2002年6月21日(統一テーマ:『幕末』)
幕末における日本医学の転換 NF
(1)はじめに
今回のテーマは「幕末」ということであるが、幕末期は医学にとっても東洋医学中心から西洋医学一本へと切り替わる極めて重要な時期であった。そこで今回はそのあたりを中心に述べる。
(2)種痘所
18世紀頃からすでにオランダを通じて西洋医学の知識が我が国に入り、「解体新書」に代表される解剖学・外科学・内科学などで蘭学として普及し始めてはいた。大槻玄沢の芝蘭堂(江戸)、緒方洪庵の適塾(大坂)、佐藤泰然の順天堂(佐倉)、新宮凉庭の順正書院(京都南禅寺)など多くの蘭学塾が生まれ西洋医学を伝えるようになっていたのだ。そうした中、嘉永元年(1848)にモーニッケが肥前藩主鍋島閑叟の依頼により日本初の牛痘を成功させる。翌年に長崎でも成功させたのを切っかけに全国に種痘が急速に普及。広島の三宅春齢、京都の日野鼎哉、更に福井の笠原良策や大坂の緒方洪庵にも痘苗が行き渡った。中でも良策は痘痂からではなく人から人へと直接移す確実性の高い方法をとっている。そうして江戸の伊東玄朴の元に苗が届き、大槻俊斎と共に種痘所を設立、種痘を行うと同時に西洋医学に志す者達が集まって学ぶ場所として運営された。さて安政五年(1858)に13代目将軍家定の病を漢方では治せないとして伊東玄朴・戸塚静海が奥医師となり幕府より正式に西洋医学が採用される。こうしたこともあって万延元年(1860)には幕府直轄となって俊斎が頭取となった。文久元年(1861)には種痘以外の事も行うようになったため西洋医学所と改名され教授・解剖・種痘の三部門が設置。種痘の他、教育機関としての機能も充実させ始めた事になる。二年後には医学所と改名、東洋医学にかわり医学全般の代表として西洋医学が認識され始めた。この医学所が西洋医学の中心となっていくのである。医学所では薬物・生理・病理・解剖・化学担当の5教授と句読師4人で講義が行われた。句読師は語学教育を担当しオランダ語・英語を教え、学生達に文を読ませて解釈させ成績の良い者を上席とし宿舎の位置の優先権を与えていた。これが後の東大医学部である。
(3)長崎養生所
安政四年(1857)にはオランダの海軍軍医ポンペが招聘され、長崎で日本人学生に西洋医学を講義。長与専斎ら近代医学界を指導する人材がここで育てられる。ポンペは全学科について手引書を作成して学生に配布、筆記具合に合わせて講義を行った。内蔵系・神経系・血管系・脳と系統だって解剖の講義を行ったのは日本では彼が初めてである。やがてポンペの進言で本格的洋式病院が作られた。長崎養生所である。日本人のみならず在留外国人も診療に訪れた。回診・外来・臨床講義がポンペの日課であった。医療機関であるにとどまらず教育機関としての意味合いも大きかったのである。ポンペはこうした日課を規則正しくこなしたと言う。これが黎明期における日本の西洋医学教育に活気を与えた事は想像に難くない。ポンペの帰国後もボードインやマンスフェルトらが教育に当たった。
(4)西洋医学の正式採用
政治的情勢は1860年代には激しく変動し、江戸幕府勢力と、朝廷を掲げる薩摩・長州らの新政府との軍事衝突が起こった。戊辰戦争である。官軍(新政府)は京都の相国寺養源院に臨時病院を設置し、傷病兵を収容。しかし戦闘が銃撃中心に変化し銃創が負傷兵の多数を占める中、処置方法が分からず死者を続出させてしまった。そこでイギリス公使館からウイリスが招かれる。ウイリスは傷口を過酸化マンガンで消毒し、クロロホルムで全身麻酔を行ってその上で切開縫合や四肢切断を行った。会津にまで従軍したウイリスの治療を目の当たりにした新宮凉介・広瀬元恭ら蘭学医は西洋医学の優秀性を改めて認識、彼らが政府に働きかけた結果として明治元年(1868)に天皇の意思として「西洋医術ノ儀、御採用可有之、被御出候事」という布告が出される。翌年に相良知安・岩佐純が医学取調御用掛となり、相良は日本に輸入されたオランダ書はドイツ書の翻訳が多かった事や順天堂・長崎で学んで得た知識からはドイツ医学が世界最先端であった事からドイツ医学の採用を主張。開成学校(医学所の後身)教頭フルベッキの進言もありドイツ医学採用が正式に決定。明治八年には東京・大阪・京都で医師開業試験が行われ、明治十六年には医術開業試験規則及医師免許規則が施行された。これにより医師となるには西洋医学による他なくなり、日本医学は正式に西洋医学一本となる。
(5)おわりに
過去の「日本前近代医学史」「日本近現代医学史」からの抜粋が主になりました。ズボラで申し訳ない。ま、この二つのレジュメで別々に述べていたのを一つにしたわけだから全く意味がないわけじゃないか。
参考文献
医学の歴史 小川鼎三著 中公新書
京大医学部 川端眞一著 ミネルヴァ書房
京医師の歴史 森谷尅久 講談社現代新書
拙稿 「日本前近代医学史」「日本近現代医学史」