2002年5月10日(統一テーマ:『義経』)
『義経記』における義経像  田中愛子


 古くから、源義経は、その華々しい活躍と不遇の晩年、悲劇的な死などの故に、多くの人々の人気を集めてきた。
 義経の生涯には謎が多く、それだけに、義経について数々の伝承が語り伝えられ、それが日本人一般の中にある義経像を作り出した。人々はその義経像に心を傾け、判官贔屓という一種の美意識ともいえる感情を培っていった。
 室町時代、義経に関する伝承を元に生み出され、その後の日本人一般の義経像の形成に大きな影響を与えた書物が『義経記』である。今回のレジュメでは、『義経記』における義経の描き方の特色について取り上げてみたい。

 『平家物語』や『源平盛衰記』といった戦記文学の中でも、義経は、勇気と仁愛に満ちた人物として描かれており、既に義経の美化は始まっているといえる。
 だが、日本人一般の、美化された義経像を決定づけた最も大きな要因は、『義経記』である。
 『義経記』は義経美化の傾向を強く推し進めた。例えば、義経の容姿の描写にも、その傾向が表れている。『平家物語』では、義経の容姿は、「背が小さく、色白で前歯が出ている」とある。一方、『義経記』では、「見目かたちが類なく、唐の玄宗皇帝の楊貴妃か漢の武帝の李夫人かと疑うほどの美男子である」と描かれており、驚異的な美化ぶりがうかがえる。
 『平治物語』、『平家物語』、『源平盛衰記』等でもすでに、義経伝説は取り扱われていたが、これらが義経の華々しい活躍を中心に描いているのに対して、『義経記』は、この三作品ではあまり取り上げられることのなかった幼少期及び晩年に焦点を当てている。つまり、黄瀬川で頼朝と出会うまでの放浪の時期と、頼朝によって追われる身となった時期とが中心となっているのである。
 源氏凋落の時代の中、無力な子供でしかなかった不遇の少年期に、血を分けた兄によってひたすら追われる失意の晩年。何故、『義経記』では、義経の最も輝かしい時期があえてあっさりと片付けられてしまい、苦難の時期が中心に据えられたのであろうか。
 おそらくこれは、義経の悲劇性を拡大するため、彼の栄光よりも辛苦を強調して描こうと意図された故であると考えられる。
 また、『平家物語』や『源平盛衰記』の義経は、華麗な活躍を繰り広げる風格ある名将として描かれているのに対し、『義経記』の義経は、魅力に欠け、無能力で無力、意思が感じられずなすすべもなく運命に流されゆく人物であるといわれる。
 これは、『義経記』が、義経の人間的魅力や偉大さ、超人的活躍を描こうとしたものではなく、彼の生涯の悲劇性、彼を取り巻く状況の悲惨さを描こうと意図されたものであるからだと考えられる。
 自分に突きつけられた悲劇的状況の前にただひたすら無力で無抵抗であるという義経像。それによって、義経の置かれた状況の悲劇性をよりいっそう際だたせているのである。
 そのためには、人物の魅力や能力は必要なく、寧ろ、無力で無抵抗な人物像を描こうとしているのだから、そのようなものは無いくらいの方がよかったのである。
 義経が誕生するよりもずっと古くから、日本人は民間で、無力な、個人としての意思をもたない幼い神や貴人が辛苦のうちに流離する話を好んで伝承してきたという。こうした主題は貴種流離譚とよばれ、例えば『源氏物語』の「須磨」の光源氏流謫話のように、日本における悲劇的文学の下地となってきたのである。
 『義経記』の場合、貴種に義経をすえ、流離させているのである。
 こうした理由により、『義経記』では、失意不遇の時代に焦点がおかれ、義経は、不遇の逃避行を続けるか細く美しい人物、そして、無能力で無力、無意思で運命のなすがままに流されてゆく人物として描かれているのである。
 こうした義経像は、風に散らされる桜にたとえられることもある。そしてそれは、無常やはかなさの美意識とつながるものであった。この美意識が、判官贔屓、つまり、弱者への思い入れという感情を、一種の美意識にまで高めたともいえる。
こうした要因等のために、『義経記』は、判官贔屓という感情を作り出す大きな素地となったのである。


  参考文献
・国文学研究資料館編『軍記物語とその劇化』臨川書店、2000。
・角川源義『角川源義全集 第一巻 古典研究T』角川書店、1988。
・和歌森太郎『和歌森太郎著作集 第8巻』弘文堂、1981。
・渡辺保『千本桜 花のない神話』東京書籍株式会社、1990。


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