2002年5月10日(統一テーマ:『義経』)
源義経に関連する能・歌舞伎演目  NF


はじめに
 源義経はその活躍の鮮烈さ・謎めいた生涯・悲劇的な最期から最大級の国民的英雄とされた。既に15世紀頃にはそうした傾向があったらしく義経の幼少時代と頼朝と対立して悲運に陥った時期を中心に描いた「義経記」が登場。当然演劇においても義経は数々の演目に登場している。今回はその中から能・歌舞伎に義経が登場する代表的なものを紹介する。

安宅
 四番目物。作者は観世信光とされる。安宅関守の富樫が源頼朝の命により義経逮捕のための新関を設けた事を告げて控えている。義経主従が山伏姿で登場。関を通り抜けるため弁慶(シテ)は義経に強力姿になるよう提案し関へ。一行は東大寺再建の勧進の一行だと称して通ろうとするが、富樫は怪しんで切り殺そうとする。一行が覚悟して最期の祈祷をするので富樫は怯み、勧進帳を読むよう命じた。弁慶は持ち合せた巻物を勧進帳と偽って読みあげ、一旦は通過を許される。ところが義経が見咎められたため弁慶は杖で義経を打ち据え、その機転で一行は無事関所を通り抜けた。富樫は追ってきて非礼をわび、弁慶は力強い男舞を舞う。能の中では珍しくストーリー性に富む作品である。義経を子方が演じるのは弁慶を引き立たせるため。出典は「義経記」。前場のシテの祝詞、杖による折檻など見せ場も多いが、ことに勧進帳とみせかける「読ミ物」の場面と男舞の場面が見所。「読ミ物」は特殊な拍子の技巧的な謡で、漢文訓読調の散文をうたう。男舞には「延年之舞」などがある。歌舞伎の「勧進帳」はこの能を脚色したものだが富樫は義経と知りながら弁慶の情に打たれて通してやるという人情劇的な要素が色濃い。それに対してこの「安宅」では命懸けの示威によって緊迫感がみなぎり飽くまで力で難局を切り抜けるのである。
船弁慶
 五番目物。観世信光作。兄・頼朝と対立し追われる立場となった義経は弁慶達と都落ちして摂津国大物浦から西国へ向かおうとする。静御前(前シテ)も義経を慕ってついて来るが、弁慶の進言で都へ帰すことにする。名残の酒宴が開かれ静は別れの舞を舞ったのち、涙ながらに立去る。義経一行の船が海上にでると、天候が急変、にわかに風がふき激しい波が押し寄せる。海上に平家一門の亡霊があらわれ、平知盛の怨霊(後シテ)が義経におそいかかる。義経は刀を抜いて戦い、ついに怨霊は弁慶に祈り伏せられる。前場には舞があり後場には闘争の演技がありと、見せ場が盛り沢山に用意されていて人気が高い。前シテが静御前、後シテが知盛であるが、異なる人物を一人の役者が演じ分ける所が特徴である。
八島
 屋島とも記す。二番目物。世阿弥作とされる。前段では、一夜の宿を乞うた僧に対し源義経の霊の化身である老漁夫が屋島の風物・古戦場の哀愁・義経の英姿を語る。そして後段では義経の霊が昔の姿で現れ、弓流しの有様と修羅道の闘争を示し春の朝嵐と共に消える。この能の歌詞を抜粋し補った地歌「八島」は1780年代以前から行われ、それを元とした上方舞は修羅物の代表作とされる。
※ 能は正式には五番立てで行われ、演じられる順番は作品の性質により決められる。 
○ 一番目物…神や天女が現れ御代の太平を寿ぐ能。「高砂」「老松」「東方朔」など。脇能。
○ 二番目物…武将の霊を主人公(シテ)とし、激しい戦乱を素材とする。多くは修羅道におちた主人公がその苦しみを語りまねてみせ、脇僧に回向をたのむ形をとる。「八島」「忠度」「兼平」「通盛」など。修羅能。
○ 三番目物…女性を主人公とする鬘能が多い。「井筒」「松風」「羽衣」など。 
○ 四番目物…シテは狂女・武士・怨霊など広範囲で、曲の性格も多種に及ぶ。脇能・修羅物・鬘物・切能には分類しがたい能の類をいう。
○ 五番目物…必ず囃子に太鼓が入り、鬼畜類・天狗・神体などをシテとするものが多い。「鞍馬天狗」「紅葉狩」「猩々」など。切能。
歌舞伎
義経千本桜
 竹田出雲・三好松洛・並木千柳作。初演は浄瑠璃としては延享四年(1747)11月の大坂竹本座で歌舞伎では翌年5月の江戸中村座。時代物三大名作の一つ。知盛・維盛・教経が実は生きていたという設定の下で彼らや義経の悲劇を描いたもの。二段目の「渡海屋」「大物浦」、三段目の「鮨屋」、四段目の「道行」「河連館」がしばしば上演される。
<初段>
 義経は後白河法皇から初音の鼓を下賜される。鼓を渡す左大将朝方から「鼓を打つ」事にかけて頼朝を討つよう謎をかけられるが、義経は鼓を打たない(つまり頼朝も討たない)ことを決意して拝領する。(大内)
 北嵯峨庵室にかくまわれた若葉内侍(平維盛の奥方)と若君六代は、旧臣の小金吾に伴われて維盛のいる高野山へ逃れる。(北嵯峨庵室)
義経が堀川御所で宴を開いている際に鎌倉からの上使として川越太郎重頼が上洛し、義経が送った知盛・維盛・教経の首は贋首だった事・義経が法皇から初音の鼓を賜り頼朝を討とうとしている事・義経は敵将平時忠の娘卿の君を妻としている事を詰問した。これに対し義経は、贋首なのは平家残党を欺く計略である事・初音の鼓は院宣なのでやむなく賜ったが頼朝を討つ気はない事・時忠は卿の君の養父に過ぎず実父は川越自身である事をのべ申し開きをする。川越はこれを恥じて切腹しようとするが、卿の君は父を救うためと義経の潔白を示すため自害。この時、鎌倉方の土佐坊正尊(歴史上の名は土佐坊昌俊)・海野太郎らが攻めてくる。弁慶が海野を討ったと聞いた義経は頼朝への申し開きを諦め、都落ちを決意。外では弁慶が追っ手相手に暴れる。(堀川御所)
<二段目>
 伏見稲荷に辿り着いた義経一行に愛妾静御前が追い付き同道を願う。しかし義経は静の身を案じてそれを許さず、初音の鼓を静に与え静を桜の木に縛り付けて行く。残された静に土佐坊正尊の家来・笹目忠太に狼藉しようとするが、そこに佐藤忠信が現れて静を救う。陰で見ていた義経は忠信に源九郎の名と着長を与え静を託して摂津大物浦へ。(鳥居前)
 義経一行は大物浦の廻船問屋・渡海屋で九州に逃れるための船を調達させ天候回復を待つ。しかし渡海屋の主人・銀平は実は平知盛でその女房おりうは典侍局、娘お安は安徳天皇であった。知盛は復讐のため嵐の日にわざと義経一行の船を出し白装束で義経を追って出航する。(渡海屋)
 義経は既に知盛らの正体を見破っており(前の場面で弁慶が寝ているお安を跨いだ時に足が痺れた事からお安を安徳天皇と確信)、船の手配をしていた。策略が破れた知盛は、義経が安徳天皇を守る事を誓うと碇綱を身に巻きつけて入水、典侍局も安徳の行く末を頼み自害する。(大物浦)
<三段目>
 吉野の茶屋で若葉内侍・六代・小金吾が一休みしている所に、大和下市村の鮨屋・弥左衛門の子でならず者のいがみの権太が現れ小金吾から金をゆすり取る。続いて追手が現れ、内侍と若君を守り小金吾は討死。その後に弥左衛門が現れ小金吾の首を持帰る。(椎の木)
 弥左衛門の弟子・弥助(実は平維盛)を弥左衛門の娘・お里は慕っている。そこへ若葉内侍と若君が訪ねて来、弥助の正体を知ったお里は恋を諦めて維盛らを逃がした。すると丁度そこに戻った権太はゆすり取った金を桶に隠し、弥左衛門と遣取りした後に間違えて別の桶(弥左衛門が小金吾の首を入れている)を持って維盛一行を追う。やがて戻ってきた権太は維盛の首と捕らえた内侍・若君を頼朝の家臣・梶原景時に差し出し褒美として頼朝の陣羽織を賜った。弥左衛門は怒って権太を刺した所、実は首は身代り(小金吾)で内侍と若君に見えたのは実は権太の妻子であったという事を権太は虫の息で述懐。そして陣羽織からは袈裟と数珠が現れる。頼朝が出家を条件に自分を助けるつもりと悟った維盛は権太の志に感謝し、妻子と別れ出家。(鮨屋)
<四段目>
 桜爛漫の吉野を静と忠信が旅する。 (道行初音旅)
 吉野山では僧兵達が義経を匿うべきか否かについて評議している。衆徒の大部分が鎌倉方につき、検校・河連法眼も頼朝の命に従い義経を討つべきと言って去る。しかし法眼が去ったのは実は義経を助けるため。それに気付いた横川の覚範は追手を出す。(蔵王堂)
 義経一行は河連法眼館に匿われている。吉野山の会議から帰った法眼は、義経を奥州へ落とそうと考えている。そこへ忠信が現れ義経は静とも再会できると心を浮き立たせるが、忠信は出羽の母の死を看取って駆け付けたので静の事は知らないと言う。不審に思う義経の下にもう一人忠信がやってきた。こちらは静を連れている。そこで義経は同行した方の忠信が本物かどうか静に調べさせた。静が鼓を打つと同行した忠信が姿を現す。鼓に執着する訳を問い詰めると、その忠信は正体を現し狐になった。実は狐は鼓の皮にされた狐の子で、親恋しさに鼓の側を離れなかったのだ。肉親の縁に薄い義経はその狐の情に感動して鼓を与える。狐忠信は喜び、その礼として夜襲してきた横川の覚範らを秘術で懲らしめて飛び去る(市川猿之助はこの場面で宙乗りをし客席の上を飛んでいく演出をする事で有名)。義経は覚範が実は平教経と見破り、再会を約して別れた。(法眼館)
<五段目>
吉野山で忠信と教経が一騎討ち。そこに藤原朝方が現れて教経に討たれ、一方教経は忠信によって兄・継信の敵として討たれる。その後、義経一行は奥州へ。(吉野山中)
勧進帳
 三世並木五瓶作詞・四世杵屋六三郎作曲。初演は天保十一年(1840)3月に江戸河原崎座で。市川団十郎家の家芸である歌舞伎十八番の一つ。頼朝と不和になった義経は奥州平泉の藤原秀衡を頼って北陸から落延びる。それに対して頼朝は各地に厳重な捜索を命じていた。加賀国安宅関に義経一行は到達。武蔵坊弁慶と四天王(亀井六郎・片岡八郎・駿河次郎・常陸坊海尊)は山伏姿、義経は強力(従者)姿に変装している。関守の富樫左衛門は、山伏姿のものは一人も通さないと述べる。そこで四天王は無理やり踏み破ろうとするが弁慶はそれを懸命に止める(詰め寄せ)。奈良東大寺再建の資金集めのために諸国巡りをしていると述べる弁慶に対し、富樫は勧進帳を読めと迫り弁慶はとっさに白地の巻物を堂々と読み上げる。富樫は勧進帳が本物か巻物を盗み見ようとするので弁慶は体で隠す(天地の見得)。読み終わると弁慶は巻物を右手に立て左手に数珠を持つ不動の見得をする。富樫は次に修験道の質問をするが、嘗て弁慶は叡山遊学僧であったのですらすらと答える(山伏問答)。そうして富樫は一行を本物の山伏と信じて布施物を進呈。しかし強力が義経に似ていると番卒の一人が言い出したために再び止められ、一触即発の事態に。弁慶はいきり立つ四天王を制して義経を罵り持っていた杖で散々に打つ。富樫は弁慶が図ったと察していたがその主君を思う心に打たれ関所を通す。通過した後、主君を打ち据えた罪に震える弁慶に対し義経は労をねぎらった。そこへ富樫が追ってきて先ほどの無礼を詫び酒を振舞う。弁慶は豪快に飲み干し、延年の舞を披露。弁慶は舞の間に主従を旅立たせ、自分も後から追いかける。この時に左手に金剛杖・右手は前に突き出すという格好で片足ずつ飛んで花道を走りこむ(飛六法)。
鬼一法眼三略巻
 文耕堂・長谷川千四らの作。初演は浄瑠璃では享保十六年(1731)9月に大坂竹本座で、歌舞伎では翌年3月に大坂角の芝居で。全五段のうち三段目「菊畑」と四段目「一条大蔵譚」が今日でも上演される。
「菊畑」
 兵法家・吉岡鬼一法眼は嘗て源氏の家来であったが平家全盛の今は清盛に仕えている。一方、吉岡氏の末弟・鬼三郎は源義朝の遺児・牛若丸を擁して源氏再興を考えており、そのために兄・鬼一が所持する兵法奥義「六韜三略」を手に入れようとしていた。そこで鬼三郎は智恵内、牛若丸は虎蔵と名を変えて鬼一の館に下男として入り込む。ある日、庭の菊畑の手入れが整っているのを見た鬼一は庭番の智恵内を呼んで褒め、そこへ虎蔵が清盛館から戻ってきた。二人の正体を疑っていた鬼一は口実を設けて智恵内に虎蔵を杖で折檻するよう命じる。しかし智恵内は実は主君である虎蔵を打つ事ができず、また鬼一の娘である皆鶴姫も虎蔵を庇う。そこで鬼一は智恵内・虎蔵の正体を確信し二人に暇を出す。(後の場面で鬼一は源氏の旧恩を忘れていない事を告白、皆鶴姫の婿引出として兵法奥義を牛若丸に渡して切腹。)
「一条大蔵譚」
吉岡兄弟の次弟・鬼次郎は牛若丸の母・常盤御前が清盛に身を任せた後に一条大蔵卿長成と再婚した真意を探ろうと、狂言好きの阿呆で有名な大蔵卿に妻・お京を女狂言師に仕立てて取り入る。常盤は揚弓に凝っておりその有様を鬼次郎は嘆くが、実は弓の的の裏に清盛の絵姿があり平家を呪詛するためのものだったのである。大蔵卿の家臣で清盛のスパイである八剣勘解由はそれを聞き、清盛に注進しようとするが長刀で斬られる。勘解由を斬ったのは阿呆のはずの大蔵卿だった。実は源氏再興を願う本心を隠し平家を油断させるために阿呆を装っていたと言うのである。鬼次郎夫婦は真実を牛若丸に伝えるために出発。
主役ではないが義経も登場するものとして…
一谷嫩軍記
 並木宗輔らの作。初演は浄瑠璃では宝歴元年(1751)12月に大坂豊竹座、歌舞伎では翌年5月に江戸森田座。全五段だが三段目の「熊谷陣屋」単独上演も多い。
<初段>
 一ノ谷で平家を攻撃しようとしている義経は、平経盛の子とされている後白河法皇の落胤・敦盛を殺すまいと、熊谷次郎直実の陣にある桜の前に「一枝を伐らば一指を切るべし」(桜の枝を一本切ったら指を一本切れ)と書かれた制札を立てる。制札には敦盛を救出せよとの謎が込められていた(一子を斬る代わり別の一子を斬れという事?)。そして熊谷は元来宮中の警護をする武士であったが女官の相模と密通し罪に問われる所を藤の方(敦盛の母)に助けられたいきさつがある。義経の意を察した熊谷は藤の方の恩義に応える為にもある秘策を立てる…。
<二段目>
 合戦当日、先陣を務めようと出撃していった嫡子小次郎を引き止めようと熊谷は小次郎の後を追う。(陣門)
 敦盛を追ってきた許婚の玉織姫が義経に仕える平山武者所に討たれる。そして敦盛と熊谷の一騎打。因みにこの時、遠近をつけるために遠くの海中で戦っているときは子役が張子の馬体(ホニホロと呼ぶ)を腰に付けて動く。結果、熊谷が敦盛を組み敷く。熊谷は敦盛を「定めて両親おわしまさん」落延びさせようとするが、敦盛は潔く「はや討ち取れ」というのでついに熊谷は敦盛の首を打った(檀特山)。(須磨の浦)
<三段目>
 小次郎の身を案じて妻・相模が熊谷の陣屋までやって来る。そこで熊谷は小次郎が先陣した事、自分が敦盛を討ち取った事を語った。すると藤の方が突然現れ、敦盛の仇と切りかかってくる。熊谷は敦盛の潔い最後の様子を物語り、藤の方が敦盛の形見の笛を吹いた所なぜか障子に敦盛の影が。さてそこへ義経が登場し敦盛の首実検が行われる。しかし出された「敦盛の首」は実は小次郎のもの。藤の方は驚き、相模は泣き騒ぐ。熊谷は制札で二人の動きを制する(制札の見得)。実は熊谷は院の落胤である敦盛を救うため、そして藤の方の恩に応えるために出撃する小次郎を引き止めるとみせて敦盛と入れ替え、自分の子を敦盛の身代りとしたのだ。義経は小次郎の首を敦盛の首と認定し受け取る。その一部始終を見ていた梶原平次景高は義経と熊谷が共謀して敦盛を助けた事を頼朝に通報しようとするが、石屋弥陀六が投げた石鑿にあたり落命。義経は弥陀六を、嘗て自分の命を救った平宗清と見破り、敦盛を隠した鎧櫃を託した。西国出陣を命じられた熊谷は、出家し義経に暇乞い。家を継ぐべき我が子を失い、無常を感じた熊谷は名を蓮生坊と改め、「十六年は一昔、ああ夢だ、夢だ…」と述懐して花道を去っていく。(熊谷陣屋)
義経腰越状
 初演は浄瑠璃では明和七年(1770)正月に大坂北堀江座で、歌舞伎では宝暦十一年(1761)12月に大坂天満神社内で。義経の時代を借りているが実は豊臣と徳川の対立を描いている。三段目のみが上演。人物の対応は源頼朝…徳川家康、源義経…豊臣秀頼、
五斗兵衛…後藤又兵衛、亀井六郎…木村重成、泉三郎忠衡…真田幸村
「五斗三番」
 兄・頼朝の不興を買った義経は弁明のため鎌倉へ向かうが、腰越で追い返されてしまう。頼朝は静御前を人質として出すよう命じたが義経は応じず二人は一触即発に。そうした中であるが義経は奸臣錦戸太郎・伊達次郎の勧めで堀川館で雀踊りに興じており、家臣・亀井六郎の諫言も耳に入らない。そこへ泉三郎忠衡が主君の機嫌直しとして目貫師・五斗兵衛を連れてくる。泉を煙たがっている錦戸・伊達は大酒飲みで知られる五斗兵衛を酔わせて義経の前で失態させようと目論む。五斗兵衛は二人の勧める酒を始めは断っていたが次第に杯を重ね遂には酔い潰れた。泉は嘗て義仲の軍師であった五斗兵衛の能力を高く評価し義経の軍師として推挙しようとしたのであるが、義経の面前で五斗兵衛は軍略を聞かれても呂律が回らず怒りを買い退出させられる。
「鉄砲場」
 泉の館で首尾を待っていた五斗兵衛の妻・関女は夫の失態を聞いて呆れ返り娘を連れて去る。そこへ銃声が聞こえ、寝ていたはずの五斗兵衛が空鉄砲と言い当て鎌倉軍の来襲を告げる。泉は五斗兵衛の器量に感じ入り、娘・徳女は母の不明を恥じて自害し、関女は己の浅慮を償おうと鉄砲を持ち鎌倉へ向かった。
まとめ
 以上を見てくると、能・歌舞伎に登場する義経は主人公として舞台狭しと活躍するわけでなく、寧ろ主人公に守られる悲運の貴公子として登場する傾向がある。非業の最後を遂げた英雄を自分達が尽くして守りたいという民衆願望を反映したものと言える。丁度、「三国志」の英雄・関羽の側に民衆の夢を担って周倉が控えているのと同様に。
おわりに
 今回はほとんど本の丸写し。不満足かもしれませんが勘弁してください。あ、あと言うまでもないでしょうがどれも面白さ第一に書かれた娯楽作品ですので史実とはかけ離れていたり理屈と合わなかったりする所が沢山あります。御了承ください。ではでは。


参考文献
能狂言鑑賞ガイド 小学館フォトカルチャー
山川静夫の歌舞伎十八選 講談社カルチャーブックス
歌舞伎にみる日本史 佐藤孔亮 小学館
Microsoft/Shogakukan Bookshelf Basic
ENCARTA百科事典2000 Microsoft


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