2002年4月26日(統一テーマ:『城』)
おまけ:東北地方での城塞戦  NF


 序文で「局地的」の一言で片付けてしまった東北地方での軍事活動であるが、東北は「日本半国」と呼ばれた広大な地域であり、古代において一貫して中央政府の重大な課題であった所である。これを考えると、その意義を無視する訳にはいくまい。そこで前九年の役の小松柵・厨川柵を題材にして、検討してみたい。
 1062年8月17日、源氏・清原氏は安倍氏の篭る小松柵を攻める。東南は川、西北は崖と攻めにくい地形であり、柵からも矢・石が浴びせられたが決死隊が柵内に突入し勝敗を決した。更に9月15日には厨川柵に源氏・清原氏は迫る。厨川柵は二面が川に隔てられ、川岸は絶壁となっていた。そして河と柵の間には空堀を掘り、刀を植え込み撒菱を撒く。近づくものには弩で射、石を投げ、柵に取り付く者には熱湯を浴びせ掛けて応戦。しかし激闘の結果、翌日には柵は落城、安倍氏は滅亡した。
 この事例からも分かるように、安倍氏は防衛施設として堀・柵を設けて弓・石・熱湯で防戦していた。短期間で敗れたとはいえ,これは千早城での戦いと全く同じ姿である。正成の篭城戦が決して「奇策」でなかったことはここからも証明できるであろう。東北での戦いにはこうした城塞戦が多く見られたものと考えられる。しかし中央政府の目と鼻の先で比較的長期にわたる城塞戦が行われ、その推移が日本全体の行方を左右するまでになるのは千早赤坂の戦いを待つ必要があるのは前述した通りである。


追加参考文献
弓矢と刀剣 近藤義和 芳川弘文館


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