2001年11月16日、30日、12月7日
オットー・ヒンツェ『国家組織と軍隊組織』  My


下記の文章は管理・修正を凍結した旧版です。
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はじめに
 これは、軍事制度と戦争についての基本的に重要な文献とされるOtto Hintzeの論文“Staatsverfassung und Heeresverfassung”(Dresden,1906)の日本語訳である。
 かなり意訳した。逐語訳にはなっていない。私のドイツ語力と日本語力では、とうてい理解可能な逐語訳を作ることはできないのである。そして、誤訳が大量にあるでしょう。訳し忘れた文もあるかもしれない。また、私の西洋史の知識が不十分であるため、専門用語や、通常日本語訳しないような語句にも、無理矢理、普通の日本語を当ててある。しかも、これだけメチャクチャしたにもかかわらず、 本当に普通の、読みやすい日本語になったかどうか、甚だ不安である。
 以上のように、問題山積みな訳文なので、あまり信用せずに読んで下さい。



国家組織と軍隊組織
 こうして国家組織と軍隊組織について語るようにとの、名誉ある依頼を私が受けたとき、そのはじめから明らかだったことがある。それは、あらゆる時代と民族の事例を引いた、一般的な長たらしい議論によってこのテーマを扱うことは重要でなく、むしろ私の役目は、国家と軍隊の組織の相互関係と変遷につき、論理的な歴史の発展作用に則して、なんらかの理解を導き出すことである、ということである。私は、前者のような考察法も、例えばハーバート・スペンサーが『社会学の原理』で行ったように用いられれば、意義深い成果に達しうることを、否定するつもりはない。だが、もしその際に、一般的な考察から得られる命題に証拠を提供する意図の下、具体的な制度がその文脈から切り離され、いわば歴史学と民族学が略奪されてしまうのだとすれば、それは歴史学の教育を受けた精神にとっては、耐え難い暴虐である。そして、この点を除外しても───そのような方法から得られる理解は、一般に、具体性と現実性に著しく欠けており、極めて曖昧で漠然としたものなのである!一般的な決まり文句というものは、必要とあれば、人物や民族の歴史的な活動を消し去ってしまうもののであり、考察の視野が広がれば広がるほど、現実的な意味は乏しく、結局は、当たり前の陳腐な意見へと、成り下がってしまうだろう。そこで私は、一つの具体例によって、国家組織と軍事組織の相互の影響を解説することにするが、これについては、伝統がありなおかつ現在の関心の的でもある、古典文化没落後のラテン・ゲルマン民族の発展を、例に選ぶことにする。
 ただ、重要な一般的な内容の所見を、少し前置きとして述べておくことにする。
 全ての国家組織は、元はといえば戦争組織であり、軍隊組織であった。おそらくこれは、競合する諸民族の歴史のもたらした結果と、見なして良いだろう。大規模な人間集団の、強い国家的な結びつきは、何よりもまず、防衛と侵攻に向けられていた。軍事上の組織体とともにまず、個人に対する強制力を持った厳しい機関が生まれ、それは戦争が頻繁に行われるほどに、一層強力なものに鍛え上げられていった。全ての自由人男子は、武具を身につけることができるかぎり、戦士であった。彼らは、狩猟と牧畜のかたわら、鍛錬を行い、一方農耕と家政は、女子と奴隷に委ねられていた。戦士の集会は政治集会であった。戦争指導者は国家指導者になった。戦士でない者は、政治的共同体において、何の地位も持たなかった。だが、その後時代は移り変わり、農耕が拡大、人々は耕地に定住し、人口は増加、技術と交通が向上して、商業が興った。これら、要するに、経済活動の条件変化とともに、軍事的な活動の商工業からの分離が起こり、武装階級と生産階級の区分が生じた。軍隊は全体の中の特殊な一部分となり、軍隊組織は国家組織の特殊な一側面となった。今や重要問題は、国家組織全体の中で、軍隊組織がどのような位置を占めるかである。政治機構全体へのその影響はどれほどのものなのか?全体および各階級の経済的な生活基盤の必要性を理由に、公共活動の支配に起因する戦士階級の要求を、どの程度抑え込んだのか?そもそも、軍事活動と商工業の対立にともなう、階級対立は、どのような利害関係の中にあったのか?国家組織は両者の間にどのように釣り合いをとったのか?
 ハーバート・スペンサーは、この観点から、国家組織と社会組織の二つの類型を区分し、それを軍事型と産業型と呼んだ。軍事型の社会組織の構造は、強い強制力や、中央集権化された君主専制、私的活動と経済活動への厳しい国家規制によって、特徴づけられており、目的に対する軍事的な力の効率のみが最大限追求され、他方で個人の自由と繁栄は後回しにならざるを得ない。これと異なり、産業型の社会組織においては、個人の自由と繁栄という目的が、全く外部の圧力によって阻まれること無しに、公共社会の構造を規定し、その結果、共同体は、分権化や自治、あらゆる生活領域での個人の行動の自由といった性質を、刻み込まれているのである。
 これらは理念型であり、諸民族の歴史において完全に純粋な形で実現されたことなど、おそらく一度もない。現実は、ほとんど全ての場合に、両者の要素から成る混合物を見せている。だが、それにもかかわらず、古代と近代、文明人と未開人のかなり多くの国家において、軍事型を非常にはっきりした形で認めることができる。スペンサーはダオメの帝国や、ペルーのインカ帝国、古代エジプトやスパルタ、プロイセンにドイツ帝国、ロシアを指摘している。産業型は、特別に恵まれた条件下においてのみ、非常にゆっくりと、あまりはっきりしない形で、成立して行く。イギリスとアメリカは、とりわけ、民兵制や自治、個人の自由という原理により、軍事的な大陸諸国での束縛的な生活とは、対照的な姿を見せている。そのためスペンサーは、文化発展の一般的傾向として、軍事型の国家と社会はしだいに産業型のものに押しのけられ、取って代わられる、と述べている。彼は、このような発展の経過は、長期に渡る激しい後退を生じることがある、ということを理解し損ねはしなかった。そして、戦争がごくまれにしか起こらず、より重要なこととして、戦争が文明圏の境界地域で行われるものに限られており、しかも平和な商業活動が軍事活動に対する優位を占め続ける、という条件が満たされるか否かに、全てが依存していることを、理解し損ねたりもなかった。だが彼は、世界が、大体においてそのような方向に進んでいると思い込んでいる。彼を通して、コブデンとグラッドストーンの時代のイギリスの精神が、語っている。自分たちの商業的な覇権の下、真剣な競争に脅かされることもない、満足しきった、協調性と人間性にあふれる、政策と世界観の精神が。その後イギリスにおけるこのような雰囲気は、他地域と同じように、かなりはっきり変わってしまったので、ディズレイリやセシル・ローズ、チェンバレンのような政治家までもが、純粋な産業型に向けての、国家の継続的発展を、確信していたかどうかは分からない。そもそもスペンサーの分類した二類型は、おそらく、対立する両極に他ならないのであり、人間の政治の現実的な経過は、それらの間で、ある時には一方の極に、またある時は他方の極に近寄りつつ、進んで行く。我々が見渡すことのできる、四千年の人類史においては、確かに商業活動の著しい増大は起こっているが、現実に、国家の軍備に減少が生じたことは、全くないのである。
 このような問題を指摘するとともに、私が国家組織という概念を、国家活動の諸機能の各機関への分配しか問題としない、国法学的な狭い意味では理解しない、ということも示しておこう。もし国防組織の国家組織に対する関係を理解しようとするのであれば、現実の国家組織を規定している二つの現象に、注意を向けねばならない。その一方は社会的な階級構造であるが、他方は対外的な国家構成と、世界の諸国との関係におけるその位置づけである。
 あたかも社会的な階級闘争が、歴史を動かす唯一の要因であるかのように、考えるのであれば、それは一面的で行き過ぎた、誤った見解である。民族間の闘争はそれよりずっと重要であり、全ての時代において外部からの圧力は、内部構造を規定するものであった。そのうえ外圧は、しばしば国内の反目を抑え込み、和解を強制した。これら二つの要因は、ともに、国防機構と国家機構の形態に、極めてはっきりした形で、影響を与えている。古代においては馬や戦車に乗って行われる、気高い個人戦闘に、市民の重装装歩兵密集方陣が取って代わり、それによって階級闘争の和解がもたらされるか、その端緒が開かれるかした。そして、この機構が硬直化した、スパルタのような地域では、国家の権力と規模もそれ以上は全く拡大しなかった。しかし、ローマのように、共同体が十分な順応性を備えていた地域では、より大きな軍事力が必要となったときに、外部情勢の緊張に応じる形で、政治的権利を有する市民の拡大へと突き進んでいった。そして、この外圧と内的発展が同時に作用する中で、都市国家から世界帝国へとローマが発達する基礎が、据えられたのである。
 ローマ史においては、領土の形態と規模が、国防組織と体制に、いかに影響を及ぼすか、とりわけはっきりと見て取ることができる。素朴な都市国家とは、土地所有に基づき構成された市民軍が、一体化している。そしてイタリアにおける征服の進展は、体系的な軍事的植民地建設を伴っている。ハンニバル戦争での激しい生存闘争に際しては、古い一般兵役義務の原則が、実際に、完全な適用を見ることになった。その後、この都市の支配がイタリアを越えて広がり、マケドニアやアフリカ、さらには不穏で好戦的な住民のいるスペインのような、遠くの属州を統治し、秩序を維持せねばならなくなったときには、軍隊の必要性が一層強まったが、これは有産市民によってはもはや負担することができなかった。古い市民兵にかわって、大部分が無産市民からなる常備軍が出現し、それまでは臨時に補助金としてのみ行われていた、給与支払いが、継続的な制度となった。常備軍が成立し、さらに帝国の拡大によって、長期の指揮権を有する司令官を、遠い属州へ派遣する必要が生じた結果、長い戦争の中で勝利を重ねる司令官が、軍隊に対する個人的な影響力を持つようになり、これがしだいに共和制を掘り崩していった。軍隊指導者は共和国の役人から、独立して相争う権力者に成長した。そして、アウグストゥスが元首制を行う際に利用した、復古思想をもってしても、長期的に見て、司令官が君主に成長し、ローマが世界帝国になるのを、阻むことはできなかったのである。世界帝国の中では、ローマ市民とは、すなわちイタリアの全住民であり、政治的に特権的地位を占めたに過ぎず、ますますローマ民族としての性格を、薄めていくことになった。ローマの常備軍は君主を創り、他の地域では君主が常備軍を創ったが、この二つの現象は、都市国家から世界帝国への発展に、本質的な関わりがあるのである。
 ところで、大問題がある。何が原因でこの帝国が滅び、それとともに古典文化が滅んでいったのか、未だに、説得力あるはっきりした解答をした者が、いないのである。明らかに多くの要因が作用しているが、ここでは、そのうちの一つを指摘しておきたい。ローマ帝国は外部勢力に負けてはいない。そもそもローマ帝国のまわりに、これに匹敵しうる勢力など、全く存在しなかった。世界帝国とは、我々が今日列強について語るのとは、全く違った意味を持っている。多くの国が並び立ち、勢力均衡の下、絶え間ない緊張と競争が続き、常に新興勢力に取って代わられぬよう警戒が必要となる、国際体制とは───そのような国際社会などとは、全く異なっている。国境地帯での戦争は、もはや帝国の覇権や生存を脅かす問題となることはなく、今日のイギリスの植民地における戦争や、ドイツの西南アフリカにおける戦争ほどの、意味すら持たないのである。強い外部からの圧力は和らぎ、ローマ国家を征服に次ぐ征服へと駆り立てた、外部情勢の緊張も消え、征服活動は文明圏を、完全に覆い尽くしてしまった。軍事力の数量は、近代軍と比べても、帝国の総人口に占める割合という点で、取るに足りないものであった。そして、この比較的小さな軍事力でさえも、ローマ民族としての性格を、ますます失っていった。とうの昔に、ローマ市民のみが軍隊に入ることができるという原則は、軍隊に入った外国人に市民権を与えることで、緩和されていた。アウグストゥスはまだ市民兵の軍団を、外国人から成る補助部隊から厳格に区別し、ユリウス朝の支配下では、軍団はまだ主にイタリア住民から成っていた。このような状況は、ウェスパシアヌスの時に終わりを迎えた。イタリア住民は、既に直接税を免除されていたが、事実上兵役からも解放された。そのかわりに軍団は、属州から兵士を集め、補助部隊との違いはますます薄れていった。一般兵役義務の原則は相変わらず存在していたけれど、軍隊の補充は実際には、主に自発的な入隊と応募に頼っており、当局による徴兵は補助的にのみ行われ、その際も、現実にはおそらく、代理が立てられる習慣であった。近衛軍団のみは長くイタリア的要素が支配的であったが、セプティミウス・セウェルスはこれさえも止めてしまった。そのかわりに、親衛隊が属州軍団から集められたが、さらにカラカラによって全臣民に市民権が付与されたことにより、帝国におけるイタリア住民への特権的地位の付与は、終結したのである。
 この軍隊、すなわち表面的にのみローマ化された、諸民族の混合体から成る傭兵軍は、帝国とは、首長すなわち皇帝を通じて持つ関係以外、何のつながりもなかった。軍隊は、市民の信仰とは異なる独自の宗教的慣習を持ち、そこでは皇帝の神性に対する崇拝が、極めて重要な役割を果たしていた。軍隊は独立した力であった。確固たる相続法や定まった正当性の原則を欠いていたため、皇帝の即位でさえ、この力に左右されていた。軍事的な規律のみが、全ての組織をまとめ上げることができた。そして、セウェルス朝の断絶とともに、この規律が役割を果たすことも無くなった。アレクサンデル・セウェルスからディオクレティアヌスまでの五十年の絶え間ない反乱状態の中で、ローマ軍のかつての性質と組織は壊滅してしまった。4世紀における軍団は、それ以前とは全く異なるものになってしまった。国境地帯に生きる兵士たちは、もはやかつての厳格な宿営地での規律を持たず、妻子を連れて農地へと分散していた。財産を持って都市から農村へと移動した新兵は、大土地所有者によって迎え入れられた。完全な蛮族であるゲルマン人の部族も軍隊に流入した。これ以降軍隊は、しだいにゲルマン的になっていった、と言える。いわば、軍隊から帝国が蛮族化していったのである。古い体制の仕組みが、少なくとも西部において、かなり急速にほぼ完全な破綻に追い込まれたのは、以上の結果である。
 これはゲルマン・ラテン民族による、世界史の新時代の出発点である。一面でこれは、ローマ世界帝国の、文化と文明の残骸すら残さぬ、自壊である。他面でこれは、若い発展段階にあるゲルマン民族の生き生きとした原始の状態であった。これらの相互作用の中で、現在にまで届く、大きな歴史の過程が始まる。今度は、この時代について簡潔に概観し、政治組織と軍事組織が、いかにして互いに関わり合ってきたかという観点で、段階を追って考察していこう。
 この発展段階においては、特定の国家組織と軍隊組織が互いに結びついて現れる、三つの大きな時代を区分することができる。原始の部族および血統に基づく体制の時代、中世の封建制の時代、そして、一方の君主専制軍事国家と、他方の、民兵中心の国防組織を持つ、より自由な体制という、二重の像によって象徴される近代である。今は、ここに述べた前の二つの時代は簡単に扱うにとどめ、三つ目の時代についてのみ詳細に論じることにする。三つ目の軍国主義の時代は、以下に見る特徴的な現象によって、さらに三つの時期に分解されることになる。15世紀のおわりから17世紀半ばまでの第一の期間には、国家機構との結合が、未だ確固たるものでも永続的なものでもない、傭兵軍が存在した。国家組織はまだ君主専制の統一国家として安定してはいないが、そこへと向かう途上にあった。第二の時期は、だいたい17世紀半ばから18,19世紀までであり、一方に大陸の完成された君主専制軍事国家があり、他方でイギリスにおいて、民兵制とともに、議会と議会の自治が存在した。最後の第三の時期は19世紀であり、この期間を通じて、一般兵役義務と立憲国家機構という本質的に等しい二つの原理が存在したが、この間の民兵制の継続と、海軍の重要性の増大は、注目に値する。
 一つ目の時代については、確かなことはあまり知られていない。だが国家的連合体と軍隊的連合体が未だ一体化した状態で、社会組織が存在した、と判断することは十分可能である。ゲルマンの最古の国制は共同体的な連合に特徴があり、百人隊と血族と行政区が一致していると見なす、大胆な推測が正しいとするならば、政治の地方自治体と軍隊の部隊を兼ねる、氏族連合体の形態を、具体的に思い浮かべることもできる。そして、国家的連合体と軍隊的連合体が、何らかの形で、氏族関係に基づいているということは、疑いもなく証明されており、歴史学と民族学において原始の体制を特徴づける、そのほかの現象とも相応している。ゲルマン人は戦闘において氏族に基づいて行動した。血族関係と隣人関係および利害の共有が生み出した、緊密な結束は、楔形あるいは「猪頭形」をした彼らの戦闘隊形において、ローマ人のような真の軍事規律が欠如しているのを、補うことになっただろう。この際に実際に血族関係がどの程度存在したか、そして、観念上のものに過ぎない血族関係がどの程度役に立ったかは、あまり重要でない。重要なのは、共同体意識が存在し、自然な共同体的結合関係によって、部隊と居住地が、軍事的、政治的に統合されていたということである。もちろん組織の要素として、支配という要素も欠けてはおらず、時には強く、時には弱く、その存在が現れている。これは、族長制という、タキトゥスの描く首長制に現れているほか、とりわけ、大戦争の際に市民の先頭に立つ、将軍の地位の中に現れている。族長制はタキトゥスの時代にはもうあちこちで、王の支配へと移行していたが、このことが、共同体的結合という国制の基本的性質を、変えることはあまりなかった。それでもその後の数百年間には、共同体的結合が力を失う一方、支配という要素が広まっていくことになった。軍隊組織については、すでにタキトゥスの時代にこの萌芽が生じているのを、見ることができる。それは従士制、すなわち、高名な族長や戦争指導者を中心に、独特の忠誠関係で個人的に結合した、選りすぐりの戦闘集団の制度のことであって、これが、古い血族関係を、主との同居から生じる関係に、置き換えていった。原始の小さな政治的結合が、市民の大部分を包括する大部族同盟へと拡大し、民族を挙げての軍事的移動や、部族による征服行が、ローマの国境を越えて行われるようになると、王の権力は強大化、王制が一般的に見られるようになり、その一方で古い血族結合による共同体関係は、とりわけローマ領への定住以降、ますます失われていった。メロヴィング朝フランク王国では、もともとは、洗練された軍隊王に率いられた民衆による征服など、見ることはできず、宗教的に畏怖される古い家系の大族長が、乱暴な権力者として、征服を率いていただけであったのだが、王の権力が非常に強く成長していくことになった。臣民全体の上に、従士制を模した形態の、支配組織を広げようという試みが、行われるようになった。メロヴィング朝の王は、貴族である騎馬の随員を連れるのみならず、本来は個人的な奉仕および忠誠関係にあったであろう一般人からも、下級の従士団とでも言うべき存在を、作り上げていた。そして最終的に王は、全臣民に忠誠の宣誓と、兵士としての誓いを、求めることになった。
 もっとも、崩れ行く民族的軍事的な共同体組織を、支配組織に変えようとする、このような試みは、この形では達成されはしなかった。それどころか、ガリアを占領した直後の百年間には、平時に特定地域の長として王の権力を代表する、小部隊の隊長が、ローマの土地所有者の後を受けて、あるいは、王による土地の授与のおかげで、強大な大土地所有者として台頭してきたらしい。これらの大土地所有者も自身の随員に取り巻かれており、「長老」として軍事的首長の立場に立って、彼らを統率、支配していた。従士や、ガリア・ローマの保護者と被保護民の関係から類推すると、ここには奉仕関係と忠誠関係がともに影響していただろうし、またローマの大土地所有者に仕えた私兵の影響も、無くはないだろう。宗教的な大土地所有者もこのような軍事的随員を持っており、教会の恩貸地制度の機構は、戦士たちに土地所有を付与しながらも、授与した土地を完全に手放すことはない制度の、最高の形態を示している。財産は、ここでもまた兵役義務の履行と結びつけられたが、そのほかに、主人あるいは家臣の死に際しては、新たに授封し直すことになっていた。この臣従と恩貸地、義務と封土の関係によって、フランク王国独自の封建制の形態が創られた。宮宰のアルヌルフィング家の巧妙な政治は、この制度を中央権力と結びつけ、それによって、部分的にでも、支配組織本来の軍事力としての性質を、引き出すことに成功した。それでも封建制は、全臣民の連合という理念型と比べれば、確かに緩やかで継ぎ目だらけの、弱い支配形態である。だが、物々交換経済の社会において、徐々に軍事的な生活から農耕生活へと移行しつつある人々の中にあって、未発達な交通と庶民を従えた強固な土地支配貴族の時代にあって、この形態は、明らかに、時勢の求める優秀な軍事力、すなわち高度な個人的訓練で鍛えられた騎馬部隊、を用意することのできる、唯一のものであった。もっともこの組織が国家権力に提供するはずだった効用の大部分は、封土の世襲がしだいに浸透していくことで、またも失われてしまった。しかし、この変化の中にこそ、最高権力と、ますます自立的になる貴族階級との関係が、最もよく現れている。そして、この制度形態は、数百年の間、軍事活動と政治活動に、さらにそれよりも長く社会の状況に、決定的に影響を与えたのである。
 軍事的には、封建制は、歩兵が主力である古い徴兵軍が、重装騎兵によって、駆逐されたことを意味する。この重装騎兵は、戦術集団を作って集団攻撃の衝撃により成果を挙げたのではなく、むしろ騎士の個人的な勇気と熟練、すなわち個人戦闘に頼っていた。古い徴兵軍は完全に消えたわけではなかったが、その軍事的な重要性は失われた。ガリア定住以来の経済的社会的な変化とともに、人々の土地への定着とともに、土地支配者と庶民の間の従属関係の発生とともに、古いゲルマンの軍隊の団結の源であった、家族的共同体的な結束は力を失ってしまった。そして当時の、物々交換経済と交通状況の中にあって、歩兵を人為的に規律化する可能性は、全く存在しなかった。歩兵は中世の戦いにおいて全く見られないわけではなかった。とりわけ、後に戦争に関して同業者組合が組織された、都市において、歩兵は保存されていた。だが、少なくとも初期の数百年間においては、歩兵は重要性の点で、完全に騎士の背後に退いたのである。
 戦争活動におけるこの変化には、大きな社会的変化が密接に関わっている。封建制は、長期にわたって力を持つ社会区分であって、職業および労働の区分に関する世界史的に重大な動きであり、徹底した階級組織の成立を意味している。軍事的な職業は商工業から隔離され、両者とも世襲となった。騎士階級は、確かに支配階級の立場に立って、農民階級と対立した。なぜなら騎士階級が土地支配階級へとつながっていく一方、非軍事的な農民は、隷従的、従属的な階級へと、ますます沈み込んでいったからである。
 このような封建制の社会的な影響は極めて長く続いた。それは、様々な形で縮小し弱まりはしたものの、大陸においてはフランス革命の時代にまで及んだ。つまり、封建制の軍事と政治の体制が、主な点で克服された後でも、まだ続いていたのである。
 政治的な観点から言えば、封建制は、近代国家の型式とは異なる、独特の国家組織形態のことを意味している。封建国家には主権の特徴、すなわち国家権力の外に対する独立と、内に対する独占が欠けている。支配権力が段階的に重なり合って、ピラミッド構造を成しており、それぞれの支配権力は、各々の領域内においては制限を受けることがなく、上位者に対しては、ごく限られた形での奉仕と服従を誓ったに過ぎなかった。このような秩序が全ての公共活動を規定していた。国家はまだしっかり境界が定まっておらず、不安定で、対外的に閉じた領地を持っていなかった。イギリス王は、大陸において支配する巨大な領地については、フランス王の封臣であったし、皇帝は西洋の全キリスト教徒に対する上位権力を求めた。教皇は、キリスト教徒である王が、全てその臣下であるべきだとの要求を掲げ、実際に各国に対しこれを押し通して見せた。そして対内的には「それぞれの領主はその所領において至上権を有する」という原則が適用された。国家権力はまだ一極に集中しておらず、いわばいくつもの中心を持って分散し、最大の力を発揮した場合でも非常に弱いものであった。国家組織のこの状況は、軍事組織の形態と極めて密接な関連がある。だが結局のところ、この状況は、軍事組織そのものよりも、大部族集団間のつながりが不十分であったこと、そして、物々交換経済の広がりと未発達な交通機関のせいで、各生活圏がそれぞれ孤立していたこと、に起因している。戦争のやり方、経済そして政治は、このような状況を変えるために、共同作業を行っていった。都市が発達した交通の中心となった。まずは各地方において、その次は大きな国家において、外見上の表面的なものから、政治統合が始まった。教皇の権力が世界制覇の理念を貫徹することは、皇帝の世界支配の理念と同様達成されなかった。フランス、イギリス、スペインは15世紀のおわりまでに、ある程度の国内的な安定を獲得しているし、ドイツとイタリアにおいては同時期までに、少なくとも地域的な小国家は、ある程度強固に組織を形成しているのである。ところで、この経過にもまた、軍事組織の領域における、注目すべき変化が伴っていた。
 だいたい十字軍の頃から、給与支払いの習慣が封建的軍事組織の体制に浸透し始めた。最も早く明らかな例はイギリスで、次いでフランス、イタリア、最後にドイツの順である。この前提として、貨幣経済による交通の拡大の発生があった。だが本当に影響力のあった要因は、支配者のより強い軍事力に対する政治的な欲求の中にあった。封建的軍事奉仕義務はどこにおいても無制限ではなかった。イギリスからフランスへ、あるいはドイツからイタリアへのような、長期出兵に際しては、授封や金銭支払いの形での特別な保証が、おそらく前々から求められ、そして認められていた。イギリスでは既に12〜13世紀、封建的軍事奉仕義務から軍役免除税への、体系的な転換が、一部では家臣の意に反して、行われている。王はこの方法で、家臣よりずっと自由に使用できる騎士を、募集するための資金を手に入れた。次いでフランスでは無制限の義務を負う専属臣従が、ドイツでは家士の制度が出現した。最後には、至る所に、金銭支払いと傭兵騎士が浸透したが、特にイタリアにおいて甚だしかった。こうして軍備は財政問題となった。そのため支配者たちが、14〜15世紀以降、軍備を調えるために、家臣やその他の臣民から、本来の軍事奉仕に代えて資金提供を受けるよう努めているのを、見ることができる。これこそ、身分集会や議会、三部会や地方議会の形成についての、あるいは、少なくともそのたび重なる召集についての、主たる契機である。無数に分散した支配の中心から成る封建的組織には、身分制組織が取って代わり、特権身分が団体を形成して、地方や国家の業務に、共同で参加するようになった。
 しかし、この身分制的君主制の原理に対し、あちこちで、封建勢力が激しい反応を示すのが見える。彼らは国家と国家権力の強化が始まるとこれに逆らった。彼らはとりわけ、私闘の権利に強く執着した。封建制度は私戦を全く排除していなかったのである。給与支払いが浸透するとともに、封土と義務の強い結びつきは失われたしまった。15世紀には、全ての地方において、大領主たちが、武装した臣下の大集団、すなわち正真正銘の私設軍隊を持っていた。フランスの大貴族や、スペインの大貴族たち、イギリス貴族に、ドイツの諸侯と都市がそれである。イタリアにおいては、傭兵騎士の指導者として、傭兵隊長が出現したが、彼らは様々な国から来た外国人であり、しばしばドイツ人であった。このような現象は、国家の安定を目指す君主の、身分制確立の努力と、相反するものであった。
 そのような封建的な束縛が残存しているかぎりは、身分制的君主制組織の規則正しい機能など、考えることはできない。イギリスで初めてそれが実現したのは、貴族の軍事的封建的な勢力が、バラ戦争で戦い疲れ、消耗しきった後であった。ヘンリー7世と彼の後継者は、私設軍隊を厳しく禁じ、本当に消滅させてしまった。フランスでは1439年に、国王だけが軍隊を募集でき、そのために税を徴収することができる、という原則が打ち立てられた。これとともに、貴族たちに公に認められていた、私闘の権利は消滅し、原則上は国王の独占的な軍事的主権が確立された。スペインでもフェルナンドとイサベルが、神聖同盟を利用して、似たような方法により、君主による平和組織を形成、大貴族たちによる私設軍隊の保持を禁止した。ドイツでは、領主、騎士、都市の間の長い私闘の後で、1495年の永久私闘禁止令が、封建的無秩序に対し、少なくとも原則上は認められた。イタリアでは、まず外国勢力が侵入し、ある程度整った状態まで、支配の基礎を築き上げた。
 これは、封建的反抗を完全に克服するという点については、まだまだ不十分である。本当にそれが達成できたのは、イギリスの事例だけである。スペインでは16世紀になってもまだ、地方自治体の反乱が起こった。フランスでも、身分制的な組織化に向かう流れの中で、ユグノー戦争、さらに17世紀にさえフロンドの乱が起こっている。しかし、これら西方の三王国にあっては、15世紀のおわりまでに、不完全なものであったにせよ、国家の安定がもたらされており、ある程度強力な王権とそれに見合った身分制国家機構が成立していた。一方イタリアでは、部分的には、外国支配の下、君主専制国家が優勢であった。そしてドイツでは、宗教改革と三十年戦争の闘争を通じて、地方領主の皇帝に対する独立が定着してしまい、各地方が身分制的君主制を確立して、正式な国家を形成していった。
 15世紀のおわりは封建時代の終結と見なすことができる。ここからは、第三の軍国主義の時代に入る。その境界線とも言うべき時に、封建時代と軍国主義時代のどちらに含めることもできる、重要な制度が存在している。それはフランスのシャルル7世の勅令部隊である。軍事技術の観点から言えば、それはまだ完全に封建軍隊、すなわち普通の長槍で武装し、従者を従えた騎士軍である。だが、政治制度の見地から言うと少し新しい。国王の独占的な軍事的主権に基づく、ヨーロッパ初の常備軍であった。これはヨーロッパ大陸においては画期的な機構である。ブルゴーニュのシャルル豪胆公とオーストリアのマクシミリアンが、この後に続いていった。
 この新時代の出発点において、国家と戦争の技術を結びつけた、一人の大思想家を一瞥しておくことは有益であろう。すなわちマキャヴェリのことである。この国家学における復古主義者は、戦争組織や国家組織および、政治と戦争組織の関係についても、有益な見解を述べている。彼の政治的な理想はもちろんイタリアの国民的統一であったが、その際彼は、統一国家よりもむしろ連邦国家を想定していたようである。共和国はそれには適しておらず、君主のみがこの仕事を成し遂げることができ、それには並外れた労苦を要する、といったことは彼にとって明らかであった。ところで彼は戦争組織についてはあるスローガンを唱えている。外人傭兵はいらない、傭兵隊長はいらない!傭兵たちはイタリアを破滅させ、外国人支配へと成長してしまう。新たなイタリアは、彼の見解によれば、人民武装と一般兵役義務に基づくべきであるが、ただし常備軍の形ではなく───彼にとってはこれは経済的に不可能なものに見えた───、むしろ民兵の形で、戦時にのみ召集し、平時にあっては祝日や祭時にのみ武器の使用を訓練するのである。時々言われるように、マキャヴェリを近代的意味での一般兵役義務の予言者と考えることは、必ずしも行き過ぎではないと言えるだろう───ただし古代すなわちリウィウスの再現としての性格のほうが強いし、それどころか現実には、マキャヴェリを民兵制を掲げるフィレンツェ共和国の幹部とする仮説が、実証されたことも決してない───、けれどもそこには将来性に富む考えが含まれている。このことは、その後の発展の中で民兵思想の重要性を明らかにすれば、すぐに理解することができる。ところで、マキャヴェリが主張したものは、決して彼一人で考え出したものではない。それはすでに世界の他のところでは形を取っていた。彼は、フランスのシャルル7世が、自由弓兵という農民兵を用いて行った試みを、知っていた。これは、勅令部隊の補助で、騎兵の脇を固める歩兵であり、各地区が設置し装備を調えた。マキャヴェリが、フランス弓兵の手本となった、イギリスの事例についても知っていたかどうかは分からないが、イギリスの弓兵は14,15世紀の戦争において、初めのうち明らかに、騎士のみから成るフランス軍に対する、イギリス軍の優越を、もたらすことになったのである。だがこの機構は、1184年のヘンリー2世による、イングランドにおいて装備されるべき武器に関する法令、で頂点を迎えた、イギリスの古い民兵機構への逆戻りであった。ドイツの軍隊から農民が消えたのとほぼ同じ頃、イギリスでは自由な農民が、封建的義務とは別に、土地所有に基づき、市民兵による財産政治制度を彷彿とさせる階級として、国防のために組織化されていたのである。これは本質的には、ヘンリー2世によって築かれた自治制度の一部であった。自治と民兵とは一体を成しているのである。社会的背景としては、イギリスでは、農民の隷属を伴う封建的農業が、自由な所有に完全に取って代わることはなかったという事実、そして、封建的農業は14世紀半ば以来衰退しつつあったという事実、がある。そのために、イギリスでは民兵が保存され、力強く育ち、結果として、時には弓兵を、対外戦争に用いることもできたのである。これに対してフランスでは、体制が不適切であることが実証された。役に立つ兵士は全く供給されなかったし、農村の体制としては封建制が支配的だったので、農民に武器を持たせることは、危険だと考えられたのである。そのためルイ11世はこの農民兵を廃止してしまった。その代わり彼はスイス人を傭兵として雇った。彼らはフランス歩兵の中核となった。しかしなんといっても、軍国主義時代の出発点において、民兵思想の補完物と敵対物が同時に重要な意味を持って現れたことは、興味深いことである。
 実際には、大陸での軍国主義の発展を可能にした、戦争術および戦争組織の進歩は、大体において農民兵制度を基礎に出現している。スイス人は全ての民族の偉大な師となった。スイス人の、騎士軍に対する、すなわち14世紀のオーストリア軍と15世紀のブルゴーニュ軍に対する、軍事的成功の秘密は、彼らが戦術集団、すなわち、戦争目的に向けた統一計画と意志のもと、鼓舞され行使される大集団、を形成したことの中にあった。これによって初めて役に立つ歩兵が復活し、そしてこの歩兵軍は、騎士の個人戦闘に完全に優越していることを、示したのである。この優越は、火器に基づくのではなく───火器はこの頃のスイス人にとってはまだ決定的な役割を果たしていない───むしろ、結束による戦法に基づいていた。そしてこの結束は、スイス連邦国民の場合には、まだ訓練に由来しているというよりも、むしろ、絶え間ない戦争状態と、それ以上に、地方自治体制が生命力を有していたという、倫理的政治的要因に由来していた。そこでは隣人との共同体的連帯感情と、世間から認められた指導者の権威が結びついていた。すなわち、かつて古ゲルマンの楔形隊形に力を与えて戦闘集団に代えた、あの倫理の力のおかげであった。公共心と共同体的結束に基づく、このような軍事組織は、他にドイツにおいて、封建時代を通じて自由な農民の地方自治体制が残っていた地方で、登場することになった。とりわけディトマルシェンのことが思い起こされる。フス派の場合には、民族的、宗教的な熱狂が同様の役割を果たしている。
 スイス人の戦法は浸透していった。それは封建的戦争活動の終焉を用意し、騎士に代わって歩兵を、近代の戦争における決定的で中心的な要素とした。スイス人の戦法は全ての大陸国家に影響を与えた。そしてフランス人が、スイス人を傭兵に雇うことで満足している間に、スペイン人とドイツ人は、自らの人的資源を用いて、その戦争活動を手本どおりに作り上げていった。ドイツにおける模倣は、もっぱら活動的な手工業者から成る傭兵隊で、同業者組合や職人組合の伝統を、規律化に利用することができた。彼らの指導者はイタリアの傭兵隊長という手本に倣ったものであった。
 この傭兵軍は、16世紀ととりわけ17世紀の戦争を主導したが、その際既にオラニエ公マウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフのような偉大な組織者によって、組織的な訓練を受け、やがて17,18世紀の常備軍へとつながっていく。だが、16,17世紀の初期の傭兵軍は、全体的な性格はまだ国家機構ではなかった。それは臨時の活動や一時的な目的のためにのみ編成されたので、まだ国家や国家組織との間に、永続的で組織的な結びつきは、全く存在していない。オラニエ公マウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフの軍隊でさえ、決してその例外ではなかった。つまり新しい軍隊の萌芽は、国家組織の外に形成されたのである。身分制的な組織化された国家は、封建制の軍事的な無秩序と対立しつつ、15世紀末以降定着していたが、そこには、このような傭兵軍を受け入れる余地はなかった。この体制の精神は平和的で、繁栄と秩序に関心を集中しており、軍事的な権力には注意を向けていなかった。そのことはドイツの各地方でも、イギリスにおけるのと同様、見て取ることができる。フランスの16世紀における一般的な状況も、この精神をはっきりと示している。しかし大陸においては、平和で、繁栄と文化の追求に専心する社会という理想が、発達することはなかった。巨大な政治的対立がそれを許さなかった。まだ中世の古い帝国主義の理念が生き残っていたため、フランスとハプスブルクのあいだで、ヨーロッパの覇権をめぐる、ほぼ二世紀におよぶ闘争がすさまじく燃え上がり、その時以降ヨーロッパに持続的な平和が訪れることは全くなかった。そして17世紀の半ばにリシュリューとマザランのフランスが、皇帝とスペインに対して勝利をおさめたとき、今度はルイ14世の世界支配の動きを阻止することが、重要になったのである。このような絶え間ない大国間の緊張は、また宗教対立とも複雑に絡み合っていた。だが、この持続的な政治情勢の緊張は、新たに、各国家の独立や、全ての人々の繁栄および文化の基礎を、守り維持していくための、軍事的な努力を、絶えず強制することになった。一言で言えば、権力政治と勢力均衡が近代ヨーロッパの基礎を作ったのである。大陸における、君主専制体制や常備軍とともに、国際法に基づく国際秩序も成立した。イギリスは島国としての安全の中で、戦争の直接の危険から遠ざかっていられた。そこでは全く常備軍を必要としないか、あるいは大陸のような巨大なものまでは必要とせず、むしろ軍事的な目的に加えて商業的利益にも奉仕する、海軍のみが必要であった。その結果、そこには君主専制も全く育たなかったのである。君主専制と軍国主義は大陸と密接に結びついており、イギリスには民兵と自治が見られるのである。そして対外関係の相違の中に、17世紀半ば以降強まっていった、イギリスと大陸の間の、国家および軍隊組織の発展における差異の、原因がある。
 大陸国家では軍隊はまさに新たな中央集権国家の背骨となった。フランスではリシュリューが、王にスペインおよびオーストリアに対する優位を占めさせるため、地方の分立主義を血まみれの暴力によって弾圧し、そうすることでようやくかつてない君主専制の統一国家を創り上げたのである。この際ヴァイマール公ベルンハルトのドイツ人傭兵隊は、スペインとの戦争を戦い抜いて著しい拡張を見た、新フランス軍の基礎を形成した。全く同じ方法でブランデンブルク大選帝公は、彼の本国にクレーヴェと東プロイセン、そして他の全ての地方を、その王権の下に同君連合としてまとめ上げていった。貴族との常備軍の維持をめぐる争いに始まり、やがては全国を統合することになった。実際、18世紀のプロイセン国家は、まとまりのない支配領域よりも軍隊に基礎を置いていた。オーストリアとスペインも、たとえ成果は同じでないにしても、主要な点で同様の傾向を示している。至る所で傭兵制度が君主の軍隊制度に移行していった。隊長は個人企業家であることを止め、国家の役人となった。君主は隊長に代えて将校を任命した。君主は自身が最高指揮権の持ち主となった。君主を頂点とする階級組織が貫徹された。軍事監督官が、軍隊の維持と宿営、規則正しい給与支払い、そして戦場での食事につい
て手配した。大尉が行う独特の部隊経営の中だけには── フランスでもドイツでも───かつての軍事企業家の名残がまだ、18世紀を通じて、存在していた。大尉は中隊の補充と軍備について手配した。これについては、大尉は詳細な計画なしに、総量を定められており、とりわけ募兵に関しては、未だ私物同然に、意のままにすることができた。フランスにおいては将校位の売官が、君主制下の規律の厳格さをまた少し弛めてしまった。プロイセンではそのような話は存在しない。全体的には初期の傭兵軍と比べての変化の過程は全く明らかであった。そしてその結果は、軍隊が国有化されたことであった。しかし軍隊は国家組織の枠組みの外で形成されてきたので、国家の中で未だ独立的な地位を失わずにおり、独自に憲兵や裁判組織、教会組織を持って、民事の官庁からは完全に分離していた。軍隊はいわば国家の中の外国であった。それは君主の道具であって、国の道具ではなかった。確かにそれは対外的な権力政治の手段として働いた。だがそれは、同時に、国内的な君主権力の維持と拡大にも、奉仕しているのである。この巨大な君主の権力手段に対しては、国内において、いかなる反抗も不可能であった。軍隊の中には新しい国家思想が、すなわち中央集権君主専制大国家という思想が、はっきりと明らかに、具現されている。軍隊の維持こそは国家の財務行政機関の主な任務であった。そのためには税収拡大のとてつもない努力と、それにともなう独特の経済政策が、実施された。そこでは、現金の資金の増加とともに、商工業分野を中心にした、生産の人為的な刺激および促進が、目的とされていた。経済活動は、国家理性の目的に奉仕させねばならないので、放任しておくことはできなかった。このような観点からは、重商主義と結びついた商工業統制体制が生じてきた。権力政治と重商主義および軍国主義は、互いに密接に結びついているのである。君主専制の軍事国家は干渉的な警察国家へと発展するが、そこでは旗印である公共の福祉を、個々人が幸福に満たされるという意味ではなく、国家全体の維持および強化という意味に理解している。そして同時に、軍隊機構が、民事行政機構の領域へと、強く食い込んでいくことになる。このことは、大体において軍事主義の典型である、プロイセンにおいて、特にはっきりしたものになっている。全ての官庁組織は軍事目的に密接に関係し、そのために奉仕している。軍事監察官の地位から実際の国政組織が生じた。どの国務大臣も同時に国防大臣を名乗ったし、行政全般におけるどの委員も、どの租税委員も、同時に国防委員を名乗った。もと将校が郡長や、おそらくは、長官や大臣にもなる。行政委員は大半がかつての連隊兵舎長と軍法会議判事から集められる。下級の役職は、なるべく退役下士官や傷痍軍人に、割り当てられねばならない。
 こうして国家全体が軍事的な形態をとる。社会体制全体が軍国主義の機関の中に位置づけられている。貴族も、市民も、農民も、ただ各々の領域で国家に奉仕するためにのみ存在しており、彼らは皆、「プロイセン王のためにただ働きをする」ことを、強いられたのである。
 強い強制力や様々な強引な行為なくしては、この新しい状況が創り出されることはなかった。「古き良き時代」と古い正義、そして古い身分制国家組織の代表者にとって、それはおそらく上からの革命のように見えただろう。王室は初め至る所で、貴族たちのかなり強い抵抗と、戦わねばならなかった。ルイ14世の統治は、市民階級寄りの性格を強く持っていたし、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の統治期のプロイセンでも同様であった。だが貴族との闘争が、殲滅戦になることはなかった。闘争は妥協とともに終わった。そして18世紀には、至る所で、貴族が新たな君主制の支柱となるのを見ることができる。こうした君主専制国家と貴族の結合は、旧体制の全体において特徴的であった。これは一面では、貴族の社会的な特権と古い身分的社会秩序が無傷であったことに起因しているが、他方で、貴族が徐々に、常備軍の将校団を、構成し始めていたからでもある。この両側面は本質的な連関がある。封建制の残骸は意図的に蘇生させられ、将校団に倫理的支柱を与えるために、利用されることになった。言うなれば、失われた臣下としての感情が、倫理的要素の一つとして生まれ変わり、それによって近代の将校身分の精神が形成されたのである。プロイセンでは、所領に対する貴族の排他的所有が、計画的に保存され、そうすることで貴族は権勢を保ち、将校団の代用品を生み出すことになった。
 兵力の補充は原則的に自発的な応募の原理に従い続けた。フランスでもプロイセンでも、自国民のほか、まだ外国人が大勢雇い入れられた。だがそこでは古い民兵思想が消えたわけではなかった。フランスでは、フランソワ1世以来、再び常備軍のほかに、農民兵を国土防衛のために組織しようという試みが、行われてきた。そしてドイツでも、各地方ごとに「国土防衛機構」を樹立しようとする努力が出現したのを、16世紀のはじめ以来、見て取ることができる。ここでこのような民兵の組織が、身分制的な地域組織と結びついていることは、注目に値する。そのような身分制にもとずく郷土民兵の例は、17世紀においては、例えば東プロイセンのヴィブランツェンである。ハノーファーでは、17世紀と18世紀、君主の常備軍のほかに、身分制にもとずく民兵が存在した。だがルイ14世治下のフランスでは、民兵も完全に王のものとなった。1688年以来、フランス民兵の組織化はまずまずうまく成功していた。規則では民兵は国防用と定められ、特別の部隊をつくっていた。だが対外戦争の際に民兵は、野戦軍の補充にも使われたのである。プロイセンでもこの頃から、とくにスペイン継承戦争において、君主のための民兵を設置する試みが出現したのを、見ることができる。ここで特徴的なのは、王領地の役所から送られる農民だけが、問題にされていることである。この際思い切って貴族の臣民を動員することは、まだ行われていない。オーストリア各地で慣例になっていたような、身分制を通じて行う、本当の意味での新兵補充を、プロイセンに見つけることはできない。だがおそらくは、ここでも、ほとんどの場合、身分制的な地方の役所に、一定量の人員の徴兵を負担させることが、慣習になっていた。ただしこれは、金銭支払いに代えることができた。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世治下で、軍隊が著しく増強されたので、これら全てを取り止めることになった。民兵は廃止され、その名称さえ禁じられた。王はその強力な常備軍のみを保有することを望んだ。しかし自発的な応募ではそれには不十分であった。次いで、強制募集がためしに用いられた。そしてこれが国内にひどい反感を引き起こし、領主たちの一部に抵抗の気運が巻き起こって、若年人口が国外逃亡に走ったとき、王は公式には強制募集を禁じたけれど、大尉たちが騒動や暴動を引き起こすことなく、領主たちから人員を調達しているかぎりにおいて、何の措置も講じなかったのである。もはや、貴族である領主たちと、同じ階級出身の大尉たちとの、利害の一致は明らかであった。確かに募集を行うのは、王自身ではなく大尉たちであったが。だが大尉たちは、できるだけ多くの国内居住者を雇い入れることに関心を持っていた。国内居住者は、外国人と比べて逃亡が少なく金のかからない、良質の信頼できる兵士だったからである。そのうえ、この兵力は訓練が済めば、一年のうち一定期間は休暇を与えることができ、そうすれば大尉たちは給与を節約することになり、領主たちは収穫期の労働力を欠かずにすんだのである。当然領主は、自身が将校であるか、あるいは親類関係や親しい関係にある将校に、若干の人員の与えるよう望んだ場合には、かつて王が民兵にするために領民を扱ったのと同じように、住民を意のままに利用することができた。ところでこの募兵制度には民兵の性質も少し現れており、訓練済みの人員は、たいていは大規模訓練の間の二ヶ月間しか、軍務には服さなかった。残りの期間、彼らは故郷で休暇を与えられたのである。こうしてはっきりした法律上の定め無しに、慣例的に、国内における強制徴兵が行われることになった。そして王は1737年に、各連隊と各中隊に、カントンと呼ばれる決まった募兵地域を割り当てることで、この慣習を是認したのである。
 つまりこのプロイセンのカントン制度は、ある意味で、募兵による軍隊と民兵が相互に影響し合った結果であり、確かに一面では、君主の常備軍の規律を基礎としていたものの、他面では、身分制に基づいて兵員を組織していたのである。貴族が士官と成ることで軍事奉仕義務を果たしたように、農家の息子たちはもっぱら兵士の補充として奉仕したのである。貴族と農民の間に存在する古くからの上下感情、命令と服従の習慣、そして地主貴族の指導に対する信頼を支え続けてきた、首長制的な要素───こういったものの全てが、プロイセンの他国に優る軍事的規律の、強固な基盤となったのだろう。もちろん殴打は、訓練においても野戦行動においても重要であった。しかし鞭打ち刑のような、その他の重要な厳しくむごい懲罰は、召集兵よりも外国人の無頼の徒のためのものであり、傭兵軍の慣習にその起源があった。
 カントン制度は一般兵役義務の前身と呼ばれるが、これは誤りとは言えない。もしこの制度によって下層階級の住民が軍事的に教育され、軍務に慣れていなかったら、プロイセンが一般兵役義務の原則を実施する際に、素早く成功を収めることは、まず無かっただろう。けれどもカントン制度の精神は、一般兵役義務の精神とは別物である。カントン制度は、君主専制の旧体制によって維持される、身分制社会秩序の上に、特権階級と非特権階級の区別の上に、成り立っていたのである。これに対して一般兵役義務は、完全に平等な国民の権利という理念の上に、成り立っていた。
 この理念の変化は、明らかに政治組織と軍事組織の関係の変化を意味しており、これとともに軍国主義の時代は、現在を含む第三の時期に入ることになる。
 ここで生じた全般的な変革の決定的なきっかけは、フランス革命から生じた。革命戦争の中でフランスは、単一の国家意識を持つ国民国家としてつなぎ合わされた。フランス革命軍は、旧体制下の軍隊とは全く異なるものとなった。ここでは民衆は、愛国的な熱狂と民主的な自由思想に駆られて武器を取り、君主専制国家の古い傭兵軍に立ち向かった。卓越した指揮官なら、そこから優れた軍隊を創ることが可能であり、事実、天才指揮官ナポレオンは、変革された国家と社会の組織の上で、この新しい材料を用いて、将来性に富む新戦略と新戦法を創造した。これまでの戦争では、食糧倉庫から補給を受けねばならないため、慎重で緩慢な動きしかできず、敵の殲滅よりも消耗を追求することになったし、軍勢をまとめ上げるための規律は横隊戦法の硬直を引き起こすことになった───兵士の抜きがたい悪癖である逃亡を恐れていたるところでこのような戦争が行われていた───この結果は決戦よりも術策を重んじる戦争指導であるが、これは今や激しく大胆な新戦略と新戦法への変革を迎えた。大軍がほとんど大陸じゅうを予想外の速さで駆け回り、食糧倉庫からの補給は徴発に、横隊戦法は縦隊突撃と散開戦闘に、取って代わられた。軍の士気を信頼することができたので、敵兵力を探し求めて殲滅するという目標に専念することが可能であった。このような新しい戦争指導によって、ナポレオンは古いヨーロッパの国々を打ちのめし、諸国にとっては、この軍事組織を成り立たせる精神、すなわち、自由意志と愛国心と国防への自発的関心から成る精神を、軍事的市民社会的な国民国家の公共精神を、体得することが急務となった。この意味で軍事組織の変革の必要性は、各地の有力な民族の間に、それ相応の国家組織の変革をもたらしたのである。
 しかしフランスは、変革された公共精神にもとずく新たな国防組織を用いて、ナポレオンの下、大成功を収めたものの、この国防組織に完全な形を与えることはできなかった。そこでは国家と社会の新しい原則を、完全な形で適用することはできなかった。有産階級に対する配慮から、徴兵制には代理が認められたままであった。一般兵役義務の思想は、完璧に実施されてはいなかったのである。むしろプロイセンにおいて、その最初の完成が見られた。古い君主専制軍国主義の典型であった国が、近代的な一般兵役義務の理念をも、最も早く純粋な形で実現し、それによって全ての近代軍隊の模範となったのである。この前提条件は、農民解放と身分的特権の廃止であり、その結果は自由な国家組織へと向かう、とどまるところを知らない流れであった。
 まず国家と社会における軍隊の地位が、全く変わることになった。軍隊から外国人が消える。兵士身分は、終身の職業身分であることをやめ、全ての兵役に服することのできる国民にとって、普通に通り過ぎる、人生の一期間となった。戦士と市民、生産階級と武装階級の区別は捨てられた。言うなれば、これは高次の文化段階において、全男子が戦士であった原始状態へと回帰したのである。封建時代において支配階級と被支配階級を創り出すことになった、強い影響力のある分業体制は、廃止あるいは修正された。近代国家においては個人は兵士として市民として、二重の意味で教育される。これらの制度は全て国家についての新たな認識に起因しており、その核心となる思想は、民衆の中に政治的な民族意識が目覚めている、国家の機能は支配者に関する問題よりもむしろ被支配者に関する問題の中にある、国家は共同体であり全ての個人から成る団体と理解される、といった考えである。これもまた太古の共同体国家思想への回帰であるが、しかし、この思想はまだ、プロイセンの強固な構造の支配組織との間に、不安定な対立状態を生じていた。
 このような国家思想の分裂は、初期に行われた正規軍と郷土兵との区別の中に、正確に表現されているのを、見ることができる。正規軍は、君主主義的な組織と規律によって、かつての常備軍の伝統を維持している。郷土軍はそれよりも民兵思想や人民武装の観念と結びついている。シャルンホルストとボイエンは、郷土軍に正規軍とは異なる、特別の精神を吹き込もうとしており、この試みは解放戦争の折の愛国者たちの中に、熱烈な賛同を見出すことになった。郷土軍は特別に編成され、上は大尉の位まで、職業軍人でなく郷土軍士官が指揮を執り、各部隊は民事行政区に一体化する形で配置され、民事行政に貫徹する自治の精神を吸収することになる、とされた。
 どの程度までこのような傾向が進んでいたかは、1813年にE.M.アルントが公刊した、ドイツの郷土軍に関する要覧が、非常にはっきりと示している。そこでは盲目的な絶対服従の精神は、郷土軍から消えている。軍事的規律よりも国民国家思想が優先されている。そして、郷土軍は重大な国民的利益のためにだけ戦うとされている。これは1808年の反乱以来スペイン軍の中に見られる精神に、よく似た精神であり、たとえ王がいなくとも、解放戦争をやり遂げたであろう。このような精神は、いかがわしい政治的な軍隊へと容易に堕落するものであり、実際スペインでは、政治的党派が生じて、その宣言ともつれ合いが、国土にとって災厄を成した。だがプロイセンではそうはならなかった。軍事国家という、君主制の本質を成す性質が、非常に強かったためである。1819年以降郷土軍はますます正規軍に従属するようになって行き、1860年の軍制改革で、とうとう、その本来の形は完全に失われてしまう。つまり一般兵役義務は民兵思想を受け継いだのではなく、むしろ常備軍制度を受け継いで最終的に完成させたものなのである。近代の軍国主義は、旧来の軍国主義の特徴を引き継いで、形成されたのである。
 プロイセン国制史の明らかな方向転換が、このような現象と、どういう関係にあるのか、観察するのは非常に興味深い。ある意味、一般兵役義務の制度は代議制の理念と本質的に結びついていると言える。というのも、代議制、すなわち代表者を通じて行う民衆の国政参加は、一般兵役義務を生み出した政治精神の変革の、必然的な帰結なのである。一般兵役義務を政策に取り入れた政治家は、同時に自治と代議制にも関心を持っていた。もちろん一般兵役義務の導入に、すぐさまこの計画の実現が伴ったわけではないけれど、それでも代議制は、新しい政治軍事制度を完成するためには、不可欠であった。
ところでプロイセンでは代議制は───その急進的な志向に反して───国王と軍の関係を手つかずのまま放っておいた。軍隊は依然として、国家組織ではなく、国王にのみ忠誠を誓っていた。これは国王が、国制において優位を占めるための、現実の権力を持っていたということであり、そこにはイギリスで形成されたような、議会政治の理論が並存できるはずもなかったのである。そのうえ軍隊を増強するとともに、その君主制的性格を強化した、1860年の軍制改革に関連して、あの憲法闘争が発生した。そこでの中心的な問題は、王と議会のどちらが軍隊を統制するのかと、軍事力の量は予算審議権により毎年検討されるのかどうかであった。
 議会の権利の代表例としてはイギリスを指摘することができる。そこでは1688年の革命以降、それより少し古い小規模な常備軍は、もちろん、その法的根拠を毎年の議会の承認の中に有している。維持管理の費用のみならず、指揮権や軍事的な懲戒権および裁判権も、毎年の議会の決定に基づいており、ことあるごとに、議会の承認なき常備軍は違法であると、はっきり強調されていた。原則的に国家の武力は民兵と海軍であった。これらはたいして問題とならずに法的根拠を得たが、その理由は、これらが国内における自由にとって危険とはならない、ということであった。民兵は、公の秩序と平穏を維持する目的で、有産階級が武装したものに過ぎない。だが海軍のほうは、国民的な支持を受けた組織であり、イギリスの通商政策と海洋政策の道具として、名誉と成功に包まれていた。海軍こそが、本来の国防力であり、君主専制や軍国主義を連想させるような要素を持たず、専制的な君主が議会制転覆に利用するかもしれないという疑念から、無縁でいられたのである。
 つまりイギリスにおいては、この国の特別な立場と歴史に由来して、常備軍は例外的な存在であった。これに対してプロイセンのような大陸国家は、武力を、一定することのない議会の多数派の決定によって、左右されるわけにはいかなかった。政府は1862年から1866年にかけての憲法闘争を、このような信念に基づいて戦い抜き、その結果プロイセンでは、イギリスのような議会政治の原則が成立することは、無かったのである。プロイセンの軍隊組織は、相変わらず君主の手に委ねられており、その構造は、立憲君主制という、本来の議会制と対置される制度に、相応するものであった。この制度は確かに他のドイツ諸国でも形成されていたが、帝国における同様の制度に溶け込んでいくことになった。
 1860年の軍制改革によって、最終的に軍隊組織は、国王権力の優越という国制の原則と調和させられることになった。資産家階級と知識人階級に属する兵役義務者を優遇して、一年間の自発的奉仕活動を行わせるという、国内の社会構造と高級職業教育に配慮した制度が、相変わらず続けられているが、これは軍事組織そのものに由来しているのではない。だが学校制度は、一年間の奉仕活動の権利を証明しようとする輩から、嘆かわしい影響を受けており、このことは、国民教育と軍事機構がどれほど密接に結びついていたかを示している。教育制度と軍事教育の観点から、しばしばこの制度の廃止さえ求められているが、これまでのところそれは成功していない。フランスは1872年にドイツに倣って一般兵役義務を受け入れたが、これに関してはドイツ以上に徹底しており、軍事奉仕と市民権は完全に平等とされている。
 ドイツでは、たとえ貴族のかつての特権が除去されており、しかも教育と富による貴族が、血統による貴族に取って代わったのだとしても、将校階級の中に貴族制原理が、フランスでは見られないほど強力に、保存されている。そして高級官吏と下級官吏が区別されるのと同様に、将校階級と下士官階級との間は、いくつかの原理上の例外はあるものの、はっきり分断されていた。ちなみに現在ですらまだ、下士官は一般市民から供給されており、これによって下級官吏身分はその特徴を保っている。軍国主義は、今日においては、国家制度と国民生活の全般を、かつての何倍もの権威を持って、貫いている。原理的に、軍国主義にかかわる全てのものに反対している社会民主主義でさえ、規律という点で軍国主義の影響を受けている。そしてこれに加えてその政党組織までが、大部分、軍国主義に原型があるのである。それどころか、社会民主主義の掲げる理想の未来ですら、無意識のうちに、共同体による個人の抑圧という、プロイセン軍事国家に由来する要素を、取り入れているのである。
 しばしば一般兵役義務と普通選挙権の本質的な関連が、一方が他方の代償として登場するという意味で、語られている。歴史的に見てこの見解は、ほとんど根拠がないけれど、何の価値もないわけではない。歴史において再三にわたって、公的義務の履行がついには公的権利の獲得につながるという現象を、見ることができる。国家のために命をかけた者には、道理と公正の点から言っても、有効な市民権が認められるべきである。だからといって普通、直接、無記名選挙権は、容易には実現されないであろう。
 疑いもなく民主主義の重要な要素が、一般兵役義務の中にある。ただしそれは、ハルデンベルクが、1807年の重要な改革意見書で「君主支配の下での民主制」を勧めた際に、考えていたような、意味においてである。近代軍国主義には君主制の要素がまとわりついており、それは国家組織から消えることはなかった。フランス共和国はまだ、国家組織と軍隊組織の完全な調和を、全然実現できていない。軍国主義と共和制が仲良く相容れることなどない。軍隊の存在は常に共和制を脅かし続けている。それはもちろん軍隊が君主的な長を求めているからであり、共和制における大統領は、そのような立場にある文民の例である。他方で急進政党内の反軍国主義の風潮は抑えることはできない。だが国家の中央集権行政と、近代自治制度から再三にわたって打撃を受けながらも、完成を迎えた官僚主義は、当然軍国主義と一体化していた。共和制は若く、フランス国民とその歴史は古い。そのため国際情勢の圧力のみならず、歴史的な慣習と、粘り強い伝統までが、軍国主義を堅守することになるだろう。
 フランスにおける君主不在のように、オーストリア・ハンガリーでは国家統一の弱さが、国家組織と軍隊組織の対立の契機となるだろう。近代軍は君主制統一国家のために創り出された。ハプスブルク家の君主制において、真の国家統一が達成できなかったので、この軍隊はもはや、国家ではなく君主に帰属するという古い方法によって、長く持ちこたえることはできないだろう。憲法と一般兵役義務の時代に入って以来、軍隊と国家における民族的な分離傾向は、ますます強まってきており、今やこの軍隊は、軍隊用語としてのドイツ語と軍隊の統一性を守り抜くことができるのか、疑問を感じている。それでなくとも既にハンガリーには、常備軍のほか、ハンガリー国防軍が存在する。これは皇帝の常備軍とは別のハンガリーの地方民兵であり、創設者の意図によれば、イギリスの正規軍に対する民兵、プロイセンの正規軍に対するかつての郷土軍のようなものであるが、もはやかなり強い独立状態にある。
 ロシアでも、国内体制があまり調和のとれた状態にないにもかかわらず、一般兵役義務導入の、軍事的政治的必要性から逃れることはできなかった。この国では政治的な民族意識の目覚めの時を感じたのではなく、ヨーロッパ諸国軍の力関係を考慮した結果、専制君主の強権的な命令が、このような制度を創設したのである(1874年)。だがともかくも、農民の農奴身分からの解放が行われた後のことであったので、ここでもまたこの制度は、最近の事件が示すように、立憲国家の創設に向けて、必然的に力強く進んでいる。ロシアにおける、これら一連の現象は、プロイセンの事例とある程度の類似を示している。まず農民解放、次いで一般兵役義務、そして最後に代議制というわけである。
 プロイセンおよびドイツの武力の成功の結果、大陸各地の大国にとって、一般兵役義務導入は、政治的に必要性を帯びるようになっていった。だがイギリスではこの必要性を免れることができた。イギリスは1871年に、鞭打ち刑の廃止および将校位の売官の廃止を通じて、軍組織を近代化することで、満足してしまった。そしてイギリスは現在に至るまで一般兵役義務への移行をせずにいる。これはごく当然のことだと思われる。なぜならイギリス軍は、主に植民地における戦争に送られたのだから。植民地における戦争では、一般兵役義務による軍隊が編成されることなど、無かったのである。ドイツですら西南アフリカには志願兵のみを送っているし、さらには、自発的な志願に基づく植民地軍がドイツにも必要である、との声が大きくなっている。ここにもまた、軍隊組織の構造に対する、国家形態とその中で与えられる任務の影響を、見ることができる。イギリスのような植民地帝国は、大陸の軍事国家とは異なる軍隊を、必要としている。もちろん大陸国家も、ますます植民地国家化しているので、将来、軍事組織の分野でも、政治活動について既に行われたのと同様に、イギリスの制度と大陸の制度が、互いに接近して均質化していく可能性はある。そうすればイギリスには軍国主義の精神が流れ込むことになり、他方、大陸国家は、軍隊組織を民兵と海軍に向けて、方向転換することになるだろう。平時の現役期間の短縮は、すでに民兵思想への接近が始まっているのだと言えるし、海軍の増強とその重要性の高まりが、軍事組織と公共活動の精神全体を、ついには変質させてしまうであろうことは、すでに今日予感されている。
 もちろん現在ではまだ、軍と民兵は相反する存在として対立している。その最もわかりやすい例としてはスイスの民兵制があり、そこではイギリスやアメリカと同じく、常備軍は維持されていない。スイス人は確かに大陸諸国の常備軍の手本となったが、スイス人自身は決して常備軍への移行を果たさなかった。その理由は財政能力の不足にあるのではない───民兵はスイスにおいては、ドイツにおける常備軍と同じくらい重い負担である───、むしろその理由は主に、軍国主義と調和しない、国制の精神のうちにある。軍国主義に特有の君主専制的傾向は、この国の共同体的な連邦制には、初めから全く欠けていた。国家組織と軍事組織が依存し合っている姿が、これほどはっきりと見られる所は他にない。もっともこれでは重大な要因を見落とすことになる。スイスは国際法上中立化されていた。しかも国土の性状は、スイスに、まるで巨大な城塞の中にいるような、防衛力をもたらした。スイスは、島国のイギリスや北アメリカの合衆国のように、例外的な地位を占めることになった。このような事情が、国制の共同体的性格とともに作用して、ここに挙げた三つの国を、スペンサーの言う産業型の、代表例としたのである。
 もっともイギリスとアメリカについて言えば、最近十年の海軍力の著しい増大のために、このような特性は、既に相当弱まっており、ますます薄れていくだろう。すでに軍国主義に加えて、海軍主義が語られることがあり、このような現象はさらに一層意味を増すに違いない。けれども、海軍を重視する軍組織は、大陸の軍事組織と異なる独特のやり方で、公共活動の精神、あるいは国家組織にまで影響を及ぼすであろうし、そしてこのことは当然の成り行きであり、はっきり知覚できるのである。陸軍の組織は国家そのものを規定して軍事的に構成してしまう。海軍は、国外に繰り出すための、武力である。海軍は何らかの「内憂」に対して使われるには、適していない。陸軍は昔から、多少なりと、地主階級とつながりを持っている。陸軍はまだ、内部に封建制の伝統を、抱え込んでいるのである。海軍には封建的要素は全く欠けている。海軍は交易と産業の利益のために、卓越した働きをする。海軍は、技術と経済力がその発展に重要な意味を持っているので、社会における近代的勢力と深く結びついている。陸軍が保守的な思潮に支えられているように、海軍は進歩的な思潮に支えられている。なお、今日では、海軍の建造は、世界政治への参加、すなわち、近代の世界的な交通によって地表の全てを覆うに至った勢力圏を動かすための、強大国による政治への参加を、意味している。その結果、個々の国家の独自性は弱められ、軍事的政治的な制度について、全体の均質化と相互の接近が始まるであろう。陸軍国と海軍国の差異や、自治を行う民族と、上から支配される民族との差異は、弱まりあまり目立たなくなるだろう。そしてその際にはおそらく、軍事型と産業型という社会類型も純化していくのではなく、むしろ、ゆっくりと混合し、均質化されることになろう。けれどもまだ世界は永久平和を実現するほど成熟してはおらず、最近の出来事もこのことをはっきり示している。つまり、見通しのきく将来においては、これまで諸民族が繰り広げてきた歴史と似たような状況が続き、国家組織の形態および精神は、社会的経済的な情勢と利害対立によるのではなく、むしろ防衛と攻撃の必要性、すなわち戦争組織と軍事組織によって規定されていくだろう。私見によれば、これこそ、現在までの歴史的な考察から引き出される、真理である。






おわりに
オットー・ヒンツェについて
 ドイツの歴史家。1861年、プロイセン王国ポンメルンの小都市ピュリッツに、中級官吏の息子として生まれる。1878年からグライフス大学、1880年からベルリン大学において言語学、哲学、歴史学を専攻。1884年に学位、1895年に教授資格を獲得、ベルリン大学哲学部私講師となった。1899年ベルリン大学員外教授。1902年ベルリン大学における法制史・経済史・行政史・政治学の正教授職が新設されると、この教授職に就任。生涯を通じてベルリンに留まることになる。1914年にプロイセン王立アカデミーの会員に推挙される。眼疾の悪化により1920年以降ベルリン大学の講壇から身を引くが、その後も研究は続ける。1933年の第三帝国成立後は研究成果の公表をしていない。1938年、夫人がユダヤ人であるため、プロイセン王立アカデミーの会員資格を剥奪される。1940年78歳で死亡。
 近代国家の形成について研究。個性的・具体的な行動の考察に重点を置く、伝統的な歴史学と、社会構造の抽象的・理論的な分析を行う社会学を、統合することに、戦間期の学者としては、唯一成功を収める。国内政治と国際政治の相互関係の中で、国家形成を両面的に考察するところに、その研究の特色がある。


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