2002年4月26日(統一テーマ:『城』)
千早攻防戦−日本初の本格的城塞戦−  NF


はじめに
日本の合戦史の中でも砦をめぐる戦いは東北を中心に全くないでもなかったが、あくまで局地における戦闘であった。また館をめぐる戦闘は数多くあったが要塞戦と呼ぶにはあまりに小規模であった。政治・経済的中枢において重要な局面で本格的な城塞戦が行われた最初は楠木正成による金剛山の攻防ではなかろうか。というわけで、「日本の城」がテーマの今回は千早攻防戦を扱う。
赤坂城
鎌倉幕府による支配の動揺を好機として朝廷による統一支配を再現しようと目論んだ後醍醐天皇は、1331年に笠置山に篭って挙兵。楠木正成はこれに呼応して河内赤坂に篭った。幕府はこれに対し約二万の大軍を派遣し笠置を陥落させ後醍醐を捕えた後、9月末から大挙して赤坂に攻め寄せる。大和方面軍は大仏貞直、河内方面軍は金沢貞冬、天王寺方面軍は江馬越前入道、伊賀方面軍は足利高氏を大将にして淀川筋から伊賀にかけて広範に展開。悪党らがその地域で機に乗じて広く活動していることに対応するためであろう。さて赤坂城を見た幕府軍はそのあまりの貧弱さにせめて一日でももってくれなければ手柄の立て様がないと感慨をもらす。しかし戦が始まってみるとやや意外な展開となった。楠木軍は近づく敵に対し岩石大木や熱湯を落として怯ませ、予め二重塀を設けて塀に取り付いた敵を落とし、逃げる敵には矢を浴びせた。また弟七郎・和田五郎が城外で敵陣に奇襲をかけ撹乱させた。このように大軍相手に意外な苦戦を強いたのであるが、準備不足の中の挙兵であり俄ごしらえであることは否めず、長期間にわたっての抵抗は不可能であった。そこで10月21日に正成は自ら赤坂城を焼き一族揃って自害したかのように見せかけ姿を隠した。
千早城
約一年姿を隠していた正成は1332年11月に赤坂城を取り返し、更に紀州隅田・天見と転戦。追討に向かった京都六波羅探題の軍勢を1月19日に破って、一度は光厳天皇の朝廷をして京を捨てて鎌倉に落去する決議をさせた。また後醍醐の皇子である護良親王も吉野で挙兵。ここに至って幕府も事態の重大さを認識し再び大軍を派遣した。大和方面軍は大仏高直、紀伊方面軍は名越遠江を大将として総勢10万とされる。しかしこれだけの大軍を動員して城一つ落としても勝って当然で別に幕府の威信はあがらず寧ろ戦後の論功行賞が問題になる。苦戦すれば幕府の威信は著しく低下し幕府に不満を持つ者が次々に蜂起する危険がある。そして正成はまさにそれに賭けていた。篭城戦は外部からの助けが期待できない限り勝ち目のない戦である。正成は己の篭城戦を契機にして各地で倒幕の挙兵を起こしそれを「助け」にしようとしていたのだ。正成の優れていた点は決して「奇策」ではない。寧ろ幕府軍を城塞戦に応じざるを得ない所まで持ってきた戦略力こそ正成の本領であった。さてまず幕府軍が攻撃したのは先の赤坂城(下赤坂と呼ばれる)より高いところに位置する上赤坂城であった。平野将監が守る上赤坂城は東に本丸・西に二の丸・南に4つの出丸を構え、東西南北をそれぞれ池の谷(足谷川)・糞谷・城の谷・井戸の谷と崖に囲まれ守りやすいところに位置していた。幕府方の攻撃は激しく2月22日一日で570近い死傷者を出している。更に28日には約1800人の死傷者を出しているのだ。後の日露戦争における旅順攻防戦と同様、城塞戦で力攻めをすると凄まじい犠牲を払うという一例であろう。城方のほうは下赤坂の時と同じく岩石・大木・熱湯や弓矢で防いでいたようだ。苦戦した幕府方であるが吉河八郎の献策によって城の水源を絶つ作戦に出て、平野将監らを降伏させた。残るは正成が千人弱の兵で篭る千早城のみである。楠木氏の詰の城である千早城は東北から南西にかけて本丸・二の丸・三の丸・四の丸の順に下っていく構造となっており西は妙見谷・南は千早谷・北は風呂谷というように崖に囲まれていた。更に城の周りには堀・鹿垣・逆茂木を備えていた。幕府軍の攻撃に対し千早城でも櫓から大石や大木を落とし矢を射掛けて防戦。幕府方は上赤坂の例に倣って水源を絶って水攻めにしようとする。しかし正成はそれへの備えも万全で、城中に「五所の秘水」とよばれる水源を確保し更に城中の各地に雨樋を設置し大量に作ってある水槽に流れ込むようにしていた。そのため幕府軍による水攻めも一向に効果がなく、逆に城外の水源を守る幕府方の名越勢に楠木軍が奇襲をかけてその旗を奪い翌日に城壁に掲げて嘲弄する一幕もあった。そこで幕府方は攻撃をやめて兵糧攻めにする作戦を取る。すると正成は場外に鎧を着せた藁人形を多数立てて更に城兵に鬨の声を挙げさせ、まるで城兵が出撃したかのように見せかけた。それを殲滅しようと幕府兵が城に近づいた所へ楠木軍は岩石を落としたため幕府軍はまたしても大打撃を受けたのである。岩石・大木を落としたり熱湯を浴びせたり藁人形で敵を欺いたりといった正成の戦い方は「奇策」と受け取られているが、実際には世界的に城塞戦において一般的な方法なのである。藁人形についての海外の例は知らないが代わりに死体を兵隊に見せかける方法はよく用いられるようだ。繰り返すが正成が傑出していたのは決して「奇策」ではなく先の見通し、そして圧倒的大群を敵に回して味方の士気を保った統率力であったのだ。本格的な城塞戦の経験を大半の日本人はもっていなかったのでこうした正成の戦い方が「奇策」であるかのように映ったのである。しかしながら「太平記」ではまるで無能のように描かれる幕府軍も決して無為無策だったわけではない。水源を絶とうと試みたり兵糧攻めを図ったりしたことは前述したが、更に京から工匠を呼び寄せて高い梯子を作り攻め寄せようとした。しかしこれも城兵が梯子に油をかけ火をつけたため失敗。更に宇都宮公綱が穴を掘って城を掘り崩そうとも試みている。和田系図裏書に「茅葉屋城大手箭倉の下の崖を掘之時」とあるので事実坑道戦は行われたようだ。因みに西洋の城攻めでは巨大な槌で城門を壊そうとしたり櫓を築いてそこから攻め入ろうとしたり地下道を掘って城壁を崩そうとしたりさまざまなことが行われていたようだ。これと比べてみても、幕府軍は城攻めの経験がないながらも可能な限りの方法はとったと言うべきであろう。しかし城塞と言うのはそう簡単に陥落するようにはなっていない。そうしている間にも幕府軍が千早城一つを落とせないとの風聞は広まっていった。「博多日記」にも「金剛山ハ未ダ破レズ」と記されているように遠く九州にまでも聞こえていたのである。それにより全国の幕府に反感を抱く人々の間に希望が生まれ各地で反幕府の火の手が上がっていく。そして最終的には足利高氏による六波羅探題攻略・新田義貞による鎌倉攻略につながっていくのである。正成の見通しは見事に実を結んだと言える。


参考文献
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
楠木正成 植村清二 中公文庫
太平記第一巻 岡見正雄校注 角川ソフィア文庫
太平記一 日本古典文学大系 岩波書店
楠氏研究 藤田精一著 廣島積善館


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