2002年6月21日(統一テーマ:『幕末』)
幕末の群像とナポレオン My
はじめに
今回のテーマは幕末だそうですが、みなさんの期待に反して(?)戊辰戦争や奇兵隊は扱いません。日本の近代への過渡期にあたる幕末という時代、そこで活躍した人々は、ヨーロッパで近代への過渡期に活躍したナポレオンという存在を、どのように見ていたのでしょうか。江戸時代の日本でナポレオンがどのように受容されていったのかの概略とともに、見てみたいと思います。
とまあ、かっこつけてみましたが、こんな変なレジュメになった理由は、私が幕末について読んだことのある本がそんなのだけしかなく、今から新しい本を読むのがめんどくさい、とまあそういうわけなんですね。はっきり言って手抜きです、はい。
<江戸時代におけるナポレオン研究の概要>
江戸時代の日本が、ナポレオンという存在を初めて知ったのは、ようやく1813年、既にナポレオンの権勢の傾いた頃のことである。それ以前は、ヨーロッパが混乱していることは知っていたものの、その内実について補足することはできていなかった。なぜなら、オランダ人が、本国がフランスに占領されたと知られるのを嫌って、情報を隠し続けたためである。オランダとしては、幕府の嫌うカトリック勢力の支配下に入ったなどということは、日本との通商を維持するため、知られるわけにはいかなかったのである。だが日本は、1811年からロシア船船長のゴロウニンを拘束しており、ロシア経由の情報も合わせてヨーロッパ情勢を分析、ついにナポレオンの存在を知る。だがこの時点ではただ存在を知ったのみで、知識としては極めて不十分なものにすぎなかった。
その後の1818年、長崎に学んだ頼山陽が、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍したオランダ人医師からナポレオンについて聞き、『仏郎王歌』という詩を作成する。これはあくまで一人の英雄に着目した詩にすぎず、西洋の歴史や国際情勢への関心を全く欠いており、研究としての価値はほとんど無かったのであるが、非常に広く知れ渡ることになり、日本人にナポレオンという存在を認識させる上では極めて大きな役割を果たすことになった。
1820年代以降は、歴史研究としてのナポレオン研究も成果をあげていく。例えば、1826年には、ナポレオン戦争に参加した経験のあるオランダ商館長から得た情報をもとに、ナポレオンの略伝である『丙戌異聞』が著されたほか、ワーテルロー戦記である『別埒阿利安戦記』も翻訳されている。そして1830年代には小関三英による『那波列翁伝初編』の翻訳が行われたが、この『那波列翁伝初編』は開国前後の日本における最大最良のナポレオン研究であった。
なお1867年には江戸時代最後のナポレオン受容例として『那波倫兵法』が見られる。これはナポレオンが部下に与えた『士官掌録』に西洋史上の名将の兵法を付加した書の翻訳であり、ここまでに挙げた詩とも歴史研究とも異なり、実用的な軍事技術書であった。
<幕末の群像とナポレオン>
佐久間象山
『題那波列翁像』と言う詩を詠み、「平生欽慕す波利翁」(岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』から引用)とナポレオンを慕う思いを述べ、ナポレオンを蘇らせ、力を合わせて日本を世界の覇者にしたい、と歌っている。
西郷隆盛
ジョージ・ワシントンとともにナポレオン・ボナパルトを尊敬する人物として挙げている。
吉田松陰
「那波烈翁を起こしてフレーヘードを唱えねば腹悶医し難し」(岩下哲典『江戸のナポレオン伝説』から引用)と述べており、ナポレオンを自由を掲げる英雄と見て、尊敬していたようである。
徳川慶喜
徳川慶喜は、ナポレオン三世から贈られた軍服を着て、ナポレオン三世から贈られたアラビア馬に乗り、ナポレオン帽を被った写真がよく知られており、ナポレオンへの崇拝は並々ならぬものがあっただろう。
おわりに
何というか、まあ、みなさん英雄がお好きなようで…(笑)。
参考資料
江戸のナポレオン伝説 西洋英雄伝はどう読まれたか;岩下哲典著 中公新書
江戸の兵学思想;野口武彦 中公文庫