2002年5月10日(統一テーマ:『義経』)
義経は戦の天才か?  My


はじめに
 今回はテーマが義経だそうです。義経の軍事的才能について検討してみたいと思います。


<義経の軍事的才能についての考察>
 義経は一般に戦の天才と考えられている。 だが本当にそうなのだろうか。彼の活躍した、宇治・勢多から壇ノ浦までの一連の戦いをもとに考察してみよう。
 最初は戦略である。これについては、彼は頼朝の構想を実行したに過ぎず、どうにも判断のしようがない。戦略的才能という点では、彼の天才性を否定するものは見あたらないが、同時に彼の天才性を証明するものもまた、全く存在しないのである。
 では戦術についてはどうだろう。これについては、彼が主将として指揮を執った四国平定戦を、優先的に考察すべきだろう。まず屋島の戦いであるが、本隊を残してわずか150の兵力で平家本拠を攻略、などという戦いは、義経の強さの証明にはならないと思われる。奇襲をうけていったん海上に逃れたのは仕方ないにせよ、なぜ義経の小勢への反撃が失敗したのか、ただ平家の弱さあるいは戦意のなさが目立つのみである。また壇ノ浦の戦いも義経の強さを証明するか怪しい。一般に壇ノ浦については、潮の流れを利用した義経の軍事的天才が讃えられているようではあるが、私はその見方に賛同することができない。ここで壇ノ浦の戦いについて少し細かく検討しよう。これについては『日本前近代軍事史』で行った考察を再掲載する。(『平家物語』『吾妻鏡』『延慶本平家物語』を用いて行った考察で、最も古い形態の『延慶本』を他二者で補っている。なお潮流変化の時刻については荒川秀俊『お天気日本史』の数字を佐藤和夫『海と水軍の日本史』から引用している。)


 決戦当日の潮流は、4:13に西流が最強、8:25に東流が開始、10:26に東流が最強となり、1 3:27西流開始、15;54西流最強。
 戦闘は、『吾妻鏡』では6時に始まり、正午頃平氏の敗北で終わるが、『玉葉』は正午から、16時頃まで戦ったとし、『平家物語』では6時に戦闘開始。よって6時に戦闘開始し、正午に平氏敗北に傾き、16時に決着が付いたとする。
 兵力は『吾妻鏡』では源氏840艘、平氏500艘、『平家物語』では源氏3000艘、平氏1000艘。『延慶本』は源氏、3000艘、平氏を700艘とする。総兵力については『吾妻鏡』の数字を採用する。
 さらに平氏船団の船列の詳細について、『吾妻鏡』では船団を三手に分け、山鹿兵藤次秀遠と松浦党を大将軍として戦ったとする。『平家物語』では、先陣が山鹿の500艘、二陣が松浦党の300艘、三陣が平家の公達200艘とする。『延慶本』は山鹿の200艘が一陣、阿波民部成美の四国船団100艘が二陣、平家の公達の300艘が三陣、九州の船団100艘が四陣とするが、一門の船団を200艘とする箇所もある。『延慶本』の示す総兵力は、平家直属の船団を200艘とすれば600艘となる。さらに山鹿は九州の勇士であるから、第一陣200艘に九州の船団は全て含まれ、第四陣100艘は存在しないとすると、500艘になる。よってここでは、平家は船団を、三手に分け、九州の200艘、四国の100艘、平家直属の200艘の順に並べたと解しておく。なお四国船団を率いる阿波成美は、息子の教良がすでに源氏に下っていることもあって、士気、忠誠に疑いがあり、そのために平氏一門の船団を後ろに置いて、にらみを利かせたのであろう。
 では以上を前提に、戦闘の経過を、『延慶本』を『平家物語』で補いつつ、追うことにしよう。
 平氏船団を率いる知盛は、「可然人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ」源氏船団を深く誘い込み、「後ヨリ押巻テ、中ニ取籠テ」撃破する、という策を立てて、迎撃を準備する。源氏の船団は西流に乗って「夜ノアケボノに壇浦ニ寄」せたが、平氏船団もこれ「街チ懸」けており、6時頃「矢合シテ」戦闘が開始された。知盛は「各々少モ退ク心アルベカラズ」と全軍に命じて、源氏の攻撃を防いだが、 おそらく源氏船団の攻撃力が予想よりも低かったのであろう、唐船の計略を発動させることなく、防戦に成功した。そして流れが東流に変わると、平氏船団は攻撃に転じる。平氏船団の一陣が、「筑紫武者ノ精兵ヲソロエテ、舟ノ舳ニ立テ舳ヲ並テ、矢サキヲ調テ散々ニ射サセケレバ、源氏ノ軍兵、射白マサレテ兵船ヲ指退ケ」、平氏は勝ちに乗り、「攻鼓ヲ打テ」勢いづく。源氏も、「ツヨ弓精兵ノ矢継早ノ手全ドモヲソロヘテ、射サセ」反撃し、なかには個人的武勇を発揮する者もいたが、『平家物語』によれば「勢の數さこそは多かりけめども、あそこここより何處に精兵ありとも見えざりけり」という有様であった。 だが正午、いまだ平氏が潮流に乗り、義経が「源氏ヨハクミヘテ平家カツニノル 」様子を「心ウク覚テ、八幡大菩薩ヲ拝シ」た頃、阿波成美の四国船団が源氏方へと寝返った。 平氏方は「軍兵周章乱レ」たが、『平家物語』によれば「その後は四国鎭西の兵ども、皆平家を背いて、源氏につく」という有様であり、先陣の九州船団さえ多数の寝返りを生じたことが分かる。知盛は「少シモ周章タル気色モシ給ワズ」、ねばり強く最後の戦いの指揮を執る。いかに知盛が善く戦ったかは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、なお4時間近くも戦闘が続いたことから分かる。平氏一門が次々に入水して、ようやく抵抗が止んだのは、阿波成美の寝返りから4時間後、潮流が再び西流に転じてからでさえ、3時間の後、西流が最強になる頃であった。


 この検討で分かるのは、壇ノ浦で義経は戦術的には平家に手も足もでず、辛うじて寝返りを得て勝利したということであり、ここでも義経の戦術的天才は証明されなかった。ただ、四国を平定しつつ巨大な水軍をまとめ上げ、そのにわかづくりの部隊で練達の平家水軍の攻撃を持ちこたえたということで、その統率力については名将と呼ぶにふさわしいものが見られる。
 さらに義経の戦術的才能について、彼が副将をつとめた戦いから、考察しよう。まず宇治・勢多の戦いであるが、これはもはや義仲軍がまたもな戦力を持っていなかったため、義経の強さの証拠とはならず、ここでも大軍を率いた統率力が評価される程度であろう。そして一ノ谷の戦いである。この戦いは主将の範頼が平家主力を引きつけ、義経の別働隊が敵後方の陣地を突破、平家軍を包囲、崩壊させたものである。この戦いでの義経はあくまで副将であり、全体的な作戦構想を彼の功に帰すわけにはいかない。だが平家の後方陣地に鵯越えからの奇襲で大混乱を引き起こしたことは、おそらく彼の独断であり、しかも戦局を決定する見事な働きで、ここには天才的なひらめきをかいま見ることもできる。ただ、一ノ谷が彼が主将をつとめた戦いではない以上、それだけでは彼の軍事的天才を証明する十分な証拠とはなり得ないであろう。
 以上で義経の一連の軍事行動の考察は完了であるが、そこからは義経を天才とするに十分な証拠は得られなかった。だが天才でないと言い切ろうとすれば、失策がなく、なにより勝ち続けた実績が邪魔である。結局、彼の軍事的才能を評価するならば、天才ではないが天才的、といったあいまいな表現ぐらいが妥当なのではなかろうか。



おわりに
 私は戦で活躍した人が大好きです。孔明だの、義経だの、正成だの、幸村だのといった日本人が昔っから好んできた英雄も大好きなんです。けっしてアンチ義経じゃないんです。義経が嫌いでこんな文章書いたんじゃあないんです。ほんとは義経は天才だ、と褒め称えておきたいんですよ。


参考資料
新編日本合戦全集1古代源平編;桑田忠親著  秋田書店
東国の兵乱ともののふたち;福田豊彦著  吉川弘文館
海と水軍の日本史;佐藤和夫著  原書房
延慶本平家物語;北原保雄、小川栄一編  勉誠社
平家物語;高橋貞一校注  講談社文庫
吾妻鏡(一);龍肅訳注  岩波文庫


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