化した。アンケートによると、一人っ子の最大の悩みは「孤独」である。住宅条件が劣悪で、貧困の中で育った親や祖父母の世代は、孤独感を味わったことがない。「新老大、旧老二、縫縫補補是老三(長男はいつも作り立ての新服を、次男は長男の着古したのを、三男は継ぎ当てだらけの服を着る)」といわれる時代であった。家庭はもはや子どもを慈しみ育てる場ではなくなり、「四二・一総合症(祖父母四人と父母二人対子ども一人)」といわれるように、一人っ子が幼いながらも祖父母と両親に鶴の一声を発する場と変わったのである。一人つ子が「小皇帝」と呼ばれる所以がここにある。
 「一人っ子症候群」という言葉があるように、一人っ子をめぐる問題は非常に多い。なかでも思いやりがなくてわがまま、利己的で杜交性がないなど、一人っ子の性格的な弱点は数多く取り上げられる。1988年のソウルオリンピックや1993年のサッカーワールドカップアメリカ大会予選において、中国選手の活躍が期待ほどではなかった時、中国のマスコミは失敗の原因として「一人っ子弊害説」を主張した。また中国人民解放箪はかつて若者の憧れの的であったが、近年では徴兵難に陥っている。これは親がたった一人のわが子を危ない軍隊に入隊させたくないと考えているためだといわれている。子どもが一人しか作れないから、父母や祖父母の期待はその子一人に集中する。一人っ子を目に入れても痛くないほど可愛がり溺愛する一方、とにかく勉強して出世しろ、専門的な技術を身につけて有名になれと、親たちが子ども教育に熱を上げている。その緒果、子どもが追いつめられて、様々な悲劇が起こっている。中国では最近、子どもの自殺や親の子ども殺害に関する報道や記事が新聞を賑わしている。例えば青海省の「夏斐事伴」は、期末試験が終わった日、夏斐という9歳の子どもの成績が90点を下回ったため、母親がわが子を殴り殺してしまったという事件である。その後母親は監獄の中で自殺した。こうした事件は決して珍しいものではなく、同様の事件は後を絶たない。
 一方、老人を敬うという家庭の役割も急速に衰えてきている。「四二・一総合症」の家庭が増える中で、浮かんでくるのは、「四人の老人の面倒を誰が見るか」という問題である。中国政府の統計によれば、2032年には中国の年少人口(14歳以下)と老年人口(65歳以上)がほぼ等しくなり、その後は老年人口が上回ってゆく。このような急速な人口の高齢化は、中国家庭の老人扶養問題を激化させている。
 親の脛をかじるだけかじって、面倒を見ようとしない子どもたちが続出している事情に鑑み、上海では高齢者専門の裁判所が開設された。この裁判所では、設立後数ヶ月間に約6000件もの訴訟が扱われ、その大多数が扶養費をめぐる争いという。80歳になる母親が末子を訴えた例がある。母親は住宅を子ども三人に分けたのだが、末子は期待していた部屋がもらえなかったことに腹を立て、老人ホームで寝たきりの母親を六年聞に一度も訪間せず、割り当てられた扶養費も払わなかった。調停の緒果、息子は反省して扶養費を支払うこと、毎月訪問することを約束した。
 老人扶養の義務については、法で定められている。1982年憲法は「成人子女は父母を扶養扶助する義務を負う」「老人に対する虐待を禁止する」ことを付け加えた。79年刑法、80年婚姻法にも同様の規定がある。このように義務を明文化したのは、伝統的な家庭の役割としての、親に孝行し老人を扶養するシステムが機能しなくなり、モラルのレベルでは維持しきれなくなったことを意味し、中国伝統家庭の崩壊を象徴している。
 一人っ子は中国の伝統的な家庭像を破壊し、伝統的モラルや倫理観に波紋を投げかけている。教育間題にみられるような過剰な期待に加え、四人の老人の面倒を見なければならないとなると、一人っ子の背負うべき荷は重くなる。このような宿命を背負い、伝統と近代との狭間を生き続ける一人っ子にとって、理想的な家庭像とはどんなものだろうか。


[参考文献]
・『原典中国現代史(4)社会』岩波書店/加藤千洋
・『もっと知りたい中国U社会・文化編』弘文堂/若林敬子
・『中国十億の人口問題』日中出版/北京経済学院人口研究室
・『中国12億人民の新世紀ライフスタイル』トラベルジャーナル/WCG編集室
・『中国の人口変動』アジア経済研究所/早瀬保子編
・『中国の人口問題』東京大学出版会/若林敬子


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