2002年4月26日(統一テーマ『城』)
日本の城の歴史  矢野武志


初めに) 今回のテーマは「城」ということなので日本の城を時代をおって簡単に紹介していきたいと思います。中には「城」と呼ぺるのか疑わしいものもあるので、「城」および住居一般という方が正確かもしれません。
 そもそも「城」の中国での意味は英語の「ウォール」に当たっていて、日本語では「壁」となります。日本語の「城」は、英語の「キャッスル」という意味で、中国では「城塞」と言われています。だから万里の長城はお城ではなくて、英語でザ・グレート・ウォールというように壁なのです。日本でも『古事記』や『日本書紀』に「水城」とか「稲城」とか、中国風の使い方も残っています。その後、中国本来の意味から離れて「キャッスル」を意味するようになりました。


1)縄文時代
 この時代には、個人的な殺人事件はあったと考えられますが、集団による戦いはなかったと思われます。よって敵から守る防壁のようなものはありませんでした。


2)弥生時代
 この時代で特徴的なのが、環壕集落と高地性集落です。ごく初期の段階では、柵で村を囲っているのみでしたが、前期からすでに堀で村を囲っています。一般的には二つの堀を作って、掘り出した土をその堀の間に積み上げます。空ボリ(壕)の他に、中には堀に水をためたもの(濠)もありますす。前期・中期の堀は卵形、楕円形でしたが、後期になると方形状に近づいてきて、古墳時代にははっきりとした方形になります。高地性集落は、敵の動きを見張るためのものであると考えられます。弥生.中期に集中して瀬戸内海で出現してます。後期にはいると一旦途絶えますが、後期の後半に再ぴ現れてきます。高地性集落にも堀があるものもあり、両者を区別することは難しいです。


3)古墳時代
 この時代の城として、『日本書記』に「稲城」という記述がありますが、これは前述にもあるように本格的な城郭とは違って、漢字から、稲を積み上げて作った防壁と推定できます。文献史料にはこれ以外に、城を示すものがありません。そこで、ここでは豪族居館をとりあげます。
 弥生時代の終わりになると環壕集落の中央、集落の首長一家が住む部分がさらに内壕で囲まれるようになります。そして、この内濠で囲まれた部分が独立するかたちで豪族居館が生まれました。このことで、弥生時代には村全体が壕に囲まれて全ての人が住んでいましたが、古墳時代には豪族のみが壕に囲まれた中に住み、一般の人は壕で囲まれていない村を作って住み、居住空間が二分されました。
 豪族居館は現在日本で2、30カ所見つかっています。基本的には、方形で、壕をめぐらし、中には壕の内側の斜面に石が葺かれているものもあります。そしてさらに内部には、柵列をめぐらしたり、土塁をめぐらしたり、その両方をめぐらすものがあります。大きいものでは群馬県の三ツ寺T遺跡で幅30〜40メートル、深さが4メ一トルの石で葺かれた濠を持つものがあります。
 このような豪族居館は、古墳時代を通じて各地で見られます。中にある建物は、竪穴式住居、掘立柱の建物、高床式倉庫があり、祭式を行なう場所も設けられていました。


4)古代(*1)
 この時代は弥生時代、古墳時代と違って、大和を含む畿内地方に強力な中央集権国家ができた時代です。統一された国家ができた時に、国のそれぞれの端に城ができます。西の端には朝鮮半島や大陸に傭えて国家的な城、おもに山城が作られます。東と北の端には蝦夷や靺鞨に備えて土を盛り上げたり、木を立てたりした城柵が作られました。日本の古代の城を史料から見ると、まず畿内・西日本に作られます。これは7世紀がピークで8世紀になると大体終わります。一方、東北の城柵は7世紀の段階に「柵」として史料に出現します。そして8世紀の後半以降「城」に名称が変わると同時に、その後もぞくぞくと作られ、9世紀まで作られました。以下それぞれの特徴を見ていきます。

@九州地方
 日本の古代の城の多くが山城という形式で、九州にたくさん残っています。山城には二つの形式があり、神籠石式山城と朝鮮式山城です。

T神籠式山城(造営年代不明)
 これは、山などを利用して、まず、高さを決めて山を沢や谷を含んだ状態で四角い石一列で囲います。そのあとは石の上に土を幾層にも重ねて固めていきます。だいたい外周は2〜3キロです。11ほど見つかっていますが、施設や遺物が残っていない場合が多くあまりわかっていません。

U朝鮮式山城(7世紀中葉〜8世紀中葉)
 城の様式は神籠式山城とあまり変わりませんが、大きさが、外周8キロと大きなものがあります。また所々石垣となっていて、石築と土築の混じった山城で、厳重な城門がっいていています。また城門のある所には二重の城壁で囲むなどの工夫が見られます。中にはたくさんの武器庫や倉庫を築きます。常時は米を運び込み武器を置いていざというときには下のほうから軍隊がいってそこに張りつくというように必要に応じて兵力を増減したりします。

A東北地方
 本格的な城柵が『日本書紀』に登場するのは、7世紀中葉以降です。東北の城柵では、単に城柵を作るだけでなく、そこに柵戸住まわせるといった制度がありました。基本的には東北の柵城には約100メートル四方の築地塀や材木塀で囲まれた政庁を中心とした施設で、軍事施設とその地域の行政をする場所とを兼ねていました。また全体は平均500メートル四方で(大きいのになると2キロ近いものもある)やはり築地塀や材木塀で囲まれています。


5)中世前期(*2)
 ここでは、一般的な鎌倉武士の館を取り上げてみたいと思います。館の中心部はほぽ長方形で、周りは約70メートル四方の濠で囲まれて、その中に主屋をはじめ様々な施設があります。堀の規模は、幅2〜5メートル深さ3メートルほどありました。そして堀の内側にさらに高さ4メートルほどの土塁を、北側に築いています。東西の門の上にはやぐらがあり(櫓門)ここに兵士が上がり弓矢で敵を追い払います。


6)中世から近世にかけて(*3)
 戦国期には城は構造上二つの種類分けられます。@曲輪が本丸を中心に階層的になっているものAそれぞれの曲輪が独立しているものの二つです。以下それぞれを見ていきます。
  
城の構造の違いは家臣団支配の違いと関係しています。@のタイプは中部や関西によく見られ組織的な行政の仕組みを確立した支配体制でAのタイプは東北や九州によく見られ城主と家臣の個人的な関係に頼った支配体制でした。


7)近世城郭の形成(*4)
 ここでは織豊系城郭を見ていきたいと思います。


終わりに) やたらと図が多くなってしまいました。時間も無く参考文献を見てくれれぱ分かりますが、あまり深く調ぺられませんでした。


参考文献『城の語る日本史』佐原真など著 朝日新闘社を中心にまとめました。
     その他は教科書、図説、日本史大辞典などをみて書きました。


*1 発表時には九州北部の城の分布図と太宰府の図、神籠式山城の城壁断面図を添付。
*2 発表時には武士の館の図を添付。
*3 発表時には縄張図の表現法の解説図、@−1古宮城、@−2杉山城、A−1長野城、A−2浪岡城、A−3穂北城の図を添付。
*4 発表時には織豊系城郭の出入口の発達についての図を添付。


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