2002年5月24日(統一テーマ:『孫呉』)
呉の文化人達  NF


はじめに
 中国南北朝において江南を中心に栄えた貴族文化を纏めて「六朝文化」と呼ぶ事が多い。その「六朝」の先陣を切るとされているのが呉である。しかしながら呉の文化については全く一般には知られていない。そこで今回は正史を頼りに、呉において知られた文化人達について述べようと思う。
文化人達
<張紘>
 字は子綱、広陵の人。都で京氏易(京氏による易経解釈)・欧陽尚書(書経解釈)を、更に外黄で礼記・左伝を学んだ。戦乱を避けて江東に移住し、孫策から誘いを受け仕官。曹操の下に使いに行き、そこで孔融らと親交を結ぶ。孫策が亡くなった時には、喪に乗じて攻める事の不可を説いて曹操の呉侵攻を防いだ。呉に帰ってからは、張昭と共に上表文など文書起草に当たる。会稽東部校尉に昇進、更に都の守備も担当。都を秣陵に移す事を進言、家族を迎える途中で没した。詩・賦・銘・誄などを十編以上残した。中でも柘榴で作った枕の木目が面白い事から作った賦は、華北にまで伝わり陳琳がこれを称えたと言う。また楷書・篆書にも巧みであった。
<厳o>
 字は曼才、彭城の人。「詩経」「書経」「儀礼」「周礼」「礼記」に通じ、「説文解字」を好む。諸葛瑾・歩隲と親交。張昭により推挙され騎都尉・従事中郎に任官。魯粛が没した時に、孫権はその任務を厳oに継がせようとしたが、厳oは固辞した。孫権が帝位につく頃に衛尉となり、最終的には尚書令に昇進。諸葛亮が高く評価したと言われる。「孝経伝」「潮水論」を著し、裴玄・張承(張昭の子)と交わした管仲・子路についての議論も広く知られた。
<裴玄>
 字は彦黄、下?の人。太中大夫にまでなる。厳o・張承と前述の論を交わした他、子の裴欽と斉桓公・晋文公・伯夷・柳下恵の優劣について論議した事で評判となった。裴欽も太子孫登に仕え、文の美しさを称えられている。
<程秉>
 字は徳枢、汝南郡南頓の人。鄭玄に学び、後に戦乱を逃れ交州に移住。そこで劉熙と議論を交わし五経に通じるようになる。孫権に招かれて太子太傅に任官。太子の妃を迎える役を務めるなどした。「周易摘」「尚書駮」「論語弼」など五万余字の著作を残す。
<徴崇>
 字は子和。「易経」「左伝」、讖緯に通じていた。会稽に隠遁、数人の弟子のみを取って教育。厳oに推挙され率更令に任官。

 字は徳潤、会稽郡山陰の人。貧しい暮らしの中、他人の為に書を筆写して学資を稼いでいたが、一冊を写し終った時には全体を暗誦できる様になっていたと言う。孝廉に推され銭唐県の長や?県令を歴任、やがて孫権に招かれる。孫権が皇帝に即位すると尚書、更に中書令、侍中、太子太傅に昇進した。経書の注釈書を照らし合わせて簡略化させ、また「乾象暦注」を著して暦の乱れを正す。
<唐固>
 字は子正、丹楊の人。「国語」「公羊伝」「穀梁伝」の注釈をし、数十人の弟子が常に学んでいたと言う。孫権が帝位についた時に議郎となり後に尚書僕射に昇進。
<薛綜>
 字は敬文、沛郡竹邑の人。戦乱を避け交州に逃れ、そこで劉煕に学ぶ。孫権に招かれ合浦・交阯太守に任官。更に鎮軍大将軍孫慮の軍府で長史を務めた後、賊曹尚書や尚書僕射に昇進。孫権から、祝詞にこれまでの文を使ってはならぬと命じられ美文を新たに作成。更に二篇を作り合計三篇にする様に命じられるがこれも見事こなす。晩年は選曹尚書・太子少傅となった。詩・賦・議論文を数万言残し、作品は「私載」に纏められる。中でも「五宗図述」や「二京解」(張衡「東京賦」「西京賦」の注)が知られた。
<薛瑩>
 字は道言、薛綜の子。韋昭・周昭・梁広・華覈と共に呉の歴史を記した史書の編纂を命じられる。官位面では秘書中郎将・散騎中常侍を経て孫晧の代に父と同じ選曹尚書・太子少傅となった。彼も詩に巧みで、孫晧の求めに応じて詩を献上している。長江・淮水の治水工事に失敗したことが元で広州に流されるが、華覈が史書編纂の上で薛瑩の力が不可欠である事を説いたため許され左国史となる。晋が呉を滅ぼした際には降伏文書を起草。晋の下で、呉の遺臣の中では最も早く叙任され散騎常侍となった。八篇の著書があり「新議」に纏められた。
<虞翻>
 字は仲翔、会稽郡余姚の人。王朗の下で功曹となる。孫策に敗れ王朗と共に候官まで逃れるが、父の喪中であったため王朗の勧めで帰郷し孫策に招かれた。孫策に従って各地を転戦した後、富春県の長となる。孔融と文通し、「易経」注釈を贈っている。孫権の代に騎都尉に任官。孫権にしばしば直言し何度か非難を受けた。学問に優れ、鄭玄の「書経」解釈の誤りを列挙したことも。易にも優れ、関羽を討伐した際にも的中させている。魏の文帝は虞翻を高く評価し虚坐を設けていた。交州に流された後も「老子」「論語」「国語」に注釈をつけ、宋衷「太玄経」の誤りを正し「明楊」「釈宋」を著している。門弟は常に数百人を下らなかったと言う。
<朱育>
 会稽郡山陰の人。奇字を好み、特殊な字を千字以上作成。占い・文芸に通じていた。孫亮の時代に東観令・清河太守・侍中を務めた。
<陸績>
 字は公紀、呉郎の人。六歳の時に袁術に目通りし、菓子として出された橘を懐に入れ「母への土産にする」と答えた。孫権に招かれ奏曹掾となる。虞翻・?統と親交を結び、また博学で天文暦法・計算術にも通じていた。孫権に直言して煙たがられ、鬱林太守・偏将軍として地方に転出。「易経」注釈や「太玄経」注、「渾天図」を著した。33歳の若さで病没、予め自分の命日を知り自分のための祭文を書いたと言う。
<范慎>
 字は孝敬、広陵の人。太子孫登の賓客として招かれ、侍中や武昌の左部督に任官。20篇の論を著し「矯非」に纏める。
<胡綜>
 字は偉則、汝南郡固始の人。江東へ移住し、孫策の下で14歳で門下循行となり孫権と共に学ぶ。書部として軍事・国政の機密処理に当たるが、黄祖討伐に参加したり晋宗の反乱を鎮めたりと武功も挙げている。孫権が帝位についた時に亭侯に昇進。この時に新しく黄龍を描いた牙旗(将軍の旗)が作られたが、その牙旗を歌った賦を命によって作る。しばしば外交文書の作成をした。
<呉範>
 字は文則、会稽郡上虞の人。暦注・風占いに通じている事で知られた。孫権に仕え騎都尉・太子令い任官。折に触れ予言をして的中させたが、その秘術は決して教えなかったため孫権は彼に含む所があり余り昇進しなかったと言う。
<劉惇>
 字は子仁、平原郡の人。戦乱を避けて廬陵に逃れ孫輔に仕える。天文に明るく占いに通じている事から軍師に任じられた。特に太乙の術を極めしばしば予言を的中させる。
<趙達>
 河南郡の人。東南に王者の気を感じて移住。九官一算を極め、占いに長じる。しかしその秘術を誰にも明かさなかったので孫権に疎んじられ余り出世はしなかった。
<皇象>
 字は休明、広陵郡江都の人。書に巧みで、中原の書の達人にも彼に並ぶ者はなかった。
<厳武>
 字は子卿、厳oの従兄弟の子。囲棊に巧みであった。
<宋寿>
 夢占いに巧みであった。
<曹不興>
 絵画に巧み。屏風絵を書いた時に誤って白絹の上に汚点をつけたが、それを逆用し蝿の絵にした。孫権はそれを本物と見紛って手で払おうとしたと言う。
<鄭嫗>
 孤城の人。人相判断に優れていた。
<葛衡>
 字は思真。天文に明るく機械に強かった。渾天儀(天球儀)を作成したが、実際の天体運行に一致して天球が動く仕組みになっていたと言う。
<韋昭>
 字は弘嗣、呉郡雲陽の人。孫権時代に太子中庶子、黄門侍郎に任官。左国史として周昭・梁広・華覈・薛瑩と共に「呉書」編纂に当たるよう命じられる。孫休は彼を招いて侍講にしようとしたが張布ら重臣の反対で果たせなかった。孫晧の寵を得て中書僕射・侍中に昇進するが、やがて寵が衰えると投獄された。この時までに古暦についての注釈「洞紀」や爵位について注釈した「官職訓」「弁釈命」を著しており華覈は彼の才能を惜しんで助命嘆願をするが、結局処刑された。
<華覈>
 字は永先、呉郡武進の人。地方官であったが、学才を評価され中央に入りやがて中書丞・東観令・右国史となる。周昭・梁広・薛瑩・韋昭と共に「呉書」編纂に従事する。
<謝承>
 字は偉平、会稽郡山陰の人。姉は孫権の妃・謝夫人である。博学で、「後漢書」(現在正史とされる「後漢書」とは別物)百余巻を編纂。
まとめ
 以上を見る限り、呉において盛んであった文化は詩・美文・(儒教経典を中心とした)古典注釈・史書編纂・書画・占術などであり、魏や蜀と傾向は同じくしていると見て良かろう。いわゆる「六朝文化」といわれる東晋・南朝の貴族文化の起源というべき文化である。しかしながら当時は経済・政治上の中心は華北にあり、そこを押さえていた魏が中心的存在となり呉や蜀はそのおまけのような形になるのは致し方ない(蜀にしても諸葛亮「出師表」以外は知られたものがない)。江南の文化が盛んと成るのは北方民族の侵入により華北から有力貴族達が南に避難した東晋以降の事であり、「六朝文化」は呉ではなく魏の延長上にあるものと性格付けるべきなのである。そして政治的性格においても、外来者の軍事力によって支配され己が正当な王朝である事を主張し華北に対し戦を挑むと言う点で東晋・南朝とより似通っているのは寧ろ蜀のほうであった。呉を東晋・南朝と同一視して「六朝」と分類するのは問題なのではなかろうか。呉は寧ろ、現地豪族を中心に据えているということも考えると、中国君主としての正統性を問題とせず独自の道を行き君臨した戦国の越・楚といった存在に近いのではないかと思う。
おまけ:呉の君主と酒
○ 孫堅・孫策・孫亮・孫休
 この四人には特に酒にまつわるエピソードはない。
○ 孫権
 武昌で、長江に突き出した釣台に出て酒宴をした際、酔い潰れた臣下達に水をかけて「今日は酔って、台から転げ落ちるまで止めはせぬ」と宣言。張昭はそれを聞き、退出し馬車に篭る。「皆で楽しもうとしているだけなのになぜそのような態度を取るのか」と孫権が問うた所、張昭は「紂は糟の丘・酒池を作り長夜の宴をしましたが、その時も楽しみのためやっていると考え悪事とは思っていませんでした」と答えたので孫権は取りやめたという。
 顧雍が同席しているときには、孫権は酒の上で失態をすると顧雍が必ず見ているに違いないと思って羽目を外せなかった。そこで「顧公が同席すると、楽しむ事ができなくなる。」ともらした。正史には「このように畏敬されていた」とあるが、これは羽目を外したい孫権に煙たがられているだけにしか筆者には見えないのである。
 呉王になった祝いの宴で、孫権が自ら立ち上がり酒を注いで回った。虞翻は床に倒れて酔った振りをし杯を受け取らなかったが、孫権が彼の元を去るときちんと座りなおした。そこで孫権は激怒し、虞翻を手討にしようとする。劉基が諌めたものの、「曹操は孔融すら殺したのであるから、余が虞翻を殺したからと言って何の不都合があろうか」と意味不明な理屈を言う。更に諌められてようやく思いとどまったのである。
 酒席の座興で、驢馬を連れて来させその顔に「諸葛子瑜」と書いた。諸葛瑾の顔が長いのをからかったものである。この時、諸葛瑾の子・諸葛恪がその下に「之驢」と書き加えて父の面目を保ったのは有名である。
○ 孫権の太子(孫登?)
 太子は諸葛恪をからかって「諸葛元遜は馬の糞を食らうべし」といった。そこで諸葛恪が「太子様には鶏卵を食べて頂きたい、どちらも出るところは同じです」と返し、逆用して追従する事に成功したのも知られている。酒席での事とは書かれてはいないが、このような会話が交わされるのは恐らく宴以外ないと考えて良かろう。
○ 孫晧
 王蕃が酔って突っ伏してしまった時、芝居で酔った振りをしていると疑い、外へ連れ出した。しばらくして王蕃はまだ酔いは醒めていなかったものの席に戻りたいと申し出た。その時の王蕃の立居振舞が自然であったので、孫晧は酔っていた振りをしていただけだと考え王蕃を処刑した。
 葛奚の諫言を咎め、酒席で強い酒を無理やり飲ませて中毒死させた。
 夜まで宴を催し、臣下が七升飲むまで解放しなかった。酒が回ると重臣達を非難させて楽しむ。また不満そうな顔をしたり失言したりした者を見つけさせてそれを理由に処罰したりしたと言う。
おわりに
 誰もやらないであろうもの、と思って張り切って作ってみたのだが…。あまり面白くないかもしれませんね。「おまけ」がなければ曲がりなりにも真面目なものに成ったんだろうけど…。どうも申し訳ない。


参考文献
正史三国志6呉書T 陳寿 裴松之注 小南一郎訳 ちくま学芸文庫
正史三国志7呉書U 陳寿 裴松之注 小南一郎訳 ちくま学芸文庫
正史三国志8呉書V 陳寿 裴松之注 小南一郎訳 ちくま学芸文庫


2002年度発表一覧へ

inserted by FC2 system