2002年5月24日(統一テーマ:『孫呉』)
孫呉の軍事指導者と国家戦略  My


はじめに
 今回はテーマが孫呉らしいので、孫呉の歴代の軍事指導者の略伝と彼らの国家戦略をまとめてみます。



<孫堅>
・略伝
 157年誕生。黄巾の乱討伐など各地の反乱鎮圧に参加し、功を立てる。187年、長沙太守となる。190年の反董卓連合軍にも加わり、大いに活躍する。なおこの際に袁術に従属している。191年、袁術の命で荊州の劉表を攻撃、襄陽を包囲中に射殺される。

・国家戦略
 孫堅の頃の孫氏の勢力は、群盗程度の規模にすぎなかった。そのため、独立を断念し、名門の袁術に従属して荊州に勢力拡大する道を選んだのであろう。


<孫策>
・略伝
 175年誕生。父の孫堅の死後、194年には袁術のもとに身を寄せ、父の兵力の一部の返還を受け江東に進入、連戦連勝で勢力を拡大してやがて江東を統一、袁術の滅亡後にはその残党を吸収し、強大な勢力を持つに至った。200年、官渡で袁紹と対峙する曹操の後方を突いて漢帝を奪う計画を立てたが、刺客の手に倒れる。

・国家戦略
 江東の制覇や袁術残党の吸収によって、孫氏の勢力が強大化したところに、曹操、袁紹という華北の二大勢力の全面戦争が発生。この機を捉えて、漢帝を手中にする曹操を倒し、奪った漢帝を掲げて他勢力に臨み、天下に号令をかける計画であったろう。


<周瑜>
・略伝
 175年誕生。孫策の親友で、孫策が江東に進出する際に馳せ参じ、以後各地で活躍した。孫策が死んでその弟孫権が跡を継ぐと、政権の中心として万事を取り仕切った。208年、荊州を制圧した曹操の大軍が侵攻してくると、魯粛とともに抗戦を唱える。曹操の大軍を撃破し、荊州に進出、さらに益州の制圧を計画するが、210年病死。

・国家戦略
 孫策の没後、孫呉政権が反対勢力を討ち動揺を押さえ込む間に、華北では曹操が袁紹を破り、これによって孫呉政権が天下を狙う好機は失われた。そのため202年時点では、周瑜の国家戦略において、孫呉政権による天下統一は明確には意識されておらず、状況の推移を見守りつつ、場合によっては将来の曹操への服属の可能性も否定されてはいない。208年、曹操の大軍の侵攻に際しては、その弱点を見抜いて抗戦を主張、勝利した。この後、曹操勢力の後退の隙をついて、孫呉による天下統一を視野に入れ、急激な拡大方針を打ち出す。一挙に益州まで侵攻して、孫呉を天下を二分する大国とし、馬超と結び、荊州方面からの攻勢で曹操を追いつめる、という計画であった。


<魯粛>
・略伝
 172年誕生。孫策に非凡さを認められ、孫権にも重用される。208年に劉表が死ぬと、劉備に荊州を率いさせて、これと連合して曹操に当たる、という可能性を探る。曹操の大軍が荊州を制圧すると、劉備との連合による抗戦を主張、呉軍の総指揮をとる周瑜を補佐した。劉備との連携の維持に力を尽くした。217年死去。

・国家戦略
 魯粛は常に孫氏による天下統一を意識していたが、その国家戦略は、曹操の勢力は未だ健在で脅威であるとの認識にもとずき、当面は呉の勢力拡大よりも、対曹操戦を優先させており、荊州の劉備との連合を保って曹操に当たるという姿勢を、一貫して保ち続けた。


<呂蒙>
・略伝
 178年誕生。孫策に非凡さを認められその側近となった。孫権のもとでも活躍、各地で部将として武勇をふるい功を立てた。219年、荊州の劉備軍が曹操と戦う隙を突き、荊州を攻略した。この年病没。

・国家戦略
呂蒙は、上流に位置する劉備との同盟関係は維持しがたいと認識しており、荊州の攻略を考えた。その上で長江を固め、荊州方面から圧力をかければ、呉独力でも曹操を防ぎうると考えていたようである。


<陸遜>
・略伝
183年誕生。孫権の下に出仕して以後、国内の異民族制圧に大いに活躍。219年の呂蒙の荊州攻略の際には大功を立てる。222年劉備の大軍が荊州に侵入してきた際には、これに大勝した。これ以降呉蜀の関係は安定した。その後も対魏戦でめざましい活躍をした。245年死去。

・国家戦略
 荊州西部の異民族を手なずけた劉備の侵攻によって、呉が危機に陥った経験もあってか、陸遜の国家戦略では荊州西部を非常に重視していた。荊州西部を強固に守って国防を万全とした上で、軍を休ませ、国力を養うべきだと考えていたのである。


<諸葛恪>
・略伝
 203年誕生。異民族の制圧で大功を立てたほか、対魏戦でも活躍。251年、孫権の死に際しては後事を託される。252年に魏軍に大勝するが、これによって慢心を生じ、翌253年には国家の総力を挙げた大規模な出兵を強行する。戦果なく、疫病で多数の兵士を失い退却したが、この失敗により人心を完全に失い、謀殺された。

・国家戦略
 諸葛恪は、時がたてば魏と呉の国力差は大きくなるばかりで、やがて魏に対抗できなくなる、と考えており、このような認識のもと、魏への大規模攻勢に出た。


<孫峻>
・略伝
 219年誕生。孫堅の弟孫静の曾孫で、取り立てて名声のない人物であった。諸葛恪を謀殺する。高位に上っておごり高ぶり、専横をふるう。256年病死。

・国家戦略
 255年に魏将文欽の反乱につけ込んで出兵するなどしたが、長期的な国家戦略を持っていたとは思われない。
 

<孫綝>
・略伝
 231年誕生。孫峻のいとこ。高位に上っておごり高ぶり、専横をふるうが、258年皇帝孫休に誅殺される。

・国家戦略
 257年に魏将諸葛誕の投降を受けて出兵するなどしたが、長期的な国家戦略を持っていたとは思われない。


<陸抗>
・略伝
 226年誕生。陸遜の子。257年の出兵で活躍した。その後は荊州西部の防衛に活躍、272年に西陵の守将が晋に寝返った際には、西北二方向からの晋の攻勢を退け、西陵を奪回した。274年死去。

・国家戦略
 263年に蜀が滅亡して以後は、呉は単独で圧倒的な魏晋の圧力を支えることになった。このような情勢下で陸抗は、西と北に敵を受けさらに内に異民族を抱える荊州西部を非常に重視、この地方を強固に固めた上で、国力を養うという国家戦略を抱いていた。


<張悌>
・略伝
 幼い頃、諸葛亮に認められており、若くして名声があった。280年、晋の侵入を受けた呉が無抵抗で崩れていく中、国家に殉じた。

・国家戦略
 張悌は280年の晋軍の侵入に際し迎撃を命じられたが、晋軍が国内深く入り込んでくるのを待てば士気と人心が崩壊し、全く戦うことができなくなると考え、直ちに決戦することを決定、万が一初戦に勝ちを得ればその勢いを駆って、晋軍を駆逐し呉の命脈を保つという計画であった。



終わりに
 とりあえずいいわけ。なんか張悌の国家戦略の項は、一戦役での作戦にすぎないような気がしますが、圧倒的な敵の侵略を前に滅びつつある呉にとっては、当面の作戦は完全に国家戦略に等しいものであった、ってことで許してもらえんでしょうか?


参考資料
 正史三国志 1〜8;陳寿著 今鷹真、井波律子、小南一郎訳 ちくま学芸文庫
 歴史群像シリーズ 17三国志・上、18三国志・下、28群雄三国志;学研


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