2002年4月26日(統一テーマ:『城』)
中国の城郭都市  田中愛子


 「城」という漢字は、都市の周囲等に設けられた城壁、あるいは都市そのものを意味する。今回の発表では、中国の城郭都市について、先秦時代の華北を中心に、取り上げてみたい。
 仰韶文化期(BC.4000頃〜BC.2500頃)、氏族制的集落が形成され、その周囲には、防御施設として周濠がめぐらされていた。これは、猛獣などの襲撃に備えたものであると考えられている。また、集落内部には、一定の配置構造がみられる。
 この頃にはまだ、城壁の類は現れていない。だが、住宅基部には既に、?打法という、黄土をつき固めて一定の厚さの強固な層を形成する工法が用いられていた。これは、のちの城壁築造にも用いられている技術である。
 竜山文化期の後期頃(BC.2000頃〜BC.1500頃)、城壁が築造されるようになった。
 新石器時代後期である竜山文化期には、階級の分化が生じ、また、集落間で略奪のための戦いが起こるようになった。そのため、竜山文化期には、必要となる労働力を動員するだけの力を持った首長のもと、略奪等の攻撃に備える防御施設として、城壁が築造された。
 以上のように、中国の新石器時代の集落は、周濠または城壁を防御施設としてめぐらし、内部に一定の配置構造を有するものであった。このような集落が、やがて都市国家へと発展していくのである。
 殷代から春秋時代にかけては、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。
 殷や周といった大邑は、他の多くの邑を宗教的・軍事的に従属させ、同盟関係を結んで邑の連合体を形成していた。
 殷代(17,8c.BC.〜11c.BC.)の邑は、首長の居住所や宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時には、住民は、丘陵上の、堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり、防戦した。
 西周時代(12,3c.BC.〜BC.770年)には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。
 華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い、防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り、城壁はかなり長い寿命を維持することができる。
 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺数十キロの耕作地からなる。
 そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。
 そのために存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合された。
 また、春秋時代(BC.770〜BC.453)の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。
 大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展のために、大邑はその領域を拡大してゆく。こうして、春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家から領土国家へと発展していった。
 小邑が大邑に併合されると、もともと小邑の中核となっていた都市部は、そのまま大邑の地方都市とされた。それゆえ、領土国家の領域内には、城郭を有する都市が点在することとなる。これが、中国の都市が必ず城郭を有するものであったことの理由の一つである。また、大邑に取り込まれた小邑由来の都市は、大邑の地方行政の拠点とされた。中国の城郭都市は、地方行政上の拠点となる政治都市としての性格を強く有しているが、その理由の一つが、これである。
 戦国時代(BC.453〜BC.221)、領土国家が形成されると、戦争に関しても、大規模化・長期化するなど、様々な面で変化があった。
 春秋時代までの都市国家間の戦争では、戦車を主力とする野戦が中心であった。だが、戦国時代の領土国家間の戦争では、敵国領内深くにまで侵入し、要所に設けられた敵の要塞や都市を攻撃することが多くなった。攻城戦が増加した結果、外郭の強化が進み、その一方、内城は無用のものとして消滅してゆく傾向にあった。
 また、国家領域の拡大に伴って、国境線が生じるようになった。戦国時代の激しい抗争の中、各国は、国境線沿いに長大な長城を築くようになった。
 やがて、秦(〜BC.206)によって中国が統一されると、戦国時代の国境線上の長城は撤去された。そして、異民族の侵入から中国を守る防御施設として中国北辺の長城が強化された。
 秦が採用した郡県制、そしてのちの州県制のもと、地方行政の拠点都市は、州城あるいは郡城、県城として、それぞれの行政区画中の行政の中枢という役割を担ってゆくこととなる。
 その後、中国の城郭都市は、例えば坊市制や宮城の配置の変遷など、その時代の礼制、商業、軍事事情に応じた変化をとげつつ、発展していった。
 しかし、中華民国期、中華人民共和国期には、城壁の破壊・撤去が進められた。都市人口の増加の問題や、出入りが城門のみに限られていたことによる交通の不便を解消するためである。現在、城壁が撤去されたあとの跡地は、道路になっていることが多い


<参考文献>
愛宕元『中国の城郭都市 殷周から明清まで』中央公論社、1991。
五井直弘『中国の古代都市』汲古書院、1995。
楊寛(西嶋定生監訳、尾形勇・高木智見共訳)『中国都城の起源と発展』学生社、1987
張在元『中国 都市と建築の歴史』鹿島出版会、1994。
鎌田正・米山寅太郎『新版 漢語林』大修館書店、1994。
『世界大百科事典』、平凡社、1988。


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