2002年6月21日(統一テーマ:『幕末』)
ええじゃないか  田中愛子


 ええじゃないかとは、慶応三年(1867)、伊勢神宮の神符等が降下したということを発端として起こった、乱舞を伴う狂乱的な民衆運動である。
 名称は、民衆が踊りながら唱えた文句に「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来する。当時は、お下り(駿河・近江)、御札降り(遠江)、おかげ(伊勢・河内)、おかげ騒動(伊勢)、おかげ祭(信濃)、大踊(阿波・備前)、雀踊(淡路)、チョイトサ祭(信濃)、ヤッチョロ祭(信濃)等の呼称もあった。
 初発は慶応三年の七、八月頃、収束は翌四年の四月ごろであろう。発生地は、畿内、東海道を中心とした全国約30カ国である。
 囃し言葉には、「日本国の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」というような世直りの文句や、「長州さんのお登り、えじゃないか」というような政治情勢を語るもの、弥勒下生による浄土の実現を語るもの、性的開放のみられるものがある。
 そのルーツには、御鍬信仰やお蔭参りの伝統があるとされる。
 ええじゃないかの流れは、概ね次の通りである。
 まず、御札が降る。
 降下した神符類には伊勢神宮の御札が多かったが、その地域で信仰されていた神社仏寺の御札、仏画、仏像、銭などもあり、非常に多種多様である。
 御札が空からあたかも雨のように降り注いで来、民衆が狂喜乱舞している、という絵や記述が残されているが、御札発見時の状況はそのようなものではない。朝起きると御札が家の前、軒下、垣根、庭、藪などに落ちていたという記録が多い。また、鳥が御札を落としていったという記録もある。この発見時の状況から、誰かが夜間密かに御札をおいていった、あるいは、何者かが鳥を使って御札を撒いた、というように考えることもできる。
 御札が降ったとなると、その御札は祀られ、さらに、祝祭が開かれることとなる。
 御札を祀り、祝祭を開く理由は2つある。ひとつは、神仏によって齎される災いへの不安、恐怖である。もうひとつは、降札は神意による降札であり、喜瑞、特に、世直しや豊作を示す喜瑞であるとして、祝うべしとするものである。
 自然発生的に祝祭が開かれることもあれば、村の指導者層や宮司たちによる協議で祝祭の開催が決定され、彼らの主導のもとに期限を決めて祝祭が行われることもあった。
 祝祭の内容は、着飾り、行列を組んでの社寺へ参詣する、手踊りの行列が出る、酒が振舞われる、蒔き銭、蒔き餅が行われる、等である。
 こうした祝祭は、特に東海地方では、通常の祝祭の秩序内で収まることもあったが、これは、ええじゃないかとしては少数である。
 祝祭は過熱化し、狂乱状態へと突入する。たとえ役人主導で始まったものであってもその制御を超え、狂乱に陥る。祝祭日は通常二夜三日に限られていたが、狂乱状態が抑制不可となり、七夜七日に延長されるということもあった。あいついで御札降りがあると、そのために祝祭が連続して開催され、狂乱を拡大させる要因となった。
 その狂乱の内容は、「ええじゃないか」の文句をくり返す歌と踊り、異装の行列、無礼講的な祝宴と大盤振る舞い等である。日ごろ心よく思わぬ富者の家に押し入るということもあった。そこには、例えば狂乱の中に加わっている男子の女装、女子の男装に見られるような、規範の無視や、日常性からの逸脱が見られる。
 通常、領主側、村役人側の命令・指導を以って沈静化し、二夜三日、あるいは七夜七日で狂乱状態は収束する。
 ええじゃないかの背景にあるものとして、概ね次のような事柄があげられる。
 ・世直りへの意識と期待、実現しかかった世直りへの歓喜
 ・おかげ参りの伝統(特に天保一年(1830)のおかげ参りの記憶)
 ・幕末の危機的な政治情勢・政情不安のための圧迫感・不安感。現実の不満・不安抑圧から、自由、陶酔への逃避
 ええじゃないかの仕掛け人として疑われるのは、次のような者たちである。
 ・討幕派志士
  ……倒幕計画を進めるため、幕府に対する目くらましとして、あるいは幕府の支配機構の混乱、人心擾乱をねらって彼らが仕組んだ計略であったとも、彼らがええじゃないかを仕組んだわけではないが狂乱を利用・助長し幕府の目を彼らから逸らしたのだともいわれる。
 御札の版木を持った浪人の逮捕を告げる記録が残っており、また、のちに自ら、御札を偽造して撒いたと述べている討幕派の志士もいる
 ・御師
 ……御師とは、伊勢神宮神職の一。年の暮れに暦や御札を配り、参詣者の案内や宿の世話をする。伊勢神宮参拝の衰えを挽回、伊勢神宮崇拝を盛り上げることを目的に、この陰謀を仕組んだといわれる。
 ・村役人層
  ……祝祭の開催によって人々の不満をそらす、あるいは一時的に解消し、村内の融和と秩序維持を図り、また、祝祭において主導権を握ることで自らの指導的地位を再確認することを目的として、祝祭を開催するべく御札降りを企図あるいは利用したと疑われる。
 ・討幕派の志士たちとは別に、世直しを目指すもの
 ・愉快犯や祝宴目当ての便乗組
 ・民衆
  ……御札降りが流行すると、自分の家に御札降りの無いことへの恐れ、不安を感じるようになり、自分の家から持ち出した御札を、密かに自分の家の周囲に置いたと疑われる。
 そのような行動にでたものは、神罰を恐れ、発覚を恐れるために、御札降りについてもっともらしく語り、祝宴においても熱心に振舞う。そのために狂乱は益々拡大する。
 ええじゃないかの位置付け、評価には、次のようなものがある。
 ・幕藩体制崩壊へのとどめをさす群集の抵抗。農民が全村的・共同体的規制を逆用しながら、自らの中に潜在している反封建的イデオロギーを宗教的活動の中に打ち出し、それが順次高揚したもの。百姓一揆の裏返し、新時代を誕生させる基盤。
 ・単なる宗教的陶酔に基づく民衆運動とは言えず、封建制の潜在的な基本的階級対立を反映しているという点で、寧ろ百姓一揆に類似。但しそれは計画性のあるものではなく、潜在的欲求の偶発的・無意識的な表れ。
 ・民衆は一揆・打ちこわしを政治闘争にまで結集する意識と手段とを持たず、その弱さを暴露。宗教的陶酔、性的倒錯、放埓状態に革命的エネルギーを放散、前年からの一揆・打ちこわしの波の後退
 ・村落支配層の支配維持志向とそれを突破しようとする若者連などの対抗関係から生じたもの。
 ・古い秩序を空洞化し、無力化するのに大きく寄与したが、民衆が新しい権力を樹立し、世直しを達成するには至らなかった。神主層によるイデオロギー支配も一時的に撹乱しただけで終わった。
 ・激しい反封建運動というよりは、日常生活の基礎の上に農閑期に発生したもの。長期的には封建体制維持の安全弁の役割を果たすとともに、ある程度封建的規制を緩めさせ、それから開放された民衆の欲求を満たした。
 ・風流踊りの系譜にあるもの。日常世界の拒否であり、日常的な道徳・秩序の拒否。宗教的あるいは政治的要求を掲げた民衆運動ではなく、日常性に関する戦い。結果的に、近世封建社会の最も根源的な秩序や道徳が大衆的熱狂のなかで拒否され破壊されていった。
 ・本来宿場住民にとっての降札の祝祭。それが宿場近在の農民の参加によって祝祭が徐々に乱舞に転化、さらに世直し踊り、すなわちええじゃないかに再転化。
 ・名古屋以東では一定の秩序性が維持されている。伝統的な方式にある程度のっとった全町あげての臨時の祭。世直し、世直りの政治性の表明も大政奉還以後の幕府崩壊が現実にありうるかもしれないと考えられるようになってのち。
 ・御札降りにともなういろいろな祭は、「遊び日」の一環。定例遊び日のほかに勝手遊び日、願い遊び日等、封建的規制に対抗するかのように増大。御札降り発生直後の御札祭を遊び日の枠内ととらえ、その連続開催が遊び日の枠を突破してええじゃないかとなる。


 お蔭参り……父、夫、主人の許可を得ずに伊勢神宮へ参拝すること。参拝道中にあるものには施しをすることが功徳とされ、また、許し無く参拝にでたものも、帰ったあとで咎められることがないという風習があった。
 また、伊勢神宮参拝への民衆の大量群参をいう。伊勢神宮の神符の類が降下したとの噂などを契機として全国規模で大流行し、道中は狂乱的に歌い踊ることが行われた。
 御鍬祭……伊雑宮(伊勢神宮の別宮、祭神は伊佐波登美命・玉柱屋姫命)から木製の鍬を受けて神輿に担ぎ、村中の田畑や家々をねり歩き、それに村人たちが大行列をなして付き従い、酒の振舞い、歌舞奉納、投銭投餅などが行われる。
     豊年祭の一種とも。


参考文献
・落合延孝編『幕末維新論集5 維新変革と民衆』吉川弘文館、2000。
・佐々木潤之介『世直し』岩波書店、1979。
・田村貞雄『ええじゃないか始まる』青木書店、1987。
・遠山茂樹『遠山茂樹著作集 第二巻』岩波書店、1992。
・『世界大百科事典』、平凡社、1988。


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