2001年12月21日/2002年4月19日
中国仏教史  田中愛子


<はじめに>
 中国では古来、さまざまな宗教、あるいは、それに準ずる思想が、信奉されてきました。インドから取り入れられてきた仏教も、その一つです。今回は、仏教の歴史を、非常に大雑把にではありますが、たどってみたいと思います。

<仏教の伝来>
 中国と中央アジア、インド、さらにはイラン、ローマを繋ぐ交易路・絹の道は、紀元前2世紀ごろから開けていた。この絹の道が、中国への仏教伝来ルートの一つとされる。仏教は、主にこのルートを通じて中国に伝来した。
 絹の道を通じて、古くから仏教が栄えていた西域やインドの商人が、中国を訪れた。特に、紀元1世紀に北インドから中央アジアにかけて建国されたクシャーナ朝の時代には、広範囲にわたって活発な貿易活動が展開され、中国との交渉も盛んであった。商人たちの中は、当然仏教徒もいる。彼らとの接触の中で、中国人の間にも少しずつ仏教が伝わっていった。紀元1世紀には、仏教が中国に伝わっていたであろうと考えられる。
 また、西域方面から、仏教信者たちが渡来してくることもあった。こうした渡来者たちが、中国仏教のごく初期の段階における信者の中心となったと考えられる。
 この絹の道は、その後も、西方からの仏教情報の伝達ルートであり続けた。
 ただ、西域は、単なるインド−中国間の中継地・経由地ではなかった。一度西域に入った仏教は、この西域の各地で特色ある仏教へと変化し、それが中国に伝えられた。西域は、いったん自身のうちに取り込み、消化した仏教を、中国に伝えていたのである。
 仏教情報の伝達ルートには、もう一つ、大きなものがある。それが、インドやスリランカから、マレー半島やスマトラ島、インドシナ南部を経由して広州へと到達する南海航路である。山東や江南などの沿海部では、このルートから仏教が初伝したともいわれている。また、中国僧がインドやスリランカへと仏教を学びに行く際にも、このルートが用いられた。
 仏教の初伝については、古くから中国にはさまざまな伝承・記述がある。しかし、その多くは、主に六朝時代から唐代にかけて創作されたものである。仏教より早くから中国に根付いていた儒教や道教に対して仏教が優位に立つために、仏教側は、仏教がより古くから中国にあったのだと主張することで仏教を権威づけようとしたのである。こうした伝説には、例えば、三皇五帝の時代に既に仏教が中国に知られていたとするものや、秦の始皇帝の焚書によって仏典が失われたとするものがある。
 そのような中で比較的信用できるものとしては、魚豢の『魏略』西戎伝および笵曄の『後漢書』があげられる。『魏略』西戎伝には、前漢の哀帝の元寿元年(紀元前2年)に景廬という人物が大月氏の使者・伊存から仏教の経典を口授された、とある。また、笵曄の『後漢書』には、後漢の明帝(位:紀元57〜75)の異母弟・楚王英が任地・彭城で仏教を信奉していたと記されている。

<初期の仏教>
 中国仏教の初期段階の時代には、仏は、黄帝や老子と一緒に信仰され、また、この二者と同様、神として祀られた。前述の伊存は、仏教と老子の教えとには合致点があると述べており、また、明帝は楚王英について、「楚王は黄老(黄帝と老子)の微言を誦し、浮屠(Buddhaの音訳)の仁祠を崇び、潔斎すること三ヶ月、神と誓を為す」と述べている。そして、初期仏教は、黄老信仰同様に、神仙の超越的な力による救いや利益が求められた。仏教は、まずは、仏を神仙として祀り、呪願をかけるというスタイルで、当時の中国の民間信仰と融合して受け入れられたのである。
 宮中でも仏教は受容されていった。記録上最初に仏教を信奉したのは、後漢の桓帝(位:147〜167)である。桓帝は、黄帝、老子および浮屠を祀り、豪華な儀式を行っている。こうして王族・貴族たちの間に仏教が受容されていった理由には、異国的な仏教法要が、当時の上流階級の好みに合ったということもあったようである。
 中国では、他の多くの国々と異なり、仏教経典の翻訳が盛んに行われ、多くの経典が漢訳された。これは、中国に仏教を伝え経典を広めようとさまざまな困難を乗り越えて中国にやってきた、西方やインドの僧たちの力によるところも大きい。
 その元祖といえるのが、パルティア出身の安世高である。安世高は、後漢の桓帝の建和二年(148)頃洛陽にやってきた人物で、主に小乗仏教系経典を翻訳した。桓帝の治世の末頃には、月氏出身の支婁迦讖が、大乗仏教系経典を翻訳している。また、漢民族最初の出家者といわれる厳仏調(2世紀末)も、経典翻訳を行なった。
 複雑な教義を説いた経典を異言語に翻訳するのであるから、さまざまな問題が生じる。例えば、語彙の問題である。それまでの中国に無かった新たな概念を導入するとき、それを表す言葉が無いという問題にぶつかることになる。このように言葉の不足に直面したとき、老荘思想など、もともと中国にあった思想から類似する言葉を借りることもあった。そうなると無論、教義内容の説明に限界が生じる上、教義内容も本来のものから多少となりと変化してしまう。
 中国に入ってきた仏教自体も、インドのものとは異なっていた。このころはまだ、中国にインド仏教が直輸入されることは無かった。中国に入ってきた仏教は、いったんインドから西域へ入り、そこで変化したものであった。また、渡来僧たちが経典を翻訳したり、伝え広めたりするとき、何らかの形で自己流の解釈が入ることもあったであろう。
 後漢後期には、それまでの国家・社会の体制が大きく変動し、長い動乱の時代を迎えた。こうした中で生じる社会不安や価値観の動揺が、人々の間に仏教が浸透してゆく下地となった。人々は、これまでのものとは異なる新たなるイデオロギー、あるいは、超越的な力による救いを求めたのである。
 後漢の霊帝(位:167〜189)の時代、?融という人物が、広陵に大規模な仏寺を建立し、黄金で塗った仏像を作り、浴仏会や施食を行なった、という記録がある。この記録から、後漢末期には大きな仏教寺院が建設されるようになったことや仏像を祀る形式が取り入れられていたこと、儀礼面では少なからぬ進歩があったことが読み取れる。また、このころには、長江北岸まで仏教が伝播していたことがわかる。
 後漢末の戦乱によって江北の住民が江南地方へ流入し、仏教信者や仏教僧も江南地方に渡った。また、当時、南海交通の発達により、南海航路から東南アジア経由で仏教が江南地方に伝わってきた。江南地方には、北からの仏教と南からの仏教が伝播し、浸透していった。北からやって来た僧侶を代表するのが支謙であり、南からやって来た僧侶の中で代表的であるのが康僧会である。二人は、呉の皇帝孫権に重んじられ、布教や経典翻訳を行った。こうして、江南地方では、首都・建業を中心に仏教文化が栄え、建業は洛陽に次ぐ仏教の中心地となった。
 なお、蜀地方の仏教については資料がなく、不明である。
 仏教の浸透につれて、やがて、道教や儒教からの反対攻撃もおこった。仏教は、それまでの中国になかった新たな思想・概念を中国に持ち込んだ。それが、儒教などの旧来の思想・概念と齟齬をきたし、批判・攻撃を受けることになったのである。また、仏教は夷狄の教えであるとして、中華思想の立場から攻撃を受けることもあった。三国時代、こうした攻撃に対して、牟子が、『理惑論』を著し、三教の調和を図っている。
 この段階での仏教理解の程度は、あまり高くはなかったようである。前述の『理惑論』も、その教義理解は極めて貧弱であるといわれる。また、三世紀中ごろの魏でも、僧は受戒しておらず、世俗の人との違いはただ剃髪しているか否かのみであり、その宗教儀礼も、黄老信仰のようなもともと中国にあった信仰のものと変わらなかったらしい。三国時代頃までは、中国仏教は未熟であり、細かな教義理解が追求されたり、教義実践が徹底されたりすることはあまりなかった。

<南北分裂期の仏教>
 前述のとおり、後漢時代から経典翻訳は行われていたが、西晋時代、月氏出身の竺法護によって、翻訳活動は本格化した。彼は、西域と呼ばれる中央アジアの国々を巡遊し、サンスクリット語の経典の原典を持って中国を訪れ、各地を回りつつ多数の経典を翻訳した。
 また、2世紀後期ごろから、インドや西域の僧たちによって翻訳された経典をただ受動的に受け入れるだけでなく、自ら経典を求めて西方へと旅立つが現れるようになった。魏の甘露五年(260)に西域へと求法の旅に出た朱士行は、そのさきがけであったと言えよう。
 4世紀初め、西晋が滅ぼされ、華北を異民族に占領され、中国は南北分裂状態に突入する。このころ、漢民族の仏教に対する関心が急速に高まってゆく。また、道教も発展し、仏教の影響を受けつつ宗教教団としての体系を形成してゆく。相次ぐ戦乱や社会の混乱の中にあって、死と死後に対する関心や、救済への願望が高まったものと考えられる。
 漢代に国家のイデオロギーとして採用され、大きな力を振るうようになっていた儒教だが、それは礼や道徳を説いたものであり、人間の生活する社会を越えた世界や個人の救済といったことに関しては、ほとんど説くことはなかった。それに対する反動・反発、あるいは補いとして、仏教あるいは道教が歓迎されたという側面もある。
 仏教及び道教の発展につれて、道教と仏教の対立は激化し、道仏の論難が行われ、釈迦と老子の出生の前後などが争われた。また、儒教と仏教との間でも、儒教の説く忠・孝の倫理と仏教の出家の思想との対立や、礼と戒律の齟齬、沙門の君主及び父母に対する拝不拝の問題など、双方に相容れない点が多く、この両者の間でも論戦が繰り広げられた。
 仏教の側もこの時代、中国化が進んでいった。その中から、例えば華厳のような独自の教学や、禅という新たなスタイルが生まれた。
 この時代、華北の王朝でも華南の王朝でも、仏教が重んぜられ、中国社会に大きな影響を及ぼしていた。だが、南北分裂期だけあり、華北と華南とでは、文化の違いやそれぞれの国家の仏教政策の違いによって、仏教の様相もずいぶんと異なっている。
 五胡の諸王朝および北朝の多くは、漢民族を支配するために、漢民族固有の文化に拮抗しうる外国由来の文化として仏教を採用し、これを保護した。非漢民族である彼らは、儒教思想や中華思想にとらわれることがないだけに、比較的自由な立場から、仏教を受容してゆくことができた。華北の王朝の仏教保護政策は、中国への仏教の浸透を進めた。華北の王朝においては、宗教は国家宗教であり、人民統治の手段であった。華北の仏教は、国策と深く結びつき、保護を受けた反面、強い国家管理を受けたのである。
 華南では仏教そのものが限定された少数派に過ぎなかったこともあって、国家の仏教への干渉は緩やかであった。宗教は個人の信仰とみなされ寛大な対応がとられる傾向が比較的強く、個人主義的な形態の信仰が発展した。
 また、華南と華北では、仏教の形態にも違いがみられる。「南講北禅」といわれるように、華南の漢民族中心の仏教は、研究が中心であり、華北の非漢民族中心の仏教は、実践を重んじる、という傾向があった。
 前述の通り、五胡の諸王朝のほとんどが仏教を重んじた。
 例えば、後趙(319〜352)の石勒や石虎は仏図澄(?〜348)に帰依し、その布教を支援した。仏教は夷狄の宗教であり、中華の天子の奉ずべきものではないという上奏に対して、石虎は、自分は中華に君臨することになったが、もともとは胡の出であるから、仏教を信奉するのだ、と答えている。
 また、前秦(351〜394)の苻堅(位:357〜385)も、道安をはじめとする多くの僧たちを尊崇し、その布教を助けた。また、協調関係にあった高句麗に、僧侶と経典とを送り、仏教を伝えた。これが、朝鮮初の、公式の仏教伝来であった。ついで百済にも、384年、東晋から僧が派遣されている。さらに、道安の勧めで亀茲から翻訳僧・鳩摩羅什(344〜413)を迎え入れようとした。苻堅は、鳩摩羅什の到着を待たずして死亡したが、その後、後秦の姚興(位:394〜416)が鳩摩羅什を長安に迎え、莫大な費用を投じて彼の翻訳を援助した。鳩摩羅什が短期間に莫大な翻訳をなしえたのは、彼の才によるところもさることながら、姚興の支援によるところも大きい。
 西域からの渡来僧の中で、最も重要といわれる一人が、亀茲出身の仏図澄(?〜348)である。
 仏図澄は、後趙(319〜352)の石勒や石虎に重んぜられた。石勒と石虎は仏図澄の布教を支援し、それにより、仏図澄は、30数年間華北で布教活動を行い、華北における仏教の振興に大いに貢献した。また、仏教の戒律を広めることにも尽力している。
 彼の教化力は大きく、900近くの寺院を建て、1万人ともいわれる数の弟子を養成したといわれる。彼のもとからは、前秦時代に長安に迎え入れられ、経典翻訳や戒律の研究といった面で活躍した道安(314〜385)をはじめとして、尼寺を建て、中国にはじめて正式の尼僧を生み出した安令首尼ら有力な僧侶たちが多数輩出された。
 これほどに多くの弟子が生まれた背景には、仏図澄の進言をいれた石虎が、初めて漢民族の出家を公式に認めたこともある。
 仏教は伝来以来、黄帝や老子とともに信仰されたが、思想上でも、老荘思想を媒介として仏教を理解・説明することが行われた。仏教の教えの基本は「虚無」であるとされ、仏教の「空」の思想は、老荘思想の「無」の思想と相通ずるものとされた。江南の貴族たちの間では清談や玄学が流行しており、江南貴族たちの知遇を得た南遷僧たちは、仏教と並んで老荘哲学をも講じた。このような、老荘思想を用いて教理を解釈・理解してゆく仏教は、格義仏教と呼ばれる。
 これに対し、道安は、仏教の教義は仏教経典によってのみ理解すべきであると主張し、格義仏教を批判した。しかし、道安自身の仏教理解にもやはり、老荘的性格が見られるという。老荘思想と仏教との結びつきは、後々まで、中国仏教の性格を決定する強い要素であり続けた。空や涅槃、縁起といった、仏教に見られる思想・概念の多くは、中国にはそもそもなかったものである。したがってそれらは、中国人に理解・受容される段階での変質、中国化を避けがたい。中国人は長い年月を要して、インド人とは違った方法で、仏教を自分のものにしていく必要があったのである。
 東晋・五胡十六国時代の仏教の発展には、道安(314〜385)の果たした役割が大きい。
 道安は、格義仏教を排し、仏教経典のみによる仏教理解の方法を確立した。
 また、道安は、翻訳事業を推進し、経典の漢訳及び経典研究に尽力した。彼は、訳経を研究し、序や註釈をつけるなどするほか、経典研究に欠かせない経録(経典の目録)を制作した。翻訳僧たちが思い思いに経典の漢訳を行ったため、漢訳経典は全く未整理の状態であり、また、本物の経典であるか疑わしいものも多くあった。そこで、彼は、経典研究のため、仏法を永久にとどめるために、経典を体系的に整理し、訳経の序や註釈、経典の訳時、訳者等を記録した。これが、中国最初の経録である『綜理衆経目録』である。
 さらに、戒律を重視した道安は、初めて本格的な律の翻訳を行い、戒律を研究し、僧団の日常生活の規範や僧徒の修行方法を明示した。
 こうした道安の活動は、この少し後、鳩摩羅什によって新しい経典翻訳が行われた時代の、仏教の飛躍的発展の下地となった。
 サンスクリット語を漢語に翻訳する際、「質」を重んじるべきか「文」を重んじるべきか、すなわち、内容が直接的に伝わる直訳を行うべきか読みやすく美しい文にするために中国風の文飾を加えるべきか、ということが問題にされた。一般に、「質」を重んじる論のほうが優勢であったが、この論は建て前でしかないことが多く、実際には、中国知識人たちに受け入れられやすく理解されやすいように、「文」を重視した翻訳が行われることが多かった。こうした中、道安は、翻訳の原則を示した『摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序』を著している。
 数多くの経典翻訳者が中国で活躍したが、そのうちもっとも重要な人物は、鳩摩羅什(344〜413)であるといえよう。
 道安の勧めにより、前秦の苻堅(位:357〜385)は、亀茲から鳩摩羅什を迎えようとした。しかし、鳩摩羅什が来ないうちに両者ともに死亡し、後秦の姚興(位:394〜416)が鳩摩羅什を長安に迎え入れた。
 語学に非常に優れていた鳩摩羅什の翻訳は、非常に優れたものであり、的確な訳語が用いられ、文章も流暢で理解しやすいものであった。
 彼の翻訳は一時代を画するものであった。彼の訳文は訳文の模範とされ、彼以降の訳経者の訳文は、彼の訳文に従うようになり、彼以前の訳経よりはるかにわかりやすい漢訳経典が生みだされるようになった。彼の翻訳によってはじめて訳文のみによって仏教を理解し研究することが可能となった、とまでいわれる。
 鳩摩羅什の翻訳は、次の隋唐期の仏教への準備となった。仏教研究が漢訳経典のみによってできるようになったことが、隋唐期に中国独自の仏教が生み出されるようになったことの主要な基盤となったのである。例えば、彼が翻訳した経典のうち、『法華経』によって天台宗が、『阿弥陀経』によって浄土教が、『中論』によって三論宗が、それぞれ成立した。
 なお、鳩摩羅什以前の翻訳は「古訳」、鳩摩羅什以降玄奘以前の翻訳は「旧訳」、玄奘以後の翻訳は「新訳」と呼ばれ、区別される。
 教義理解の進展という点に関しても、鳩摩羅什は大きな功績をあげた。例えば、大乗仏教と小乗仏教の問題である。彼は、中国仏教において、大乗仏教と小乗仏教の峻別をはじめて明確にし、大乗仏教の教義を深く掘り下げ、正確に示した。東アジア仏教を大乗仏教中心へと方向付けたのは彼であるとさえいわれる。
 仏教が国家によって保護されたこともあり、東晋及び五胡十六国時代から南北朝時代まで、仏教の中心となる地域は、南朝の建康及び北朝の大同・洛陽・長安といった、都の置かれた地域であった。また、西方からの仏教情報の最前線であった涼州も、仏教の中心地の一つであったし、廬山のような神聖な山岳も、仏教修行の地として重要とされていた。
 なおこの時代、僧侶の修道形態は、大別して二通りの形態をとる。
 一つは山居隠遁型で、中国に伝統的な隠士の生活の仏教版である。ここから道教や山岳信仰と習合した独特の仏教が形成された。
 もう一つの形態は、都市にあって時の支配者の手厚い保護を受け、講学に励むというものである。
 儒教は、社会や人間の関係を規定し、礼や道徳を説く。「怪力乱神を語らず」として、人間の社会を超えた存在について、説くことはない。一方道教は、儒教とは異なり、人を超えた存在や世界の原理について説き、個人の救済を視野においている。この点で、仏教と道教の間には、共通点があった。また、道教には、国家を支え、国家に保護されたイデオロギーであった儒教とは違い、為政者の学ではないという気安さもあった。そのため、仏教と道教は、もちろん対立が無かったわけではないものの、比較的容易に結びつくことができた。
 しかし、儒教と仏教の間では、そうはいかなかった。仏教が漢民族社会に広まっていった東晋以降の南朝においては、仏教に理解を示す為政者・知識人が多くいた。例えば、北斉の顔之推(532〜602)の『顔氏家訓』には、儒教と仏教の根本は同じであり、儒教が仏教に背くということはない、と述べられている。これは、南北朝末期の漢民族貴族の一般的な見解であったらしい。だがその一方、「仏教は夷狄の教」「仏は儒に背く」との考えもあり、仏教を排斥しようとするものも多かった。
 そうした中、仏教側にも、仏教と儒教との共通点をあげ、強調を図ろうとする動きがあった。
 特に、出家修行と仁・忠孝の概念との融和が問題であった。出家は、家族や君臣といった人間関係を崩壊させ、ひいては社会秩序を破るものであり、忠孝に背くものであるとして批判されていた。
 そのため、仏の慈悲が衆生の救済を目的とすることが強調され、出家修行の目的が他者を救うことであるとされた。これは、儒教の独善を排し兼善を尊ぶ考えや、修身・斉家・治国・平天下の趣旨に合致するものとされた。
 こうした理論をおし進める上で、大乗仏教の菩薩道は都合がよかった。だからこそ、鳩摩羅什によって大乗仏教と小乗仏教がはっきりと峻別され、大乗仏教の教義を深く正確に示されると、中国の仏教僧たちは積極的にこれを取り入れた。中国仏教においては、大乗仏教の一切衆生救済が信奉され、小乗仏教の出家主義が、老荘の隠遁思想と同様に独善的なものであるとして批判されることもあった。
 さらに、『父母恩重経』が創作されるなど、孝の概念が強調され、また、皇帝の任務を衆生救済の実現として讃えるといった、俗権との折り合いをつける考えも現れた。儀式面での変容も進み、本来行われなかった葬儀や先祖崇拝の儀礼が行われたりするようになった。中国において、仏教は、孝を重んじ、先祖に対する供養を重視する宗教へと変容していった。
 仏教が中国社会に受容されていくためには、こうした中国思想に基づく変容を余儀なくされたのである。
 後漢末から南北朝期までに、量・種類ともにおびただしい数の仏教経典が西域や南海経由で中国に輸入され、漢訳された。
 それにともない、仏教経典にも注釈がつけられるようになった。これが、注疏である。中国では、諸子、とりわけ儒教の典籍に対する註釈の伝統がある。それ故に、注疏が活発に行われたのであろう。また、儒教などの典籍に対する註釈がそうであったのと同様、仏教経典に対する註釈も、独立の書をたてることなく「註釈」という形式を守ったまま、自己の思想を主張するための道具でもあった。
 この経疏にみられる様に、中国では学問仏教が盛んであった。このことも、中国仏教の特色のひとつである。
 経典を受容するのみでなく、中国の各時代の宗教的ニーズに応じた経典を偽作することが行われた。これが、偽経(疑経)である。偽経は、南北朝期を中心に、あるいは仏教の権威をかりて時代・環境に応じた新鮮な主張を表現する手段として、あるいは仏教を中国にあわせて適応させるための手段として、盛んに制作された。例えば、儒教思想にあわせて孝を強調した『父母恩重経』などが、そうである。偽経にはさまざまな批判があり、経録作成時にも問題となったが、もともと宗教的ニーズに応じて制作されたものであったため、また、それぞれに独自の思想が盛り込まれていることが多いため、人気があり強く支持される経典も多い。
 釈迦の死後、仏教は時代を追うごとに変化してゆき、さまざまの宗派に分裂した。当然、時代ごと、宗派ごとに、その教義内容は異なる。中国は、インド仏教の変遷の歴史を知らぬまま、そうしたさまざまな教えを無区別に輸入した。また、経典を輸入したのみでなく、偽経の制作をも行っている。
 さらに、多くの経典が、その冒頭に、「如是我聞」の四字を置いたことから、経典のほとんどが、釈迦によって直接語られたものとして受容された。
 こういうわけで、同じ釈迦が語った思想でありながら、それらの思想が相矛盾する、ということになってしまったのである。このため、釈迦はなぜ矛盾・対立する教義を説かなければならなかったのか、釈迦の教義の核心は何か、といったことを追究する必要が生じたのである。釈迦が説いたとされる多くの経典を何らかの基準に基づいて整理・統合することを、教相判釈という。釈迦が説いたとされる教義の矛盾を解決する必要性故に、この教相判釈が中国仏教における重要な課題となるのである。
 中国人が仏教を学ぶ手がかりは、漢訳経典のみであった。だからこそ、求法の旅や経録、経疏、偽経の制作、教相判釈が行われた。新たな宗派をたてる場合にも、その根拠づけは、経典によって行われた。
 北魏(386〜534)の太武帝は、426年に長安を占領し、さらに北涼を滅ぼして涼州を占領した。長安と涼州という二大仏教圏が北魏に組み入れられ、北魏仏教の活力を高めることとなった。
 五胡十六国時代にその基礎を築いていた仏教教団は、南北朝に入って急速に発展した。だが、仏教教団の急速な拡大のために、教団に対する国家の統制の問題が起こった。
 本来出家者は出世間の存在であり、世俗の諸活動とは、政治的にも経済的にも無縁であった。それゆえに、世俗の権力者たちも、政治的介入を控え、税金の免除などを行った。しかし、中国では、反乱・一揆に仏教が利用されたり、税を免れるために出家者の免税特権が利用されたりした。僧尼には、租税や徭役を免ぜられるなどの特権があったため、この特権を目当てに、公の認可を得ず出家する私度僧が横行していた。また、大寺院は広大な土地を所有し、経済的繁栄を遂げるとともに、営利にはしり、堕落していくこともあった。このため、仏教は、出世間性を失うとともに、国家の教団統制や廃仏を受けるようになったのである。例えば、北魏は、僧制四十七条を設け、道人統という僧官を設けて僧尼あるいは仏教教団の統括にあたらせた。
 太武帝(位:423〜452)は、道士の寇謙之らを信任し、道教を重んじた。彼は、道教保護政策、北魏の漢化政策、仏教の急激な発展と堕落などを背景として、太平真君七年(446)、廃仏を断行した。この廃仏により、寺院の破壊、経典の焼却、僧尼の還俗などがなされた。これが中国仏教史における四回の仏教弾圧事件である「三武一宗の法難」の一回目のものである。
 452年、文成帝は復仏の詔勅を下し、仏教の復興を進めた。僧を管轄する僧官である沙門統に就任した曇曜は、仏教復興事業の一環として、都・大同の近くに雲崗石窟を造営した。曇曜は、道武帝以下の北魏の五帝を五体の大仏で表し、「皇帝即如来」の思想を具体化して表現した。
 孝文帝(位:471〜499)は、洛陽の南、伊河のほとりに、竜門石窟を造営した。北魏から唐に至るまでの約400年間に渡って造営されたこの大石窟・竜門は、敦煌、雲崗とともに三大石窟と呼ばれる。
 このころ、太武帝の廃仏に対する反動や仏教保護政策のために、仏教勢力は再び盛んになっていた。地論宗の基となる典籍を翻訳するなど、とりわけ重要な翻訳を行った菩提流支や、中国浄土教の祖の一人とされる曇鸞らが活躍している。
 北周の廃仏は、建徳三年(574)、北周の武帝によってなされた。この廃仏によって、仏教寺院が没収されて貴族の住宅に当てられ、経典は焼かれ、多数の僧尼が還俗させられた。この廃仏の背景には、仏教の堕落や道仏の対立、皇帝専制体制に都合のよい儒教が国家統治の原理として採用されたことなどがあった。
 武帝の廃仏のあとにも、その反省・反動や危機感情から護法の運動が起こっている。
 武帝の廃仏のあとの護法の運動には、末法思想もかかわっている。このころ釈迦と老子の生誕の前後があらそわれていため、552年頃から末法が始まるとされていた。また、この頃新たに翻訳された経典にも幾つか、末法思想について述べられたものがあった。そこへ、北周の廃仏が起こった。北周の廃仏により仏法の瀕した惨状を目の当たりにした仏教徒は、急速に末法の到来を意識するようになった。
 そのため、仏法を永久に保存しようとする護法の精神が強まり、経典を石刻する刻経事業が急激に興った。隋代には、那羅延窟や房山石経が造営されている。房山石経の刻経事業は、隋から金・元に至る数百年の間、断続的にではあるものの、継続されていった。
 西晋が滅ばされると、西晋の一族が南下して東晋を建国した。このとき、貴族たちも含めた大量の漢民族が南下したこともあり、漢民族の有する文化が南方に進出した。これが、中国南部における仏教の発展の理由の一つとなった。
 中国には、東南アジア経由でも仏教が伝えられてきた。インド仏教がスリランカ経由で東南アジア諸国に受容・消化され、それが中国に伝えられたものと、インドから中国へ、海路で直接伝えられたものが、それである。こうした仏教は主に長江以南、南北朝における南朝で受容されていった。
 南朝では貴族的文化が発達し、貴族社会では高踏的・哲学的思想論議がもてはやされていた。仏教方面でもそうした傾向が強く、南朝の仏教は研究中心となる傾向が強く、教学が発達した。
 こうした状況のもと、南朝の仏教は、歴代の皇帝たちの保護を受け、首都・建康を中心として発展していった。
 東晋の仏教の初期に活躍したのが、道安の弟子の一人であった、廬山の慧遠(334〜416)である。
 慧遠は、白蓮社を創立し、阿弥陀仏を信仰し西方浄土への往生を願う浄土教をひらいた。白蓮社は中国浄土教の源流の一つであるといわれる。また、白蓮社は、中国における初の組織的な仏教結社であった。
 慧遠は阿弥陀信仰を起こしたが、その頃弥勒菩薩や観音菩薩の信仰も起こっている。また、この頃、仏教を平易に説くなどして民衆の仏教享受をはかり、あるいは社会奉仕や医療の方面で活躍するなどして民衆のために貢献する僧尼も現れた。こうしたことが背景となって、この時代、仏教の民衆化が進んだ。
 慧遠は、世俗の権力との妥協せず、世間と出世間とを区別づけ、出家教団は国家権力の外にあり超然たるべきであると主張し、仏門に入ったものは帝王を拝する必要はないとして『沙門不敬王者論』を著した。しかし、この「沙門不敬王者」の思想を、俗権や儒教思想の強い中国で貫き通すことは、結局不可能であった。
 世俗的な権威である王法と出世間の教えである仏法との関係について、師であった道安は、「国主に依らずば則ち法事立ちがたし」と述べている。仏教に対しても強大な支配力を有していた華北の皇帝権の存在と、その皇帝権と自らとの、保護被保護の関係が反映されているのであろう。皇帝権の強い華北の王朝では、沙門の皇帝に対する拝・不拝は、問題にすらならなかった。北魏初代の道人統は、皇帝は当今の如来であり、礼を尽くすべきである、として、皇帝を拝していた。
 だが、国家の統率力の弱い華南にあった慧遠は、『沙門不敬王者論』を著し、出家者は国家権力の支配外の存在であり、国王を拝する必要はないと主張した。
 いったんはその主張を認める裁定が下ったが、つまりはそれも王法によって許されたものであるから、仏教はもはや法外の存在として国法の埒外にあることは認められなかった。慧遠の『沙門不敬王者論』は、出家者の世俗に対する独立性の主張であったが、中国の仏教教団は国家機構の中に組み入れられる度合いを強めていった。道安や慧遠は自治的な教団統制をはかり、制度を整備したが、その程度では僧尼の秩序は維持されることはなく、結局国家の介入を許すこととなった。
 その後も、沙門の拝不拝は問題となり、皇帝を拝するよう詔が出されたり、また、それが撤回されたりを繰り返していたが、唐代頃には、沙門も皇帝を拝するという結論に落ち着いていった。この頃には、中国の仏教は中国の思想・社会様式に適応したものへと変容しており、ほとんど反対意見も出なくなっていたのである。出家者も肯定の進化としてみなされるようになり、儀式面でも、祝聖(皇帝への祈り)など、皇帝崇拝が行われるようになった。
 なお、皇帝に対する拝不拝と平行して、父母に対する拝不拝も問題となっていたが、こちらも、拝すべしとの勅令が出されたり引き下げられたりが幾度か繰り返されたのち、唐代頃に、沙門といえど父母を拝すべしという結論に落ち着いた。
 4世紀末、戒律は、道安などによって翻訳されたものがあったとはいえ、まだまだ不足しており、戒律の実践も極めて不完全であった。そこで、こうした状況を嘆じた東晋の僧・法顕(337?〜422?)は、経と律とを求めてインドへと求法の旅に出た。同じ頃、法顕のほかにも幾人かの僧がインドを訪れている。この頃から、中国人がインドに行き、実際にインド仏教に触れ、あるいはインドから中国に仏教を直輸入するようになった。
 法顕が律を得て帰国した頃には、中国でも鳩摩羅什によって律の翻訳作業が進められていた。鳩摩羅什によって翻訳された律と、法顕によって中国に持ち込まれた律によって、戒律の実践、僧伽の運営や修行方法に対する理解が進んだ。
 ただ、律の実行には限界があった。律の研究者は多くあったが、完全な実践者はほとんどいなかった。たとえば、僧は三衣一鉢のみを持ち、粗末な袈裟を片肌脱ぎで着するのみであると定められているが、これは礼教を重んじる中国では受け入れがたいことであった。戒律を生み出したインドと中国の間の環境・文化の差は大きく、中国社会の中にあって戒律をきちんと実践しきることは、まず不可能である。戒律の文字どおりの実践は、僧として当然ことと認められていたのではなく、ただ形式のみのものとみなされていたのである。
 インドやスリランカだけでなく、東南アジアからも、仏教が輸入されていった。
 現在のカンボジア南部からメコン川下流部にあった扶南国は、仏教が盛んであった。484年、扶南国王から斉へと、仏教僧が派遣されている。また、五世紀後半から六世紀中頃にかけて梁に渡り、翻訳活動を行った僧もいた。
 南朝は、宋、斉、梁、陳と王朝が変遷したが、仏教文化の黄金時代を迎えたのは、梁の武帝(位:502〜549)の時代であった。
 梁の武帝は、皇帝菩薩、菩薩天子などと呼ばれ、仏教を熱烈に信奉し、保護したことで有名である。自ら積極的に仏教活動を行い、仏教関係以外の政策面でも仏教の影響の強い政策を打ちだしている。その生活においても、布衣を着し酒肉を絶ち、出家者と同じ生活を送ったという。さらには、しばしば捨身を行った。皇帝たるものが布衣を身につけ捨身を行うというのは、儒教的伝統の見地からは、考えがたいことである。また、漢民族の伝統的な祭祀のスタイルを、仏教の教義に合うように変えてしまうということもあった。仏教を保護した皇帝は多いが、そのほとんどは政治的理由からで、梁の武帝のように、心底仏教に傾倒してしまうという例は珍しい。
 武帝の時代、首都・建康には、多くの寺院が建設され、僧侶たちが集った。仏教学も発達し、仏教文化が隆盛をきわめた。
 南朝を通じてもっとも顕著な功績をあげた訳経僧の一人とされるのが、真諦三蔵(499〜569)である。
 真諦三蔵は、梁の武帝に招かれ、太清二年(548)、南海航路を渡って建康にやって来た。彼の翻訳活動によって、中国の仏教学界にインドの唯識思想の体系が伝えられた。また、彼の訳した典籍は、摂論宗や倶舎宗の土台となり、華厳宗の思想形成も大きな影響を与えた。
 南北朝時代の仏教で重要なものに、禅宗がある。
 禅経は後漢末には既に中国に伝えられていた。初期に伝えられた禅は小乗禅であったが、南北朝期には次第に大乗禅へと移行しつつあった。そうした中、菩提達磨が中国に渡来し、大乗禅を広め、中国の禅の基礎を確立したという。
 禅は、南北朝時代、主に南朝で発達した。禅は個人主義的傾向が強く、南朝では受け入れられたが、北朝では弾圧される傾向にあった。

<隋の仏教>
 大象9年(589)、隋の文帝(位:581〜604)によって天下が統一された。
 異民族の王朝と漢民族の王朝に分裂していた中国を、再び一つに纏め上げたため、隋は、漢民族と異民族の摩擦という問題を抱え込むことになった。この問題を解決し、新たな統一国家の基礎を確立することが、文帝の急務であった。
 こうした状況下、文帝は、新国家の精神基盤・施政原理として、仏教を採用した。一切の差別を超越し、超民族的である仏教は、漢民族と非漢民族との融和をはかるには都合がよかったのである。
 こうしたわけで、文帝は、大興善寺を中心として仏教保護政策をおしすすめていった。文帝に続いて煬帝(位:604〜618)も、仏教に理解をしめし、文帝と同じく仏教保護政策をとった。
 このように、隋の仏教は国策に利用され、国家の庇護下におかれたため、国家宗教としての性格を強く有していた。
 隋代には、仏教界にも大きな動きがあった。前述の通り、北周の廃仏を契機に、その反動、危機意識から、仏教復興の運動が巻き起こっていた。また、南北仏教が統一されたことは、中国仏教界に大きな刺激を与えた。
 仏教保護政策、仏教復興運動、南北仏教の統一により、隋代には仏教が飛躍的に発展した。隋代に新たに成立した宗派に、三階教や天台宗、三論宗がある。隋代の仏教の発展は、唐代の仏教最盛期の基礎となった。
 隋唐期は、南北朝時代までの輸入仏教が、中国的な思想・感情に適応した中国仏教へと再組織され、宗派の体制が確立した時代であった。

<唐の仏教>
 唐王朝は、諸宗教に対して寛大であり、保護を加えたが、道教の開祖・老子と唐王室が同姓であるとして、道教を特別に重んじた。そのため、道教の地位を仏教の上におくとする「道先仏後」の政策をとった。武周朝期には、則天武后(位:690〜705)が仏教を重んじたためにこの席次が覆されたものの、基本的に、唐代の仏教政策は「道先仏後」で貫かれ、玄宗(位:712〜756)や武宗をはじめ、唐の歴代の皇帝たちは道教を尊んだ。しかし、実際の社会上の勢力は、仏教のほうが上であった。
 唐代の仏教は、中国史上、最も隆盛を極めた。
 玄奘(602〜664)、義浄(635〜713)らがインドに渡り、それぞれ唯識学や律などに関する新たな知識を中国に伝えた。また、玄奘は、太宗(位:626〜649)の援助のもと、翻訳活動をすすめ、非常に大きな成果をあげている。
 東晋頃から呪術的要素の強い雑密が伝えられていたが、それよりも体系化された純密が、不空(705〜774)によって伝えられた。また、不空は、翻訳においても功績が大きかった。
 こうした新たな仏教からの刺激もあり、唐代、教学仏教は最盛期となった。地論宗や摂論宗の学説を取り入れ『華厳経』に基づいて華厳宗が開かれ、真諦三蔵や玄奘のもたらした唯識学を基として法相宗や倶舎宗が開かれた。
 唐の国威高揚を背景に、唐代の中国仏教は東アジア世界に伝播した。渤海、朝鮮、日本、ベトナムを包括する東アジア仏教圏が形成され、『漢訳大蔵経』に基づく中国仏教が、東アジア諸国に伝えられた。
 唐代は、律令格式が整備され、それに基づく体制が整えられた時代であった。仏教関係の条目の基本であった道僧格をはじめ、出家者の犯罪等、仏教に関係する事柄についても規定が設けられていた。
 道教及び仏教に関する宗教行政は、唐初は政府の鴻臚寺に、玄宗以降は鴻臚寺と尚書省の祠部に所属していた。また、唐の中期頃から、中央には僧録が、地方には僧統・僧正が設けられ、仏寺や僧尼の管理・統括にあたった。
 私度を防止するため、出家者の籍を厳重に管理し、試験によって出家者を選考する制度が設けられた。公度の出家者には、祠部から度牒が交付され、身分が保証された。
 唐代には、出家者といえども国家の法の支配下に置かれ、俗人の統括を受けるという原則が確立されたのである。
 その後、唐代以降も、形式に多少の違いはあっても、こうした仏教統制のための諸制度は続いていった。
 唐の中期以降、仏寺で催される年中行事に、一般大衆が参加するようになってゆき、民衆のために、教義を平易に親しみやすく説いた俗講が起こった。仏教が民衆の間に浸透していくにつれて、仏教は娯楽化していった。寺院は民衆にとっての文化の中心地であるとともに、娯楽の場でもあった。特に年中行事が催される時には、多くの人々が集まり、それにともなって市も開かれるようになった。
 また、僧尼達は、孤児や病人等弱者に対する福祉活動や、治水、橋梁の架設、無料宿泊施設の設置などの社会事業にも積極的に貢献した。寺院による貧困者救済目的の金融事業もまた、社会事業の一種であったが、三階教の無尽蔵院のように、のちに営利目的化するものもあった。
 安史の乱以降、貴族社会の崩壊と庶民社会の台頭が進んだ。仏教も、これまでは長安や洛陽に集中していたが、地方へと分散・浸透していく傾向が強くなっていった。
 唐の武宗は、会昌五年(845)、決められた数の寺と僧尼とのみをとどめ、そのほかの諸寺をすべて破壊し、僧尼を全て還俗させた。また、寺院の荘園所有を禁じ、寺院財産を没収した。これが、会昌の廃仏である。
 この廃仏の原因の一つに、武宗の道教信奉があげられる。
 また、唐代の仏教勢力の拡大とその堕落も、廃仏の原因の一つであった。この時代、寺院は土地寄進による大土地所有を進めており、経済的繁栄を遂げてはいたが、その一方、免税目当ての私度僧や僧尼に与えられる特権を利用して暴利を貪る出家者が増加するなどして、仏教界の腐敗が進んでいた。
 この現象は経済的問題にもつながる。僧は農耕等の労働を行わず、免税特権を有するため、免税目当ての私度僧の増加は、労働力不足と税収減の元となった。寺院の大土地所有も、土地集中という問題を引き起こす。また、寺院が広大な土地を所有するようになった背景には、寺院に土地を寄付することで、課税を免れようとする者が多くあらわれたこともある。このこともまた、税収減を引き起こした。
 武宗の死後、廃仏の動きはやんだ。しかし、晩唐の仏教にはかつてのような力はなく、唐の国力低下にともなって、徐々に衰微していった。

<五代十国の仏教>
  唐末五代の戦乱のために寺院は荒廃し、経典は散逸して、教学仏教は衰微した。教学仏教に代わって、実践中心の禅宗が地方を中心として栄え、臨済宗、曹洞宗、雲門宗などの禅宗五家が成立した。
 華北地域の五代の王朝は不安定で、抗争が続いたため、仏教界に大きな発展はなかった。
 しかし、華南地域の十国の政権は比較的安定しており、経済面でも文化面でも発展していた上、皇帝が仏教を保護したため、仏教は盛んであった。とりわけ呉越(907〜978)や南唐(937〜975)の皇帝たちは仏教を重んじた。
 比較的大衆に密着した仏教であった江南仏教や、都市を離れた山岳の仏教は、戦乱や仏教弾圧の被害をうけることが少なかった。都市中心の教学仏教に比べ、そうしたところに基盤を置いていることが多かったことも、禅宗の発展の要因の一つであった。
五代時代にも三武一宗の法難の一つが行われた。後周の世宗の廃仏である。世宗は、顕徳二年(955)、勅額の無い寺院を基本的にすべて廃止し、出家志願者に対しては試験を課した。また、仏像、鐘鐸類を没収し、貨幣鋳造に用いた。 
 この廃仏の背景には、私度の横行、僧尼の質の低下、風紀の乱れなどの仏教の堕落や、銅の欠乏と国家財政の逼迫などがあった。経済面での問題は、この廃仏の動機の大きな要素であった。没収された寺院の財産が、逼迫した財政の補いとされたのである。

<宋の仏教>
 宋の太祖(位:960〜976)は、後周の世宗の破仏のあとをうけ、世宗の仏教政策の極端な面を補正し、仏教復興政策をすすめつつも、造寺や出家の制限など、ある程度の規制を加えていくという方針をとった。太祖の時代、「仏先道後」と、道仏の地位が定められ、道教を信奉した徽宗(位:1100〜25)が「道先仏後」と席次を改めるまで、北宋時代には概ねこの姿勢が貫かれた。
 宋代にも、五代十国時代に引き続いて、禅宗が最も盛行した。また、浄土教も栄え、天台宗や華厳宗の復興も進められた。経済面においても、唐に劣らぬ繁栄をみせている。
 だが、宋代の仏教の思想面での進歩はあまりなく、基本的に、唐代仏教の保持・継承であった。また、財政難をしのぐため、祠部から試験に合格した僧尼に対して発行されるべきものであるはずの度牒が、公売されるようになった。これにより、仏道を求める心などなく、仏教に対する理解をろくに持ちあわせていない者でも、金さえ払えば僧になることができるようになった。さらに、高僧に対して与えられる紫衣・師号が公売され、その次には僧職までが売買されるようになった。また、唐代から格式の高い寺院には勅額を与える制度があったが、宋代には勅額が乱発され、勅学寺院の格の低下を招いた。
 財政難をしのぐために度牒の公売を行った結果、免税特権を持った僧尼の増加を招き、かえって財政難が悪化した。このため、僧尼に対する課税が行われるようになった。しかし、特権寺院は免税を認められており、また、一般寺院でも様々な理由をつけて免税されることが多かった。この傾向は、貴族の圧力もあってより拡大されてゆき、結局当初の目的を果たすことはできなかった。
 この時代、禅宗を中心に、仏教史学の研究が盛んに行われている。禅宗では、司馬光の『資治通鑑』に倣った編年体の仏教通史が発達し、天台宗では、司馬遷の『史記』以来、中国の正史に用いられてきた紀伝体が用いられた。
 宋代以降、中国仏教の中心地は、呉越の首都であった杭州となり、江南の仏教界が中国仏教の主導権を握ってゆくようになった。これは、江南の経済都市が、長安・洛陽といった華北の政治都市を凌ぐほどに発展していったこと、仏教が首都の貴族だけのものではなくなり、普及・大衆化していったことを反映している。
 仏教の教義は、初期段階には口頭で伝承されてゆき、西暦紀元前後頃からは文字によって経典として筆録されるようになった。仏教教義が文字によって記録・伝達されるようになると、筆写の功徳がとなえられ、写経が盛んになった。中国でも、当然、仏教伝来以来、経典は書写されていた。
 しかし、仏寺や僧尼の増加によって経典の需要が増加し、また、印刷技術の開発も進んでいったために、唐代から、経典製作に印刷が使われるようになっていた。宋の太祖や太宗も経典印刷事業を推進し、印経院を設立して印刷活動にあたらせた。太祖と太宗の勅によって大蔵経の印刷が進められ、宋の勅版大蔵経が出版された。この、宋の勅版大蔵経は、近隣諸国へと伝えられ、それぞれの国々の仏教に大きな影響を与えた。
 宋代、仏教は、社会との交渉を深め、民衆の生活の中に入り込んでいった。特に注目されるのは、寺院と商業との関係である。宋代には市の発達が進んだが、これには寺院との密接な関係があった。寺院はその地方の文化の中心であり、年中行事には多くの人々が集い、楽しんだ。彼らを目当てに商人たちも集まるようになり、それが固定化されて市となり、やがては門前町として発達していったのである。
 宋代には、儒教界にも新たな動きが起こっている。
 科挙制度が大成され、儒教を修めた人物が官吏に登用されるようになると、儒教がより重んじられるようになっていった。
 また、これまで儒教は、礼学、社会道徳がその中心であったが、この時代、独自の世界観を有する哲学あるいは宗教としての色合いを強めていった。
 こうした変革の中で、儒教がその勢力を強め、社会的地位を向上させるにつれて、仏教の地位は低下した。儒教側も理論武装をかため、仏教排撃を強めるようになった。
 さらに、契丹・女真・蒙古といった北方民族の圧力が、漢民族知識人たちの国粋主義的思想をあおり、このため、尊儒廃仏思想が台頭した。
 だが、高まる排仏論に対して、三教の調和を説く者もいた。こうした中、儒教・仏教・道教の間で均衡がとれ、儒仏道三教の融合ともいえる思想体系が形成されていった。中国の仏教が宋代には既にほぼ完全に中国化しており、外来宗教としての性質を失っていたことも、その要因の一つと言えよう。この三教融合の状態が、今に続く中国人の思想の土台であるとも言われる。

<遼・金の仏教>
 遼は、仏教を重んじ、保護する政策をとっていた。
 もともと、契丹人の固有の信仰は、氏族制と結びついたシャーマニズムであったにもかかわらず、あえて仏教を国教としたのである。それには、政治的背景があった。
 契丹が中国的な君主専制体制を確立するためには、従来の氏族制を打破する必要があった。また、遼の領域内には漢民族や渤海人も多く、国家の安定のため、領域内の諸民族、特に契丹人と漢民族との融和をはかる必要があった。遼は、内陸部の経済的・文化的発展のため、内陸部に漢民族を移住させる政策をとったが、このときにも、移住先に仏寺を建設するなどしている。
 こうしたわけで、氏族的で、契丹人のみが信仰していたシャーマニズムではなく、超氏族的・超民族的な性格を有する仏教を国教として採用し、仏教を人心収攬の手段としたのである。
 遼代の寺院の経済力を支えていたのは、二税戸という制度であった。二税戸とは、貴族や寺院に与えられた民戸で、税の半分を国に、半分を自分の属する貴族や寺院に納めたものをいう。二税戸からもたらされる収入を経済基盤として、有力寺院が力を伸ばしていった。
 こうして、国家の保護のもと、仏教は盛んになった。とりわけ11世紀中頃には、国力の充実を背景として特に手厚い保護をうけ、房山石経の刻経事業や契丹大蔵経の出版などが、国家事業として進められた。
 遼代には仏教教理の研究も盛んに行われた。遼の仏教は華厳宗が中心であったが、密教や律宗も尊ばれた。しかし、これらは純粋なものではなく、融合の傾向が強かった。
 こうした教理研究の中枢にあったのは常に漢民族ではあったものの、仏教は、契丹人にも浸透していった。契丹人の間では密教が流行したが、これは、契丹人の固有の信仰がシャーマニズムであり、呪術的要素を含んだ密教と比較的近かったためである。
 金も、時には仏教抑圧政策をとることもあったが、おおむね仏教に対して好意的であった。
 金朝は、国家財政が窮乏した時、度牒など、僧や寺院に対して発行される許可状の類を公売した。金代にも、私度僧を取り締まる制度や仏教統括のための制度があったものの、度牒等の公売が行われていたため、全く有名無実のものであった。また、当然ながら、度牒の公売は仏教界の質的低下をもたらした。

<元の仏教>
 元は、支配地域内の宗教に対して、比較的寛大かつ平等で、反蒙古的でない限り、自由な活動を許していた。元の支配下にある諸民族の懐柔をはかり、元の支配を安定化させる必要があったためである。
 太宗(位:1229〜41)以降、歴代の皇帝たちは仏教を尊んだ。特に、世祖(1260〜94)以後、元朝の仏教尊崇は強まっている。なお、元代の仏教統括機関としては、仏教及びチベット関係の事項を担当した宣政院や、仏教関係の官府であった功徳使司などがある。
 憲宗(位:1251〜59)の時代、ラマ教が伝わると、以降の皇帝たちは皆、熱狂的にラマ教を尊崇し、破格の優遇を与えた。
 元代のラマ僧で最も有名なのが、パスパである。彼は、世祖の信任を得、国師として厚遇され、手厚い支援を受けた。パスパの活躍は、以降の元朝の熱烈なラマ教尊崇の基礎となった。世祖らは狂信的ともいえるほどにラマ教を優遇し、そのために、ラマ教は大いに隆盛を誇った。
 このようにラマ教が尊崇された背景には、元が、漢民族社会になかった仏教を奉ずることで、元政権の独自性を示そうとしたことや、ラマ教の華やかで神秘的な儀礼が、モンゴル人たちに好まれたことなどもある。
 元代には、仏教が繁栄する一方、道教も盛んであった。
 道教の一派である全真教の勢力が伸展すると、それが華北の仏教を圧迫し、道仏の間に確執が生じるようになった。道仏の対立を背景に、世祖によって道教が弾圧されるという事件も起こっている。だが、世祖以降は、道仏の対立は沈静化してゆき、皇帝も道仏二教をともに保護した。
 ラマ教が隆盛を誇る一方、旧来の仏教も、漢民族社会を中心に信奉されていた。元代に最も盛んであったのは禅宗であったが、元代の仏教は諸宗融合の傾向が強く、兼修兼学も盛んに行われていた。また、江南地方を中心として、白蓮教や白雲宗といった教団が大きな勢力を有していた。これらは、宋代、仏教と民間信仰や迷信とが結びついて起こったものである。邪教としてしばしば弾圧されていたものの、秘密結社の形をとって大きな勢力を有していた。
 元朝のラマ教に対する優遇は常軌を逸したものであったが、そのために、ラマ僧たちは次第に専横にはしるようになった。また、元朝のラマ教狂信のため、巨額の国費がラマ教のために費やされ、財政の窮乏を招いた。そのため、ラマ教や元朝に対する不満が募っていった。
 ラマ教や元朝に対する不満を募らせた人々、特に漢民族の中には、前述の白蓮教団や白雲宗に入る者も多くあらわれるようになった。そうした中で白蓮教徒が大勢力となり、元に対して、紅巾の乱と呼ばれる反乱を起こした。

<明の仏教>
 洪武帝(位:1368〜98)ら、明の皇帝たちは、仏教保護を強調しながらも、反乱の基盤となりやすい存在である仏教教団への取締りを強化していった。明の仏教統制機関には、元の宣政院に倣った善世院などがあり、それは、清代にも引き継がれていった。当然私度僧を取り締まる制度もあったのだが、明代にも売牒が行われ、銀を納めないと出家ができないといった有様となった。また、度牒を買い取り僧となる者のほとんどは、租税や徭役の免除が目当ての者や、逃亡を目当てとする者であり、当然のことながら、仏教界の質は低下していった。
 また、元の末期のように、白蓮教徒たちはしばしば反乱を起こした。このため、寺院建設の禁止や出家者の還俗などの仏教の粛正を求める上奏が相次いだ。仏教教団に関する問題は、行政上の重要問題の一つであったのである。
 元代にラマ教におされていた他の教派も、明代には再び力を伸ばした。明代の仏教を代表するのは、禅宗と浄土教であったが、この時代は諸宗の融合がさらに進んでいた。禅浄一致を主軸とする各宗互融が、明代仏教の大きな特色の一つであった。
 また、ラマ教も、元代ほどの繁栄はないが、それでも尊重され続けており、皇帝の中にも、ラマ教を信奉するものがあった。
 明代には、印刷技術が発展し、四回にわたって大蔵経出版が行われた。その代表的なものは、康煕十五年(1676)に完成した万暦版である。万暦版は、明本とも呼ばれ、翻読に便利な形体であったため、蔵経普及に役立った。
 明代には、儒・仏・道の三教の融合がいっそう進んだが、とりわけ儒仏の融合が著しく進んだ。明代の僧には、儒教、特に陽明学派と交渉をもつものが多かった。また、仏教側からだけでなく、儒教側からも、儒仏融合を支持するものが多くあらわれるようになった。王陽明(1472〜1528)も、儒仏融合を支持した儒学者の一人である。陽明学には禅宗の影響もみられるという。明末には、僧も儒学に、儒学者も仏教に通じていなければならない、とまでいわれるようになっていた。
 明清期は仏教の衰退期といわれる。確かに、思想面での発展はほとんど停止しており、隋唐期のように教学仏教を中心として仏教が華やかに展開された時代ではない。だが、明清期には、仏教が、完全に外来宗教ではなく儒教や道教と同様の中国人の宗教として受け入れられ、中国人一般の精神および生活の中に溶け込んでいった。
 庶民の中に受け入れられた仏教は、道教や民間信仰と融合したものであり、彼らの生活と密着したものであった。また、庶民たちの仏教は、彼らに現世での利益をもたらす「有求必応」の仏教であり、庶民の仏教信仰はひたすら現世利益を求めるものであった。

<清の仏教>
 もともと女真族はシャーマニズムを信仰していたが、清朝はラマ教を信奉し、保護を加えていた。これには政治的意味もあった。当時、モンゴルやチベットで信仰されていたのがラマ教であり、この地の人々を懐柔するために、ラマ教が利用されたのである。
 雍正帝(位:1722〜35)など、仏教を尊崇した皇帝もいたが、清朝が信奉していたラマ教以外の仏教は、全体的に、抑圧される傾向にあった。
 清朝は、漢民族の反満思想を抑圧し、清朝による支配を安定させる必要があった。清朝は、そのために、儒教を利用した。儒教、特に朱子学の説く、忠や孝などの封建的秩序を重んじる倫理は、皇帝専制体制を確立する上で都合がよかった。そのため、清朝は儒教によって民衆教化を進めていった。こうして儒教が利用され、儒教による教化政策が進められるようになると、仏教も、儒教とは異なる宗教として攻撃を受けることとなった。
 また、白蓮教社など宗教結社によった反乱は、清朝にとっても脅威であった。そのため、清朝は、儒教による民衆教化を進め、政治権威と封建道徳の浸透をはかるとともに、仏教教団への取締りを強め、仏寺への参詣を制限するなど、民衆と仏教とを切り離し、仏教を社会から隔離する政策をとった。
 また、仏教側も堕落し、僧尼の質の低下が進んでいた。この頃の僧尼の多くは、生活のため、あるいは免税目当て、逃亡目当てに出家した者であり、本当に教えを追究しようとしている者はほとんどいなかった。そのため、仏教界は、社会からの尊敬も失っていった。清朝の仏教抑圧の政策と、そして何より仏教界自体の怠慢・堕落のために、仏教は衰微し、その権威は地に落ちた。
 こうした中、在家の人々、とりわけ儒者の、仏教研究等の活動が、清代の仏教を維持してゆく上で重要であった。在家者の手による仏教、つまり、居士仏教が、清代仏教の特徴といわれる所以である。
 道光三十年(1851)に起こった太平天国の乱によって、寺院の破壊、経典の焼棄などが行われた。清末の中国仏教界は、精神面での退廃がすすんでいた上、物質的・外的面でも、甚大な被害をうけたのである。

<近現代の仏教>
 光緒二十四年(1898)、国政革新のためには教育の改革が第一であり、そのために、もはや頽廃の極みにある仏教の寺院の土地建物を転用すべきであるとの進言が、光緒帝に対して出された。教育などのために寺院を転用してゆく運動を、廟産興学といい、清末から中華民国の初め頃まで展開され、中国仏教界を震撼させた。また、廟産興学に乗じて、寺院財産を公然と奪い取ってゆく者もあらわれた。仏教界への迫害があまりに大きくなりすぎたため、寺有財産保護令が出されたが、この法令が徹底されることはなかった。
 中華民国の初期には、政治面でも思想面でも、文化面でも、大改革が進められた。そのため、廟産興学は、いっそう盛んになっている。また、新しい社会には仏教など必要でないとする風潮も顕著になった。五・四運動の頃には、儒・仏・道の三教や民間信仰、迷信の類に対する非難が高まり、迷信打倒運動や反宗教運動が巻き起こった。占いなどの迷信的職業が禁止されるとともに、仏事や民衆の間で催される宗教儀礼も迷信であるとして排され、各地で寺院に対する破壊行動が起こされた。
 こうした中、仏教界の革新をはかろうとする動きもおこってきた。
 民国元年(1912)、敬安(1851〜1912)は、江蘇・浙江の僧を中心に新仏教運動を起こして上海に中国仏教総会を組織し、臨時政府に寺院財産の保護を訴えた。その結果、袁世凱によって寺産保護令が公布されたものの、仏教界への攻撃はその後も激化していった。
 この中国仏教総会をはじめとして、中華民国時代の前期には、中国仏教寺院の大連合が形成され、仏教界の改革と仏教復興運動が行われた。こうした仏教寺院の連合は、清末以来の社会の急変に対抗する仏教側の自衛手段であった。
 太虚(1889〜1946)は、孫文や章炳麟らの新思想の影響を受け、仏教を革新する必要性を感じていた。彼は、中国仏教の危機を救うためにも、堕落していた仏教界の怠慢・堕落を絶ち、新しい時代に見合う仏教へと仏教改革を進めていかなければならないと主張し、孫文の三民主義に倣って、仏僧(堕落した僧尼を排除し、優秀な僧尼を育成する)・仏化(全国に僧俗の信衆団体を作り、社会を仏教化する)・仏国(国土を仏団浄土とする)の三仏主義を唱えた。さらに、彼は、仏教改革の根本は、僧教育の改善であると考え、優秀な僧侶を育成するための施設を充実させるべきであるとした。
 こうした彼の構想のもと、武昌仏学院をはじめとする様々な僧教育施設や図書館などが設立された。この武昌仏学院からは、中国の代表的仏教雑誌とされる『海潮音』が出版された。
 太虚らの指導のもと、中国仏教は復興へと向かったが、丁度その頃、日中戦争が勃発し、仏教復興事業も頓挫してしまった。
 民国二十一年(1932)、国民政府に対して提出された報告では、現在中国には禅宗・講宗・律宗・浄土宗・密宗があるとされている。しかし、五宗が厳密に区別されているわけではなく、実際のところは禅浄一致の仏教が主流であった。そして、一般庶民の間で信仰されていた仏教は、前述の通り、道教や民間信仰と融合したものであり、「有求必応」という言葉に示されるように、現世利益を求める仏教であった。
 中華人民共和国では、憲法によって信教の自由が定められ、毛沢東も信教の自由を保障する談話を発している。実際、共産党政権は、日中戦争や国民党との内戦のために破壊された寺院の復興に力を尽くしている。だが、その一方、文化大革命の時期には、宗教全般に対して否定的であり、仏教儀礼を禁じるなど、抑圧を加えてもいる。
 しかし、1980年代には、宗教に対してより穏健な姿勢がとられるようになった。1980年に改正された憲法では、信教の自由がより明確に承認されるようになった。また、文化大革命期に破壊された寺院の修復も進められていった。


参考文献
・ Kenneth K.S.Ch'en(福井分雅・岡本天晴共訳)『仏教と中国社会』金花舎、1981。
・ 金岡秀友・柳川啓一監修『仏教文化事典』佼成出版社、1989。
・ 鎌田茂雄『中国仏教史』岩波書店、1978。
・ 鎌田茂雄編『仏教の受容と変容4中国編』佼成出版社、1991。
・ 全国歴史教育研究協議会編『世界史B用語集』山川出版社、1995。
・ 総合佛教大辞典編集委員会『総合佛教大辞典下』法藏館、1987。
・ 高雄義堅『中國佛教史論』平楽寺書店、1952。
・ 高崎直道・木村清孝編『シリーズ・東アジア仏教第1巻 東アジア仏教とは何か』春秋社、1995。
・ 陳寿(小南一郎訳)『正史 三国志6』筑摩書房、1993。
・ 常盤大定『支那に於ける佛教と儒教道教』東洋文庫、1930。
・ 野上俊静・小川貫弌・牧田諦亮・野村耀昌・佐藤達玄『仏教史概説 中国篇』文功社、1968。
・ 平川彰『インド中国日本仏教通史』春秋社、1977。
・ 道端良秀『中國佛教史』法藏館、1939。
・ 道端良秀『中国仏教と社会との交渉』平楽寺書店、1980。
・ 『世界大百科事典』、平凡社、1988。


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