2001年12月14日
本居宣長  NF


はじめに
 元来僕は日本史の転換点とも言うべき南北朝時代や文化史を専門にやって来たが、それにつれて「日本人とは何か」について考えずには居られなくなった。そこで日本独自の「道」を求めた本居宣長について調べようと思う。これは研究発表というよりも僕自身の日本古来の「道」への信仰告白と言えるかもしれない。それにしても畑違いの思想史関係…。大丈夫なのかねぇ。このレジュメは分かり易さを最優先にしているのでひょっとすると不正確な所も多いかもしれぬ。しかしそれを恐れると分かりにくい、普通人に理解できぬ代物に終わってしまうのではないか。それよりも、寧ろ少々間違っていても宣長を理解するための補助階段のような役目が出来るものを書きたいと思っている。このレジュメは早い話が小林秀雄の著作を要約した物なので、詳しく正確に知りたいと思う人はその本に当って欲しい。思えば、古人の心を理解する手引として宣長の仕事は存在した。それが一般に理解しがたくなったので手引として小林秀雄の著作が現れた。しかし近代「教養人」の時代が終わった現在この大著も古典化している事を思うと、僕が手引としてこのレジュメをものすのも強ち無駄ではないのかもしれない。
青少年時代
 宣長は享保15年(1730)5月7日、伊勢松阪の綿商人小津定利の子として生まれ富之助と名付けられた。小津家は先祖を辿ると蒲生家に仕えた武士本居氏であり、それが松阪に定住したものだという。父は早くに亡くなったため家業は兄定治が継いだが支える事が出来なかった。富之助は紙商の家に養子に出されたが、元来読書好きで商売に向いていない事もあり21歳で破談となり実家に戻される。母は商人以外の道で生計を立てる様に医師になるように勧めた。栄貞(富之助)はそれに従い、宝暦二年(1752)に京へ上り堀景山に儒学を、武川幸順に医学を学んだのである。この時、医師として先祖の名字である本居を名乗った。三年後には名を宣長と改め春庵を号し、帰京して小児科医を開業。宣長にとって医師は家計を支え食うための手段であった。勿論だからと言って医業を疎かに扱っていたわけではない。患者・経営の記録を克明に残し死の少し前まで診察を行っていた。国学講義中に診察のため中座する事もしばしばだったと伝えられる。
民間学問の状況
 中世において学問は特定家系の占有物であった。南北朝以降、そうした家系の属する朝廷は力を失うが、それに代わる学問が充分には力を持つ事が出来ず、依然として旧来の学者が「教養」として王朝文化に注釈をつけたり伝授する形が多かった。17世紀に入り国内に秩序が回復すると、まず力を持ったのが南北朝期以来禅寺内で盛んになりつつあった朱子学であった。林羅山が廃仏思想の持主でありながら剃髪して僧として登用され体制に組込まれる官学の道を選んだ一方で、体制から距離を置いて民間で学問を行うものもあった。中江藤樹である。学問は藤樹にとって、俗生活中の自己から始めるべき物であった。本を丸暗記するのでなく注釈に終始するのでもなく飽くまで人間中心であり、結局は自分で悟る事に尽きると考えた。己の心以外何にも依らず、無私で古典に対する心を新たにする事によって、古典の真に言わんとしている事が感知できるというものである。一例として「論語」の「郷党篇」で孔子の振舞からその真意を探ろうとしたと言う話がある。これを受継いだのが伊藤仁斎である。仁斎は論語・孟子を同様にして読取った結果、大学・中庸が真に孔子の作になるものかという疑いを抱くようになる。古典に対し心を開き、字義にこだわらず書に含まれているが文字に表されていない物を読みぬく事を重視した。また異なる意見に対し心を閉じない事を唱えた。そうした結果、仁斎は「論語」が「最上至極宇宙第一番」の書物であると確信するに至った。周囲の人々は今更言うまでもない事と当惑したが、実は定評にこだわらず自ら当って吟味しその一字も無駄のない事を感じた仁斎にして初めて発する事の出来る言葉であった。また荻生徂徠は、六経を研究し、書は自己と一対一で相対せねばならぬ「個」でありじっと眺める事により内面を動員して理解するべきと考えていた。「論語」子路篇から、聖人の典則を述べた「書」だけでなく日常生活から生まれた「詩」を体得することで必要な言語表現を身に付けることができると読取った。その言語表現で新しい意味を生出し物の姿を心に映し出す事が出来るようになるというのである。言語はそうした経験を共同体の人々が共通した基盤の下に蓄積した物であると考えた。そうした言語においては空間的のみならず時間的な隔たりも大きな意味を持つので、古語は現代語から見て外国語と同じく別物であるという事を意識する必要があると主張した。そのため、時代を通じて変わらない「道」を体得するには時に応じ変化する歴史を押える必要があると考えたのである。それを宋学は古典の古語を現代語で捉えようとして「道」即ち理という不自然なものになったのであり、彼等のように論理のみを追求するなら天地自然こそが道という老子の境地に行き付くしかない。言葉と関わる人為の否定である。しかし孔子の言う通り人間世界に生きる以上人為の中に真実を見付けない訳にいかないと徂徠は言う。言葉というのは内面の感動を意識化し外に表す為のものであり、本当の学問とは言葉を理解する為に対象に合一・共感するものであると唱えたのである。こうした傾向は儒学に留まらない。契沖は万葉集を研究するにあたり、古語は当時の人々の心と切り離せないので書のありのままの姿を見なければ話にならないと考えた。自己との全的な交わりが必要なので年月をかけなくてならないと唱える。実際、彼自身歌を理解するには歌を詠む事で歌人の内面を知ろうとした。以上の様に当時の民間学者は、書はその細かい字義の注釈をしても理解できるものではなく、寧ろ何度も眺める事でその内面を貫くものを読取る事で初めて理解できるという立場において共通していたといえる。そうする事で日本人が如何に生きるかという「道」を探ろうとしていたのでなかろうか。徂徠の弟子太宰春台が「仁義礼智孝悌にあたる和語がない」つまり「道」を表すための抽象的な言葉が日本に存在しない事を指摘している。これは紛れもない事実であり、儒学も外国からの借り物でも何とか己の「道」を表そうとしていた事では国学と異ならないと思われる。日本の場合外国を知る事で初めて自国に眼をやる事ができる傾向が強い。宣長にしても景山に儒学を学び徂徠・春台の書物に触れる事で初めて日本固有の「道」を意識する事ができたのではないか。ともあれ、宣長もこうした学問の系譜上にある事は言うまでもない。特に京遊学中に契沖の書に触れ大きな影響を受けたといわれる。
源氏物語研究
 京で儒学を学んでいた頃既に、宣長は後年の思想の基となる考えを既に抱いていた様である。後に養子大平が宣長の学問系譜を「西山公、屈景山、契沖、真淵、紫式部、定家、頓阿、孔子、ソライ(筆者注;荻生徂徠)、タサイ(筆者注;太宰春台)、東カイ(筆者注;伊藤東涯)、垂下(筆者注;山崎闇斎)」と述べている。つまりは興味の赴くまま幅広く知識を得たのであろう。そしてこの頃から歌を読む事を好んでいたのであるが、これを咎めた学友に対し自分は楽しむために学問をやっている、儒学も仏説もそのために学んでいるのであり歌もその一つに過ぎない、儒学のみに執着するそちらこそ学びたいという自然な欲求に反していないか、と返している。また、儒学について次のように述べた:「儒学は天下を治め民を安んじるための学問である、政治を受持つ訳でない我々が学んだとて何の益があろう。また孔子の言う『先王の道』はこれまで実際に行われた事の皆無な道であり、その様な道が今実施されるのを望んでも無理な話だ。『先王の道』は孔子が社会を背負うエリートとして背負わざるを得なくなった物であり、人間を人間であらしめている物はもっと他にあるはずではないか。孔子が弟子曾皙の『川浴びをし、風に吹かれ歌いながら帰りたい』という望みに共感したように、人間としての自然な情こそ人間たる所以ではないのか。」また、医師として松阪に帰る途中奈良に立ち寄った際、史跡に立ち寄れない事を残念に思い一方でこの辺りの方言の語源に興味を抱いている。宣長が帰郷してすぐ源氏物語の研究に入ったのはこうした状況から自然なことであったろう。
 さて、ここでそれまでの源氏研究のあらましを述べておこう。中世王朝時代において、知識人達は「源氏」を慰み物として蔑みつつもその魅力に捉えられていた。綺語で乱脈なことを語ったため紫式部は死後地獄に落ちたという「源氏供養」の伝説が生まれたのはそうした背景による。そうした中で歌人藤原俊成がその高度な文体に目を留め歌を作る際の手本と唱えた。王朝が衰えると、「源氏」も「伝授」の対象となり故実として注釈が付けられるようになる(ただし、部分的解説に留まり本質を突いた意見は現れにくかったようだが)。そして契沖は内容が道徳から離れていることを指摘し源氏の教訓的価値を否定。「可翫詞花言葉」、つまりその中の歌を楽しめばよいと述べた。本質的に源氏物語が娯楽であったことが再び注目されたのである。次に宣長の師・賀茂真淵は万葉の様な雄々しい「ますらおぶり」がない文化のなれの果てと断じ、巧で人情を良く語っているが弱々しいと評価した。万葉研究に掛りたい所を田安宗武の命で渋々好みとは遠い源氏研究に当ったためこうした考えになるのもやむを得なかった。そして上田秋成が光源氏は嫌な奴だと見て、物語に対しては日本人本来の心は儒教・仏教を学ばなかった人にこそ残っているとするが弱々しく暇潰しにしかならず歌を楽しめば足りると述べている。つまり当時の学者達も距離を置いて物語を評論しているのである。さて宣長は、早い段階から「源氏」を読込んでいた。そしてその物語世界に入り込むことで、源氏物語の本質は「もののあはれ」を知る事にあると言う結論に達したのである。余談ながら「もののあはれ」は決して宣長の造語ではなく古今集以来使われてきた言葉である。ただし宣長ほどこの言葉を重視し深い意味を込めた者はいなかったが。さて宣長はその成果を「紫文要領」に纏める。そこで宣長は人の真の情は未練で愚かな物であり、雄々しくきっとして勇ましいのはうわべを取り繕った物ではないかと考えた。情と混同される欲は飽くまで実生活での必要・目的を追うものであって別物であることにも注意を促している。「あはれ」とはそうした情が何かに触れて喜怒哀楽の区別なく強く動かされることで、物語はこの「あはれ」を知っているか否か、即ち人の情をどれだけ理解して描けているかにより評価さるべき物であり儒教・仏教による善悪の基準で計るべきではないと述べる。そして「源氏」はただの娯楽に留まらず自己満足な告白・感想に持たれかからず「あはれ」の世界で自足していると評価。「蛍の巻」での源氏と玉鬘の物語論を引用して、物語は空言が多い俗文だが一般で言う「事実」とは別の「真実」を含んでいるので素直な心で近づくべきだという結論に達した。この「真実」は即ち「あはれ」を知ることに他ならないであろう。物語は論じられるより寧ろ生きた感受性によって迎えられて意であろうと感じた所に宣長の特性がある。例えば源氏と六条御息所の関係の馴初めを記した部分がないのを利用しそれを扱った「手枕」を書いた。ただし宣長はこれを式部の筆運びを感知しその「あはれ」を感じ取るために行ったのであってこの物語の欠けた部分を補うと言った不遜な目的を持っていた訳ではない。とすればこれは同人小説と同様のものと言うべきであろう。こうした物語の構造を見抜き技を盗みその中に潜む「あはれ」の細かな所まで全て感知しようという究極の読者精神に支えられて、手におえぬ微妙な人の心を己の物として言葉に表されているのが物語でありこれを道徳を基準に見るのは「物語の魔」とまで断じるに至った。宣長は評論家としてでなく愛読者として論じたからこそ他の人より進んだ感覚で独自の視点から物語の美を見出す事ができたのであると言えよう。
賀茂真淵との邂逅
 さて、宣長の最大の師・賀茂真淵は万葉の雄々しさに惹かれそれを長年読み直すことで、その真髄が「ますらおぶり」にあると感じるようになる。また日本書紀が日本古来の言葉でなく漢文で書かれている事から不自然さを感じ、これまで書紀より軽んじられていた古事記の方にこそ古い日本の心を知る上での価値があると唱えた。そして万葉を通じて当時の人の心を知った上で更に神代に入りたいと考えたのである。宝暦七年(1757)に宣長が接して感銘を受けた真淵の著作は「冠辞考」。万葉での使用例から枕詞とは何かについて研究したもので、万葉において歌詠みが思うことが溢れて言葉が足りずうまい形にならないので歌のリズムを整えるために作られたものでありそれが後に技巧化したと結論している。宣長は師と仰ぐならこの人しかないと考え、宝暦13年(1763)に大和旅行の途中に松阪に宿を取った真淵を訪れ、一夜語合い弟子入り。真淵の方も宣長の才を見抜き、江戸へ帰ってから弟子達を集め祝いの宴を開き宣長を誉めた。宣長は真淵と直接会ったのは一度のみであるが、この時に学問はしっかり基礎を固めてその成果を得てから上っていくようにと助言された。宣長は絶間ない向上心・向学心を以ってその教えを守り通したのである。さて真淵と宣長の出発点はそれぞれ「万葉」と「源氏物語」であり、これは交換の利かない経験であったので、宣長は質問を万葉・続日本紀宣命などの考証的なものに絞った。しかしそれでも衝突は起こった。弟子達はそれぞれ真淵に歌を送っていたが宣長は万葉的な「古詠」を得ようとせず新古今のような後世風の歌を送り続けたのである。また真淵の説の否定に繋がるような質問を送った事もあり激怒した真淵は明和三年(1766)に一度は宣長に破門状を送りつけている。宣長はそれを受けて擬古文で己の複雑な心中を述べ再入門の誓紙を送った。以降はそれぞれ考えの違いを認識しつつも宣長は真淵を敬愛し真淵は宣長を大切な弟子として遇する関係が続いた。真淵は明和九年(1769)に病没、古事記研究に入りたいとの夢は遂に叶わなかったのである。宣長は「県居大人之霊位」と書して忌日に床に掛け、祭を終生絶やすことはなかった。
歌学研究
 宣長は何故「古詠」を得ようとはしなかったのであろうか。それを知るために彼の歌への観点を見てみよう。宣長は古今の歌を広く眺める中で、後に「あしわけ小舟」で述べる様に歌は時代によって変わるという事を実感した。宣長にとって、歌を味わう事と歴史認識を磨く事は別事ではなかった。例えば記紀時代の歌は思いを唯そのまま言葉にした物で上手下手がないが、万葉では情そのままの歌と技巧を求める物が半ばするようになる。そして古代末期の漢詩全盛期を経て、漢詩と対比する事で歌に独立した一分野としての自覚が生まれ古今集では表現技法に重きが置かれた。と言うのも万葉の時代には漢詩と並立し両者の区別が明確ではなかったのが漢詩全盛により和歌は教養から外れ反って日常生活と密着し社交手段化して技巧がより重視される。再び歌が見直され朝廷で公式に「古今集」を編纂する際、序文で「歌とは何か」という内省から出発する必要があった。その序文が仮名で書かれたのも、生きた言葉の表現方法を工夫し音読しない言葉の身軽さを最大限生かそうとしたためだ。その流れが頂点に達したのが新古今集で、以降はその技法を伝授することに終始するようになり歌が衰えていくと言うのである。宣長の新古今尊重は、こうして歌の歴史を概観した上での結論であり模倣すべき対象として崇拝したのではなかった(寧ろ誰にでも真似られる物ではないと無闇に模倣する事を誡めている)。となると何故宣長が「古詠」を求めず後世風の歌を詠んでいたか分かろう。宣長は自分が後世の人間であると言う単純な事実を真直ぐに見据えていたのである。どうしても時代の影響を受けざるを得ない以上、結局その人の好みに任せざるを得ず、多様性を認めざるを得ない。明和四年(1764)には歌の程度が低すぎる時代の歌人を取り上げて何の価値があるかと真淵から詰問されながらも14世紀の歌人・頓阿の歌集を注釈した「草菴集玉箒」を著したのもそうした考えからだ。歌が悪い時代に生きているからこそ、悪い時代の中で優れたとされる頓阿を手近な手本とするべきだとしたのだ。いきなり高い境地を望むのでなくまず手頃な所から徐々に上っていくと言う真淵の教えを宣長は自分なりの方法で実行しつつあった一例である。寛政六年(1794)に古今集を口語訳した「古今集遠鏡」も同じ考え方の基で成されている。言葉を理解できる様にして直接味わえる様にする事で学問の成果が全くの初心者にも手の届く様にせねばならぬと考えた。宣長は実際の情と歌に詠みこもうとする情とが必ずしも同じではなく、本人が現実世界で感じたかどうかは別としてとある情を言葉に表そうとする所から歌が生まれたもので言葉第一であると感じた。実際、歌が文芸の一分野として確立した後は、競技で歌の優劣を比べるために題を決めてそれに関して妄想し情を探求するようになったのである。因みにやがてその題に頼り切り妄想して情を求める事すらしなくなった事から歌が衰えたと言う。とどのつまり歌とは情を言葉で表し実際的有用性から離れたものであり、情をそのまま受け入れてその上で突き放して形に表し他人と共有できるようにするために言葉が発達したと宣長は感じ取った。そう言う意味では歌は礼にも通じる物であり、「楽と例を同じ次元で考えた聖人の知恵は深い」と述懐。宣長は源氏において、文芸の本質は「あはれを知る」つまり情とは何かを知ることだと悟りそこからこうした考えに辿り着いたと言える。
古語研究
 上代の物語に入りこむためには、当時の言葉を知る事が不可欠であった。それも個々の意味より用い方の方が大事であった。真淵の教え通り「低き所を固める」作業として、古典を生かすために古言の解釈より寧ろ「古言」をそのまま現代語にうつしてみる事を重視した。「語釈で本義を定めるのには意味はない。古言でどう使われてきたのかが大事である。」と述べ、心の動きを内から掴む事に努めたのである。例えば神に向け読上げる宣命においては、音声のあやとして言霊、即ち言葉の人の心を動かす力が現れるのを感じた。心と直結する肉声は人を動かすのみならず本人の思い通りにもならない、そこに古人は言葉の生命を感じたのである。そしてその力が及ぶ、つまり共通の基盤上にあるという安心感が「言霊のさきはふ国」との賛辞を上代の歌人に述べさせたと直知した。心は事あると当人の思いに関わらず時々に揺れ動く物であり、心が動いた時に言っても益がないとしても言わずにいられないことから表現が工夫される。即ち言葉で最も大事なのは人が聞いて心を動く様にすることだ。そうして実用を離れ人に如何に理解してもらうかに重きが置かれた結果歌が生まれた。心の動きを見極め直知し、そのまま受け入れて客観した上で言語表現とするのである。そこには師匠から教わる知識など必要でない。表現はめいめいが自得する物である。そうして歌が詠まれる背景には「言霊のさきはふ国」への信頼があった。我々は文字の無い代より今の方が優れていると考えがちであるが、道具という物は世を経るうちに新しくなり便利になって行く物だ。当時は文字が無くとも一切不都合は無かった、中国から漢字が伝わるまで独自の文字が生まれなかったのは不必要だったからである。しかし実際に伝わるとその便利さに溺れそれ無しでは過ごせなくなったのである。口伝として生きていた言葉が文字となって保存される代わりに生命を失った結果、言葉の生命を知らぬ者が「言霊」を意識せず意味合・論理だけでものを言う、それが宣長には我慢ならなかった。そうした言葉への接し方は真淵との思わぬ違いも生出した。真淵は自分の良しとする雄々しく強い真っ直ぐな心を「やまと心」と表現した。しかし宣長は「やまと心」という言葉も古書に直接当りその使われ方を感得。「源氏」に「やまと魂」が学問の才に対比する物として、赤染衛門の歌に「やまと心」が博士でなくとも持っている智恵として使われている。つまり「やまと心」「やまと魂」は雄々しい心ではなく寧ろ王朝の「たをやめ」による女々しさすら含んだ言葉であり実世界では愚かな学者に対する実的な知恵を意味するのである。しかしそれを理解するものは案外少なく「やまと心」は類なく尊い雄々しい心情を意味するととられた。上田秋成が自画像に「やまと心」という語を含む歌を書き入れたのを不遜として怒ったのはその一例。その類の誤解は後述する様に平田篤胤に引き継がれたのである。閑話休題、そのように言葉に接した結果として宣長は古語研究において大きな成果をあげている。例えば安永八年(1779)には八代集を中心に当り「て」「に」「を」「は」が言葉の命を握っている事や係結びを取っている事を示し「詞の玉緒」にまとめた。前年には「御国詞活用抄」で27種の活用語について述べその活用語形を示す。安永四年(1775)に「字音仮名用格」で字音を仮名で表す同音の書分けや和歌の字余では「あ」「い」「う」「お」が単独母音音節として存在する事を証明している。天明五年(1785)の「漢字三音考」で漢音・呉音・唐音の三通りの読み方が日本の漢字にはある事にも言及。寛政11年(1799)には「続日本紀」の宣命62編に注釈を付けた「歴朝詔詞解」を出した。翌年に「地名家音転用例」で地名と漢字の読みが一致しない時の法則性について考察。こうした現代にまで通用する仕事の背景には、外から眺めるには留まらず対象との合一を目指し体得した成果があるのである。
古事記研究へ
 宣長は真淵と同様、「日本書紀」は日本元来の言葉でなく漢文で書かれたため不自然であり「古事記」にこそ価値があると考えた。古事記にも宣長は源氏物語などと同じく素直に接し、そこに太安万侶の肉声を感じ取ろうとした。稗田阿礼による「誦習」も文字通りの暗誦と捉え(津田左右吉が阿礼を博覧強記な学者であり古事記編纂は古い文字記録の解読と合理的に解釈したのと対照的である)、古事記を阿礼の口伝そのままと考えた。宣長はこれまでの歌や祝詞・宣命などの古語研究から、言葉は音声で本来用いられた物だと言うことを強く意識していた。祝詞は神からの言葉、宣命は神への言葉であり、共に相手を動かす力つまり言霊が重んじられる物であった。そもそも内容より表現重視なのである。それにしても天武天皇が「王化之鴻基」を明らかにしようと目論んだのは何故なのか。津田左右吉は天皇の日本統治を正統化するためとするが、それはそうに違いないにしても元来歴史は支配者の正統化という物にならざるを得ないのが大半であるし「歴史」という名の下に纏められた以上通年と大きく異なる物で事が運ぶはずはない。元来の物に多少の改変が加えられたとしても結局皇室や豪族の以前からの伝説を骨格にしたはずである。それよりもっと切実な問題を宣長は見ていた。彼によれば漢字の伝来は即ち便利な表意文字・圧倒的に豊富な語彙の流入を意味し、学習により初めて会得し得る類の物であった。それを通じ初めて自国語の姿がはっきりと見えてきたのである。そうした目で現状を見ると、外来語の便利さに溺れて多くを文字記録で残したが、外国語で記す事により微妙なニュアンスの違いが生まれ心を動かす力が失われていることに気付いたのであるという。また壬申動乱後の動揺により、それぞれの伝承を皇室のそれと結び付けることで氏族の権威を確認する必要が生まれた事もあり正しい姿で歴史を記録する事となったのであろう。阿礼は正しい物が口伝にしかない事を実感していた、そこで日本固有の文が書きたいとの願いが切実になった。しかし漢字で古言の素朴さをそのままに表せず、そのため訓(字の意味)で表すか音(仮字として音を用い古語のまま)で書くか悩む事になる。結論はどちらのみで書くのも不可と言う事であった。音で表すと字数が多すぎ訓だとニュアンスにずれが生じる。そこで両者を併用する部分と訓のみで書く部分に分ける事にした。大体の意味が掴めればよい所は長くならぬよう訓のみにしたのである。この辺りから漢字で表音性を何とかして写したいという努力が生まれいわゆる「万葉仮名」ができ、さらに漢文訓読に繋がった。この様に捉えた宣長にとって、古事記は最初から言語問題だったのである。そのため序文での「旧辞・帝紀を纏めた」という記述においても、津田など多くの研究者が「辞」を「事」として「旧辞」を昔の記録と考えたのと異なり宣長は「辞」を言葉の事と感じ「旧辞」を天皇の読み上げる言葉をそのまま写したものと捉えた。宣長の古事記への接近法は直観と想像とで古事記の世界に突き進み「古言のふり」つまり文の姿・流れを知るというものになるのは当然の成行きであった。宣命などを通じて古言を知った上で、作中人物の心中を思い遣る事で訓が定まってくると考え読み進んだ。彼にとり「あはれ」を知ることと古事記の読解とは切り離せぬ物であった。ところで、その様にして解釈を進める中で、宣長は「神」をどの様なものと捉えたのであろう。結論を言うと何が「神」と呼ばれているかを実際に当り、「神」とは尋常でないもの、善悪貴賎を問わず凡人と懸離れたものと言う事を見て取ったのである。更に「その時代の人は皆神であった」とする。真淵等の言う通り「神」の多くは人を表しているに相違無いであろうが「神」と呼ばれている事実を無視して今と同じ様に捉えて良いものか。神で無いものを神とは呼ばないという単純な事を見落しているのではないか。当時の人に尋常でないものを感じたからこそ神と呼んだのではないか。そして古言ではある形のままに名が付けられている事から、神の名を調べる事でその神の性質を知る事ができると考えた。まず天地の始めに高天原に成ったという天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神については、古事記中で一柱として捉えられている様子から「産巣日神」として信じられたと考え、その性質について神を生出すものとした。そして何から産まれたと書かれていない事などから天地より先だって虚空中に出来たのでないかと感じた。しかし「造物主」というような事は一言も書かれていないため特別に尊いという位しか言えないのである。そして次々に神が生出されていくが(神代七代)、やがて地にいる神と見られる名の神が現れる。地上の国が成立する前にそうした神が天上神に混じり生まれたと考えられる(前述の産巣日神が天地生成前に出来たとの類推の根拠にもなる)。やがて淤母陀琉と阿夜河志古泥神に至り初めて人がその尊さを意識した。前者は「面足る」つまり不足無く備わる意味であり後者は感嘆の叫びがそのまま名になっている。宣長にとって古事記は個人の素直な感覚の現れであり、比喩などではなかった。ここに来て彼にとって「あはれ」を知るとは素直に物を見てその尋常でなさを知り心動く事となった。古人は山海や動植物の尋常でない事を感じ取り心動き、またその心を動かそうと語りかけた。心動いた古人の目には、こうしたものが動いた様にも感じられたであろう。そうしてこれ等の中に「神」を感じ取ったのでないか、そう宣長は見ていた。従って熊沢蕃山の「喩え話としても古事記は拙い。同じなら荘子の様な巧みな物なら良かったのに」との主張は到底容認できる物ではなかった。これは世の中に現代の理屈で解けない不可思議な事などないという思い込みのせいであり「漢意」に他ならない。何故そのまま素直に受け取れないのか、宣長はそう叫びたかったであろう。そうした意味で宣長の仕事は孤独な物であった。こうした苦心により続けられた古事記研究は真淵と会った翌年の明和元年(1764)に始められ35年という年月をかけ寛政十年(1798)に「古事記伝」として完成。巻一は総論、巻二は序文の注釈、そして巻三〜一七で上巻・巻一八〜三四で中巻・巻三五〜四四で下巻の注釈をしている。現在の実証的・文献学的視点から見ても類のない傑作とされる。
上田秋成との論争
 宣長の考えはしばしば反駁を受けた。例えば安永九年(1780)に市川匡麻呂が「末賀能比礼」で批判したのに対し宣長が「くず花」を著して反論している。また天文学者川辺信一への反論「真暦考」では「こよみ」という和語や四季を表す和語がある事から、中国から暦が伝来する以前より日本に季節の概念があったと主張し中国暦偏重を批判。中国暦の様に厳密に日を定めてはいないが実感を持って天地のあり方に従い実際の自然の移り変わりを基準にしていたのではと述べ、更に中国暦は陰陽五行という空論に捕われており現実と理論の食い違いが閏月として現れているではないかとして中国暦の正確さを言うならばオランダ暦を見たら目を廻すぞと結んでいる(こうした事から蘭学関係にも相応の知識を宣長が持っていた事が読取れる)。また天明五年(1785)には「鉗狂人」で藤貞幹「衝口発」を中国・朝鮮の思想を無批判に受け入れていると批判している。こうした中でも最も有名なのが上田秋成との論争である。「神代の記述ををそのままに受け入れる」という宣長の態度は普通受け取りにくく頑強に見える。またその中に没入してしまう危険もある。それを嗅ぎ取ったのが秋成であった。秋成は決して古伝尊重自体を否定したのではなく、荒唐無稽な神話を無批判に受け入れる事に疑問を呈したのである。秋成が筋を通した質問をしたのに対し宣長は取り合わず、結局双方感情的になり物別れになったというのが全体の流れだ。秋成が天照大神が太陽である事や少彦名命が世界を支配した事に疑問、オランダ由来の世界地図を持出し日本偏重の態度を改めさせようとした。宣長とて知識として日本が世界のごく小さい存在でしかない事は知っていた。しかし宣長にして見れば世界各地の神話の中での日本神話の相対性などは大した問題でなかった。契沖の「人代に入っても荒唐無稽な話が少なくなく理解に苦しむ。信じる所から始めるしかない」との言葉を基本にして、古事記と言う文字のない昔から語り継がれた物語を素直な感情であるがままに受け入れそれと一体化することで古人の感じ方や「道」を体得する事こそが目的であった。そのためにはその世界に没入する危険は承知であった。既に「紫文要領」において「あはれ」が時には命を奪いかねない激しい物である事を指摘しているのだから。秋成の態度は宣長には多くの中に一つだけ本物が有るという状況において騙されまいとばかりして本物を見極め様とはしない物に思われた。一方秋成は論理に留まり飽くまで外から対象を論じ、内容を判断し信じられる範囲だけで信じると言う態度を終始取っていた。しかしこうした態度は下手をすると空論となり言葉の遊びに陥る。こうしたことが「源氏」解釈で前代を越える事を言えなかった様に古学者としてはone of themで終わった所以ではないか。秋成の本質は文人で有り学者ではなかった、国学は彼に取り余技でしかなく「道」はどうでも良い問題であったのである。宣長も事の本質が言語の問題である事を納得させる事が出来ぬままに終わった。秋成は「宣長の成功は己の仕事の矛盾に気付きながらも隠して押し通す事で愚者を欺き言い負かす事で名誉を得た物に過ぎない」と考えた。二人の議論は当初から噛合っていなかったのである。双方とも相手に自分の言い分が届いていないと痛感したであろう。こうした議論を通じ宣長は己の考えを理解される事が難しいと身に染みた。宣長は該博な知識を以ってスケールの大きい仕事をしたがその世界は言葉で表しにくく彼の中で閉じていた様である。宣長ほど言語表現の持つ豊かさを意識した人は珍しかったであろうが、一方でまた彼ほど言いたい事を言語で表し切れないもどかしさを実感した人も稀だったろう。
玉くしげ
 宣長は紀州藩主徳川治貞から松阪在住のままで抱えを受けていた。加賀藩からも誘いがあったが、松阪を離れ赴任するのが嫌で断っている。さて天明二年(1782)に大飢饉が訪れ、病人が続出して宣長も医業が多忙を極める。因みに自宅二階に書斎鈴屋を作り勉学に専念できる様に階段を取り外したのはこの年の事。同七年(1787)に治貞からこうした難局に当り政治への心得を問われ、「秘本玉くしげ」を著した。ここで、「一揆が続発するのは為政者の過ちによる。さもなければ騒ぎを起こそうと思うものがいても村でまとまる事はなく起こらないものだ。今の様に上の用心が強い時は尚更である。したがって一揆は生きるに窮し追い込まれて起こる。百姓を労り上への信頼を回復するしか根本的な方法はない。」と述べている。又この時に別巻として「玉くしげ」を著し為政者が「道」を心得る事の大切さを述べる。元来宣長は政治論が本領とは言えず表現に苦しんだ様であるが、「あはれ」を知る事を基に生活に接した人間の肉声と言う現実に即して物を言う事を鉄則にしていたのである。
日本の「道」とは
 古事記を通じて日本の「道」がどの様なものだと宣長は考えたのか。それを記す前に真淵の考えについて述べる。万葉の研究に多年を費やした真淵は、晩年には文字時代の言葉を堅いとして厭いそれ以前の言葉に風雅を思い弘大な意が込められていると感じるようになった。万葉の古雅・勇壮悲壮・豪快などが生まれたまま、直く明るく雄々しく清く存在する「いにしへぶり」に惹かれそれを古道の精華とした結果、真淵は人為を廃して自然にを尊ぶべきと考えるようになり、老子を称えた。そうして神の道の形について論じるようになってくる。そうして神代も人代の延長、との考えから「人代を以って神代を窺う」ため「歌」の真理から「道」の真理へ入ろうとする。しかしこうした万葉で磨いた方法論でも扱い切れない物を古事記は持っていた。万葉と古事記、人代と神代の間には断絶があったのである。真淵は古事記の不可思議な部分をそのままには受け取る事が出来ず「論理的」解釈をさしはさまざるを得なかった。人代から神代を窺う、つまり現代の人間の感覚を神にそのまま当てはめる事には無理があったようである。真淵は後世の人為を憎む余り自然のままを良しとする形で新たな「さかしら」に陥り、そのため古事記もありのまま受け取る事が出来なかったのであると宣長は感じていた。「古事記伝」の総論を成す「直毘霊」で宣長は「道といふ言挙もさらになかりき」「何の道くれの道といふことは、異国のさたなり」と述べている。古事記をそのまま受け入れ一体化した結果、日本には「道」について述べた言葉がない、そして言葉がないからこそ尊いということを確かめたのだ。これを最初に提唱したのは真淵であったのだが…。さて、言葉で表せない以上「道」はそれを直接感知して信じる他ない物であった。その結果個人によって異なる現れ方をする事も充分有得る話であろう。実際、寛政十年(1798)に弟子に請われて学問の心構えを記した「宇比山踏」も自らの経験を踏まえ神代記・故実・六国史・歌などに分けて細かく述べてはいるがその結論は独学の勧めに尽きる。日常生活の中で己の心の奥底を洞察し信じる所を信じることが大切だというのである。例えば伊勢外宮の神が食物の神・豊受神であるのを様々に理屈をつけ後世解釈されるようになったが、それは後世人が食物の神というのを卑俗に思い理屈をつける「さかしら」にすぎず古人の食物への素直な感謝を理解できなかったもので、生活に即した実感に基づかなったための誤りである。現実の実感から離れ空理空論に陥っては「道」を感知する事など出来ない、そう宣長は考えていた。さて、死後について宣長はどう考えていたか。やはり古事記に接する事でその答えを感知していたようだ。それによれば死後の安心とは無益の空言・異国の作り事であり神の道に「安心」は無く、そんな妥協的理解に逃げて事を済ませず徹底的に考え抜くべきであるという。古事記からは善悪を問わず人は死後「よみの国」に行くという事のみ読取れるからである。生きる人には死を知る術が無く、死の予感のみを持ちうる。そうした中では死は断絶であり悲しみである。その思いのままにならぬ物に向かっていく事で心が強く動かされ、「あはれ」を知る。その末に死の観念と出合う。このように、他人の死と出合う事でしか死を理解する手段はない。そう言えば「源氏」においても「幻」巻で紫上の死に対する源氏の悲しみを描く事により「あはれ」の限りを尽した。ところで「あはれ」を知尽くした源氏が死ねば誰の悲しみをもって死の観念を描写すれば良いのか?「幻」を越える物が作れようか?源氏の死を描いたとされる「雲隠」が題名のみで無いようがないのは宣長の中では正しいあり方なのだ。閑話休題、古事記においても伊邪那美を失った伊邪那岐の嘆きが描かれる。香具山の麓に祭られている泣沢女神はこの時の伊邪那岐の涙から生まれた物という。万葉歌人は死を傷む際この神を通じて伊邪那岐の嘆きに連なろうとしたのである。天地の初めである神代七代に生きるだけでは足らない事を既に知っていた。さて女神と男神は現世と「よみの国」の境・黄泉比良坂に巨石を隔て向合う。女神が石を隔て日本を「汝国」と呼ぶ。自分が産んだ国を突き放した呼び方をする事の中に、生死のどうにもならぬ隔たりへの嘆きが現れているという。死者はとてつもなく巨大な何かに隔たれ帰ってこない、しかし残された物は悲しみに徹する事でやがて感慨として安定する、そこに救いがあるという。そうなれば、隔てを挟んで死者と心を通わせる事が出来る、これが宣長の達した境地であった。
遺言
 これまで挙げてきた他に知られている宣長の著作として「玉勝間」がある。寛政五年(1793)から簡潔な擬古文で十四巻にわたり広い領域について記した随筆で、彼の人生観・学問観・文学観が伺えるという。更に宣長は没する前年に自分の墓に関する遺言状を残している。即ち、仏式の墓の他に樹敬寺にもう一つ墓を設け、そこに石碑と塚を作り桜を植えて欲しいと言う物である。更に仏式の葬儀を行い仏壇に位牌を祭り精進を供する他、もう一つの墓にも年一度で良いから参って欲しい、座敷に像掛物や愛用の机を置き季節の花・燈・魚料理の膳を供えよ、愛用の桜木の錫を霊牌に仕立て謚「秋津彦美豆桜根大人」と記せ、祥月には都合の良い日に門弟達で歌会を開いて欲しいとも記している。当時、二つ墓を作る事はごく普通の事であったがこうした遺言を残す事は珍しかった。こうした遺言をかいた時点ではまだ肉体的に健康であったし、死後の事を心配するのはさかしら事と彼自身唱えて来た。これは遺言と言うより信念の告白であり彼の著作の一つと見るべきであろう。墓所を見定めたとき彼は、
山むろにちとせの春の宿しめて風にしられぬ花をこそ見め
今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば 
と詠んだ。これが現在宣長の辞世とされている。平田篤胤は宣長が死の直前にその思想の不備を自覚し辞世で解決したと捉えた。しかしそう言う意味での辞世は宣長が「漢意」として嫌った所である。この歌もそれまでの宣長の思想とは何ら矛盾するものではないと見るべきであろう。宣長は自らの実感から離れた説を決して吐かなかった人であるから。彼の現実感覚が鈍ったのでない事は先祖由来の仏式儀式を排撃せず代々の流れを絶やさなかった事でも分かる。宣長の目的は儒仏を排撃する事でなく飽くまでそれらに惑わされず日本本来の精神を明らかにすることであった。死者は再び帰る事はないが、心を通わせる事は出来るという彼の達した「道」を自身の遺言を通じて例示しようとしたといえよう。翌享和元年(1801)、宣長は44年ぶりに上京し講義を行い香川景樹等に会った。9月18日に発病し29日に病没。9月初旬まで医業を続けていた事から急なことであったのだろう。72歳であった。門人500人は大半が長男春庭の門弟となり養子大平が紀州藩に使えた。
宣長以後
 宣長の死後、国学において最大の影響力を持ったのが平田篤胤である。篤胤は宣長の没後門人であると言われるが、彼の私信や宣長を追悼する歌から判断すると実は享和三年(1803)に大平に入門したものであったらしい。しかし篤胤が自分を宣長没後門人と言ったのは単純に嘘をついたと言う訳でなく、伴信友が宣長死去直後に入門申込が着いた事もあって霊前において没後門人として入門が許されたことを羨むのが高じて何時しかこう述べるようになったのである。ともあれ篤胤が宣長との直接的な霊的繋がりを確信していたのは紛れもない事実であった。そもそも「直毘霊」に感銘を受けたことが篤胤の出発点であり、日本において「道」を表す体系がないのならば自分がそれを展開して説いていくのが使命であると考えるようになる。「道」の説明がないのをそのまま受け入れる事に安心があるというの曖昧な物ではなく誰もが安心し納得できる明確な理屈を作ろうとした。篤胤はキリスト教理論を参考にして一月足らずと言う短期間の内に神懸りの如く宇宙論を形成、更に生産秩序を守る事で死後に幽冥界に行けると説き死後の安心を保証した。しかし篤胤は宣長等と異なり、無心に古書に直接当りあるがままに捉えるという文事経験をしていない。そのため「やまと心」という言葉を雄武な物と解釈するという大きな誤解をしている。そうして篤胤の学問は結局宣長が排したはずの空理空論に走ったといえる。また彼の国学は説教として分かりやすく、相手に勉学を求めない。「黙ってついて来い」という性質の強かった平田国学は学問というより寧ろ宗教という性格が強い物であった。平田国学はその排外自尊主義が幕末期において政治的に受け入れられ一時大きく広がる。しかし明治維新を迎え開国に方針が転じる中で急速に消えていく。ただし天皇への服従を求める必要性から国家神道として利用されるが擬似一神教としての性格が強い国家神道は大きな無理がありこれも敗戦と同時に崩壊。真淵や宣長の仕事が普遍的な物であった一方で篤胤のそれは極めて時事的な物であったといえよう。「国学四大人」として荷田春満・真淵・宣長・篤胤が挙げられるが、勉学における主要な仕事は宣長が完成させている事も考えると篤胤の仕事の性質は他の三人とは根本的に異なる物であったのでないかと思う。
おわりに<日本精神にめざめて>
 宣長の生涯を通し日本人にとっての「道」とは何なのか考えて見た。外国の思想・哲学について学ぶのも重要ではあろう。しかしインドの仏教思想も中国の儒教思想も一神教の論理的哲学もどうも日本人の肌には本当には合わぬ様だ。日本人はとどのつまり日本自身の精神に立ち帰らねばならない。大川周明もその著作「日本的言行」で述べている:「吾等の善は、之を外に求めずして内に求めねばなりませぬ。」「吾等日本人は日本人として、米国人は米国人としてそれぞれの面目を発揮する事が、とりもなおさず人間の面目を発揮することである。」と。しかし、一部で言われるような近代に見られた「愛国・勤皇」的心情が「日本独自の精神」かと言われれば、これも違うといわざるを得ない。「やまとだましい」とは元来平安貴族の人生における智恵を意味すると前述した。そして宣長も「源氏物語」「古今集」「新古今集」といった王朝文化に高い価値を見出している。してみれば、「一億総平安貴族化」したとも言える現代日本人は戦前と比べて「日本精神」を見失ったのではなく、寧ろ取戻したのだと言えないか。日本人を無宗教と咎める声が高いが、支配力の強い宗教を持つ民族が平和や幸福を手に入れているとは到底言い難い今日、我々は寧ろ胸を張って「無宗教」を誇っても良いかもしれぬ。そして日本人は昔も今も本当に無宗教だった事はないという事を示し自らも認識するのにも意味があろう。今我々に足りない物は案外「日本精神」を理解してもらうための言葉だけではあるまいか。このレジュメがそれを補うための一助となる事を願って止まない。


参考文献
本居宣長(上)(下) 小林秀雄 新潮文庫:主にこれを頼りにした。と言うよりはっきり言ってこの本の要約である。
神道のこころ 佐伯彰一 中公文庫 どの宗教が役に立つか ひろさちや 新潮選書
マンガ日本の歴史36花ひらく江戸の町人文化 石ノ森章太郎 中公文庫 ENCARTA百科事典2000 Microsoft
マンガ日本の歴史38野暮が咲かせた化政文化 石ノ森章太郎 中公文庫 マイペディア99 日立デジタル平凡社 Bookshelf Basic Microsoft/Shogakukan  新修国語総覧 京都書房 霊之御柱 平田篤胤著 岩波文庫
「大川周明全集第一巻 岩崎書店」より「日本的言行」「日本二千六百年史」
オタク学入門 岡田斗司夫 新潮OH!文庫:探求態度から見て宣長は「オタク」であると感じ参照。
本居宣長全集 第一巻〜第二〇巻 筑摩書房 神武天皇日本の建国 植村清二 中公文庫


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